シヴァリー 第四十三話

   ◆◆◆

  試練の時、来たる

   ◆◆◆

「……」

 雲一つ無い快晴となった翌日、リックは箒を手に黙々と掃除していた。
 場所は教会。
 教会と名が付いているわけでは無いが、リックはこの場所の雰囲気をそのように感じたため、勝手にそう呼んでいる。
 そして、いまリックがやっている掃除も勝手に始めたことだ。頼まれてはいない。
 しかしリックはこれくらいのことはやって当たり前である、という意識を持っていた。タダ飯食らいになるのは御免だという、自尊心があった。

「感心ですね、息子よ」

 そんなリックに、母クレアが松葉杖で歩み寄りながら声をかけてきた。
 リックは母に必要以上に歩かせぬよう、自分から歩み寄りながら声を返した。

「仕事を持たぬ厄介者ですからね。これくらいのことはしないと」

 答えながら、リックはクレアの足元に視線を移した。
 ここに来るまでに鎖使いにやられた傷が、腐る前に切り落とした左足首の切断面が何度か化膿したからだ。
 しかし今はもう治まっている。色も過度に赤くなく、熱を発している様子は見られない。
 そんなリックの考えを察したのか、クレアは再び口を開いた。

「心配は無用ですよ。もう良くなりましたから」

 その言葉にリックは眉をひそめながら口を開いた。

「前もそう言いながら無茶をして、熱を出したではありませんか。せっかくルイス殿が良い部屋を用意してくださったのですから、ちゃんと休んで――「息子さんの言うとおりですよ。休んでいてもらわなくては困ります」

 割り込むように飛び込んできたその声に、リックとクレアは同時に振り返った。
 そこにいたのは、声の主はルイス。
 直後に二人の表情が少し硬くなったことから、察したルイスは口を開いた。

「ここに到着された時にも言いましたが、あなた方は客人では無い。同じ血を引く家族だと私は思っている。ですから、そのように堅苦しくならないで頂きたい」

 言いながらルイスはリックが持つ箒に手を伸ばしたが、これをリックは別の手で遮った。

「……ルイス殿、そうおっしゃっていただけるのは嬉しいのですが、どうにも落ち着かないのです。どうか、性分だと思って、このような我々の身勝手をお許し願いたい」

 こう丁寧に言われては、ルイスも引かざるを得なかった。

「わかりました。あなた方がそう望むのであれば、私からも無理を言うつもりはございません」

 そう言った後、ルイスは来た方向に視線を移しながら言葉を続けた。

「では、私は少し用事があるので出かけなければなりませんが、その間の留守番をお願い出来ますか」

 これにリックとクレアが肯定の返事を返すと、ルイスは「宜しくお願いします」と言い残して場から去っていった。
 その背中が見えなくなった後、リックが母に尋ねた。

「母上、あの御方は、ルイス殿はどうして『あのような』――」

 リックが何を言わんとしているのかを察したクレアはその言葉を遮るように口を開いた。

「妙な詮索をするものではありませんよ、リック」

 しかしクレアも気にはなっていたらしく、言葉を続けた。

「……少し『物騒』ですが、『あれ』は彼なりに『武』を求めた結果なのでしょう。体術の型は一通り修めているかもしれませんが、彼は魔法が使えないはず。しかし、それでも力を求めた結果、彼は『ああなった』のでしょう」
「……」

 あくまでも推測でしかなかったが、リックは母の言葉が正解であるように感じた。

「……ん?」

 直後、リックはふと、窓を見た。
 そこには先と変わらぬ雲一つ無い空が広がっていた。

「……?」

 しかしリックは違和感を覚えた。

 何か、大きな雲のようなものに光を遮られたような、覆われたような、そんな気がしたからだ。
 
   ◆◆◆

 ルイスは「客人」が指定した場所に辿り着いた。
 そこはただ少し開けた野原であった。
 人気は無い。

「来ることを事前に虫で報せてくれるなんて、君にしては珍しいな」

 が、ルイスは誰もいないその野原に向かって口を開いた。
 当然のように返事は無い。
 が、

「……ずいぶんと、人間らしくなったものだね」

 ルイスはまるで誰かと話しているかのように再び口を開いた。

「いや、非難しているわけでも、馬鹿にしているわけでもないよ。その変化を嬉しく思っている。本当だ」

 ルイスの独り言は続いた。
 いや、それは独り言では無かった。
 この場にサイラスがいれば、驚いていただろう。
 ルイスは肉眼では見えないものと話していた。
 その存在感は圧倒的。雲のようなものを想像させるほどに巨大。
 しかしこのままでは話しづらいと思ったのか、「それ」はルイスと大きさを合わせるように変化した。
 ルイスの形を、人の姿を真似て。

「……物真似が随分上手くなったんだな。見た目だけなら人間と変わらない」

 その変化を、ルイスは皮肉を交えて賞賛した。

 こいつは一体なんなのか。
 これも死神と同じ、かつて人であったものだ。
 先に述べたように、あの世にも独自の生存競争が存在する。
 こいつはその競争を勝ち上がったものだ。食らい、大きくなり、あの世における食物連鎖の上位に上り詰めたものだ。

 ルイスは人に化けたその者(物?)の存在感が濃くなったのを感じた。
 というよりも前が薄すぎた。密度が非常に低かったのだ。
 ゆえに、「雲」という印象を抱くのはあながち間違いでは無い。
 そしてその雲は全体が罠である。広がっているのは獲物を広範囲で探すためであり、末端には獲物をからめとる力と機能が備わっている。
 ゆえに、正確には「雲」では無く、「蜘蛛」である。巨大な巣が動いているようなものだ。

「……」

 人の形をしてはいるが、放たれる気配は明らかに人ならざるもの。その異様な感覚にルイスは言葉を失ったが、すぐに己を取り戻し、尋ねた。

「それで、今日は何の用があってここに来たんだ?」

 それは答えた。

「……いや、大した事では無いんだが――」

 それは何気ない一言であったが、彼(?)の変化を証明するのに十分なものであった。
 前回会った時は、このような「会話の間」や「言葉の繋ぎ方」というものを、まだ意識出来ていなかった。ゆえに、双方の会話は必要な情報だけを言葉にする、という非常に淡白なものであった。
 初めて会話した時のことをルイスは今でもよく覚えていた。
 はっきり言って会話の体を成していなかった。当時の彼に使えたコミュニケーション技術は単純な感情と、原始的な言語のような記号だけであった。ゆえに、意思疎通にかなりの苦労を要した。

 つまり、この大きな存在はいまだ成長途中にあるのだ。
 いや、正確にはかつての自分を、人間性を取り戻そうとしているのだ。

 ルイスはその成長を強く実感するために、彼の言葉に、耳に意識を集中させた。
 間も無く、彼は言葉を続けた。

「そろそろ『彼女』がここに来る頃かと思ってね。前回の『調整』からかなり時間が経っているだろう?」

 その言葉に、ルイスは「そういえば、もうそんな時期か」と返し、「残念だが、まだ来ていないぞ」と言葉を続けた。
『彼女』がここにいないという事は既に知っていたらしく、彼は頷きを返しながら口を開いた。

「ああ、そのようだね。君に会う前に町を少し探ったけど、彼女の気配はどこにも無かった。……そういえば、その時に面白いものを見つけたな」

 これに「なんだ?」とルイスが促すと、彼は口を開いた。

「……リックと言ったかな? 末裔が君の教会に居候しているようだね」

 ルイスが「まさか、話したのか?」と尋ねると、彼は首を振りながら口を開いた。

「いや、遠くから見ただけだよ。向こうもこっちを見たけど、気付いてはいない。彼の感知はそれほど強くは無いみたいだね」

 これにルイスは「そうか」と淡白な感想を返した。
 気付かれたところで何か問題が生じるわけでは無いからだ。
 それよりもむしろ――そう思ったルイスは口を開いた。

「じゃあ、話してみないか? リックがどんな反応をするのか気になる。リックには君の声が聞こえないかもしれないが、その時は私が『共感』を使って補助しよう」

 これに彼は難しい顔を作った後、口を開いた。
 そして、その黒い空洞から放たれた言葉は返事では無かった。

「……その、『君』という呼び方なんだが、どうにかならないかな?」

 返事を期待していたルイスはその予想外の言葉に意味が分からず、一瞬言葉を詰まらせた。
 そして、ルイスはすぐに彼が何を言わんとしているのか察したが、あえて気付かないフリをしようと思った。

「……じゃあ、お前とでも呼んだ方がいいかい?」

 これに彼は眉をひそめ、

「意地悪はやめてくれ。僕が何を言いたいのか、分かってるだろう?」

 と言った後、視線をルイスから外しながら言葉を続けた。

「そろそろ、名前が欲しい」
「……」

 その言葉に、ルイスは口を閉ざした。
 名前を考えているわけでは無い。彼にふさわしい名前ならいくらでも思いつく。
 それをすぐに提案しないのは、彼が「感情無く」視線を外したからだ。
 視線を外したのがただの「フリ」だったからだ。視線を外す動作に感情は一切働いていなかった。こういう場合、人間は視線を外すことがある、というのを観察で知っていて、それを実践しただけなのだ。どこかにいた誰かが似たような状況になり、その時に見たものを「真似」しただけなのだ。
 人間への道はまだ遠いみたいだな、ルイスはそう思った。
 しかし同時に嬉しい事実もあった。
 名前を欲しがっている、という感情は本物であったからだ。
 だからルイスは薄い笑みを浮かべながら尋ねた。

「生きていた頃の名前は覚えていないのかい?」

 彼は首を振った。

「……名前があったのかどうかすら思い出せない」

 これにルイスは「そうか」と返した後、次の質問を投げた。

「じゃあ性別は? これくらい覚えているだろう」

 彼はこの質問にも即答出来なかった。

「……実は、それすらもよく覚えていないんだ」

 しかし彼は「でも、」と言葉を続けた。

「……僕は男の名前が欲しいと思っている。男性として、男らしく振舞いたいと思っている。……この感覚が、かつて男として生きていたからなのかどうかは分からないけれど」

 その言葉に、ルイスは少し間を置いてから口を開いた。

「……じゃあ、『アトラク=ナクァ』っていうのはどうだ?」

 聞いた事の無い名詞であったゆえに、彼は尋ねた。

「なんだい、その、『アトラク=ナクァ』っていうのは?」

 ルイスは浮かべている笑みを強くしながら答えた。

「恐怖を題材にした娯楽話に出てくる、蜘蛛の神様の名前だよ」

 この答えに、彼は微妙な表情を作りながら、再び尋ねた。

「蜘蛛? ルイス、君は僕が蜘蛛に似ていると言いたいのかい?」

 ルイスは「ああ」と肯定の返事を返し、言葉を続けた。

「大きく網を張って獲物を捕らえる、まさに蜘蛛だと思うぞ」

 そう言われればそうなのかもしれない、生きている人間にはそう見えるものなのかもしれない、彼はそう思ったが、やはり微妙な表情は戻せなかった。「恐怖を題材にした娯楽話」という部分が気に食わなかった。
 だから彼は再び尋ねた。

「ルイス、僕はそんなに恐ろしい存在に見えるかい?」

 これにルイスは再び同じ肯定の言葉を返し、理由を述べた。

「普段はかなり大きいからな。初めて見る人はみんな驚いて警戒すると思うぞ」

 自分もそうだったからな、とルイスは言葉を付け足した。

「……」

 彼は微妙な表情を維持したまま押し黙り、ルイスが別の候補を提案してくれることを期待した。
 しかし、それはどうやら無駄のようであった。
 だから彼はあきらめ、

「……わかった。じゃあそれでいいよ」

 とりあえず受け入れることにした。

 この日、一つの大きな存在に名前が与えられた。

 翌日、ルイスは思い出す。
 作者によって、話に登場する『アトラク=ナクァ』は男性であったり、女性だったりすることを。
 しかしルイスは「まあ、大したことでは無いな」と勝手に判断し、本人には黙っておくことにした。

 はたして、ルイスとこの蜘蛛の怪物は一体どういう関係なのか? どういう立場にあるのか?
 そもそも、ルイスは何者なのか?
 今のところアランの味方では無い。共感を使ってアランの才能の開花をうながそうとしなかったことがその証拠だ。ルイスがその気なら、この物語は序盤から大きくその様相を変えていただろう。
 しかし敵でも無い。もしそうであったなら、アランの物語はとっくに終わっている。
 今のところルイスは中立を装って(よそおって)いる。アラン達の戦いから距離を置いている。しかしある者に協力しているゆえに、ルイスはまったくの無関係というわけでは無い。
 そしてそれだけでは無い。ルイスにもシャロンが抱いているような夢が、望みがあり、それを目指して行動している。
 だがそれはシャロンのものと比べると途方も無いものだ。一人の人間の一生ではとても辿り着けないような、そんな大きなものだ。
 しかし、時間というものはルイスにとってさしたる問題では無い。その点に関しては、ルイスは蜘蛛の怪物とほぼ同じ価値観を持っている。
 だからルイスはのんびりと構えている。ゆえにその行動は非常に遅い。いつか出来たら、叶ったらいいな、程度に夢を追っている。危険から身を遠ざけて。

 しかしリックが来たことで、その状況にヒビが入ったことをルイスはまだ気付いていない。

   ◆◆◆

 一方、蜘蛛と称されたものが探している『彼女』は、まだ森の中を移動していた。

「……」

 シャロンは息を乱す事無く、軽快に駆けていた。
 虫の報告から、連中の狙いはやはりアランであることが分かった。
 そしてどうやら、先ほどそのアランは見つかったようだ。
 情報の流れが止まったのがその証拠。上からの指示を待っているのだ。伝達者の心を読むまでも無い。
 指示はまだ下りてくる気配が無い。しかし準備はしているはずだ。

(さて……アランは一体どこに)

 これに関しても伝達者の心を読む意味は無い。伝達者は情報を運んでいる虫に魂の力を与え、次の伝達者に向かって投げ送るという作業をしているだけなのだ。何もしらない。
 ゆえにアランの位置を知るには、情報を持つ虫自体を捕まえるか、末端にいる者、最前でアランに張り付いているものを見つけなければならない。そして情報の流れが止まった以上、期待できる選択肢は後者のみだ。

「……っ」

 そして、ある虫からの報告を聞いたシャロンはその場で足を止めた。
 帰ってきた内容は「辿り着けなかった」というもの。
 捜索のために放った虫がその力を使い果たしたのだ。
 つまり、かなり遠いということ。

(アランが収容所から姿を消して既に二ヶ月。その間、移動し続けていたとしたら……馬を使ったとしたら、既に故郷に辿り着いていても不思議では無い)

 ならばこちらも馬を使わないと。
 しかしそうすると確実に見つかる。連中と合流することになる。
 そうなると再び隠れるのは難しくなる。好き勝手するのが難しくなる。言い訳を作るのが困難になる。

(……やむを得ない、か)

 そう考えたシャロンはその足を、最寄にある馬屋の方へ向けた。

「……?」

 直後、シャロンは足に違和感を感じた。
 足が重くなったような、反応が鈍くなったように感じたのだ。
 そして同時にある感情が湧きあがった。
「逃げたい」「やめたい」という類のものだ。

「!?」

 瞬間、シャロンの背中は「びくり」と跳ね上がった。
 これはマズい、という危機感とともに心臓が加速する。

「……」

 シャロンは即座に目を閉じ、意識を集中させた。
「自己点検」するためだ。
 それはすぐに終わった。
 見つかった「問題」を「上」に報告する。
 すると間も無く、シャロンの足はいつもの感覚を取り戻した。

「……」

 しかしシャロンの気持ちは晴れなかった。

 シャロンの身に何が起きているのか。
 これはオレグの身に起きたものと似た問題である。
 違うのは、シャロンの体において「第四の存在」は権力を持たないということ。シャロンの体は基本的に独裁制度である。
 しかし、裏の手があるのだ。
 第四の存在が持つ機能自体は失われていない。それを利用した攻め手だ。
 良い機会なので「第四の存在」について説明しよう。もう隠す必要は無いからだ。
 オレグの過去話が出た時点で気付いた方がいると思うが、「第四の存在」とは「魂を一から創造する」機能を持つ存在である。つまり、肉体である。肉体が己を操作、支配する独裁者を自ら生み出しているのだ。そして魂が理性と本能を生み出す。
 なぜ、そんなことをするのか。そのようになっているのか。
 理由は単純である。独裁の方が何をするにも速いからだ。メリットはそれのみであり、それが肉体においてはとても重要である。考えてみてほしい。命の危機が迫っているような緊急時に、多数決を取っている暇があるのかと。
 ではオレグはその弱点をどのように補っているのか、と思われた方は多いだろう。申し訳ないが、ここでそれについて触れるのは避けさせていただく。オレグには「技」がある、とだけ言っておこう。
 話を戻そう。
 既に独裁者がいる場合は第四の存在は活動しない。
 しかしある条件が満たされている場合は別だ。
 それは、いま存在する独裁者が第四の存在にとって「気に食わない者」である場合だ。
 第四の存在は支配者が誰でもいいわけでは無いのだ。ゆえに、「作り変える」。
 ケビンが真実に辿り着いた時に疑問に思った方は多いだろう。なぜ、シャロンは作り変えられないのかと。
 実際にはシャロンも時々作り変えられている。しかしシャロンはそれを「自己修復」しているのだ。混沌にはそのための部品、予備も格納されている。シャロンは定期的に「メンテナンス」されている。
 つまり、シャロンは本来あるべき関係を歪ませているのだ。
 そして本来あるべきシャロンとは、元のシャロンとはどういう人物だったのか。
 それは今シャロンの身に起きている問題から察することが出来る。
 シャロンの心に突然湧きあがった「逃げたい」「やめたい」という感情が答えである。
 元のシャロンは臆病な人間である。戦いに身を晒すことなどありえないほどの。
 臆病であること自体は弱点では無い。危険な対象から隠れる能力に長けていれば、生存するという点では有利に働く。
 だが、逃げられない、または逃げてはいけない状況というものは存在する。こちらから攻め込まなければ、先手を仕掛けなければならない時というものは必ずある。
 元のシャロンはその点に関しては論外の域だ。元のシャロンに出来たことは「逃げ」の一手のみである。シャロンの肉体がそのような支配者を望んだがゆえに、シャロンは臆病な気質に作られたのだ。
 そのような欠点や問題は改善されることがある。ケビンが良い例だ。魂が理性や本能の影響を受けて変化することがあるように、同じことが第四の存在、肉体にも起きることがあるのだ。
 そして変わっているのはケビンだけでは無い。さらに言えば、その変化はケビンのような急なものだけでは無い。描写するまでも無い、本人すら気付かないようなゆっくりとしたものもある。ある者がその変化を突然自覚し、驚く場面がもうじき描かれるだろう。
 だが、それはシャロンでは無い。シャロンの肉体に変化が起きる望みは薄い。その理由としては、シャロンがいつでも逃げようと思えば逃げられる立場にあることが大きい。
 ゆえに、シャロンの「点検と修理」では根本的問題は解決しない。ただの時間稼ぎである。
 そしてその問題が発生する周期が短くなってきていることをシャロンは自覚していた。
 だから、シャロンは、

(アランの件が片付いたら、すぐにでも『調整』してもらったほうがいいわね……)

 と考えていた。

   ◆◆◆

 シャロンの考えは当たっていた。

「……」

 連中はアランに注力していた。
 指示を送る側である「上」の男は、椅子の背もたれに体を預けたまま考え込んでいた。
 しかしその表情は厳しく、うつむいている。

「やはり……」

 男は定期的に独り言を漏らしながら考え込んでいた。
 前に女が立っていることすら気付かぬほどの集中力で。
 報告のために尋ねてきたその女は、男の異常な様子にどう声をかけて良いかわからなくなっていた。
 しかしいくら待っても気付く気配が無いため、女は勇気を振り絞って声を出した。

「あの……」

 これに男は「はっ」と顔を上げ、口を開いた。

「ん? ああ、すまない。気付かなかった。考え事をしていたものでね」

 男は畳み掛けるように早口でそう弁明した後、報告を求めた。

「頼んでいたことは順調か? それとシャロンは?」

 気が少し動転したまま言葉を続けたせいか、男は早口のまま一度に複数の質問を女に浴びせてしまった。
 しかし女は冷静にこの質問に答えた。

「……指示された通り、この『一覧』に記載されている者達に対して召集命令を発しました。見つかっていないシャロンを除いて、ですが」

 そう言いながら女は男の前に広がる机の上に、その「一覧」が記載された紙を乗せた。
 男はその紙を手に取り、食い入るように眺めた。
 記載漏れが無いかもう一度確認するためだ。
 女に命令を出す前に数え切れないほど確認したが、それでももう一度眺めずにはいられなかった。

