シヴァリー 第四十二話

   ◆◆◆

   魔王

   ◆◆◆

 ケビンは夢を見た。
 複数の何かが話し合っている声のようなものが聞こえる。
 ほとんどはただの雑音のよう。しかし、たまに意味のある言葉が意識に入る。感じ取れる。
 それ以外には何も無い。
 ただただ真っ暗。景色が無い。色が無い。
 そして体は動かせない。感覚も無い。
 本当に、声が聞こえるだけ。
 だからケビンには耳をすますことしか出来なかった。

「作り変えなくちゃ」
「そうだね。これからきっと大変になる」
「あいつと同じことが出来るようにならなくては」

 何をするつもりだ? それをケビンは尋ねようとしたが、出来なかった。

   ◆◆◆

 それから暫くの間、意識が消えた。
 時間の感覚が無い、夢の無い眠り。
 そして気がつけば、声はまだ続いていた。

「やっぱり熱が出た」
「それはしょうがない」
「でもこれであれが出来るようになった」
「もう大丈夫。熱は下がり始めてる」

 その後、似たようなやり取りが何度か続いたが、

「ところで、『彼女』はどうする?」

 という、何かが放った一言が、全ての雑音を止めた。

「「「……」」」

 静寂がしばらく続いた後、何かが声を上げた。

「いいことを思いついた」

 と。

 その「いいこと」が何なのかをケビンは知りたかったが、直後、『彼』の意識は再び消えた。

   ◆◆◆

「……ふう」

 ある部屋を出たと同時に、サイラスは深く息を吐いた。
 たった今、厄介な仕事の一つを終えたからだ。
 それはカイルの懐柔。
 思ったよりもすんなりとカイルは反乱軍への参加を承諾してくれた。
 サイラスが疲れたのは別の理由。
 本当の事を話すべきかどうか悩んだのだ。
 サイラスはカイルがヨハンの側近であることを知っていた。
 脅されていることも知っていた。だからサイラスは先に調査した。
 そして、カイルの両親は既に死んでいたことが分かった。
 リーザの炎が原因では無い。かなり以前に自殺していたようだ。
 そして第二に、カイルに本当の「敵」のことを話すか、それともラルフのように一線を引くかどうかについて、サイラスはかなり悩んだ。
 あのヨハンの側近だったのだ、間違いなく強いだろう。しかし、脅されていたとはいえ、教会側の人間を安易に仲間に加えていいものかどうか判断がつかなかったのだ。ラルフのように上手く抱きこめるとは限らない。
 しかしこれについては悩んだ意味が無かった。
 カイルは「あの女」のことを知っていた。サイラス達と戦ったことも感じ取っていた。
 ゆえに、サイラスが部屋に入った直後にカイルは口を開いた。そのことについて尋ねてきた。
 その話の後に両親のことを話した。
 サイラスは嘘をつかなかった。つくべきでは無いと思った。
 それが正解だったのかはまだ分からない。

(結果が出るのはまだ先のこと。今出来るのは積み重ねることだけだ――)

 サイラスはそんなことを考えながら、廊下を歩き出した。

 サイラスはまだ気付いていない。

 なぜ、ラルフには嘘をつくべきだと思っているのか、ということを。

   ◆◆◆

 サイラスはその足でケビンのところに向かった。

「ケビン」

 名を呼びながらドアをノックする。
 答えが無い事は分かっていた。
 ここに来る途中ですれ違った担当医にそう聞いたからだ。
 意識はまだ回復していないが、熱は下がったのでもう問題は無いらしい。
 医者は「口では」そう言った。
 しかし、その「心」は、「意識がこんなに長く回復しない原因はよくわからないが――」などと、不吉なことを述べていた。
 だからサイラスは一度様子を見てみようと思ったのだ。