 この紙は、「一覧」はなんなのか。
 これは死んでもいい者、使い潰しても問題無い人間の名前を並べたものだ。
 もう役に立たないもの、顔が割れてしまっているせいでろくに活動出来ない者なども含まれる。
 その中でも、シャロンの名前は一際異彩を放っていた。
 なぜなら、「こいつには注意しろ」と、魔王から直接指名された人物だからだ。
 ゆえにシャロンは最重要監視対象である。立場上は味方であるにもかかわらずだ。
 無理な任務を与えて早めに潰すようにとも言われている。
 しかしシャロンはそれらの難題を淡々とこなしてきた。
 だが、シャロンは最近になってようやくボロを出した。
 直前の任務でシャロンは遂に悲惨な結果を出した。
 味方は全滅。にもかかわらずサイラス側の戦力は減るどころか、むしろ増加した。魂を扱う技術や、共感の錬度が増した。
 そして当のシャロンは行方不明。貼り付けていた優秀な監視役もだ。死体すら見つかっていない。
 こちらが送った増援を全滅させた連中は、和の国の忍者である可能性が高いという。
 シャロンと忍者達が通じていた、と考えてもおかしくない結果だ。

「……」

 そんなことを考えながら男は紙を机の上に戻し、大きなため息と共に目を両手の指で覆った。
 目の周辺の筋肉を指をほぐしながら思考を巡らせる。
 目元に纏わり付いていた重い疲労が溶けていくのを感じながら、男は小さなため息を吐いた。
 ため息無しではやっていられないほどに厄介な問題だ。
 シャロンがボロを見せたことは間違いないのだが、証拠が無い。
 せめて監視役さえ生きていれば。彼は間違いなく、シャロンとサイラス達の戦いを間近で見ていたはずなのだ。
 シャロンがどこかで野垂れ死んでくれていればどんなに気が楽か――

(いや、違う)

 直後、男は「シャロンの死への期待」を自身で否定した。
 自分はシャロンという戦力をまだ求めている。
 アランは軍と合流してしまった。そして恐らく、今後アランが自ら孤立するように動いてくれることは無いだろう。強力な感応者なのだから。尾行されていればすぐに気付く。それどころか、もう既に自身の立場を理解している可能性がある。
 ならば、こちらが取れる手は人混みにまぎれて仕掛ける奇襲だけだ。しかし、部外者が紛れること自体が不可能に近い軍隊の中にいるのではそれすら難しい。
 もし、アランが自身の能力を使ってアンナを鍛えるようなことが起きれば、後に手がつけられない事態になることは想像に難くない。
 そうなるのは時間の問題だろう。ゆえに、仕掛けるにしても強行手段になる可能性が高い。
 軍隊に正面から仕掛けるのであればシャロンを使いたい。サイラスにそうしたように。それが正直な気持ちだ。
 ならば自分が取るべき手は――

「あの……」

 直後、意識に割り込んできた女の呼び声に、男は再び「はっ」と顔を上げた。
 集中しすぎたせいで女の存在を忘れてしまっていた。
 男はそれを謝ろうとしたが、それよりも早く、女が口を開いた。

「では、私はこれからシャロンの捜索に就きますが、それでよろしいですか?」

 これに男は「ああ、頼む」と、短いがはっきりとした答えを返した。

「……」

 そして男は部屋から出て行く女の背中を見送りながら、顎に手を当てた。
 男の頭の中ではある言葉が木霊していた。
 ならば、都合がいいじゃないか、と。
 もしシャロンがずうずうしく戻ってきたら、使ってやろうじゃないか、と。
 次の作戦は地獄そのものなのだから。

   ◆◆◆

 一方、同じようにため息を吐いている者がいた。

「……ふう」

 それはクラウス。
 しかし、その息に込められている感情はまったく違うものであった。
 ここまでくればまずは一安心、そんな言葉がクラウスの頭の中で木霊していた。
 腰を下ろしている場所がただの木箱であるがゆえに、臀部は鈍い痛みを発していたが、今のクラウスにとってはどうでもよかった。
 椅子が欲しくないわけでは無い。しかし注文しても出てこないだろうとクラウスはあきらめていた。
 なぜなら、今クラウスがいる場所が戦いの最前線だからだ。こんなところで満足な家具を望むのは、世間知らずの馬鹿だけだ。
 しかしありがたいことに、この陣を守っている隊長は屋根と一つの寝具を与えてくれた。
 その寝具にはアランが横たわっている。

「……」

 アランはここに辿り着いてからほとんど言葉を発していない。
 当然である。ここまでほとんど休み無く移動し続けてきたのだから。
 だがクラウスは、明日になったらまたすぐに移動しなければならない、と考えていた。
 この陣地にいる戦力が弱いからだ。
 クラウスの意識には、あの夢で師が放った言葉がこびりついていた。
 アランは狙われている、と。
 だから移動しなければならない。幸いにも近くにクリス将軍の陣地があるらしい。そこにはアンナ様もいる可能性が高い。そこに移動するべきだ。

「……」

 クラウスは何一つ喋らず、まるで確認するかのように、同じ思考を繰り返した。
 その心の声は木霊の様にアランに伝わっていた。
 だからアランは上半身を起こし、口を開いた。

「なあ、クラウス」

 これにクラウスは、今はお休みくださいと制止しようとしたが、それよりも早くアランが言葉を続けた。

「少し前から尾行されているが、あいつらは何者だと思う?」

 この質問にクラウスは少し考えてから、

「……分かりませぬ」

 と答えた。
 しかし少しでも絞ることは出来る、それを考えていたクラウスはすぐに「ですが、」と言葉を続けた。

「教会側の人間では無いと思われます」

 同意見であったアランは頷きを返した。
 アランとクラウスは理解していた。教会が反乱を起こされていることを。
 だからこの最前線も静かなのだ。
 そしてクラウスの言葉にはまだ続きがあったが、アランは口を開き、それを代弁した。

「さらに言えばサイラスが放った追っ手でも無い、だな?」

 その言葉にクラウスが頷きを返すと、アランは言葉を続けた。

「町を出た後、しばらくはサイラスの部隊に追われた」

 これを振り切るのは難しくなかった。アランの感知能力を持ってすれば、相手の警戒線を外し、くぐり抜けることは簡単なことであった。
 しかし問題は次だ。アランはそれを言葉にした。

「しかし奴らは、それを振り切ってしばらくしてから現れた。……全く違う方向から」

 そうなのだ。「連中」が出現した方向から考えるに、サイラスの仲間とは思えないのだ。
 アランはその時のことを思い出した。
「連中」は自分達が向かっている方向から、平原の方から現れた。
 そいつらは森の中から意識を巡らし、自分のことを探していた。相手の心が、台本がそう教えてくれた。だからこれは避けた。
 しかし次の集団に見つかってしまった。
 それは商人らしき風貌をした荷馬車の一団だった。
 だから油断してしまった。相手の思考を読む前に視線に入ってしまった。遠距離から見られてしまった。
 自分を認識された直後に、意識の線がこちらに結びついた瞬間に台本が開いた。この一団は商人では無いと。自分を探すために、欺くためにそう振舞っているのだと。
 しかしかなりの距離があったおかげで、振り切ることは出来た。
 そしてその後、自分達を見失ったその一団は、先に現れた賊のような連中と合流した。
 一体こいつらは何なのか。
 なぜ、自分を探しているのか。
 その答えを導く情報をアランは持っていない。

「……」

 だからアランの言葉はそこで止まってしまった。
 しかしまだ気になる事があったアランは、その口を再び開いた。

「そういえば、気になっていたんだが……クラウスはあの収容所のことを知っていたのか? 内部の構造を熟知しているように見えた」

 相手の心を読めるがゆえに、アランは既にある程度答えを知っていたが、それでもあえて尋ねた。

「……」

 この質問にクラウスは即答しなかった。
 しかしその沈黙が否定的なものでは無い、相手に分かり易く伝えるための言葉選びによるものであることを感じ取ったアランは、クラウスの返事を黙って待った。
 しばらくして、クラウスは口を開いた。
 クラウスはかつてそこに住んでいたことを、収容されていたことを告白し、そこでの生活がどんなものであったかを語り始めた。
 その内容は、アランが収容所で感じ取った通りのものであった。
 クラウスの舌はよく回った。
 その調子は時に、まるで別人の言葉を借りているかのようであった。
 実際そうなのかもしれないと、誰かが時々クラウスの口を借りて言葉を発しているのかもしれないと、アランは思った。
 アランは感じていた。クラウスの中にもう一人、別の誰かがいるような気配を。
 そしてそれは自分の中にも感じる。
 自分が三つあるような、そしてクラウスと同じように自分では無い別の誰かが、とても深いところにいるように感じる。
 何かが分かりかけている、何かが変化している、アランはそう感じていた。

「……」

 そしてクラウスの舌はあるところで止まった。
 アランは感じ取った。クラウスが話すのをためらっていることを。
 強い後悔と絶望、そして罪悪感もだ。
 あの時、クラウスの剣に込められたものとよく似ている。いや、同じ感情のように思える。
 話したくないのであれば無理に聞くまい、そう思ったアランはそれを言葉にしようとしたが、

「……それから、」

 直後、クラウスはゆっくりと話し始めた。
 師と共に反乱軍を率いて教会と戦ったことを。
 敗れ、貧民街に逃げ込んだことを。

「……」

 そこでクラウスの口は止まった。
 しかしアランは感じ取った。
 クラウスの心に母が死ぬ映像が流れているのを。
 この時、アランは初めて母の死の経緯を知った。
 だからアランは、

「……そういうことだったのか」

 と、言葉にした。
 アランの心には怒りが湧きあがっていた。
 なぜ、という言葉がアランの中で木霊していた。
 教会と戦っている時は正義だと思った。
 しかし彼らはその後、悪に転化した。
 なぜだ。もともとそういう気質だったのか、それとも堕落したのか。

(いや、待て……?)

 直後、アランは一度思考を切った。
 悪について考えようにも、悪についてのはっきりとした定義が自分の中に無かったからだ。ただ悪いと、そう感じただけだ。
 悪とは何なのか。

(そういえば……)

 アランは気付いた。
 あの時も、収容所でも同じ怒りを抱いたことを。
 リリィを拉致し、酷い仕打ちを行っていた教会の連中にも同じ感情を抱いたことを。悪だと思ったことを。

「……」

 しかしアランはその感情を言葉にして表さなかった。
 アランはまだ他に聞きたい事があった。

「……クラウスはその後どうして兵士に、父の部下になれたんだ?」

 アランは「当時、ただの難民の一人であり、母が死んだ原因の一人かもしれなかったクラウスを、なぜ?」という思いを心で伝えながら尋ねた。

「……」

 クラウスはやはり即答しなかったが、しばらくして口を開いた。

「……私が、首を持って行ったからでしょうな」

 クラウスは「アランの母を殺した者の」という部分をあえて口にしなかった。
 言葉にすることで、その時の映像が鮮明に思い起こされることを恐れたからだ。

「……」

 そして、アランはその態度を責めようとも、尋ね返すようなこともしなかった。
 アランは感じ取っていた。クラウスの絶望の裏に怒りが渦巻いていることを。
 その怒りはアランのものと同じであった。共感し、共鳴していた。
 同時にアランは納得もした。
 クラウスが事の原因に関わっていないとは限らないが、それでもクラウスは母の仇を討ったのだ。
 だからアランは尋ねた。

「クラウス、難民達はどうしてそうなってしまったのだと思う?」

 それは先ほど湧き上がり続ける怒りとともに飲み込んだ質問であった。

「……」

 この質問にクラウスは考え込んだ。
 クラウスは思い返していた。
 あの時、貧民街で状況がどのように変化していったのかを。
 多くの者が境遇に不満を漏らし、暴力的になっていった。
 しかしそれに対して声を上げる者もいた。
 だがその数は少なかった。
 戦いでそれなりの功績を挙げていた隊長格の者達だけであったように思える。
 彼らは自身が戦いで残した功績に名誉と誇りを抱いていたのだろうか? だから正しい声を上げることが出来たのだろうか?
 分からない。
 だから、クラウスは自身の感想だけを答えた。

「……我々は教会に対しては正しく戦ったが、別の戦いでは道を間違った、それだけのことだと私は考えています」

 その答えにアランは、

「……」

 沈黙だけを返した。
 クラウスの言葉から、悪とは何か、という疑問の答えを見出すことが出来なかったからだ。

 お気付きだろうか。
 皆が強くなることばかりに意識が向いている中で、アラン一人だけが少し違うことを考えていることを。

 そしてクラウスは知らない。
 収容所で「何が行われていたのか」、「自分が何をされたのか」ということを。
 もっと考えるべきなのだ。
 なぜ、隊長格以上の人間だけが、貧民街で正しい声を上げることが出来たのかということを。

   ◆◆◆

 次の日――

 早朝に出発したアランとクラウスは昼過ぎにはクリスの陣地に到着した。

 アランは真っ先に、陣を仕切るクリスの元へ挨拶に向かった。

「お久しぶりですね、クリス将軍」

 アランは再会を純粋に喜び、薄い笑みを口元に張り付かせていた。
 しかし対照的に、クリスは難しい顔で口を開いた。

「……正直、このような形で再会出来るとは思っていませんでしたよ、アラン殿」

 クリスが何を言わんとしているのか、その言葉の裏に何が含まれているのかを、アランは読み取った。
 クリスはこのような「まともな再会」を半ばあきらめていた。
 良くて交渉材料、悪ければ肉の盾として使われるだろうと踏んでいた。
 状況によってはアランごと敵を焼き払うことの許可を、カルロに伺いに行かねばならなくなるだろうなと考えていたほどだ。
 そして、クリスの表情に込められていた思いはそれだけでは無かった。
 クリスの視線は開かなくなったアランの両目に釘付けになっていた。
 生きたまま帰還出来たとはいえ、代償は払わざるを得なかったのか、いや、むしろこの程度で済んで幸運だったと考えるべきなのか、という思いがクリスの視線に込められていた。
 さらに同時にクリスは奇妙な感覚も抱いていた。
 存在しないはずのアランの視線がこちらの視線と綺麗に重なっているような、目を合わせて見つめられているような感覚があった。
 表現し難い、経験したことの無い感覚がクリスの体を包んでいた。
 まるで何もかも見透かされているような――

「……」

 馬鹿馬鹿しい、そう思ったクリスは思考を切り、それは不自然な沈黙という形で表に現れた。
 ゆえに、次に口を開いたのはアランの方であった。

「そういえば気になったのですが――」

 その言葉に、クリスが少し慌てたような調子で「ああ、なんでしょう?」と促すと、アランは言葉を続けた。

「この陣を囲むように、深い溝が迷路のように掘られているのを見たのですが、あれは……?」

 敵の侵入を妨害するために溝を掘るにしても、迷路にする必要は無いのでは? そう思ったゆえにアランは尋ねた。
 これに対し、クリスはアランが放った「見た」という言葉に少し違和感を覚えたが、それは表情に出すことなく答えた。

「まだ試行錯誤の段階なので、なんとも言えませんが……より硬い防御を築きたいと私なりに考えた結果があれなのですよ」

 クリスのこの回答にアランは、

「……なるほど」

 と淡白な返事を返した。
 しかしクリスの思考を読んでいたアランは、内心では「これは本当に良いものかもしれない」と共感していた。
 その感覚が伝わったのか、クリスは表情を和らげながら口を開いた。

「ところでアラン様。もう知っているとは思いますが、アンナ様もこの陣に滞在しておられます。早めに会ってくるとよろしいでしょう」

 これに、アランは即答した。

「ええ、もちろん。今から会いに行くつもりです」

 そしてアランは小さな礼をしながら「では、また後ほど」と言葉を続けた後、クリスの前から離れた。

(……やはり)

 その時の動きをクリスは見逃さなかった。
 目が見えないはずなのに、平然と歩いている。

「……」

 どうしてそんなことが出来るのか分からなかったクリスは、ただ沈黙するしか無かった。

   ◆◆◆

 その後、アランは言った通りにアンナの元に向かった。
 強力な感知があるゆえに探す必要は無かった。アランの足は真っ直ぐにアンナのほうに向いていた。

「……」

 しかしその足取りは軽く無かった。
 アランは感知を使ってもう一人探していた。
 しかし見つからないのだ。
 この陣にはいない? 何かあったのだろうか? そんな考えが暗い感情とともにアランの心に湧きあがっていた。
 足を遅くしながら感知の範囲を絞り、捜索能力の精度と強度を増す。
 だが、それでも見つからない。
 牛歩のように遅くなるアランの足取り。
 しかし妹との再会の時はアランのその足取りの重さにかかわらず、早く訪れた。
 向こうのほうから走って来たからだ。

「お兄様!」

 アランが生きて戻ってきたという話は既に陣全体に伝わっていた。
 それを耳にしたアンナは誰よりも早く会いたいという思いを抱き、足に乗せていた。
 その勢いはまるで体当たりでもするかのようであったが、

「!? お兄様……目が?!」

 その足はアランの目の前で止まった。

「……」

 そして訪れる沈黙。
 アンナが口を開かないのは何と声をかければ良いのか分からなくなったから。
 アランはどう説明すればいいのか分からなかったから。
 その沈黙はアランにとっては息苦しさを覚えるほどでは無かった。
 しかしアンナにとっては重いものであることを感じ取ったアランは、咄嗟に口を開いた。

「気にしないで。問題は無いから」

 言いながら、これは無理があるなとアランは思った。
 そして思った通りに、アンナは、

「見えないのに、そんなわけが!」

 と返した。
 これにアランは「そりゃあそうだよな、そう思うのが普通だろうな」などと思い、危うく笑みを浮かべそうになった。
 いま笑えば自虐的か、不謹慎だと受け取られるに違いない。まずは説明しなくては。
 しかしどう言えば分かってもらえるのかが分からない。

(いや、待てよ?)

 そもそも言葉に頼る必要は無いのでは? それに気付いたアランは直後にいい手を思いつき、口を開いた。

「本当だよ。手を貸して」
「……?」

 兄が何を言いたいのか、何をしようとしているのか分からなかったゆえに、アンナは動けず、ただ奇妙な表情を返すことしか出来なかった。
 だからアランはやや強引にその手を取った。

「あ……え?」

 直後、アンナの体にかつて経験したことの無い感覚が走った。

クラウスが見た世界2

 まるで自分が水の中にいるような感覚。
 その水が、世界が様々な波で満たされていることが分かる。その振動を全身で感じる。
 あの時のクラウスと同じであった。この瞬間、アンナもまた新たな世界を知ったのだ。
 しかし同時に疑問も沸き起こる。
 どうして私は、私の体は今までこれを感じ取ることが出来なかったのか――

(いや違う、これは、この感覚は――)

 その答えはすぐに分かった。正確には教えられた。
 これは私が感じ取っているものじゃない。私の体は、脳はまだそのような能力を持っていない。体に走っている振動は恐ろしく微弱なものだ。これを正確に解析する精度を、私の脳はまだ有していない。
 この感覚は兄様の感覚だ。兄様が感じ取っているものを、私が感じ取っているんだ。繋がっている手から増幅した波が送り込まれているんだ。

 アンナの考えは正解である。共感者として重要な能力は、波を正確に分析する精度と、解析した波を増幅して他者に伝播する能力である。

 良い機会なので神楽についても説明しておこう。
 共感の連鎖を利用する神楽は、発動者である神官の能力と、全体の共感能力の平均値が規模に直結する。
 ほとんどの人間は波を正確に受信、解析する能力を有していない。しかしそれは微弱な通常の波に対しての場合であり、とてつもなく大きな波であれば話は別だ。神楽の起動条件はその巨大な波を発生させることが出来るかである。
 そして波は距離に応じて減衰していくが、伝播者がそれを少しずつ増幅して他者に伝えることで、その距離を稼ぐことが出来るというわけだ。

 そしてアランがわざわざ手から伝えている理由は、あることを教えるためだ。
 そのために、アランは繋がっている手を離した。

「あ……」

 直後、アンナは残念そうな声を漏らした。
 身を包んでいた感動的な感覚が失われたからだ。

 能力が突然開花するということは、一瞬で別人に変化するということはありえない。
 なぜなら、体を作り直さなければならないからだ。古いものを破壊してから、新しく強力なものを作り直さなければならない。それには時間が必要であり、材料である大量の栄養も消費する。
 古いものの破壊には強い刺激が必要である。大きな負荷、大きな信号である。そして変化の速度には個人差があり、成長が鈍い場合には継続的な刺激が必要となる。
 しかし世の中は広い。
 鍛えるまでも無く、生まれた時点でその能力を有する人間は存在する。
 アランは違う。鍛錬によって登った人間だ。そして戦場がアランにとって良い鍛錬場となった。戦場には強い感情が、大きな波が頻繁に飛び交うからだ。
 アランの成長は早い方であった。そしてそれは才能だけによるものでは無かった。
 鍛錬を補助する道具があったからだ。
 アランはそれをアンナに教えてあげようと思っていた。
 だからアランはそれを声に出した。

「剣を抜いて、アンナ」

 返事をするまでも無くアンナの体は動いていた。
 何をすればいいのかが頭に流れ込んできていた。
 左手で剣を撫で、その刀身を発光させる。
 向かい合うアランは右手で。
 二人の動きが鏡合わせのように寸分違わず重なる。
 まるであの時のアランとクラウスのように。
 しかし今のアンナの心境はあの時のクラウスとは異なる。
 アンナの心を埋め尽くしているのは弾けるような期待感。
 再び身を包んだ感動的感覚がそれをさらに大きくしている。
 その激しい感情の中に、透き通るように兄の声が響く。

「そうだ、それでいい」と。

 今からやろうとしていることには大きな感情が必要なのだと。
 しかしまだ足りないと。
 その声が響き終わった直後、今度は言葉では無く感情がアンナの中に流れ込んできた。
 それは熱い何か。
 その熱いものは映像となってアンナの脳裏に映った。
 それは戦いの場面だった。
 一つでは無い。ある場面ではリックが、そしてまたある場面ではリーザが、そしてラルフが映っている。
 そして順序立ってもいない。時系列順に並んでいない。様々な場面がごちゃ混ぜに、そして不規則に流れている。
 だが、いずれの場面にも共通点がある。
 どれも激しく、そして熱い。
 戦いでアランが感じた緊張と、それを凌駕する闘志が映像と共に湧き上がってくる。
 それらの感情が好奇心と混ざって形容し難い何かになった直後、再び兄の声が響いた。

「そうだ! 大きく、そして激しくなければ他人の心を揺らすことなど出来ない!」と。

 その声と共に、二人の体は再び同時に動いた。
 腕が上がり、刀の切っ先が空へと向く。
 やはりあの時と同じ大上段の構え。
 その構えが完成した瞬間、アンナの心を埋め尽くしていた形容し難い感情はある形を成した。

弔い

 それは炎。
 激しく、そしてひたすらに熱い。
 じっとしているのがつらいほどに。
 そしてそれはアランも同じであった。
 だから二人は同時に、

「「破ッ!」」

 気勢と共に輝く刀身を振り下ろした。

   ◆◆◆

「!?」

 直後、クリスは椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がった。

(戦闘?!)

 クリスは直感的にそう思った。戦いが始まったと思った。

「……?」

 しかし変だとも思った。
 静かすぎるからだ。
 警鐘の音も鳴っていない。
 戦闘なんて起きていない。そうとしか思えない。
 だが心は昂ぶっている。戦いの時のように。
 そして耳を澄ませば、何か聞こえる。
 いや、違う。耳は何も音を拾っていない。
 何かが伝わってきている。

「これは……アランとアンナ?」

 その場には一人しかいないのに、クリスは誰かに尋ねるようにそう声を漏らした。
「そうだ」という声が返ってくるような気がしたからだ。
 いつもなら馬鹿馬鹿しいと笑って済ませるような考え方だ。
 しかし今はそうは思えない。

「……」

 そして気付けば、クリスは歩き出していた。
 誰も答えてくれないのであれば自分の目で見に行こう、そう思ったからだ。

   ◆◆◆

「「!」」

 そして表情を変えたのはクリスだけでは無かった。
 シャロンも、そして彼女の上司も同じように驚いていた。
 しかしその驚きはクリスのものと比べると小さかった。
 いつか起こるだろう、彼はやるだろうと予想出来ていたことだったからだ。

   ◆◆◆

「……」

 それを見た瞬間、クリスの常識はどこかへ吹き飛んだ。
 口が半開きになるほどに。
 それほどまでに目の前で起きている事は強烈だった。
 二人が、アランとアンナが斬り合っている。
 応酬は速くは無いが、振りは全て豪快。本気で殺す気で太刀を放っているように見える。
 しかしそうでは無いことが分かる。
 伝わってくる。どんな攻撃を出すのかが、事前に相手に教えられている。

(これは……剣の練習では無い?)

 クリスは気付いた。
 これは相手に自分の考えを伝える練習だと。
 直後、その考えが正解であるかのように、クリスの心に「そうだ」というアランの声が響いた。
 しかしそれはクリスだけに放たれた声では無かった。
 初めてにしてはアンナは上手くやれていた。
 それをアランは褒めたのだ。
 しかしアンナはその賛辞に対し、畏れ(おそれ)の感情を返した。
 強い敬意の中に恐怖が混じった感情。
 その恐怖の根源は後に訪れるかもしれない喪失感に対してのもの。
 これが終わったらまた元に戻ってしまうのではないか、そんな恐れがアンナの中にあった。
 これにアランは「そんなことは無い」という言葉を刀に乗せ、袈裟の軌道で放った。
 これをアンナは後退して避けながら受け取った。
 即座に「どうしてそう思うのです?」という言葉を刀に乗せ、振り上げる逆風の型で返す。
 その下から迫る刃を、横に叩き払うように受け流しながら、アランが込められた言葉を受け取る。
 そしてアランは横に振るった刀身を即座に胸元に引き戻し、突きを放った。
 体を一歩左にずらしてそれを躱す(かわす)アンナ。
 真横を銀閃が真っ直ぐに流れると同時に、「俺もそうだったから」という言葉が頭の中に流れ込んでくる。
 そしてその一撃に込められていたものはそれだけでは無かった。
 そう思う理由も、根拠もその一突きに込められていた。
 この能力は大なり小なりほとんどの人間が持っているもので、自覚していないだけだと。 道具が手元にあるのに、その存在に気付いていないか、使い方が分かっていないだけなんだ、と。
 そしてアランは間髪入れずに再び突きを放ち、言葉を繋げた。
 アンナはもう違う。完全に自覚している。脳のどこにその機能があり、どうやれば動かせるのか、その感覚を俺は君に教えた、と。
 さらにもう一突き。
 そしてアンナはもう覚えている。俺はもうアンナを補助していない。今、アンナは自力だけで俺に言葉を伝えられている。と。
 三段突きの型で放たれたそれらの言葉にアンナの心は震えた。本当に嬉しいものであった。
 しかしその喜びは大きすぎた。
 アンナはまだ未熟であったゆえに、それは次の反撃の動作に現れた。

(アンナが失敗した?)

 それを見たクリスは気付いた。
 アンナが放った反撃に動作の事前通知が無かったことを。喜びの感情が込められていただけであることを。
 しかしアランはそれをいとも簡単に避けた。
 失敗を読み取り、動作自体を見切ったのだ。
 その事も、台本と呼ばれる未来予測のようなものがアランの中で機能していることまでクリスは気付いていた。
 同時に、注目されているアランもまた同じようにある事に気付いていた。

(クリス将軍がアンナの失敗に気付いたか。俺の能力のことまで少し見抜かれているようだ)

 クリス将軍の感知能力がかなり高いことをアランは感じ取っていた。
 だからこの場にいる観客の中で彼「だけ」がアンナの失敗に気付けたのだと、アランは思った。
 それは間違いであった。
 アランは気付いていない。もう一人いることを。

「……」

 その者は静かにアランを見ていた。
 遠くは無い。むしろ近い。
 だが、やはりアランは気付かず、アンナに向かって再び剣を振るった。
 思いがアンナに伝わる。
 しかしアンナの力はまだ弱く、近くにいる人間にしか思いを伝えられないだろう、と。
 続けざまにもう一太刀振るい、言葉を続ける。
 だから鍛えるんだ、この剣を使って。と。
 剣が補助してくれる。剣に思いを込めれば勝手に増幅してくれるから、自分が伝えようとしている波が正確に作れているか確認出来る。もちろん、相手の思いを受け取るのにも便利だ、と。
 その言葉はアンナにとって力強く、そして同時に納得出来るものでもあった。
 だから、お兄様はこんな事が出来るようになったのだと。光る剣を誰よりも長く使っているからなのだろうと。
 そんな思いを抱きながら、アンナは言葉を、太刀を返した。
 なら、しばらくこのまま練習に付き合っていただけますか、と。
 これにアランは、もちろんいいともと、太刀を使って即答した。
 その言葉を境に、二人のやり取りはただの雑談となった。
 しばらくはアランばかりが喋ることになった。
 行方不明になっている間、何があったのか質問攻めされたからだ。
 そしてアランはこの質問に正直に、隠し事無く答えた。
 その内容がリーザとの戦い、クラウスの無明剣についての話になった時、アランは剣について説明を加えた。
 増幅させる波、受け取る波、その周波数の範囲に制限を設けることが出来ることを。そしてそれは習得すべき技術であることを。

「……」

 しかし、この話にアンナは良い感情を返さなかった。
 少し前から、収容所での話をしてからずっとそうであった。
 アンナの心には怒りが渦巻いていた。
 その怒りは、兄にそんなことをした連中を焼き払ってやりたいと本気で思うほどに高まっていた。

「……」

 それを察したアランは言葉を止め、しばらくは型のやり取りだけ行うことにした。
 そのつもりだった。
 自然と、アランの心に言葉が湧きあがって来た。
 アンナの心に渦巻いている怒りの色が、自分が収容所で抱いたものと全く同じだったからだ。
 あの時の自分もそうだった。リリィが酷い目に遭い続けていたという事実に怒りを抱いた。
 悪に対しての怒りだ。
 そう思った瞬間、アランは「またか」と思った。
 またこの言葉が出てきた。そしてこの疑問を解決するには、「悪とは何か」ということについて自分なりの答えを出さなくてはならないだろう。
 彼らは自分の心が痛んだりしないのだろうか?
 分からない。しかし今の自分なら調べることが出来るだろう。試す価値はある。
 では、彼らも同じことをされれば自分と同じ思いを抱くだろうか? そして例えば、それをアンナがやったとしたら、自分はアンナを「悪」だと思うだろうか?
 これは考えるまでも無い。思うわけが無い。

(それはむしろ――)

 その答えになる言葉はすぐに浮かびあがった。
 それはきっと正義だと。
 そうだこれが一番しっくりとくる。
 だが、この感覚をもっと確かなものにしたい。揺ぎ無いほどに。そのためには「悪」を知らねばならない。
 悪とは一体なんなのか。

(いや、待てよ)

 瞬間、アランは気付いた。

(そこを思考の出発点にしては駄目な気がする。もっと分かりやすいところ、例えば――)

 そう思ったアランは「自分が悪と感じる行為」について考えることにした。
 これはすぐに思いついた。貧民街での経験が生きた。
 泥棒、裏切り、そして殺人――

(殺人?)

 その言葉が浮かんだ瞬間、アランは「はっ」となった。
 殺人なんて、戦場で数え切れないくらいやってるじゃないか、と。
 しかしこれを「悪」だとは思わない。守るための戦いが「悪」なわけが無い。

「……!」

 直後、アランの心の中で何かが組み上がっていった。そしてそれはすぐに言葉になった。
 つまり、「悪」と感じるものをまとめれば、それは「破壊行為」に分類されるものであることを。
 そして「悪」であるかどうかは実行する者の立場と、対象との関係によって決まるということを。「悪」を破壊するものは「悪」では無い。それはむしろ「正義」または「善」などの類のものであることを。

(そういえば――)

 そこまで考えたところで、ふと、父の顔が浮かんだ。
 幼い頃、父がそれに関する事を言っていたのを思い出したからだ。
 確か――

(我々は強くあらねばならない……)

 いや、そこじゃない。この言葉の前に、父は確か――
 その言葉は父の肉声とともに脳裏を流れた。

(何かを成す者はそれが善であれ、悪であれ、強いものである。強き者が弱き者を倒すことが出来る、それはこの世界に定められた絶対の法である。ゆえに――)

 その続きを、アランは自然と口ずさんでいた。

「ゆえに……我々は強くあらねばならない」

 そして、父の声はまだ続いた。

「そして力を正しきことに使うことを『武』と呼び、その道を歩む者を『武人』と呼ぶ。アラン、お前もその『武人』にならねばならないのだ。それは我々、炎の一族の使命と言ってもいい」

 瞬間、アランの心に不思議な感情が湧きあがった
 その感情は悲しみと後悔の色が濃かった。
 幼き頃の自分はなんと愚かだったのかと。
 父のこの言葉に対し自分はひねくれた解釈をしたからだ。ならば、弱い自分はどうしようもないじゃないか、と。
 最も大事なのはそこじゃない。重要なのは、「力を正しいことに使う」という部分だ。強弱の概念はあらゆるものに付きまとうだろうが、弱いなりにやれることはある。
 ああ、なんと自分は愚かだったのか。幼き頃に気付けていれば、自分の人生は大きく違ったものになっていたのでは無いか。
 しかし同時に奇妙でもある。幼き頃の自分がひねくれていたから、腐っていたから、自分はディーノやリリィと出会い、だからこそ今の自分がある。これが運命というものなのか。
 そして大事なのはこれからだ。自分には他の人には無い力がある。だから――
 その先の言葉は、自然と口から漏れた。

「俺はどうしたら、どうすべきなんだ? 何を『成す』べきなんだ?」

 弱肉強食、そのような変えられない自然の法を「摂理」と呼び、それに人間としてどう向き合うか、どのように考え実行するか、それを「義」と呼ぶ。
 この時、アランは真の武人の土俵に登ったのだ。
 ここに至るまでに何度くじけただろう、何度死線をくぐっただろう、何と遠い回り道であろうか。

「……」

 アランが漏らしたその問いにアンナは何も答えることが出来なかった。
 そしていつの間にかアランの手は、二人の動きは止まっていた。
 その事にようやく気付いたアランは、

「すまない。考えすぎた」

 そう言って、練習を再開した。
 そして今度はアランの方から尋ねた。
 最近何があったのかと。俺がいない間どうしていたのかと。

「……」

 しかしこれにもアンナは言葉を返さなかった。剣に思いを乗せなかった。
 だが、それはアンナの心の表層に強く現れていた。だからアランは覗き見るまでも無く、アンナ自身から感じ取ることが出来た。

「……え?」

 直後、アランは少し間の抜けた声を上げた。
 同時に手も再び止まった。
 それほどまでに信じ難いものだったからだ。
 だからアランは、思わずそれを声に出した。

「アンナがディーノに、負けた……?」

 さらに、ディーノはまだこの陣にいるという。
 どこに? あれほど探しても見つからなかったのに。

「あ……」

 直後、アンナが声を漏らした。
 その声には「そこに」という思いの後に、「兄様の後ろからゆっくりと近づいて来ている」という言葉が含まれていた。

「え?」

 そして、アランは少し間の抜けた声を漏らしながら振り返った。
 そこにはアンナが言うとおり、何かがいた。
 しかしあくまでも何かだ。アランにはそれがディーノだとは思えなかった。
 だが、直後、

「久しぶりだなアラン」

 その何かは、ディーノの声を放った。

「……え?」

 しかしアランは、その挨拶に間の抜けた声を返す事しか出来なかった。

(……なんだ、これは?!)

 アランには信じられなかった。

(これがディーノ?!)

 まるでそこだけ切り取られているような、黒いもやのような何か。アランにはそのようにしか感じ取れ無かった。
 波をぶつけても何も帰って来ない。吸収される。
 まるで暗黒。何もかも吸い込む虚無。
 これが本当に、ディーノ?
 しかしアンナはそう言っている。そう認識している。アンナの目にはあのディーノが映っている。周りにいる目が見える者達はみな同じだ。これをディーノだと言っている。
 何がディーノの身に起きたのだ。
 それをアランは脳波を使ってディーノの頭に直接尋ねた。
 しかしその波もやはり虚無に、暗黒に吸い込まれた。波が伝わったのかどうか、何も分からない。

(暗黒……)

 そして直後、アランが抱いた「暗黒」という印象に思うところがあったアンナは、その言葉を心の中で復唱した。
 確かに、言い得て妙だと思ったのだ。
 しかし、目が見えるアンナが今のディーノに対して最初に抱いた印象は別のものであった。
 それは「影」。
 比喩では無い。本当に、ディーノのところだけ日光があまり届いていないかのように、影が薄く差しているように見えるのだ。
 遠目には単純に日焼けしたかのように見える。
 しかしよく見ると違う。焼けたというよりは、暗くなっているように見えるのだ。
 一体、ディーノの身に何が起きているのか。
 それはアンナも知りたいことであった。
 だからアンナはディーノの言葉を待った。
 が、直後にディーノの口から飛び出した言葉はその答えでは無かった。

「……そうか。お前でも分からないか。良かった。自信がついたよ」

 そう言った後、ディーノはアランに対して背を向け、周囲を取り囲んでいる観客達の方へ歩き始めた。

「ディーノ……!」

 待ってくれ、話を聞かせてくれ、そんな思いを放ちながらアランは声を上げたが、ディーノは何の声も返さなかった。
 しかし代わりに、アランの頭の中にディーノの言葉が響いた。

「悪いが、まだ大した事は話せない。実はまだ俺にもはっきりとは分かってないんだ。なんとなく使えてるだけなんだ」と。
「!」

 これに、ディーノが声では無く脳波を返してきたことに、アランは驚いた。
 こちらからの波は吸い込んでしまうが、ちゃんと受け取っている上に、しかも返すことが出来る?!
 その事実に、やはりアランはディーノから話を聞こうと、引きとめようと口を開いた。
 しかしその口から音が出るよりも早く、別の者の声が場に響いた。

「せっかくの再会のところ悪いのだが、少しいいか?」

 声の主はクリスであった。

   ◆◆◆

 意外なことに、クリスの話はアランが見せた神秘についてでは無かった。

「お二人が練習している間にカルロ将軍の使いが命令を伝えに来た。アンナは至急城に戻ってくるように、とのことだ」
「ただの伝言では無く、命令、ですか?」

 その内容に、アンナが尋ね返すと。

「そうだ。大至急とのことだ」

 クリスは即答しながらアランの方に視線を移し、

「そしてアラン殿、『今回は』あなたも戻ったほうがいい」

 含みを持たせる言い回しで、そう言った。
 わざわざ『今回は』などという言葉を付けた理由を、アランは尋ねるまでも無く読み取っていた。
 それはある噂であった。
 カルロが突然前線から離れ、しかも戻ってこないのは、戦いで重症を負ったからだという噂。
 クリス自身は真実を知らない。あくまでもただの噂である。
 が、

「……」

 アランは何かをかみ締めるように歯に力を入れていた。
 アランは思い出していた。
 ラルフと共感した時に、彼の記憶の中に父の姿があったことを。
 その時は大変だったからそれ以上記憶を探る余裕が無かった。

「……」

 そんな言葉が浮かんだ瞬間、アランの心は沈んだ。
 いまの言葉を言い訳にするにはあまりに苦しいと、自分自身分かっていたからだ。
 本当は探ろうと思えば探れた。でもそうしなかった。
 どうしてかはもうはっきりとは思い出せない。もしかしたら、怖かったのかもしれない。
 自分の予想では、ラルフの心から感じ取れた勝気と自信から察するに――