「……」

 そして、サイラスは部屋主の返事が無い事を確認した後、

「入るぞ、ケビン」

 ドアを開けた。

「!?」

 が、サイラスは中に入らなかった。
 入れなかった。
 大量の「虫」が部屋の中を飛び回っていたからだ。
 が、サイラスはすぐにそれが誰の虫であるのかを感じ取った。

「これは、ケビンの……?」

 しかし、サイラスは自分の言葉に疑問符をつけた。
 ケビンのものにしては感覚が妙だからだ。

「……」

 注意深く見回しながら部屋の中に入る。
 全ての虫がこっちを見ている。
 しかし敵意は感じない。
 やはりこれらは全てケビンの虫だ。

(しかし、何か……)

 それでもサイラスは疑問を振り払えなかった。
 ならば調べればいい、そう思ったサイラスは糸を使って虫の一匹を捕らえた。
 手元に引き寄せ、観察する。
 何を目的として作られた虫なのか調べるために、中を覗き込む。
 そうしてようやく、サイラスは違和感の正体に気付いた。

「女……?」

 思わず言葉にしていた。
 ケビンの虫なのに、これは間違い無く「女」だ。

「まさか、この虫は――」

 サイラスは気付いた。
 その虫から感じ取れる気配が、先の戦いで追い詰められたケビンの中から放たれたものと同じであることを。

「……!」

 だから、サイラスはもう一度部屋を見回した。
 全ての虫がケビンを見守っている。
 全てはケビンのためにある。

「……」

 その献身に、サイラスの心は大きく揺れた。
 目頭が熱くなるほどに。

「……っ」

 しかしサイラスは涙をこらえた。
 何か、ひっかかるものがあったからだ。
 しかしこの時のサイラスはそれに気付かなかった。
 感動の方がはるかに強かった。

「……」

 ゆえに、サイラスは気の済むまで、部屋を埋め尽くしている幻想的光景を堪能した。

   ◆◆◆

 雲水とシャロンの戦いから一ヵ月後――

「……」

 魔王は窓から外を眺めていた。
 広がる景色は見渡す限り白一色。
 白は厚みを増し続けている。
 季節は完全に冬になっていた。
 魔王はその冷たい眺めを楽しんでいるわけでは無かった。もうとっくに見飽きている。
 魔王は外に感知の網を張り巡らせながら、ある者を待っていた。

「……ようやく来たか」

 魔王がそう呟いたのとほぼ同時に、部屋のドアがノックされた。

「お呼びでしょうか」

 そして入室してきたのはオレグ。
 が、魔王はオレグを待っていたわけでは無かった。
 ゆえに、直後に放たれた魔王の言葉は非常に簡潔なものであった。

「今から客が来る。お前も同席しろ」

   ◆◆◆

 魔王は玉座で客を迎えた。
 大事な客だとは思っていない。玉座の間を選んだ理由は単純に「広いから」というだけである。
 話の流れ次第では、「広いほうが良い」と思っていたからだ。
 さらに、魔王が連れて来た護衛はオレグと二人の兵士のみ。
 広い玉座の間には不自然と言えるほどの少なさ。
 白を基調とした装飾がその寒々しさを増して見える。
 対し、客は大所帯。
 大勢の兵士を連れている。
 しかしなぜか、どれも目がうつろだ。

「……」

 魔王は彼らの生気の無さの原因を見抜いていた。
 この時点で魔王は興味のほとんどを失っていた。
 いや、正確には窓から感知した時点で大体気付いていた。
 そして、魔王のその意を知らぬ客は、大勢の中でただ一人生気を宿すその者は、深く丁寧な礼をしながら口を開いた。