「……」

 そこでアランは思考を切った。
 会って確かめよう、そう思ったからだ。

「兄様……?」

 そして、兄が何かを知っていることを察したアンナは尋ねるように声を出した。
 が、アランは、

「……」

 アンナに対しては何も答えず、

「わかった。俺もアンナと一緒に城へ戻るよ」

 と、クリスに対して少し遅い返事を返すだけに終わった。
 それを聞いたクリスは、

「そうか。なら早速出発しよう。二人はすぐに準備してくれ。私は外で馬を用意しておく」

 と言いながら、戦装束などの私物が詰まった麻袋を肩にかけた。
 その動作に、気付いたアランはそれを尋ねようとしたが、それよりも先にクリスが答えた。

「命令には私も来るようにとあった。将軍としての務めは一時お休みしていいらしい。……何の話かは分からないが、よほど大事な事のようだな」

 クリスが不安を煽ろうとしているわけでは無いことは分かっていたが、それでもアランの心はその言葉に少しざわついていた。

   ◆◆◆

 移動は早馬によるものでは無く、徒歩に合わせた馬車となった。
 アランとクラウスが話したからだ。妙な連中に尾行されていると。
 ならばと、クリスは防御が硬い馬車を用意した。
 護衛の兵士も多くついている。
 クラウスはその兵士達を率いるように、自ら外の警護についた。
 そしてアランは尾行の位置を馬車の中から探し出し、クラウスに伝えていた。
 馬車の中にいる人数は三人。アランとアンナ、そしてクリスだ。
 アンナが一緒にいるためか、緊張感はあまり無かった。
 だからクリスは、馬車の中でアランが見せた神秘について尋ねた。
 これにアランは快く、隠し事無しに答えた。
 そしてアンナに対してやったように、クリスとも練習を行った。
 馬車の中なので剣を振り回すことは出来なかったが、クリスに関してはそれでも問題は無かった。やはりアランが思った通り、クリスの感知能力の素質は本物であった。
 クリスが慣れてからはアンナを交えて三人で練習するようになった。三人で剣を抜き、刀身を鏡とするように、輝く剣に祈るように眼前に構えながら、感情をやり取りした。
 クリスの上達は速く、みるみるうちにアンナと差をつけ始めた。それに伴い感知の範囲も急速に広がっていった。尾行の位置に気付くほどに。
 その円はアランほどには大きくない。神楽を起こせるほどの強大な波も発生させられないように感じられた。
 しかしそれは「今はまだ」というだけのものに思えた。練習を積めばクリス将軍はきっと化ける。アランはそう思っていた。
 そして三人はそのまま練習を楽しみながら、目的地に着くのを待った。
 ゆえに緊張感は薄かった。
 それが問題であった。
 クラウスもだ。アンナと一緒に行動出来ていることに安心感を抱いている。
 アランとクラウスは致命的な間違いを犯している。ディーノを強引にでも連れてこなかったことだ。
 まだ誰も気付いていない。自分達を遥かに凌駕する怪物に狙われていることに。

   ◆◆◆

 三週間後――

 アランは久しぶりに父と再会した。

「……」

 しかし言葉は無かった。
 場はカルロの寝室。
 入室時の「失礼します」以降、誰も口を開いていない。
 片足を失い、力無く寝具に横たわるカルロを前に、何と声をかければいいのか誰も分からなかった。
 クレアと違いカルロの容態は良くなかった。その傷口は腐る危険性を孕んでいた。
 カルロは布団をかぶらず、その黄色い汁を垂らす痛々しい傷口を三人に晒していた。
「自分はこうなってしまった」という事をすぐに分からせるためだ。
 そしてこれを見た三人が言葉を失う可能性もカルロは予想していた。
 そもそも、慰めの言葉が欲しいわけでは無い。
 カルロは三人をここに呼んだ理由について口を開いた。

「見ての通りだ。だからお前達を呼んだ。今後について話すためにな」

 カルロは言葉を続けた。

「しばらくは前に出れぬ。なのでアンナ、お前が私の代わりをやれ」
「……」

 気持ちの整理がついていなかったゆえに、アンナはすぐに言葉を返すことが出来なかった。

「……」

 そして隣にいるアランも同じように口を閉じたままであった。
 しかしアランの沈黙は理由が異なっていた。
 アランは感じ取っていた。父がこの後どうするつもりなのかを。
 父は傷口を自ら焼くつもりであった。
 もう薬などうんざりするほど試した。しかし容態は悪くなるばかり。ならば我に残された手段はこれしかないだろう、という思いが父の心の奥底にあった。
 それで駄目ならば腐りかけている部分を切除してもう一度だ、と考えている。
 驚異的なのは、その激痛を伴うであろう行為に一切の躊躇が無いこと。
 父はやはり凄まじい、アランはそれを再認識していた。
 そしてはっきりした態度を示さないアンナに対し、カルロは口を開いた。

「何を躊躇う? いつかこの時が来るかもしれぬと、何度も忠告はしていただろう? 私はこの時のためにお前を鍛え上げた。そしてお前は私の期待を超えるほどに強くなった」

 この言葉に小さな嘘が含まれていることをアランとクリスは感じ取った。
「期待を超えるほどに」という部分だ。
 これはただの励ましの言葉。本当は少し危ういと思っている。
 だからカルロは、

「ただし、我を倒した者とは絶対に直接戦うな。徹底的に避けろ。奴は無視して奴の周囲を頻繁に攻め、引きずり回すのだ」

 新たな助言と忠告をアンナに与えることにした。
 そしてその助言に出てきた者が誰であるかをアンナは既に知っていた。兄の記憶に出てきたからだ。
 相性の差があるとはいえ、遠距離戦であのリーザを封殺した化け物。
 確かに、今の私ではあれには勝てない。
 そう素直に思ったアンナは、

「分かりました」

 と、同意を示した後、

「御父様の御役目、このアンナが引き継がせていただきます」

 躊躇いの無い言葉を返した。

   ◆◆◆

 その後、話はすぐに終わった。
 クリスから現在の状況と、彼が知る限りのこれまでの詳細な経過報告がされたくらいである。
 その話にカルロは即答せず、「続きは明日にする」と答えるだけに留めた。
 クリスの城を勢いだけでねじ伏せるほどの戦力が、リックが存在することに、カルロは頭を痛めたのだ。
 リックはもう教会側の人間では無い。しかしカルロはそれを知らない。
 そしてアランに対しては、生きて帰って来たことに対しての言葉が贈られるだけに終わった。
 これにアランも同じような言葉を返したが、それ以上は何も言わなかった。
 話すならば一対一で、そう思っていたからだ。

 そしてその時は予想外に早く訪れた。

 重症の身でありながらカルロは寝具から降り、松葉杖を片手に部屋を出た。
 そして城から出る頃には、片手に花束が握られていた。
 行き先は城の裏手にある一族の墓地であった。
 そこにある妻の墓前に、カルロは花束を添えた。

「……」

 妻に対しての言葉は特に無かった。
 カルロは自問自答していた。今後について。
 しかしどう考えても戦力が足りない。
 教会側でまた反乱が起きたという情報は届いていたが、カルロは確定では無い甘い未来に希望を抱くような男では無かった。教会が倒れたとしても、その後の権力者達が同じ態度で我々に迫るとすれば、状況は大して変わらないだろうとカルロは考えていた。
 そしてこの問答にカルロは少し追い詰められていた。
 こういう時、カルロはよくここに来ていた。
 妻の霊が助言を与えてくれるなどとはカルロは思っていない。
 これはカルロにとっての一つの儀式であった。自身が困難に立たされていることの再認識を行う、そのためのもので、それ以上のものでは無かった。
 だがそれでも、いつもならば妻に対して一つか二つの言葉がある。
 しかし今日は無い。なぜなら、

「……どうした、アラン?」

 アランが尾けてきていることに気付いていたからだ。
 といってもアランは隠れてはいなかった。距離を置いていたというだけだ。
 そして声をかけられたアランは足を前に出した。

「……」

 しかし歩み寄るだけで、問われた用件については即答しようとしなかった。
 聞きたいことは数多くあった。
 しかし、それらについては既にアランの中で答えが出来上がっていた。
 父からどんな返事をもらおうと、それは今の自分にとって一つの意見に過ぎないだろうと、そう思えるほどにその答えは強固なものだった。
 そしてそれらを口で説明するのは正直面倒だった。
 そう思ったアランは、

「父上、お聞きしたいことがたくさんありました」

 と、「過去形」で言いながら、父の手を握った。

「!?」

 瞬間、カルロはあの時のアンナと同じ顔を浮かべた。
 わざわざ手を握ったのは、「自分がこれをやっている」ということをはっきりと分からせるためだ。
 そしてカルロの脳内では映像が流れていた。
 それはアラン自身が感じ取った収容所の惨状から始まった。
 その後、映像はクラウスから知った、教会と反乱軍の戦いの記憶へ。
 そして映像の場面は戦いから貧民街へ。

(やめろ……!)

 直後、アランの脳内に父の拒絶の声が響いた。
 やはり鮮明には思い出したくないのだろう。
 しかしアランはこの声を無視した。

「……っ!」

 父の苦悶の感覚とともに「その場面」が映し出される。
 アランはそこで映像を停止し、口を開いた。

「父上、私は最初彼らのことを、教会と戦ったこの者達のことを『正義』だと思いました」

 これにカルロは怒りの感情を滲ませ、声を上げようとした。
 しかしそれよりも早くアランが言葉を続けた。

「しかし彼らの多くは貧民街で『悪』に転化しました」
「……」

 父が感情を沈めるのを確認してから、アランは再び口を開いた。

「今となっては真実は分かりませんが、彼らのほとんどはただ教会が憎かっただけで、高潔な人間では無かったのでしょう」

 そしてアランは母の墓に視線を向けながら、言葉を付け足した。

「……母は、彼らの『正義』であった『一面』だけを全てと思い込んでしまったのかもしれません」
「……」

 アランの言葉に対し、カルロは何の言葉も感情も返さなかった。
 今となっては真実は分からないからだ。
 そして正直なところ、今のアランにとって重要なことは別にあった。
 アランはそれを声に出した。

「父上、私はこの力を使ってやってみたいことがあります」

 それはなんだ、と、カルロが心の声で尋ねるよりも早く、アランは手を離し、共感を切った。
 そこから先は読まれたくないからだ。まだ早い。そう思う理由をアランは声に出した。

「ですが私にはまだ分からないことがあります。ゆえにおぼろげなのです。何を目指してこの力を使うべきなのかが、まだはっきりと定まっていないのです」

 その言葉にカルロは残念だと思ったが、それが顔に表れることは無かった。
 アランがすぐに言葉を続けたからだ。

「ただそれでも、一つはっきりしていることは――」

 そしてその言葉はカルロの内に湧いた残念という思いをひっくり返すに十分なものだった。

「父上、私はどんな形であれ、この国を今よりも善く、そして強くしたいと思っています」

 アランが悩んでいること、それは魔法使いと無能力者の関係をどうすべきか、であった。
 そしてそのことについて相談する相手はもう決まっていた。
 それはただの直感であった。しかし、これが正解であろうという確信がアランにはあった。

   ◆◆◆

 一方その頃――

 かつてアランが働いていた貧民街の鍛治屋にめずらしい客が訪れていた。
 それはアンナ。

「……」

 しかしアンナは店先に立ったまま中に入ることも、声をかけることも出来ずにいた。
 どのように振舞うのが正解なのか分からなかったからだ。
 よくいる魔法使いの貴族らしく、高圧的に立ち回ればいいのだろうか?
 いや、それは個人的に嫌だ。それにここは兄様がかつて働いていた職場。貧民相手であっても失礼な振る舞いをしてはいけない気がする。

「……」

 アンナはそんな決着のつかない問答を繰り返していたがゆえに動けなかった。
 しかし次の瞬間、救いの手がアンナのもとに伸びた。

「いらっしゃいませ」

 鍛冶場から出てきた一人の男が、軽快な声と共に丁寧な礼を見せた。
 その男は魔法使いとの商売のやり方、すなわち作法や言葉遣いを心得ていた。
 ゆえに男の口はよく回った。

「当鍛冶場は初めてで御座いますか? ご安心ください。私達は貴族の方ともよくお付き合いさせて頂いておりますゆえ。特に、カルロ様には御贔屓にしてもらっております」

 最後の部分はこの男にとって殺し文句であった。
 しかしアンナにはその効果は無かった。
 だが、アンナはカルロの名を耳にしたことでわずかな安心感を抱き、それを勇気に変えて声に出した。

「あの、ここに私の兄がよく来ていたはずなのですが……」

 言いながら、アンナは「しまった」と思った。
 これでは何を言いたいのかよく分からないからだ。
 しかし男は察した。

「アラン様の妹君ということは……まさか、貴女はアンナ様?!」

 この男はアランに対して「様」をつけたことなど無かったのだが、そこはさすが商売人と褒められるべきところであった。
 そして万が一にもそれを指摘されると困る男は、口調に表れない程度に焦りながら用件を尋ねた。

「それで、本日はどのようなご用件で? 何かお探しのものでも?」

 その質問を待っていたアンナは即座に答えた。

「剣を探していて……それで、兄が働いていたここになら、良いものがあるのではないかと思って」

 これに男は「なるほど」という意味を込めた頷きを返しながら、アンナを誘導するように手を鍛冶場の方に向けた。

「では中へどうぞ。炉に火が入ってるんで少し熱いですが」

 今は真冬。しかしそれでも鍛冶場が蒸し暑いことを、男の額に滲んだ汗が証明していた。
 だが、アンナは気にせず中に入った。
 その時、アンナはある人物とすれ違った。
 それはルイス。
 ルイスがここに来ること自体は珍しく無い。アランが働いていた間でも、包丁などの日用品を求めて店先のほうには何度も顔を見せている。
 しかし鍛冶場の中にまで入って来ることは別だ。
 ルイスはある鍛冶師と机を挟んで話し合っていた。
 アンナの視線は短い間だが、その机の上に釘付けになった。
 妙な絵が描かれた大きな紙が数枚乗せられている。
 それは何かの図面であった。
 その絵が何を意味しているのか分からなかったゆえに、アンナはすぐに興味を失った。

「……?」

 しかしアンナの意識は別のものにも引かれた。
 それはルイス自身。
 この男、何か変だ、とアンナは感じた。
 服の下に妙なものを身に着けているような感じがする。
 だがアンナの感知はまだ未熟であったがゆえに、具体的な造形までは分からなかった。
 そしてその興味の持続力もそれほど長くは続かなかった。
 ゆえに、

「奥です。こちらへどうぞ」

 直後に耳に入った男の声に、アンナは即座に従った。
 そして案内された場所には、大小様々な剣がずらりと並んでいた。

「これは……?」

 アンナが尋ねると、男は答えた。

「実は剣はあまり種類は作っていないんです。兵士達はみんな腰に差してはいますが、やっぱりあまり使われないみたいで。盾の方が圧倒的に数は多いんです。じゃあこれは何なのかっていうと、アラン様が打ったものです」

「全部?」というアンナの問いに男は「はい」と即答した。
 そしてアンナは並べられた剣を見渡すように眺めた。
 すると、

(あ、これは……)

 ある一本が目に止まった。

(お兄様が昔使っていたものとそっくり……)

 それは長剣であった。
 そしてそれがアンナが探していた理想に近いものであった。
 だからアンナはそれを手に取った。
 直後、男は少し困惑した様子で口を開いた。

「それ、で御座いますか?」

 その声色には「あなたにはそれは重過ぎる」という思いが込められていた。
 しかしアンナは断言した。

「ええ。これです。これを探していました。これをください」

 アンナは新たな力を求めていた。
 自分を打ち負かしたディーノに近づくために。
 そのためには自分も重いものを持つ必要があると、アンナは考えたのだ。

   ◆◆◆

 それからしばらくして、アランが教会に顔を見せた。
 しかし主人はまだ戻っていなかった。
 感知能力があるゆえにアランはそれを分かっていた。
 そして入り口を抜けたところにある広間には誰もいなかった。
 当たり前である。今日は休館日なのだ。
 しかし玄関に鍵はかかっていなかった。
 その理由もアランは感じ取っていた。
 それは警戒すべき気配であった。
 だが、アランは待つついでに話してみようと思った。

「……」
 アランが適当な椅子に腰を下ろしてその時を待っていると、それは通路の奥から姿を現した。

「……久しぶりだな、アラン」
「……」

 リックが放った簡単な挨拶にアランが沈黙を返すと、

「そう警戒するな。俺にはもうそんなつもりは無い」

 その言葉が本心からのものであることを感じ取ったアランは、口を開いた。

「どうしてここに?」

 アランの質問にリックは一瞬考える素振りを見せた後、答えた。

「それを聞きたいのはこっちも同じなんだが……いいだろう、俺から話そう」

 そう言いながらリックはアランの対面側に座り、口を開いた。

「あの後、教会が俺の息子を人質にしようとしてな。それで一戦交えた後、ここに逃げて来たというわけだ」

 非常に簡潔だが分かり易く、そして十分な言葉であった。
 しかしアランはその短い言葉の裏に隠された激戦を感じ取っていた。

(たったの三人で、軍を押し返した……?!)

 アランはその内容に驚き、それは沈黙という形で表れた。
 だからリックはアランにその口を開くように促した。

「俺の話はそれだけだ。……で、お前の方はどうして? どうやって捕虜の状態から脱出したんだ?」

 これにアランは同じように簡潔に答えた。
 収容所に運ばれたこと、そこで反乱に巻き込まれたこと、そしてリーザに助けられたことを。

「……」

 それを聞いたリックもまたアランと同じように沈黙を返した。
 収容所に連れて行かれたことを聞いた時は、リーザに対して激しい怒りを抱いた。
 しかし最後にアランを助けたのもリーザだという。
 なんとも奇妙な話であった。

「「……」」

 そして二人とも無言になった。
 それが重苦しく感じるほどになった直後、

「これはこれは、アラン様ではないですか」

 アランの後方、入り口から第三の声が響いた。

「え?」

 それにアランは妙な声を出しながら振り返った。
 声と気配が一致しなかったからだ。
 誰かが近づいてきていることには気付いていた。しかしそれがルイスだとは思っていなかった。
 しかし今の声は間違いなくルイスのもの。

(何だ、これは?!)

 そしてアランはアンナが感じた異常にもすぐに気付いた。
 服の下に、右腕に何かを身に着けている。
 アランの感知能力はそれが何であるかを即座に識別した。

(これは……武器?!)

 それは刃を内蔵した機械弓であった。
 恐ろしく精巧な作りであった。長い鍛治経験のある自分でも正確に複製出来るか怪しいほどの。
 驚異的なのはそれが傍目には目立たないほどに小型化されていること。

(いや、それよりも!)

 しかしアランにとってはそれよりも驚くべきことがあった。
 ルイスの考えていることが分からないのだ。
 かつて戦った時のリックに様子が似ている。脳がほとんど動いていない。

(これがルイス? まさか、この人は初めて会った時からこうだったのか?!)

 アランの心にそんな疑問が浮かんだ直後、

「ええ、そうですよ」

 と、ルイスの声が響いた。

「!」

 しかしそれは耳にでは無く、頭の中であった。
 ルイスはその反応を楽しみながら、アランの能力を品定めしていた。

(やはり魂はまだほとんど機能していないようだな。音で接近は察知出来ていたようだが、理性と本能を殺して脳波を抑えるだけでこちらの思考が読めなくなっている。この様子だと魂だけで体を動かすこともまだ出来ないはず。魂が活動するのは、肉体が死に近づいた時だけだろう)

 まだ未熟。それがルイスの第一印象であった。
 が、

(しかし思っていた通り、感知能力の強度自体は本物だな)

 その潜在能力の高さは疑う余地が無かった。
 そしてルイスは最後に「だからリリィに惹かれたんだろうな」と付け加えた。

 その通り、アランがリリィを好きになったのは偶然でも、気が合ったからでも、環境によるものでも無い。リリィがある特殊な性質を備えていたからだ。

 そしてルイスはアランの警戒を緩めるために、再び言葉を送った。

「右腕のこれについては御気になさらず。これはただの自衛用の装備。ここの治安は決して良いとは言えませんからね」

 アランの緊張は弱まらなかったが、ルイスはさらに言葉を続けた。

「しかしさすがですな。衣擦れから生じる小さな音の乱反射をここまで解析出来るとは。あなたが頭の中に描いたこれの設計図はかなり正確なものですよ」

 ルイスは素直にアランの能力の強さを賞賛したが、

「……!」

 再び頭の中に響いたその声に、アランはまた驚いただけであった。
 喋る瞬間だけ脳が活動したからだ。
 事前に喋る内容を考えている気配が全く無かった。
 一体どうやって今の言葉を紡いだのだ?! アランはその疑問をルイスの頭にぶつけたが、

「……」

 ルイスは即答しなかった。
 ルイスは少し悩んでいた。
 教えても自分が困ることは特に無さそうだと思った。
 だから、ルイスはそれを声に出そうと口を開こうとしたが、

「!」

 ルイスはその口を半分のところで止めてしまった。
 その膠着は一瞬のことで、ルイスはすぐに声を出したのだが、

「……アラン様、申し訳無い。急用を思い出しました。すぐに出かけなければいけません」

 これにアランは即答した。

「ではここで待っていますよ」

 しかしその返事にルイスは首を振った。

「いえ、遅くなる可能性が高いので、今日のところは城に御戻りを」

 その言葉に嘘は無かったのだが、

「……」

 アランは言葉を返すことも、首を縦に振ることもしなかった。
 アランが待つつもりであることを、先ほど見せた技術にアランが大きな興味を抱いたことを察したルイスは、

「分かりました。……ですが、帰りたくなったらいつでもどうぞ。鍵は気にしなくて結構ですよ。リック様がおられるので」

 そう言いながら入り口の方に振り返り、

「では失礼します」

 と、家主らしからぬ言葉を残して教会の門を出た。

   ◆◆◆

 教会を出たルイスが向かった場所は、前に蜘蛛と再会したところであった。
 そこは「ルイス達」がよく使う密会場であり、ルイスを呼び出した客は既にその場所で待っていた。

「久しぶりね。早速『調整』をお願いするわ」

 それはシャロンであった。
 彼女が放った第一声には必要なことだけ早く済ませたい、という事務的な感情しか含まれていなかった。
 ゆえにルイスは少しうんざりしながら挨拶を返した。

「……久しぶりだな。調子はそんなに悪いのか? あんなに五月蝿い虫を送ってくるなんて、君にしては珍しい」

 これにシャロンは正直に頷きを返し、口を開いた。

「……重要なところを、闘争心を大きくいじられたわ。しかもすぐには気付けないほど静かに、かつ速く」

 その答えにルイスは「それはまずいな」と返したが、双方の感情には大きな開きがあった。
 それを感じ取ったシャロンは少しイラつきながらも、

「だから今日はいつもよりもじっくりお願いするわ」

 と、彼女にしては比較的に丁寧に頼み込んだ。

「分かった。じゃあ見せてくれ」

 ルイスがそう言うと、シャロンはうなじを見せるようにその場に座りながら背を向けた。
 ルイスは彼女の背後に立ち後頭部を凝視するように、その頭を両手で挟み込むように掴んだ。

「……」

 そしてルイスは静かに目を閉じ、意識を集中させた。
 ルイスはシャロンの頭の中を見ていた。
 正確には脳と魂から発せられる波を、だ。
 自分から適当な波を送り込んで、どう反応するかも調べている。
 目星はついていた。
 静かで、かつ速かったということは、手段はかなり限られるからだ。
 事前にかなりの準備がされていたはず。
 そしてその準備は定期的な自己点検を回避していたということ。
 ならば、実行犯はある程度自由に動ける魂であるはずだ。
 理性と本能は神経網である。自由に動くことが出来ないため、点検から逃れることは出来ない。
 普段本能が管理している闘争心の神経回路とそれに繋がるものを魂を使って改変、または繋ぎ変えたのだろう。

 ここで理性と本能と魂の関係についての説明を補足しておこうと思う。混沌を語る上で重要な情報だからだ。
 先に述べられたように理性と本能は神経網である。信号は魔力と電気であり、それが脳波となる。それが魂との大きな違いである。魂も独自の波を出しており、アランはまだこれを検出していないだけである。
 そして魂はその神経網に影響を及ぼすことが出来る。が、破壊は難しい。かなり魂が消耗する。ただの虫では不可能に近い。
 だが神経網の代わりを務めることなら簡単だ。経路の作成、条件分岐の増加自体はそう難しく無いのである。これがシャロンに起きている問題と混沌を理解する上で重要である。
 魂によって行われる理性と本能の抹殺は破壊によるものである。感覚器官と運動器官、計算や記憶を司る器官との接続を全て切断しているのである。理性と本能からすれば、全ての機能と感覚が失われることになり、それは確かに死に近い。
 しかしこの破壊が実施されるのは一回目だけになることが多い。消耗が激しく、全ての接続を断とうとするとやはり手間と時間がかかるからだ。以降は神経回路の再生を待たず、接続を魂がずっと代替する場合がほとんどである。
 実はあの時のリーザの魂は参戦した時点でかなり消耗していたのである。そしてリーザの本能が述べた通り、再接続の前に改造が行われることも珍しく無い。魂が表に立つことは普通の人にとっては異常事態であり、そのようなことが二度と起きないように、より上手く立ち回れるように性格や考え方を変えるのである。
 つまり混沌とは、大量にある様々な部品を、状況に応じて魂で繋ぎ変えているだけなのである。
 このように詳細を見れば混沌は完璧、無敵には程遠いことがよく分かる。知っていれば弱点だらけであると言っても間違いでは無い。構造を知っているのであれば外部からの破壊も可能だ。接続は魂に頼っているのだから。魂は魂で直接攻撃出来る。
 ならばすなわち、一度天に至った人間は理性と本能にある共通の弱点を抱いていることも、察しの良い方は気付いたはずだ。接続の位置さえ知っていれば容易に攻撃出来る。利点と欠点は表裏一体であることが多い。

 話を元に戻そう。

 ルイスはすぐにそれらしいものを見つけた。
 本能の近くに大量の虫のような「部品」が転がっている。
 これだ、とルイスは思った。
 専用の虫を送り込んで解析させる。
 すると答えはすぐに明らかになった。

(やはりな)

 当たりであった。混沌の部品では無い。こいつらが実行犯だ。
 一つ一つの部品に意味は無いが、上手く繋げるとシャロンの闘争本能に問題を起こす厄介な組織と化す。
 点検時には闘争本能の回路から離れ、ばらばらになってやり過ごしていたのだろう。
 その仕組みの精巧さは芸術に見えたが、ルイスは淡々と攻撃用の虫を送り込み、それらを破壊した。

(とりあえず破壊は完了、と)

 しかしこれで問題が解決したわけでは無いことをルイスは分かっていた。
 同じ攻撃をされれば、また同じ問題が再発してしまうからだ。防御を強化しなくてはならない。
 それはつまり、シャロンを「改造」するということ。本人の性格に影響が出る可能性が高い。
 ルイスがそれを伺うよりも早く、分かっていたシャロンは答えた。

「構わないわ。ただし、戦闘に関わる部分は慎重にお願い。弱くなるようなことはしないで」

 これにルイスは、

「……」

 分かったと、即答することが出来なかった。
 難しいからだ。
 そもそも、問題の根源は「第四の存在が戦うことを嫌がっている」ことである。
 これを完全に解決しようと思ったら、第四の存在からの攻撃が二度と起きないようにしようとするならば、シャロンを「元の彼女」に戻すしか無い。
 それは出来ない。それに、元の彼女がどうであったか、元の神経回路がどうなっていたか、実はもう覚えていない。
 ならば今後も攻撃を受け続けるのが前提となる。
 対処法は一応ある。だが、それはこれまでにも「調整」としてやってきたことだ。
 ゆえにルイスは肯定の返事では無く、警告を口に出した。

「シャロン、これまでに何度も言ったが、この体は私がちゃんと『厳選』したものじゃない。都合の良い身分や立場であったから、電撃魔法の素質も備えていたから、ただそれだけで君が選んだものだ」

 これにシャロンは、

「……」

 ただ、沈黙を返した。
 そしてその無言に感情が無い事を感じ取ったルイスは言葉を続けた。

「この体は気質に関しては全く戦闘に向いていない。このような問題が起き、それが徐々に深刻化していくことも最初に言ったはずだ。……シャロン、正直に言おう。この体と君の関係は、もう限界に近い」

 ルイスのこの警告は本心からのものであった。

「……」

 しかしシャロンは先と同じ沈黙を返した。
 そしてしばらくしてシャロンは口を開いた。

「……別に構わないわ。あと一回戦えればそれでいい」

 独り言のように漏れたその言葉に、ルイスが「あと一回?」と理由を尋ね返すと、シャロンは答えた。
 次の仕事は派手なものになるかもしれないことを。
 その仕事でアランを始末するつもりであることを。
 そしてそれがこの体での最後の仕事になる可能性が高いことを、奴らの味方のフリを続けることが限界に近いことを、自身の推測とともに答えた。
 シャロンが述べたそれらの言葉にルイスは、

「……」

 全て沈黙を返した。
 ルイスは考えていた。
 そのアランはいま自分の教会にいる。
 アランがまだ生きているということは、シャロンはまだアランの正確な位置を掴んでいないということ。つまり、ここに来たばかりであるということ。
 ならば教えてあげようか、とルイスは一瞬思ったが、

「……」

 やめておくことにした。
 アランは自分と何か話したいことがあるらしいから、それを済ませてからでもいいだろう、と思った。
 それに正直なところ、シャロンが身を置いている戦いは自分にとってはどうでもいいことだ。
 はっきりいって、この「調整」も長い付き合いから生じる義理感だけでやっていること。
 そしてこの作業は徹夜になるかもしれない。
 面倒くさい。明日はつらそうだ。

「……ふう」

 直後、その思いがため息となってルイスの口から漏れた。
 ルイスはシャロンに対して心を開いていない。脳波を抑え、虫に心を読まれないように監視している。
 対するシャロンもルイスの心を読もうとはしていない。「調整」を受ける側であるゆえに、失礼にあたる恐れのある行為を避けているだけだが。
 それでもそのため息に込められている思いは分かった。
 だからシャロンは口を開いた。

「……面倒くさいのは分かるけど、ちゃんとやってよ?」

 これにルイスは「分かってる。信じろ」と、少し怪しい返事を返しながら意識を再びシャロンの頭の中に向けた。
 ため息を吐いたせいか、幾分か気が楽になっていた。
 それにあと一回だけでいいのであればどうにでもなる、という気持ちも湧き上がっていた。
 普段は以前よりも大人しく、しかし戦闘時の気質は以前通りに、そうなるように条件付けしてみよう。効果があるかどうかは正直知らないが、もしかしたら上手くごまかせるかもしれない。

「……」

 そう決めたルイスは、淡々と作業を進めた。
 その手つきは慣れたものであった。勝手知ったる我が家のように、シャロンの頭の中の構造を理解しているからだ。
 だから他のことを考える余裕があった。

(そういえば……)

 あの時、シャロンが放った虫は私のそばにいたアランを認識出来ていなかった。
 本当にシャロンは焦っていたのだろう。だから虫に余分な機能を持たせられなかったのだ。
 そしてあの虫は本当にうるさかった。「早く、速く」と叫び続けていた。

(まったく、都合の良い時に呼ばれる方の身にもなってほしいものだ)

 シャロンが私のように自分で調整出来ればこんな煩わしい思いをせずに済むのだが。
 ならば、教えてみるか?

(……いや、それはそれでかなり面倒だな)

 ルイスは自分がこの技術を習得するのにどれだけの時間を要したかをすぐに思い出した。
 同時に、懐かしい記憶も奥底から浮き上がってきた。
 それは苦い記憶でもあった。

「……」

 ゆえに、ルイスの手は止まった。
 それは一瞬であったが、何かあったのかと心配になったシャロンは口を開いた。

「どうしたの? 何か、私の頭の中でマズいことでもあった?」

 これにルイスは首を振って答えた。

「いいや、そうじゃない。ちょっと昔を思い出しただけだ」

 これに興味を抱いたシャロンは尋ねた。

「……昔? そういえば私、会う前のあなたのことをあまり知らないわ。良ければ話してくれない?」

 その言葉に引っかかるものがあったルイスは尋ね返した。

「あまり? あまりってどういうことだ?」

 シャロンに昔のことを話したことはほとんど無い。だが、まるでそれ以上知っているかのような口ぶりだ。
 自分の心を、記憶を盗み見たのだろうか、ルイスはそう思ったが、シャロンは少し違う答えを述べた。

「『あいつ』から聞いたのよ。少しだけね」

 その確認のために、寝ているルイスの記憶をこっそり覗いたことはあるのだが、それは黙っておくことにした。
 そしてルイスは『それ』が蜘蛛の化け物のことを指していることを、聞き返さずとも理解した。
 ゆえにルイスは、「ああ、あいつか」と、何かをあきらめたかのような言葉を漏らした。
 そういえば『あいつ』はどこにいるんだろうか。シャロンを探していたはずだが。
 ルイスがそう思った瞬間、

「呼んだかい?」

 と、『あいつ』の声が魂に響いた。
 これに二人は、

「「!?」」

 同時に同じ表情を浮かべた。
 近くにいたことに全く気が付かなかったからだ。
 そしてその声の発生源は――

((下?!))

 ゆえにシャロンとルイスは同時に下を向いた。
 すると『あいつ』は地面の中から染み出すように、這い出るように、二人の目の前に姿を表した。
 人の形を成しながら。
 そしてその人の形をしたものは、シャロンに向かって口を開いた。

「久しぶりだねシャロン」

 音は出ていないが、その声はやはりシャロンの魂に響いた。
 しかしシャロンは同じ挨拶では無く、質問を返した。

「……あなた、ずっと地面の中に隠れていたの?」

 これに蜘蛛は「そうだよ」と即答した。
 シャロンが「どうやって?」と質問を重ねると、蜘蛛は意外な答えを返した。

「単純で簡単だよ。地面のふりをしていただけさ」

 これに二人は一瞬、「?」というような表情を浮かべたが、すぐに自分なりの推測を導き出した。
 そして二人が出した答えはまったく同じであり、心の声は重なって場に響いた。

((地面のふりをする……それはつまり、地面と波長を合わせるということ?))

 無機物である土が魂の波長を発しているわけでは無い。反射は存在するが、蜘蛛の言葉が指しているものは別のものであることを二人は察していた。
 それは植物。
 しかしそれは目に映る緑色のことでは無い。
 あの「手」のような、魂の植物のことである。
 魂の世界における植物の分野もまた生者の世界と同じように多種多様である。人の形をしているゆえに「手」は目立つが、それに限らない。
 蜘蛛はそれらに擬態していたのだ。シャロン達の足元に広がる、生者からすれば歪な造形をしたそれらに。
 そして、その「擬態」こそが蜘蛛が最も得意とする技術であり、彼をこれまで生き長らえさせてきたものであった。

 蜘蛛が生み出す網、罠に獲物が引っかかってくれるのは、第一に獲物が愚かであるからであり、第二に蜘蛛の擬態が上手いからである。
 死神からすればただの大きな森、または山に見えるように擬態しているのだ。
 その森や山の中からは甘い香りもする。死んだばかりの、新鮮な人間の魂の気配がするのだ。そして中に迷い込めば二度と出ることは出来ない。

 そして二人がそこまで理解した直後、

((しかし……))

 二人は再び同時に気付いた。
 植物への擬態は、魂だけでやるにはかなり危険な行為なのではないか、と。
 魂が発する波というものは肉体で例えれば、筋肉の収縮や血の流れから発せられる活動音のようなものである。当然思考も含まれる。
 これを植物に合わせたということは、構造と意識を植物そのもの、またはかなり近いものにしたということ。
 構造はまだしも、意識を植物と同じにするという行為は問題があるように思える。
 重要なのは危機、危険管理をどうするかだ。
 外敵が擬態に気付いたらどうするのか。ただの植物の意識でそれを察知し、即座に対応することが出来るのか。肉体の無いこいつの場合、理性や本能には頼れない。
 考えるまでも無い。無理だ。
 ならば、何か機械的な条件付けがされていると考えられる。

(ん? 条件付け?)

 瞬間、ルイスは気付いた。
 そういえばさっきこいつは、自分とシャロンが話し始めた直後に、会話にこいつを指す単語が出てきた直後に姿を現したな、と。
 ルイスがそう考えた直後、蜘蛛が口を開いた。

「さすがルイス。それが正解の一つだよ」

 既に多くの方が気付いたであろう。
 二人に「混沌」を教えたのは蜘蛛である。蜘蛛は「混沌」の達人であり、その技術力には相当の開きが存在する。

 そして正確には単語では無く思考であったのだが、蜘蛛にとっては似たようなものであるため、指摘することはしなかった。
 さらに蜘蛛自身が言ったとおり、条件は一つでは無い。
 今の蜘蛛にその答えを話すつもりは無かった。
 なぜなら、蜘蛛は嬉しさを感じており、かつ興奮しているからだ。
 蜘蛛はその感情を声に変えた。

「この擬態は何度やっても慣れないよ。息苦しい、という感じかな。……この表現が適切かどうかは、もう忘れてしまったがね」

 そう言った後、蜘蛛は笑みの表情を形作りながら、「呼吸なんて、もうかなり永い間やっていないからね」と言葉を付け加えた。

(こいつ……)

 その様子からルイスは気付いた。
 二人を完璧に騙せたことがよほど嬉しかったのだと。
 だから聞いてもいないことをべらべらと喋っている。
 そしてそれが正解であるかのように蜘蛛の口は止まる気配を見せなかった。

「ああそれと、大事なことがあるんだよシャロン」

 突然話を振られたシャロンは声を返せず、再び「?」というような顔だけを返した。
 しかし蜘蛛はお構い無しに言葉を続けた。

「名前が出来たんだ。だからこれからは、僕のことを『あいつ』や『こいつ』などとは呼ばないで欲しい」

 これに興味を抱いたシャロンは口を開いた。

「へえ。なんて名前にしたの?」

 蜘蛛は得意気に即答した。

「『ナチャ』だよ」

 瞬間、

(こいつ……)

 ルイスは口を開きそうになった。
 せっかくつけてやった名前をもう勝手に変えたのか、と。

「……」

 しかしルイスは声を上げなかった。
 確かに、『アトラク=ナクァ』よりはそっちの方が良いと思ったからだ。
『ナクァ』の部分だけを残して、発音をより普通の名前らしく、かつ耳障り良く変えたのだろう。

(それで『ナチャ』、か。ふむ、悪くない)

 ルイスは本当にそう思ったゆえに、何も言わないことにした。
 そして直後、シャロンが口を開いた。

「『ナチャ』ねえ……悪くないと思うけど、その名前は自分で考えたの?」

 これに蜘蛛は首を振ってから答えた。

「いや、つけてもらったんだよ。ルイスにね」

 意外では無かったのか、シャロンはその答えに「へえ」と相槌を打った後、ルイスに向かって尋ねた。

「……聞いておきたいんだけど、なんで『ナチャ』なの?」

 好機が訪れた。自分がつけた名前とは違うものであると説明する良い機会が。
 しかし『アトラク=ナクァ』のことは、今やルイスにとってもどうでもいいことになっていた。
 だからルイスは、

「昔読んだある本に、こいつとそっくりな人物が描かれていてな。そいつの名前を拝借しただけだよ」

 と答えた。
 これにシャロンは、「こいつとそっくりな登場人物って、どんな設定よ」と思ったが、それは尋ねる気が起きなかった。長い話になりそうで嫌だったからだ。
 そしてルイスが『アトラク=ナクァ』のことをどうでもよくなっていたのは、別のことに意識を取られていたからだ。

(さすがに、死人としての生活が長いだけはあるな)

 ルイスは蜘蛛の技術力の高さに感心していた。

(ん、待てよ?)

 その瞬間、ルイスは気付いた。

(だったら、調整はこいつにやってもらえばいいじゃないか)

 そうだ、そうしよう、そうすべきだ、と思ったルイスは早速口を開いた。

「ナチャ、一つ頼みたいことがあるんだが」

 これに蜘蛛が「頼み事? なんだい?」と尋ね返すと、ルイスは答えた。

「悪いんだが、シャロンの調整を代わりにやってくれないか?」

 悪びれた様子は無くルイスはそう言った。
 が、蜘蛛は上機嫌であったゆえに、

「構わないさ。それくらいなら、お安い御用」

 と即答した。
 それを聞いたルイスが、

「そうか。じゃあ頼んだぞ」

 と、言いながらつま先を家の方に向けると、蜘蛛は「どこに行くんだい?」とその背に尋ねた。
 これにルイスは、

「帰って寝るんだよ。俺は普通の人間だからな」

 と、薄い笑みを浮かべながら答え、その足を進め始めた。
 そして歩き始めてすぐにルイスは、

(そういえば、アランが待っているかもしれないな)

 ということを思い出し、

(そしてそのアランを巡って派手な戦いが起きる可能性が高い、か)

 巻き込まれないように備えておいたほうがいいなと、その準備について思考を巡らせることで家路までの暇を潰すことにした。

   ◆◆◆

 その頃、アンナは城にある修練場で素振りをしていた。
 しかしその修練の前途は多難であるように見えた。

「……っ!」

 尻餅を着いた状態でアンナは歯を噛み締めていた。
 よく見ると、その衣服は砂塗れになっている。
 もう何度も転んだのだ。

(もう一度!)