「本日はお呼びいただき、真に恐悦至極――「そういうのはいい」

 が、魔王はその挨拶を閉ざした。
 早く済ませたいと思ったからだ。
 もう正直どうでもよく、今すぐ帰ってほしいとさえ思っている。

「……」

 そしてそれは隣に立つオレグも同じであった。
 しかし魔王はあえて尋ねた。

「我が呼んだのは、そなたの技に興味があったからよ。……『死霊使い(ネクロマンサー)』と呼ばれているらしいな?」

 これに、客人は再びの深い礼をもって肯定の意を示した。
 そして魔王は客人が頭を上げ始めるのに合わせて口を開いた。

「……連れている連中は全てお前が操っているのだろう? どうやっているのか知りたい。話してくれるか?」

 これに客人は戸惑う素振りを見せた。
 しかしその表情の裏に嬉しさがこみ上げてきているのを魔王は感じ取った。

「……ふっ」

 魔王はその初々しい反応に笑みを浮かべた。
 しかしその笑みに敬意や友愛の感情は無かった。
 単純に馬鹿にしているのだ。
 だから魔王は、

「いくらなんでもそれは――「もったいぶるほどの代物では無いだろう?」

 などと、冷笑を込めて客人の返事を遮った。
 そして魔王は、客が隠しているそれを声に出して説明した。

「要は虫を使った遠隔操作か。抵抗されないように本人の魂は破壊してあるようだな。理性と本能は残っているようだが、強い負の感情に塗りつぶされているせいで碌に機能していない」

 言いながら、魔王はうつろな目の従者の一人を探った。
 脳自体は機能していた。ゆえに、その感情と客人の「正体」はすぐに明らかになった。
 それを魔王は言葉にして続けた。

「……感情の大部分は『恐怖』か。そのためにお前は『死霊使い』などという大げさな名前を使っているのだな? 死人を使う、などという『嘘』を流布させたのもそのためだろう?」

 魔王は目に哀れみの感情を込めながら、言葉を重ねた。

「確かに、そいつらは蘇った死人のように見えるかもしれん。しかしそれは、虫の制御能力が足りないだけのこと」

 途中から、魔王の目線は客人に対してでは無く、うつろな目をしたある青年にだけ向けられていた。

「お前はそういう『無知から生まれる恐怖』を利用して、村から人間を提供させているようだな」

 そう言って魔王は目線を客人の方に戻した。
 怒気を込めて。

「そして、その『恐怖』を維持するためにお前はかなり酷いことをしているな」

 そして魔王は怒気に軽蔑の感情を混ぜながら、吐き捨てた。

「くだらん。何もかも」

 しかし哀れな――魔王はその言葉を飲み込んで、客人にとどめの一言を放った。

「失せろ。今すぐに」

 この言葉に、客人が怒りと反抗の念を抱いたのを魔王は見逃さなかった。
 だから魔王は追い討ちをかけた。

「即刻村人を解放せよ。そして我の目が届かぬところに離れること。今後このような事は一切許さん。だが、大人しくしていればそれ以上の罰は与えぬ」
「……」

 ここまでは客人は耐えた。耐えるふりをした。
 しかし魔王は直後に、とっておきの言葉を放った。

「ああそうだ、『お前の財産は全て没収するからな』。そのつもりでいろ」

 これにはさすがの客人も、

「な?! それはいくらなんでも……」

 と声を上げた。
 が、魔王はその言葉を待っていた。

「なんだ? 文句があるのか? 『我とやり合うつもりか?』」

 ようやく、魔王は言いたいことを言うことが出来た。
 だから魔王はさらに舌を滑らせた。

「……そういえば、お前の国を制圧したのはいつのことだったかな? その時、我はお前の一族と戦ったか? よく思い出せないのだが……妙だな、これほどまでに印象深い相手なら忘れないと思うのだが」

 言いながら、魔王は気付かぬうちに笑みを浮かべていた。
 本当に楽しいと感じていた。このためにこの広い部屋を選んだのだから。
 だから魔王の言葉は冴えた。

「……ああ、そうか。弱いから出てこなかったのだな。それとも、弱すぎて印象にも残らなかったのか?」
「……!」

 魔王の言葉に客人はとうとう『身構えた』。
 客人の感情は本当にやるかどうかの瀬戸際まで来ていた。
 このままだと全てを奪われた上に、遠くへ追放させられてしまうのだから当然かもしれない。
 客人は気付いていない。
 精神汚染を受けていることに。
 反抗心と怒りを植えつけられ続けていることに。

「……」

 そして、対する魔王は何の警戒心も抱いていなかった。
 その構えは客人なりの戦闘態勢であるようだが、魔王には無意味に見えた。
 それはオレグも同じ思いのようであった。
 だから魔王はオレグに任せることにした。