 しかし今のアンナにあきらめるという言葉は無かった。
 アンナの脳裏にはディーノの姿がちらついていた。
 アンナはその影に突き動かされるように立ち上がり、「左手」にある長剣をあの時のアランと同じように背負うように構えた。
 そしてアンナはいつかのアランと同じように、ちらつく影を真似るように、

「ふッ!」

 歯を食いしばりながら長剣を左から右へ、地に水平に振り抜いた。
 アンナの肩の内部で、腕の中で星々が煌く。
 アンナは同じ技術を、教えられた技を使って長剣を振るっていた。
 その凄まじさはディーノの一撃に迫るほどに見えた。
 が、

「!」

 直後、アンナの姿勢は右に傾いた。
 止まれないのだ。振り抜いた長剣に体を引っ張られている。
 ゆえに、型は自然に回転切りに。
 だがその動きは非常に不自然。まるで停止寸前の独楽(コマ)のよう。
 踏みとどまるために力を込めている両足は剣に引きずられてしまっている。
 そして一回転半ほど回ったところで、アンナの体は力尽きた独楽と同じ結末を迎えた。
 衣服に新たな茶色が加わる。

「……っ」

 しかしアンナは表情を変えず立ち上がり、再び構えた。
 これでも最初よりはかなりマシになったからだ。
 初めの数回は手から剣がすっぽ抜けてしまっていたほどだ。
 そしてこれはアンナの剣の扱い方に問題があるからでは無い。
 鍛治屋の商売男が危惧していたことは正解であった。やはりこの剣はアンナには重過ぎる。
 言い換えればアンナが軽すぎる。足裏に生じる摩擦力よりも、剣先に向かって生じる遠心力のほうが大きくなっているのだ。
 剣速を落とすという選択肢は今のアンナには無い。
 だが、お手軽な別の解決方法は存在する。鎧を着るなりして自分を重くすればいいのだ。
 しかしアンナはそのことに気付いていない。
 アンナは自力だけで、技術だけでなんとかしたいと考えていた。
 そして両手を使わない理由は至極単純。
 刀を、優秀な魔法剣の媒体を手放すという選択肢もまた、今のアンナには無かった。
 今のアンナが描いている理想形、それは大小の獲物を組み合わせた二刀流であった。

二刀騎兵

 だからどうしても左手だけでこの長剣を扱いたい。
 そう思いながら、願いながら、

「疾ッ!」

 再び水平に一閃。
 しかしやはり体は回転した。
 が、

「!」

 今度は倒れなかった。堪えた。

「……っ」

 しかしその結果にアンナは唇を噛み締めた。
 アンナ自身分かっていた。これではまだ使い物にならないと。転ばなくなっただけだと。
「彼ら」には勝てない、通じないと。
 いつの間にか、アンナの脳裏に映っている男は一人ではなくなっていた。
 ディーノの隣にはリックが並んでいた。
 こんな大きな、単純な動きではこの二人には通じない。回転の終わり際の隙に反撃を差し込まれるはずだ。
 回転しては、背中を見せてはいけない。そしてすぐに切り返せなくては駄目だ。

(または……)

 直後、アンナは自然と右手を脇に刺している刀に伸ばしていた。
 生じる隙を別の何かで埋めなくてはならない。

「……」

 瞬間、アンナの思い描く理想像は少しその形を変えた。
 同時にリックの隣にさらに一人、アランが並んだ。
 兄のように刀を上手く使えれば、その理想に大きく近づく。

(今のままでは、二刀にしても兄には通じない)

 炎を使えば当然勝てる自信はある。
 しかしその自信は今のアンナにとっては慰みにならなかった。
 体術、剣術だけでも彼らと肩を並べたい、辿り着きたいとアンナは思っていた。

 しかしアンナはまだ知らない。
 そのアランにさらなる変化が訪れようとしていることを。さらに遠い存在になることを。

   ◆◆◆

 そしてそのアランはまだ教会でルイスの帰りを待っていた。
 結構な時間が経っている。が、アランの心は全く揺るいでいなかった。
 揺るぐどころか、その気持ちはますます強くなっていた。
 ルイスの存在が近くに迫っていることを、帰ってきていることを感じ取っているからだ。
 そしてしばらくして、待ち望んでいたその声が広間に響いた。

「お待たせしました、アラン様」

 まだ待っていたのですか、という言葉は出ない。アランがまだ待っていることをルイスも感じ取っていたからだ。
 そしてアランの意思の強さも理解している。
 ゆえに、時間に対しての言葉は無く、最初から本題に入った。

「それで、話とは?」

 これについてルイスはアランの心を読もうとはしなかった。
 アランの中に悩み、迷いがあるのを感じ取ったからだ。
 このような思考は読みにくく、疲れる。
 だからルイスはアランの思考がまとまるのを待った。
 そしてその時はすぐに訪れた。

「ルイス様は、今の魔法使いと無能力者の関係についてどう思われますか?」

 その言葉にルイスは、

「……!」

 僅かであるが動揺した。
 なぜなら、二度目だったからだ。
 過去にまったく同じ言葉を、ある者からぶつけられたことがあったからだ。
 そしてルイスは感じ取った。思わず読み取ってしまった。
 アランの脳裏に残酷な感覚が、収容所で感じ取ったものが横たわっているのを。

(凄まじいものを経験してきたのですね、アラン様)

 さらにルイスは察知した。
 アランが描いている理想像を。
 それは言葉にすれば、平穏な共存、協力であった。
「あの人」が思い描いていたものとは少し違うが、方向性は同じであった。
 だからルイスは思った。

(アラン様、あなたはやはり『母親似』なのですね)と。

 ルイスの望みは違う。
 されど話し合う価値はある。あの時のように。
 そしてアラン相手であれば口を使う必要は無い。もっと便利なものがある。
 そう思ったルイスは、アランにも分かるように自分を変えた。

「……!」

 直後、今度はアランのほうが少し動揺した。
 ルイスの思考が突然読めるようになったからだ。
 いや、思考が蘇ったと言うべきか。そう感じた。
 しかしそれよりもアランを動揺させたものは――

(これはまるで……灰?)

 ルイスの心が、まるで燃え尽きた何かの残りかすであるかのように感じられたからだ。
 そしてその感想にルイスは特に何かの感情を抱くようなことは無かった。
 ただ一つ、あることを思い出しただけであった。

(そういえば、私と初めて共感した時のシャロンも同じ印象を抱いていたな)と。

 同時に、ルイスは自虐的な薄い笑みを浮かべた。
 確かにその通りかもしれない、そう思ったからだ。
 そしてアランには私自身がそう思う理由を知ってもらおう、これは知ってもらうべきだ、そう思った。
 ゆえにルイスは、あの時のアランがアンナにしたように歩み寄り、手を繋いだ。

「!」

 瞬間、アランの顔に驚きの表情が浮かんだ。
 同時に少し混乱した。
 頭の中に映像が流れ始めたからだ。
 それが何なのか、アランはすぐに理解した。

(ルイス殿の記憶……?)

 それはルイスの記憶であった。脳の記憶を格納している部分が輝き、そして共感をもって自分に伝えられていることをアランは感じ取った。
 そして流れ込むそれらは全て、

(戦いの記憶……?)

 であった。
 脳裏に流れる映像の中で、時にルイスは一人の戦士として戦い、時に指導者として戦っていた。
 が、そのほとんどが、

(負けている……)

 ルイスにとって悲しい結末を迎えていた。
 そしてアランは察した。
 ルイスが望む未来は何なのかを。
 それは、

(この人は、魔法使いと無能力者の関係を、)

「逆転」させる。それがルイスの願いであった。
 そう願うようになった理由、それは至極ありふれたものである。「強弱」の関係を「残酷」な形で示されただけだ。
 しかしその思いはかつての熱さを、熱を失ってしまっている。
 昔は積極的に活動していた。心は沸騰するように熱かった。
 しかしその熱は高すぎたのかもしれない。
 ある日、底が見えたのを感じた。
 それはまるで、焦げ付いた鍋の底のようであった。
 沸騰させるものが無くなったルイスの心はその熱を急速に失った。
 だが、ルイスはまだあきらめていない。
 底に焦げ付いたその何かは、まだ淡く、薄赤く光っている。
 だからルイスは無能力者の体を使っているのだ。
 強い魔法使いの体を手に入れて権力者でも目指せば、少し違う形でも望みを叶えられるかもしれない、そんな考えを抱いたことは数え切れないほどある。
 しかし出来なかった。ただ意地を張っているだけ、そう分かっていてもだ。
 されどルイスはその厄介な意地を愛している。
 自分の願いは同じ無能で成さなければ意味が無い、そう信じている。
 ゆえにルイスは強力な「武器」を求めている。
「武器」は魔法使いにでも使える。しかし最大値に対して平均値が高くなれば、それは戦力の差が縮められるということであり、差が少なければ後は戦術で補うことが出来る。今の戦力差は戦術だけで補うには大きすぎる。
 それら武器に関する記憶も戦いの記憶とともに多少流れ込んできたが、アランは別の事に意識を捕らわれた。
 アランはその灰のような心を見つめてようやく気付いた。

(なぜ、この人は……)

 こんな古い記憶を持っているのかということを。
 流れる記憶の中に、明らかに古い時代のものが混ざっている。
 共感を使って先祖から記憶を受け継いできたのだろうか、アランはそう思った。
 常識的な考えである。しかし不正解である。
 その間違いをルイスは、

「……」

 指摘し、教えようとはしなかった。
 今はそれよりも話し合うべき事があるからだ。
 だからルイスはまず、

「その通りですよ、アラン様。私は魔法使いという存在を憎んでいます」

「逆転」を望んでいるのか、というアランの読みを肯定した。
 対し、アランはその言葉に足りないものがあることを、ルイスの思いを正確に表現したものでは無いことを察した。
 ルイスはそれも肯定し、そのために言葉を重ねた。

「仰るとおり、私は全ての魔法使いを憎んでいるわけではありません。あなたの御父上殿と今は亡き御母上様に対しては尊敬の念すら抱いております」

 その言葉を聞いた瞬間、アランは気付いた。
 結局、二人とも根本的な部分では同じものを見ているのではないかと。
 ルイスはそれも肯定し、言葉にした。

「そうです。正確には、私は悪い魔法使いを憎んでいるだけです」

 そうだ。ルイスも「悪」を憎んでいるだけなのだ。「強い邪悪」、それほど厄介なものは無い。
 しかし目指すものは違う。
 ルイスは過去から生まれる怒りが強すぎるのだ。残酷な記憶が多すぎるのだ。
 それはたまたま、ルイスが悪い魔法使いとぶつかる機会が多かっただけだと言えるかもしれない。
 そしてその中には悪くない魔法使いもいて、利害の不一致などで衝突しただけなのかもしれない。
 しかしそう分かっていても、私はこの底に染み付いた焦げを、灰を取り除くことが出来ないのです、ルイスはアランにそう答えた。
 その上で、ルイスは言葉を続けた。

「さて、アラン様」

 瞬間、ルイスは表情を変えた。
 その顔はアランが見たことが無いものであった。
 普段のものとは全く違う。
 重い。
 甘ったれた回答は許さない、そんな気迫じみたものを感じさせる表情。
 もしかしたら、ルイス殿の本当の顔はこれなのかもしれない。
 アランがそんなことを思った直後、ルイスは言葉を続けた。

「アラン様はどうすべきだと考えておられますか? この街を、いえ、この国をどうすべきだとお考えですか?」
「……」

 アランは即答しなかった。
 アランは考えていた。
 収容所では「善い法」が必要だと思った。
 しかしこれだけでは駄目なことは、もう分かっている。
「法」は人によって生み出されるものだ。ならば、権力を手にした「邪悪な王」が誕生すれば、「悪い法」が出来上がることになる。
 結局、人間が変わらなければならない。
 しかしどのように変えるべきなのか。
 そしてその変化を円滑にするためには何が、維持するにはどのような制度が必要なのか。

(……それは)

 それはおぼろげに出来ていた。
 そしてそれはすぐにある形を取った。
 一つでは無かった。クラウスとクリス、そして父の姿が出来上がった。
 三人とも、それぞれ違いがある。
 しかし似ているところもある。
 それを、自分が知る言葉に当てはめるならば――
 その言葉はすぐに浮かび上がった。
 アランはその言葉を、人はどのように変わるべきなのか、どうあるべきなのかを声に出した。

「ルイス殿、私は――」

 この時、アランが何を言ったのか、それは最後に明らかになる。


   ◆◆◆

 その後――

「……」

 ルイスは一人、広間に残っていた。
 アランはしばらく前に帰った。
 そして窓からは薄明るい光が差し込み始めている。
 結局徹夜してしまった。
 しかし疲れを感じないほどにルイスの意識は冴えていた。
 アランとの会話を何度も思い返している。
 そして思う。

(彼は似ている)

 と。
 母親のことでは無い。
 いま比べているのは、もっと古い存在だ。

(思えば『彼』も――)

 ルイスは思い出していた。
 思えば彼も若い頃は無能であったと。
 アランは無能というわけでは無いが、魔法使いとしては貧弱すぎる。
 しかしそれゆえにか、無能と魔法使い、双方の苦悩やしがらみをよく知ることが出来たのだろう。
 彼はそれを嘆き、立ち向かい、そして成した。
 あの時代は良かった。
 自分が望んでいるものとは違うが、穏やかであったことは断言出来る。
 アランが目指しているものは、あの時代に似ている。
 考えれば考えるほどに思う。二人は本当に、本当に、

(よく似ている)

 と。
 だが、完全に同じというわけでは無い。
 まず、使える駒が違う。手持ちの武器が違う。
 カルロの息子であるという立場はその一つだが、それよりも、なによりも、強力なカードをアランは持っている。
 アランはそれを使うつもりだ。
 そしてその機会をアランは待っている。
 それは本当に強力な手札だ。
 もしかしたら、彼は本当に成し遂げるかもしれない。

「……」

 だからルイスは悩んでいる。
 アランと組むかどうかを。彼の母と協力したように。

(しかしこのままだと――)

 そして同時に気付く。
 彼の人生において、最大であろう試練が目の前に訪れていることを。
 今のままではかなり高い確率で、いや、確実に近い確率でアランは死ぬ。
 組むとすれば何か手を打たねばならない。

(だが、それは、)

 シャロンを敵に回しかねない行為だ。
 あれが敵になるのは正直恐ろしい。
 ならば、自分の存在が、介入がバレないようにやらなければならない。

(今からでもアランを鍛えるか? いや、)

 それはマズい。
 技術と直結している近い記憶を読まれるだけで自分の存在が明らかになってしまう。 アランと直接関われば関わるほどバレやすくなる。
 隠す技術を同時に学ばせることは可能だろう。しかし時間の少なさから考えて、ただの付け焼刃になる可能性が高い。
 ならば、

(自分では無い、自分に繋がることの無い誰かに助けてもらえば――「ルイス」

 その時、突如頭の中に響いた声にルイスは振り返った。
 するとそこにはナチャが立っていた。
 瞬間、ルイスはひらめいた。
 いるじゃないか。自分に繋がる可能性が低く、そして強い存在が。シャロンとすら張り合える可能性の高い存在が。
 当然、それは目の前にいる化け物のことでは無い。
 ルイスはすぐにそれを声に出した。

「ちょうど良い時に来てくれたな。また頼みがある。聞いてくれるか?」

   ◆◆◆

 眠れぬルイスに対し、当のアランはベッドの中に入っていた。

「……」

 アランは夢を見ていた。
 その舞台は、アランが目指す理想をそのまま描いたかのような世界であった。
 無能力者と魔法使いが穏やかに暮らしている。
 アランは仲間達と共に、その甘い世界を眺めていた。

「……」

 特に話すことは無かった。見ているだけで満足だった。
 のだが、

「素晴らしいですね。ですが、」

 直後、隣にいたクラウスが声を上げた。

「これは所詮一時のもの、砂の城かもしれませぬな」

 これにアランが「なぜ?」と尋ねると、クラウスの形を取っている何かは答えた。

「また悪い奴が滅茶苦茶にしてしまうかもしれません」

 これにアランは反論した。簡単にそうならないようにこうするつもりだと。
 しかしその答えにクラウスの形をした何かは表情を変えず、再び口を開いた。

「そうですね。ですがアラン様、摂理というものは意外なところから平和というものに亀裂を入れてくるのです」

 それは何だ、とアランが尋ねると、何かは答えた。
 人間の社会に深く関わっている摂理は、強弱関係だけでは無いと。
 全てが有限である、食べなければ生きていけない、このような自然のルールはどこにでも付き纏ってくると。
 平和は死を遠ざけ、人口を増やし、生産と消費を増やす。
 しかしその中には必要では無いものも含まれる。人の欲がそうさせる。平和から生ずる退屈がそれを掻き立てる。
 悪人もすぐにそこに気付く。そして必ずその隙に付け入ってくる。
 隙の無い強さを備えるのは、本当に難しいことである。
 何かはそう言った上で、次のような言葉で締めくくった。

「所詮、平和というものは次の戦いまでの準備期間に過ぎないのかもしれませぬ」と。

 その言葉が響き渡った直後、夢の世界は一変した。
 そして新たに広がった舞台、それは戦場であった。
 何かはその過酷で苛烈な舞台に向かって声を響かせた。

「欲に振り回され、準備を怠ったものは……」

 何かはそこで言葉を止めた。
 言う必要が無かった。
 そして、アランはこれに対しても自分の意見を述べようとした。
 が、その瞬間、

「自分の体とばかり話していないで、僕とも話してみないかい?」

 聞いたことの無い声が、夢の中に響いた。

   ◆◆◆

「あいつ……」

 直後、教会にいるルイスが声を漏らした。
 ナチャがアランと接触したのを虫で察知したのだ。
 ナチャの返事は快諾では無かった。「考えておく」というはっきりしないものであった。
 しかし言われた通りにやるつもりであることをルイスは感じ取っていた。
 なのに曖昧な返事をした理由、それに気付いたルイスはそれを言葉にした。

「使い走りに行く前に、品定めをするつもりだな……?」

 ナチャには収集癖があった。魂を集めることを趣味にしているのだ。
 しかし魂ならば何でもいいわけでは無い。価値に上下が存在する。
 普通では無い人生を歩んだものは価値が高くなる傾向にある。
 しかしその価値観は、判断基準はやはり曖昧だ。
 だから観察する。記憶を覗く。時に話しかける。
 それはどういうことか。ルイスはそれも言葉にした。

「アランはこれからあいつに付きまとわれることになるかもな」

 人はいつか死ぬ。ナチャはそれを待つ。
 一生監視されるようなものだ。
 はっきりいって非常にうっとうしい。苦痛と言えるほどに。
『自分もそうだったから』よく分かる。

「……」

 それを思い出したルイスは表情を重いものに変えながら、二人のやり取りに意識を研ぎ澄ませた。

   ◆◆◆

「……!」

 直後、突如始まった激しい頭痛に、アランは呻いた。

「……っ!」

 しかし声は出ない。
 痛みとともに夢の世界は崩壊。今あるのは暗黒のみ。
 意識は既に覚醒している。が、体は動かない。
 そんなことをする余裕は無かった。アランの脳は起きている異常事態に対処することで精一杯であった。
 何かを植え付けられている。
 しかし何かはよく分からない。
 ただ、排除するだけで精一杯だった。
 痛みを伴うその行為を早く終わってくれと願いながら繰り返していると、再びあの声が響いた。

「これは話しやすくするための道具だよ。心配しないで」

 植え付けられた何かから響いてくる。
 当然、そんな言葉が信じられるわけは無かった。
 だからアランは抵抗し続けた。
 するとしばらくして痛みは止まった。
 同時に、再び声が響いた。

「しょうがないな。じゃあ、これならどうだい?」

 直後、

「!?」

 アランの体は奇妙な浮遊感に包まれた。

(引っ張り上げられている?!)

 アランはそう思った。
 しかし何が引っ張られているのかは分からなかった。
 だが、理解者であるアランの魂と、第四の存在は既に抵抗を始めていた。
 しかしこの綱引きはナチャの方に分があった。
 しばらくして、アランは何かを抜き取られたような感覚を覚えた。
 その感覚が喪失感に変わった瞬間、

「!?」

 アランの視点は突如上に移動した。
 ベッドに横たわる自分を見下ろしている。
 体の感覚は無い。動かせない。
 しかしまだ繋がっている、そう感じる。
 奇妙なのは、そこに自分の体があるのが分かるのに、色が無いこと。形もぼやけている。
 それは今のアランの魂に光の情報を画像へ変換する機能が無いからであったが、今のアランには分からなかった。
 ゆえにアランの心に湧いたのは不安。暗闇に対しての恐怖。
 その不安の中で気付く。まだ綱引きは続いていると。自分の体は最後の抵抗を続けていると。
 しかしその抵抗は直後に崩れた。

「!」

 さらに上に引き上げられる。
 屋根をすり抜けるような感覚の後、アランの前に懐かしい光景が広がった。

アランが見た世界

「ここは……」

 戦いの中で何度も見た不思議な世界。今度は色がある。
 見た目は貧民街の外れにある広場。
 ディーノとの特訓で使っていた場所だ。
 しかし少し違う。
 綺麗な草花がやけに多い。
 春であっても、これほどでは無かったはずだ。
 しかしそれに対して疑問も驚きも無い。ここがどういう場所なのかはもう察しがついている。
 ならば、あの人もいるはずだ。
 その予想はやはり的中していた。
 斜め後ろに彼女は立っていた。

「ソフィア様」

 アランはその名を呼んだ。

「……」

 が、ソフィアは返事をしなかった。
 何かにひどく怯えているようであった。
 一体何に――そう思った瞬間、

「青空に、山に、広がる草花……生者はみんな似たようなイメージを映すね」

 ソフィアの視線を追うと、そこには見知らぬ者が立っていた。
 先ほどまでは誰もいなかったはずだ。
 その何かは、ナチャはアランに対して目を合わせながら、再び口を開いた。

「失礼かもしれないが、勝手に共感させてもらっているよ」

 ナチャは周囲を見回しながら勝手に言葉を続けた。

「青空と山は合ってるが、これは草花じゃない」

 じゃあ何だ、とアランが尋ねると、何かは答えた。

「海面に浮かぶ海草、藻、クラゲ……君達の言葉で表現するならば、そんな感じかな」

「何を言っているのか分からない」と、アランが尋ねるまでも無く、何かは答えた。

「足元に広がっているこれは地面じゃない。僕に言わせれば海だ。だから何も工夫しなくても、ここまでは簡単に浮き上がれる。引っ張り上げられる。
 だけど君達はこれが海のようなものだとはすぐには気付かない。何なのかが分からない。それでも、そこに何かがあるということを認識する必要がある。だから自分達が知っているものに勝手に置き換えるのさ」

 これが海? アランがそんなことを考えながら視線を下に向けると、ナチャは頷きながら口を開いた。

「そうだよ。君の認識は、君が今見ているものはまったく正確じゃない。それは君の魂が勝手に当てはめたイメージだ」

 本当はもっとおぞましいものだ。ナチャはそう思っているが、それは言葉にはしなかった。今はどうでもいいことだからだ。
 そしてそれはアランにとっても同じだった。
 もっと重要な、聞きたいことが、知りたいことがあった。
 アランはそれを声に出した。

「魂?」

 聞きながらも、アランはなんとなく分かっていた。
 この場所に何度も訪れているからだ。
 最初は夢のようなものだと思っていた。
 しかし今はそうじゃない。
 そして知りたい。今の自分はどんな存在なのかを。
 そんな思いを内包した一言に、ナチャは意外な答えを返した。

「……君はここに登ったのはこれが初めてでは無いんだね。ここがどんな場所なのか、一回で理解する生者も多いんだけど、魂に人格が無い君の場合は無理かな。だからここでも理性と本能の人格を使って話している。魂を交えて三人で話したことなんてないだろう?」

 これにアランは「?」という、少し間の抜けた表情を返すことしか出来なかった。
 そしてアランがすぐには理解出来ないことをナチャは予想出来ていた。
 だからナチャはすぐに言葉を付け加えた。

「今の君がどういう状態なのかというと……」

 そしてその口から紡がれた内容は、既にサイラスすら知っているような基本的なことから始まった。
 人間の中には理性と本能と魂があり、それぞれが体を操縦する権利を有していると。
 理性が前に立ち、本能がそれを影から補佐する、それが基本であると。
 しかし魂との関係は人によって異なると。

「魂が人格を持ち、三つが話し合って協力している者もいる。理性と本能を盾にしている魂もある。でも君はそのどちらでも無い。さっきも言ったけど、君の魂に人格は無い。そしてそれは『この国では』珍しいことでは、特別なことでは無いよ」

 その言葉にアランは質問を返した。
『この国では』、ということは地域によって特色や偏りがあるのか、と。
 これにナチャは頷きを返し、口を開いた。
 そしてナチャの口から出た言葉、それは魂と人類の関係の歴史であった。

 気が遠くなるほどの古い時代において、人類は魂の奴隷であった。
 当時のヒトの体は弱く、魂にされるがままであった。
 ゆえに先祖、死者との関係は今では考えられないほどに近しいものであった。当時に出来た先祖を敬うという風習は現在でも残っている。
 しかし時を経て人類は強くなった。死神など無視出来るほどに。
 だがその過程は、歩んだ道はみな同じでは無かった。先に述べたように。

 ナチャはその古き時代を懐かしみながら口を開いた。

「当時は良かったよ。少なくとも退屈はしなかった。僕のような存在がもっとたくさんいて、賑やかだったからね」

 その「良かった」とは、穏やかであったという意味では無かった。
 適度な緊張感があったという意味だ。
 既に述べた通り、死者の世界でも摂理が、弱肉強食の関係がある。そして当時の死者の戦いは今よりもはるかに激しいものであった。
 ナチャのような強力な存在は今よりも多く、それらは人類と同じように利害の不一致などでぶつかりあっていた。
 気取った言い回しをすれば、それは「神々の戦い」であったと言える。
 しかし今のナチャにそれを話すつもりは無かった。
 そして、ナチャの話は今のアランにとって重要な部分に入った。

「そうしてヒトと魂の関係は逆転した。最近では、ヒトは魂を『道具』として使うようになった」

 ナチャの言う「最近」とは百年単位であるが、その感覚の差は今はどうでもいいことであった。
 そしてナチャは喋りながら、手の平からあるものを出した。
 それは今のアランには、

(天道虫……?)

 に見えた。
 その赤い太陽のような虫はふわりと飛び上がり、アランの前で止まった。
 アランは無意識に、上に向けた手の平をその天道虫に向かって差し出した。
 すると、天道虫はそれを待っていたかのように――

(いや、これはまるで――)

 その時、アランは気付いた。
 まるで天道虫にそうしろと、着陸するための足場を用意して欲しいと頼まれたような、そんな気がした。
 そして天道虫が手の平に降り立った瞬間、

「!」

「それで正解だ」というナチャの声が響いた。
 その「正解」という言葉が、これを「虫」と表現したことに対してのものなのか、どちらなのかアランには分からなかったが、

(こんな事が出来るのか!?)

 そんな事は今はどうでもいいと思えるほどに、アランの驚きは強かった。
 だが、対するナチャはアランの興奮など、アランの興味などどうでもいいかのように、口を開いた。

「さて、説明はこれくらいでいいだろう? そろそろ、君と『一対一で』じっくりと話がしたいな」

 言いながら、ナチャはソフィアの方に視線を移し、

「君はもう帰っていいよ」

 そう「命令」した。
 すると、ソフィアはナチャに対して一礼した後、「海」の中に潜った。
 これにアランが「知り合いなのか?」と尋ねるよりも早く、ナチャは答えた。

「ああ。『誘拐された子供』の話を聞きたくてね。一緒にその子の様子も見に行ったりしたんだ。でも、特に興味を引くものは無かったから帰ってきたんだ。その時の彼女がすごくうるさくてね。うんざりしたから、拾った場所で手放したんだよ。しかしまさか、その彼女が君のところに居候しているとはね。これも何かの縁と言えるのかな?」
「……!」

 その言葉を聞いたアランは警戒心を強めた。
 同時に、心の底からふつふつと、何かがこみ上げてきた。
 そして分かった。
 こいつは決して自分にとって善たる存在では無いと。
 恐らく、こいつは自身の興味、または欲望を満たすためだけに行動しているのだと。
 ならば、自分をここに引っ張り上げた理由は――

(こいつは、危険……!)

 直後、アランは身構えた。
 が、

「……」

 その構えにナチャは警戒心を表さなかった。
 意味が無いからだ。
 今のアランに抵抗する手段は無い。
 しかし面倒なことになったな、とナチャは思っていた。
 もう素直に話し合ってはくれないだろう。
 だからナチャは手っ取り早い手段で済ませることにした。

「ここに君を呼んだ理由は君の想像通りだよ。……君の死に目に確実に会えるとは限らないからね。今の君を一応もらっておくよ」

 直後、ナチャは動いた。
 と言うよりも、変わった。
 ヒトの形から雲へ、そして洪水へ。

「!」

 その変化にアランは声を上げることすら出来なかった。
 何も出来なかった。ただ、飲み込まれた。

 その後、アランの魂は子供がおもちゃを弄る様に、分解され、調べられた。
 そしてアランの魂は死んだ。
 だが、その時既に、アランの肉体では新たな魂が第四の存在によって作り出されつつあった。

「こんなことをするやつが、あんな化け物がいるなんて!」
「生きているやつにも同じようなことをするやつが、出来るやつがきっといるだろう」
「俺もそう思う」
「今のままでは駄目だ。強くならなくては。作り変えなくては」

 怯えるソフィアの横で、アランは生まれ変わろうとしていた。
 前よりもただ強く、そんな思いを込められながら。

 これも一つの進化と言えるのかもしれない。

   ◆◆◆


   ◆◆◆

 一方、ルイスはアランの魂が予想通りの結末を迎えたのを感じ取った後、行動を開始した。

「……」

 しかし本人は動いていない。
 動いているのは別のものだ。
 しばらくして、その内の一つがルイスの前に姿を現した。
 それはリックであった。

「おはようございます、ルイス殿」

 リックは軽い会釈と共に朝の挨拶を述べた後、ルイスの前を通り過ぎていった。
 歩むリックの爪先が示すもの、それは裏口であり、その先にある裏庭であった。

「……」

 ルイスはその背中に何の言葉も投げかけなかった。

(……良し)

 が、ルイスは内心でほくそ笑んでいた。

   ◆◆◆

 その後、リックはルイスが「仕向けた通りの」ことを始めた。
 基本動作から、仮想敵を想定した一連の型などの体術訓練である。
 そしてルイスは基礎が一通り終わったところで、顔を見せた。

「あ、申し訳ない。勝手に裏庭を使ってしまって」

 リックが放ったその予想通りの言葉に対し、ルイスは首を振りながら口を開いた。

「いえ、構いませんよ。興味があるのでそのまま続けてください」

 その返事にリックは「ではお言葉に甘えて」と、訓練を再開した。
 これは嘘であった。
 ルイスはリックの一人訓練に対して興味など微塵も抱いていなかった。
 ルイスが期待しているのはその先。

「……」

 ルイスはそれを待った。
 するとしばらくして、リックの動きが止まった。
 同時に、ルイスはリックの意識が自分の方に向いているのを感じた。
 しかしその口からルイスが期待している言葉が放たれる気配は無かった。
 迷っているようであった。
 これにルイスは内心で舌を打った。

(……本能が行動の決定権を強く握っている性質(たち)か)

 ルイスはリックのある感情を汚染していた。
 それは本能の管理下にあるもの。
 本能は気付いたのかもしれない。自分の感情に異常が起きていることに。
 しかし迷っているということは、その疑念は強固なものでは無いということ。
 だからルイスは勝負に出た。
 汚染の強度を上げる。
 裏目に出れば、抵抗され始めたらあきらめるしか無い。
 しかしルイスは今やるべきだという確信を持っていた。
 そしてその汚染に対し、リックの心の天秤は、

「……」

 一時水平を保ったが、その拮抗は一分もしないうちに、

「……ルイス殿」

 大きく傾いた。
 同時にその口から紡がれた言葉は、

「一人では味気無いので、練習に付き合っていただけませんか?」

 ルイスが期待していたものであった。
 これならば、向こうから申し出たこの形にすれば、シャロンであっても疑われる可能性は低い。
 アランに対しても同じ手が使えればいいのだが。しかし残念なことに、アランが自発的に自分に訓練を申し込む動機に至るものが無い。
 今リックに対して行っている好奇心や興味などの感覚汚染をアランに仕掛け、それが成功したとしても、アランは自分に剣の訓練など申し込まないだろう。同じ剣を使う、より親しい人間に声を掛けるはずだ。
 感知の訓練であれば自分に声を掛けてくる可能性が高い。しかしそんなあからさまなものはシャロンに気付かれるであろう。
 だからこんな回りくどいことをしている。
 しかしそれでも、リックは戦力として魅力的だ。
 だからルイスは笑みを浮かべながら、

「構いませんよ。無能とはいえ私も一族のはしくれ。『型師範』としての訓練は受けております」

 既に考えてあった言葉を返した。

   ◆◆◆

 それからしばらくして、クレアが観客としてその場に加わった。

「……」

 しかしその口から言葉が紡がれたことは無かった。朝の挨拶すらもである。
 クレアは圧倒されていた。目の前で繰り広げられている応酬に。
 凄まじい速さで二人の拳が交錯している。
 訓練とは思えない激しさ。
 しかし二人ともまだ余裕がある。
 そう、「二人とも」だ。
 まさか、

(ルイス殿がここまで動けるとは……)

 思っていなかった。
 最初は止めるべきか悩んだが、

「ッ……!」

 歯を食いしばりながら拳を振るう息子の顔を見ているうちに、そんな考えは消え去った。
 それに――

(それに、激しいとはいえ――)

 あれは使われていない。
 クレアはそう考え、静観を決めこもうとした。
 が、その直後、

「「!」」

 ルイスが放った右正拳突きに、リックとクレアの二人は目を見開いた。
 明らかに人外の速さ。
 受け流した息子の反応の速さにも驚きだが、それよりも、

(今のは間違い無く!)

 奥義による加速だった。
 これはいくらなんでもやり過ぎだ、そう思ったクレアは声を上げようとしたが、

「……っ!」

 なぜか、クレアは迷った。
 その迷いが何なのか、どこから生まれているのか、クレア自身分からなかった。
 当然である。それはクレア自身が生み出し、抱いたものではないからだ。
 植え付けられたものだ。ルイスによって。
 そして当のルイスはそんなクレアの様子を一瞥し、

(いま止められると困るのでね)

 そんなことを考えた後、意識をリックの方に戻した。
 ルイスの顔には薄い笑みが張り付いていた。
 こいつは、リックは本当に使えそうだとルイスは感じていた。
 さっきは本能のことが邪魔だと思った。
 しかし今は違う。
 彼の本能と戦闘技術の繋がり、その関係は完璧であった。芸術的と言えるほどに。
 凄まじい量と質の基礎鍛錬を土台とし、その上に理性的な攻防技術が構築され、それらが本能によって反射の域にまで高められている。
 こちらは感知による予測という有利を持っているのに、手強く感じるほどだ。
 しかしその芸術が眩く感じるのはそれだけが理由では無い。
 伸び代を、将来性を感じるからだ。
 こいつは鍛えれば間違いなく化ける。
 現在の完璧な関係に魂の技術を加えればどうなるのか。
 見てみたい。
 あの偉大なる『彼』も、今のリックを見ればきっとそう思うはずだ。
 そんなことを考えた瞬間、

「……ふふ」

 自然と笑みが口から零れた。
 ルイスは濃くなった笑みを貼り付けたまま、進化した彼の姿を想像しながら、手を出し続けた。

 ルイスは知らない。その期待が外れることを。
 リックがルイスの想像を超えた領域に登ることを。

   ◆◆◆

 もっと速く、もっと強く――
 そんな言葉にリックの意識は染まっていった。
 そして奇しくも、少し離れた場所に同じ意識を抱いている者がいた。
 まるで伝播したかのように、共感しているかのように。

「はあ、はあ、はあ」

 その少女は小さな胸を激しく上下させながら剣を振るっていた。
 その手にある剣は燃えていた。主の心を映すかのように。
 いつからか、なんでそんなことをしているのか、それは本人にも分からなかった。
 伝わる熱が握り手を少しずつ焼いてしまっている。
 水ぶくれはとうに破れ、その手は真っ赤に染まっている。同じ色をした雫が滴って(したたって)いる。
 当然痛む。が、その棘のような鋭い感覚ですらも、今のアンナを止める障害にはなっていなかった。
 むしろ、その刺激はアンナの心をさらに熱くしていた。
 そして火照っているのは心だけでは無かった。

(体が熱い……!)

 炎の魔法使いにとって、それが何を意味するのかをアンナは知っていた。
 体内で炎の魔力が大量に生成されているからだ。それらが体内にある酸素と結びつき、熱を発している。
 炎の魔法使いの体はそれらを処理する機能も備わっている。
 が、その処理が追いついていない。
 このまま悪化すればどうなるか、それをアンナは文献で知っていた。
 それは人体発火。
 強力な先人達の何人かが、激戦の果てに迎えてしまった凄まじくも哀れな自滅。
 アンナの体はその危機に瀕している。
 しかしアンナは休もうとはしなかった。

(もう少しで……!)

 何かを掴めそうだからだ。
 無茶な行動の成果は既にある程度得られている。
 その一つを、アンナは直後に動いて見せた。

「疾ッ!」

 初動は今までと何ら変わらない、左から右への水平斬りに見えた。
 しかし直後にアンナは右へ飛ぶように地を蹴った。
 振り抜いた長剣に引っ張られるような感覚と共に視界が流れる。
 これが一つの解決策。剣を止められないのであれば、振り抜いた勢いと共に自分も動けばいい。
 攻撃と横への離脱を同時に行える、攻防一体の動き。
 しかしもし、左右に障害物があったら? 乱戦であればそんな状況は高い確率で発生する。
 または、自分の移動に簡単に追いつくほどに相手が速かったら?
 そういう時は――

(切り返す!)

 水平であった斬撃の軌道を下向きに修正。
 剣先が地面に食い込み、そして止まる。
 剣の寿命を削る行為だが、これがもう一つの解決策。腕力で止められないのであれば、硬い何かに受け止めてもらえばいい。
 地面に出来た切れ込みから火花が、火柱が噴出す。
 そして剣の勢いが完全に止まった瞬間、

「ぇえやッ!」

 アンナは魔力を爆発させた。
 火柱が一瞬膨れ上がり、弾ける。
 大量の火の粉と共に剣先が切れ込みから飛び出す。
 赤く焼けた太い刀身は右から左へ。
 炎と共に描かれた軌跡が迫る幻を、想像上の敵を横一文字に切り裂く。

(いや、まだ!)

 しかしアンナはその結果に満足しなかった。
 彼ならばこの一撃は避ける、そう思ったからだ。
 例えば、切り返しの下を潜り抜けるようにして。
 そう思った瞬間、幻が再び形を取った。
 低姿勢で再構築される幻。
 その顔にあたる部分に貼り付けられていた仮面は、やはりリックのものであった。
 仮想敵であるリックが攻撃の予備動作に、突き上げ右掌底の体勢に入る。
 どうする? 避ける? 反撃する?
 アンナの答えはもう決まっていた。
 いつの間にか空いている右手を腰に差している刀に伸ばす。
 先ほどまではその手に長剣が握られていた。
 切り返す際に、右から左に振り抜く時に左手に持ち替えたのだ。
 左から右に振り抜く時もそうだった。左手から右手に持ち替えたのだ。
 なぜ、そんな事をするのか。それは、

(この時のために!)

 がら空きになる側面を、斬撃の始動側に生じる隙を埋めるために!
 瞬間、一閃。
「薄赤い銀色」の軌跡が幻を切り裂く。
 そのように見えた。

「!」

 しかし幻は、アンナの理性はそれを否定した。
 いつの間にか兄に変わった幻はその一撃をいとも容易く受け流し、直後にアンナの心臓に刀の切っ先をねじ込んできた。

「……」

 その結果に、アンナの手は、体は止まった。
 実は分かっていた。予想がついていた。この防御に弱点があることは。
 それは炎が弱いということ。
 柄を握って即抜刀、ゆえに刀身に炎の魔力を込める時間がほとんど無いのだ。鋼と相性の良い光魔法とはわけが違う。ゆえに先の一撃は「薄赤い銀色」になったのだ。
 クラウスのように鞘を握り続けるということは出来ない。
 問題の解決法が糸口すら見えない。ゆえに、

「……っ」

 アンナは表情を険しくすることしか出来なかった。
 焼けた手から生ずる痛みが苛立ちを強くする。
 追い詰められた時の返し手が弱いのでは本末転倒だ。
 結局、無理なのか?
 苛立ちが募る。

「……っ!」

 そのもどかしくも重い感情に動かされるように、アンナは左手にある燃える剣を振り上げた。
 その瞬間、アンナはあることを思い出した。

(あの時は確か、こうやって――)

 アンナはそれを剣で再現しようと、切っ先を真下に振り下ろし、地面に突き立てた。
 剣先から放出される炎が地面という壁によって跳ね返り、火柱となって舞い上がる。
 体が飲み込まれないように、防御魔法を展開する要領で炎を円状に押し広げる。
 しかしそれでも熱に体を焼かれる。
 あの時は、リックに追い詰められた時はこうやって凌いだ。

(この手は今でも使えるかもしれない)

 そんな事を考えながらアンナは剣先から立ち昇る炎を見つめた。
 すると、アンナはある事に気付いた。以前よりも感知能力が成長しているゆえに気付けた。

(これは、樹……?)