「オレグ。相手をしてやれ」

 オレグもその気であったらしく、即答した。

「御意」

 次の瞬間、魔王の真横から大理石の床を蹴る音が広間一杯に響き渡った。

   ◆◆◆

 戦いはすぐに終わった。
 いや、戦いと呼べるようなものでは無かった。
 ただ一方的であった。
 それでもオレグはわざと「手間」をかけた。
 操られている村人達を先に無力化したのだ。
 操っている死霊使いを倒せばそれで終わる話である。
 なのにそうしたのは、力の差を見せ付けるためだ。
 貴様の技に価値は無い、ということを知らしめるためだ。
 そして、オレグのその思いは死霊使いに対してのものでは無かった。

「……」

 オレグは拳についた血を拭い(ぬぐい)ながら、その思いを魔王に向けていた。
 この戦いでの死者はただ一人。
 死霊使いの体から流れた赤色が、華のように大理石の床に広がっていた。
 オレグはその華に対してすら哀れみの念を抱かなかった。

「……ふん」

 オレグはその死を鼻で笑ったあと、振り返った。
 そして、オレグは魔王に対して声を上げた。

「魔王様、なぜこのような者をここに呼んだのです?」

 オレグは知りたかった。
 オレグは少し恐れていた。
 まさか、このような技を我が国に取り入れるつもりなのかと。
 軍を強くするために、このようなものに頼るつもりなのかと。
 オレグはあえて、魔王の心を覗くようなことはしなかった。
 魔王の口から答えが聞きたかったからだ。

「……」

 しかし魔王の口はすぐには開かなかった。
 魔王はまず首を振った。
 お前が危惧しているようなことは考えていないという思いをこめて。
 その後、魔王はようやく口を開いた。

「心配するな、オレグ」

 その言葉は透き通るようにオレグの心に響いた。
 しかしオレグの心は晴れなかった。
 それを察した魔王は言葉を続けた。

「ただ一つ、気に掛かっていることがあるだけだ」

 心配事? それはなんなのですか? とオレグは心で尋ねた。
 が、直後に魔王の口から出た言葉はその答えでは無かった。

「この死霊使いと呼ばれていた者の技に、その答えがあるのではと思ったのだ。……が、どうやらハズレだったようだ」

 その言葉に魔王は、「この技に対しての思いはお前と同じである」、という心の声を添えた。

「……」

 が、オレグの心はまだ晴れなかった。
 魔王はそれも察したが、

「……」

 それ以上、言葉を重ねることは無かった。

   ◆◆◆

 夜――

「ふう……」

 魔王は寝具の上でため息をついた。
 予想通り、オレグが不機嫌になってしまった。
 やはり同席させるべきでは無かったのだろうか?

(いや……)

 そんなことをしても無駄だっただろう。オレグも優れた感知能力者なのだから。

(だが、まあ……これで、)

 シャロンのことを話す切っ掛けは作りやすくなったかもしれない。
 今のところ話すつもりは無いが。
 理想的な展開はシャロン自身がボロを出してくれること。
 そうなれば、シャロンが危険人物であることがはっきりすれば、事は全て解決する。
 しかし今のところシャロンの言動に問題は無い。そのような報告は上がってきていない。
 もしかしたら、自分が心配しすぎているだけなのかもしれない。シャロンは「あの男」とは何の関係も無いのかもしれない。

(まったく、面倒な……)

 考えながら、魔王は額を少し掻いた。
 少し頭痛がする。
 そういえば最近、長く考えることが難しくなってきたような気がする。

(まったく……本当に我は老いた、な)

 だからあんなものに、「死霊使い」などという「詐欺師」に期待してしまったのだ。
 若い頃の自分はこんな時どうしていただろうか。どう考え、どう行動していたのだったか?
 そんな思いが魔王の脳裏を駆けた。

(そういえば、魔王と呼ばれるようになってもう四十年ほど経つのか……)

 七十を少し過ぎた老人が考えることでは無いのではないだろうか?
 そんな言葉が脳裏をよぎった直後、

「……ふふっ」

 魔王はそれを笑い飛ばした。
 考えるまでも無いことだった。
 自身の力に対しての「自負」はまだある。その力を使って築き上げてきたものへの「執着」もだ。
 だからシャロンに対して悩んでいるのだ。
 しかし一人で考え続けるのはやはりつらい。
 誰かに相談してみるのがいいかもしれない。
 そう、例えば、「あの男」に勝った「あいつ」なら、いい答えを持っているかもしれない。

(そういえば、あいつはどうしているだろうか?)