 あの時のクラウスと同じように、アンナは炎魔法の構造が樹に似ていることに気付いた。
 しかしアンナの着眼点はクラウスとは少し違っていた。
 アンナは先端部分、細い枝にだけ注目した。
 そして気付いた。

(他の太い枝よりも……)

 燃え方が激しいのだ。

 アンナはこれまで深く考えたことが無かった。
 アンナに限らない。ほとんどの魔法使いがそうである。
「燃える」とは、どういうことを意味するのか。どういう現象なのか。
 それは「酸化」である。つまり、「錆び」も燃焼の形態の一つなのだ。変化がゆっくりであるので気付かないが、錆びるという現象もちゃんと熱を発している。
 そして多くの人がイメージする燃焼は炎を伴う激しいものだが、その炎の正体はただの煙である。煙が熱と光を帯びている状態だ。
 つまり、少量の燃料で出来る限りの激しい炎を起こそうとするならば、「急速な酸化」を引き起こせばいいということ。
 そしてそれを手っ取り早く実現出来る単純な手段とは――

「……」

 アンナはその答えに気付きかけていた。
 試してみたい、試すべきだ、そう思ったアンナは早速それを行動に移した。

   ◆◆◆

 アランは昼頃になって目覚めた。

「……っ」

 しかしその目覚めは最悪なものであった。
 頭が割れそうに痛い。
 そして奇妙で大きな喪失感が続いている。
 ゆえにか、アランはベッドから降りた。その無くした何かを探しに行くかのように。
 しかし何をすればいいのかなんて分からない。
 だから、アランの爪先は自然と訓練場の方に向いた。
 そこから強い感情と魔力の迸りを感じるからだ。

(アンナ……?)

 そこにいるのは妹だと思った。
 しかし何かが違うように感じられた。
 頭痛のせいだろうか。まるで父の気配のようにも感じられる。
 だが、父にしては若々しい。
 やはりこれはアンナだ。
 しかしアンナは何をしているのか。どうしてそんなに昂ぶっているのか。

(一体何を――)

 答えを求めて、集中させた感知の線を窓から訓練場の方に向けた瞬間、

「!」
 アランは感じ取った。
 が、アランはそれが何か一瞬分からなかった。
 まるでアンナが髪の毛を振り回しているように感じられた。
 しかしそれが高熱を帯びていることを感知した瞬間、アランは理解した。

(これは……細い炎の束?)

 鉄の塊にライターの火を当てても燃えない。
 しかしその塊を細く紐状に伸ばし、丸め、綿状にすれば?
 俗に言うスチールウール、これが簡単に燃えることは多くの方がご存知だろう。
 だが、なぜ燃えるようになるのか?
 答えは単純である。空気と、酸素と触れ合う表面積が大幅に増加したからである。
 アンナがやっている事は同じこと。
 理想を言えば粒状、粉末状であるが、そんな精密かつ緻密な制御は人間業では無い。
 しかし紐状でも、アンナの望みを叶えるには十分であった。

「えぃやッ!」

 アンナが気勢と共に長剣を振るう。
 赤い刀身から同じ色の髪の毛が溢れるようにほどけ、剣閃の中に流れる。
 直後、赤毛は弾けるように燃えた。
 光る刀身が残した銀色の軌跡を赤色で染めるかのように。
 眩しいほどの燃焼速度。リーザの炎に少し似ている。あっという間に燃え尽きるため、射程はまったく無いが。
 しかし今のアンナにとってそれは些細な問題であった。
 ただ、目の前に広がる赤色に心奪われていた。
 その赤色から大量の火の粉と共に、熱波が溢れる。
 術者を焦がしかねない熱量。
 しかしアンナはその焼け付く痛みを心地よく感じていた。
 こうでなくては。これぐらいでなくては、彼らは止められない。

(いや、)

 まだ足りない。

(もっと――)

 もっと大きな赤色を、アンナはそう思った。
 長剣を左から右へ。
 赤い軌跡がアンナの眼前を流れる。
 その赤色はただの一本の太い枝のように見えた。
 が、次の瞬間、それは数え切れないほどの髪の毛にほどけ始めた。
 元々不安定であり、ばらけやすい性質を持つ光魔法と上手く組み合わせることでこんな事が出来る。
 この瞬間、アンナは新たな技術を会得していた。
 赤い樹の、枝の制御である。
 さらにこの時既に左手は刀のそばに。
 そしてアンナは柄を握り締めると同時に、

「破っ!」

 目の前にある赤色に線を引くように一閃した。
 切り裂かれた赤い髪束が輝くように燃え始める。
 刹那遅れて、刀が描き残した束がそれに混じった。

「っ!」

 直後、アンナはそこから溢れた熱と光に目を細めた。
 しかしアンナの手は、心は止まらなかった。

(まだ足りない。もっと、もっと――)

 その言葉の先は思い浮かばなかったが、アンナの力への欲求が萎えることは無かった。
 そしてそれを感じ取ったアランは、

(……武の神よ、どうか彼女に祝福を)

 ただ、妹のさらなる成長を祈った。

   ◆◆◆

 夜――

「……?」

 これまで経験した事の無い感覚と共に、アランは目を覚ました。
 周りは真っ暗。
 時間の感覚が無い。どれくらい寝ていたのか予想がつかない。
 窓も同じ色。月明かりが差し込んでいない。月が雲に隠されているのだろうか?。
 そして頭痛は依然変わらず。
 寝直すしか無いな、そう思ったアランは体を再び横たえようとした。
 しかしその時、

「……ん?」

 あるものにアランは気付いた。
 目の前に何か、小さなものがある。
 アランはその何かに感知を集中させた。

「……!」

 瞬間、アランの意識は硬直した。
 それはあの夢で見た天道虫だった。

「……」

 しかしアランはすぐに平静を取り戻した。
 なぜだか、こいつは危険では無い、そんな気がするのだ。
 いや、「気がする」などという曖昧なものでは無い。「理解出来る」と表現した方が正しい。
 こいつは自分にとって危険な存在では無い、それが分かる。
 しかしそれ以上の事は分からない。

「……」

 ゆえに、アランにはそれを凝視することしか出来なかった。
 すると、天道虫はアランの目の前から飛び立ち、離れた。
 そして、天道虫は少し距離を置いたところで止まった。
 その様子はまるで――
 アランはそれを言葉にした。

「……ついて来い、と言っているのか?」

 そう感じたアランがベッドから降りて近付こうとすると、天道虫は双方の間の距離を維持するかのように離れた。
 どうやら正解のようだな、そう思ったアランは大人しく虫の誘導に従うことにした。

   ◆◆◆

 そして案内された場所は城内にある兵の詰所(つめしょ)であった。
 城を守る兵達が仮眠や食事休憩を取る場所である。
 夜勤の兵士達がドアの向こうにいるのを感じる。
 虫はこの中に消えた。
 こんな所に案内して一体どうするつもりなんだ、どういうつもりなのか、そんな迷いがアランの中に生じたが、

(ああくそ、ままよ!)

 なるようになれ、そんな思いと共にアランはドアを開けて踏み込んだ。

「……!」

 直後、緊張感がアランの体を包んだ。
 アランのものでは無い。意外な訪問客に驚いた兵士達から発せられたものだ。
 アランはそのぴりぴりとした感覚に思わず身構えそうになった。

「「……」」

 そして訪れる奇妙な静寂。
 アランも兵士達も、誰も口を開かない。
 そして緊張感も衰える気配が無い。
 しかししばらくして、兵士の一人が勇気を振り絞った。

「……ええと、アラン様、こんな時間に一体どんなご用件でしょうか?」

 それはこっちが聞きたい、そんな事を思った直後、アランはあるものに気付いた。
 テーブルの上に娯楽用のカードが並んでいる。

(ああ、なるほど)

 瞬間、アランは兵士達が緊張している理由を察した。
 ここにいる兵士達はサボっていたというわけだ。
 しかし今のアランにとってはそれはどうでも良かった。
 なぜだか、あのカードゲームが無性に気になる。そそられる。
 だからアランは少し乱暴にテーブルの席につき、

「俺もまぜてくれ」

 と、断れないお願いを発した。
 これに先ほど勇気を絞った兵士が、

「え、それは――」

 もちろん構いませんが、と言葉を続けようとした瞬間、

「……お兄様?」

 さらなる珍客が場に姿を現した。
 親しきその珍客にアランが声を返す。

「アンナ? こんな時間にどうした?」

 アンナは答えた。

「なんだか眠れなくて……」

 その理由は謎の頭痛であったが、それは今のアンナにとっては訴えるほどのことでは無かった。
 だからアンナはここに来た最大の理由を直後に答えた。

「お兄様がこっちの方に来るのを見たから、それで……」

 ならばと、アランは口を開いた。

「じゃあ、一緒にやらないか?」

 まるでそのゲームの主催者かのように。
 これにアンナは少し困った顔で、

「え、でも――」

 ルールを知らないので、とアンナは言葉を続けようとしたが、遮るようにアランが割り込んだ。

「知らないなら俺が教えてやるよ。だから一緒にやろう」

 この時点でアランは気付いていた。
 アンナも自分と同じ感情を、カードゲームへの強い興味を抱いていることに。
 これは少しおかしい。
 二人とも「あいつ」に、何かされた、されているのだろうか?
 しかしもしそうだとしても何のために?
 単純にカードゲームをやらせることが目的なのか?

(まさかな……)

 アランはそんな馬鹿げた考えから生まれた微笑を、カードへの興味から生まれた表情の中に紛らわせた。
 そしてその顔を見たアンナは、

「じゃあ、せっかくなので……」

 と、席についた。
 これに先ほどの兵士が、

「あ、では、よろしくお願いします……」

 と、少し緊張した表情で言葉を返す。
 そんなやり取りを見ながら、アランはもう一つの事に気付いていた。
「したくない」などの否定的な感情よりも、「したい」などの明るい感情に抗う方が難しい。

(これは戦いにも利用出来そうだ……)

 具体的にどう利用するのか、そんな事を考えながらアランはカードの束を切った。

   ◆◆◆

 一方、

「……っ」

 シャロンはアラン達がカードゲームに興じる様子を悔しそうに調べていた。
 今日は闇夜。だから一人でもやれそうだと思った。
 なのにアランが兵士達がいる詰所に入ってしまった。

(それに、まさかアンナまで……)

 さらにその奇妙な珍客に惹かれたのか、夜勤の兵士達が集まってきている。
 現時点で既に、誰にも気付かれずに事を済ませるのは不可能な数になっている。ちょっとした軍隊だ。
 それでも、アンナが来なければ一人で済ませる自信は十分にあった。
 もし、あの狭い場所で炎を放たれたら回避不能だろう。
 アンナが兄を巻き込む恐れのある攻撃をする可能性は低いかもしれない。
 しかし零とは言い切れない。

「……っ」

 だから迷っている。
 その天秤はまだ水平を保っている。
 が、「味方と協力した方が安全でいいのでは?」という考えがその拮抗を傾かせ始めた。

(どうしたものか……)

 シャロンはその傾きを感じながら、考えを巡らせていった。

   ◆◆◆

 一方――

(今日はあきらめてくれたかな?)

 ルイスは城から離れるように移動し始めたシャロンの様子をうかがいながら、安堵の表情を浮かべていた。
 ご想像の通り、今夜の異常な動きには彼が関わっている。
 しかしアランとアンナを誘導したのはルイスでは無い。
 その仕事をやったのはナチャだ。
 どうやらアランの魂は彼の御眼鏡に適ったようだ。だからこんなことを自らやってくれた。
 しかしそれは「今晩だけ」になる可能性がある。
 彼の「本体」は既に移動しているからだ。「分身」は大した持久力を持たない。
 それはつまり、これから毎晩アランの世話をしなければならないということ。

「ふう……」

 ルイスはため息を吐きながら、その重さを実感した。

(本当にこれは疲れる……)

 シャロンに気付かれないようにやるのは骨が折れる。既に何かがおかしいとは思われているだろう。

(しかしまあ、それでも、)

 今日はしのいだ、そんな風に気を取り直しながらルイスは次の行動を考えた。
 まずは食事だ。
 栄養を取らないと。肉に卵に野菜。そしてその後に睡眠だ。

「飯屋の主人を叩き起こさないとな……」

 そんな事を呟きながら、ルイスはシャロンの後を追うように歩き始めた。

   ◆◆◆

 二週間後――

「……」

 真上に昇った太陽のもと、シャロンは森の中からアラン達がいる街を眺めていた。
 傍目には一人でそうしているように見える。
 が、今の彼女は一人では無かった。
 感知を巡らせば明らかであった。森の中に数多くの人間が潜んでいることが。
 そして、その内の一人が近づいて来ているのをシャロンは感じ取っていた。

「……」

 近付いてくるその気配を、シャロンはうんざりと感じていた。
 相手も感知持ちである。ゆえにその感情を読まれる可能性がある。
 が、シャロンは隠そうとはしなかった。
 本当にそいつのことが嫌いだからだ。敵意すら滲むほどに。
 が、その者はシャロンが放つその鋭い感情を意にも介さず、声をかけてきた。

「おやおや、これはこれは、シャロンじゃあないか」

 その老人はまるでシャロンだと分かっていなかったかのように喋った。
 シャロンはその見え透いた嘘を鬱陶しく感じながら、声を返した。

「……久しぶりね、デズモンド」

 この老人のことを覚えている読者がいたら驚嘆に値する。それほどまでに登場回数が少なく、しかも目立っていないからだ。
 この老人はあの収容所の管理人をしていた男だ。
 しかしなぜそのデズモンドがこの場にいるのか。
 その理由をデズモンドは自ら喋り始めた。

「収容所が反乱軍に攻撃されてしまってな。それでこんなところに来るハメになってしまった。 ……ああ、そういえば、お前は仕事でそこに行ったんだったか。ならば言わずとも知ってたか?」

 これにシャロンがうんざりとした表情で「ええ」と返すと、デズモンドはシャロンに尋ねた。

「収容所はどんな様子だった?」

 ちゃんと答えるのが面倒だったシャロンは「見てないから知らないわ」とだけ答えた。
 しかしその淡白な返事にも老人の口は止まる様子を見せなかった。

「珍しい気配を放つ女がいなかったか? リリィという女なんだが」

 これにはさすがのシャロンも興味を抱いた。
 ゆえにシャロンは尋ねた。

「珍しい? どういうこと?」

 この言葉に、デズモンドは下卑た笑みを浮かべた。
 生理的嫌悪感を抱かせるその顔に、シャロンが思わず眉をひそめる。
 が、シャロンのその表情はデズモンドを饒舌にする効果しか無かった。

「たまに、無条件にある感情を抱いている者がいるだろう?」

 ケビンのような者のことである。
 当然知っているシャロンが頷きを返すと、デズモンドは言葉を続けた。

「その女もそれを持っていてな。何だと思う?」

 知らないのだから答えようが無い。だからシャロンは「分からないわ」と答えた。
 その素っ気の無い回答は老人の御気に召さなかったようだ。
 だからデズモンドは即座に口を開いた。

「あの女はそれのおかげでどんなことがあっても絶望に打ちひしがれることは無かったよ」

 その言葉を聞いたシャロンの心には「不屈」という言葉が浮かんだ。
 そしてそれを感知したデズモンドは首を振った。

「私も最初は不屈だと思った。……だが、違った」

 これにシャロンは強い苛立ちを抱いた。
「不屈」という言葉を浮かべさせるために「絶望」という言葉を使って誘導したのが明らかだからだ。
 そしてデズモンドはシャロンのその苛立ちをさらに煽るかのように、下卑た笑みを濃くしながら正解を述べた。

「やつが持っていたのは無条件の希望だったよ」

 そしてデズモンドは言葉を続けた。

「あの女には多くの男が惹かれるだろう。感知の才能が強いものであればなおさらだ。明るく、そして力強い。そんな感覚を傍にいるだけで共有出来るのだから」

 それは確かにそうだろうが、シャロンが抱いた感想は少し違っていた。
 シャロンはそれを心の中で言葉にした。

(羨ましいわね。だけどそれ以上に哀れだわ)

 これに、デズモンドは尋ねた。

「どうしてそう思う?」

 またしても勝手に心を読まれたわけだが、これにはシャロンは腹を立てなかった。
 読まれてもいいと思っていたからだ。だから隠す工夫もしていない。
 だからシャロンは答えた。

「……無条件のそれはただの松明と同じよ。その光は綺麗な虫だけで無く、悪い虫も引き寄せてしまう。本人に選ぶ力が、抵抗する力が無ければ不幸になる可能性があるわ」

 その言葉は今のリリィの状況を的確に表していた。
 そして正解をずばり当てたシャロンに対し、

「……」

 デズモンドはつまらなそうな顔を返した。
 しかしその冷たい無言は長くは続かなかった。

「……話は変わるが、今回の仕事、私はどうにも気が乗らんよ。出来るならば前の仕事に戻りたいね」

 瞬間、シャロンは察した。

(また始まった)と。

 そしてデズモンドはシャロンが思った通りの話を始めた。

「そういえばこれは話したかな? 反乱が起きる少し前に、新しい『素材』が来たんだが、これが中々良いものでね。時間さえあれば、私の手で完璧に仕上げられたんだが」

 デズモンドがそこまで喋ったところで、シャロンは人格を切り替えた。
 デズモンドの口からあふれ出しているこの「いつもの話」がシャロンにとっては耐え難いものだからだ。
 要は以前の仕事の自慢話である。
 しかしその内容はおぞましい。
 デズモンドの仕事、それは囚人達の「感情のコントロール」であった。
 教会に憎しみを抱かせることが目標だ。
 だが、デズモンドはさらに先の域に踏み込んでしまった。
 一言で表すならばそれは「人格改造」。
 ある日、デズモンドは気付いた。
 強いストレスを与え続けると、その者の人格に変化が表れることに。
 そしてその変化にはストレス対象との関係などの条件によって規則性、偏りが生まれることに。
 その日から、デズモンドにとっての仕事は退屈な何かから、輝かしい何かに変わった。
 変化の多くは「屈服」であった。
 出来るだけストレスを感じないように、痛み無く物事をやりすごせるように人格が変化するのだ。
 その改造手術は魂がやることもあれば、第四の存在によって行われることもあった。
 魂と第四の存在がどうにもならない状況に屈服したのだ。だからせめて苦痛なく、そんな思いを込めて理性と本能を変えるのだ。
 この変化はデズモンドにとって快感の一言であった。
 しかし屈服しない者も少数いた。
 表面上は屈服した連中とあまり変わらないように見える。
 だがそれはただの処世術。不必要な被害を避けるため、ただそれだけのものだ。
 心の中では反撃の機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。
 そしてそのような変化が起きる者達には大きく分けて二つの特徴があった。
 一つは高潔な者。
 悪に対しての正義感から変化する。
 そしてもう一つは反抗的な者。
 自分を虐げる相手に対しての怒りから変化する。
 デズモンドはそのような変化を何十年も観察し、そして楽しんできた。
「人格改造」、それ自体は輝かしい可能性を持っている。
 しかし使い方が、方向性がおぞましい。どんな力も技術も、全ては使い手次第なのだ。

「……」

 そしてシャロンの代わりに前に立った誰かは、そのおぞましい話に淡々と耳を傾けていた。
 今の彼女に感情の起伏は無い。
 しかしなぜシャロンはデズモンドをこれほどまでに嫌っているのか。
 それはデズモンドがサイラスを手にかけたからだ。
 大切なものをおもちゃにされた、その怒りがシャロンの奥底に渦巻いているのだ。

「……」

 シャロンの代役はデズモンドの話を適当に聞き流しながら、アランのいる街を眺めた。
 彼女は考えていた。アランをどうやって終わらせるかを。あの城をどうやって攻めるべきかを。

 試練の時はついに来た。
 アランが理想を成すためにはこの試練を越えねばならない。
 しかしこの壁は厚い。
 戦闘能力差は歴然。
 その差を過去の戦いで例えるならば、魔王と隊長ほどの差だ。

 つまり、少々の奇跡が起きた程度では勝敗が覆らない、ということだ。

   第四十四話 再戦 に続く
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Re:

iの隣にoがあるからね、しょうがないね。
という言い訳はさておき、直しておきました。
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