 元気にしているだろうか?
 かなり長い間連絡を取り合っていない。
 あいつはただの兵士のまま終わった。しかし我は魔王に成った。
 その差はそのまま、二人の間の距離となった。
 一度会いに行ってもいいかもしれない。

「……ふう」

 そこで魔王は再びため息をついた。
 思考を一度切り、別のことに意識を向けなおすためだ。
 そして、しばらくして魔王の心に浮かび上がってきたものは、あの「死霊使い」だった。

(……思い返してみても、やつは本物の馬鹿だったな)

 自身の愚かさを晒していることに気付いていなかったのが本当に滑稽だった。
 まるで裸の王様だ。
 自身の制御能力に対して、操る対象の数が多すぎたことに死ぬまで気付かなかった。
 ゆえにまともに動かせない。あれでは戦闘はおろか、簡単な仕事すら怪しい。
 だから戦いにもならなかった。
 そして、肝心の虫の制御技術自体にも稚拙さが見えた。
 修練が足りないことが一目で分かった。
 恐らく、時間が無かったのだ。
 操られていた者達は全員魂を砕かれていた。
 その作業をやっていたのは操者である死霊使い自身だろう。
 あれだけの人数だ。時間のかかる作業になるはず。
 一日の時間の多くをその作業に費やしていたとすれば、奴が未熟であったことにも合点がいく。

(しかし、操る対象が一人か二人であったならば……)

 魔王は心の中で描き始めた。
「理想的な」死霊使いの姿を。

(管理を全て他人に任せるとしても、やはり少数精鋭が無難だろう)

 魔王は「自分が死霊使いになるとしたら」という前提で、思考を積み重ねていった。
 そしてそれはすぐに形になった。
 脳裏に映像が浮かび上がる。
 玉座に座る自分の傍に、誰かが立ち構えている。
 オレグとは違う誰か。
 その誰かは、接近戦を好むオレグとは対照的に、遠距離戦を主とする。
 近くにいるほうが操りやすく、いざという時は肉の壁として使えるからだ。
 しかし二人の関係は、主従関係はおぞましいものであってはならない。美しいものに見えなければならない。
 ゆえに恐怖を使うのは愚手。
 負の感情は反抗心を生みやすい。
 束縛の鎖は甘いものでなくてはならない。縛られることを本人が望むほどに。
 しかし上下関係は明確に。
 そうすればきっと完成する。
 忠実で、便利な「砲台」が。

(これは……)

 薄い笑みを浮かべながら、魔王は思った。
 これは案外、悪くないな、と。
 老化による魔力の低下を補ってくれる存在になるだろうと。

「……」

 そして直後に魔王の意識は沈み始めた。
 魔王はその感覚に素直に身をゆだねた。
 明日は久しぶりに「運動」することになるからだ。

(そのために、今日はちゃんと寝ておかねばな……)

 その「運動」は赤い華が咲くものだ。
 しかし、魔王の心に緊張は無かった。

「……」

 ゆえに、魔王の意識はすぐに落ちた。

 魔王は知らない。
 この世界には本物の、魂を扱う『死霊使い』が存在することを。

   ◆◆◆

 次の日――

「うむ、良い天気だ」

 青い空を見上げながら魔王は呟いた。
 魔王は「杖」を片手に外を歩いていた。
 天気は珍しい快晴。
 今日晴れることは分かっていた。だから今日を選んだ。
 そして魔王は一人であった。
 孤立しなければならないからだ。

「さて、どこで『やるか』……」

 城から離れながら、魔王は手頃な場所を探していた。
 出来るだけ人気が無いところが良い。
 だから魔王の足は街道から外れ、山の方へと向いた。
 ここから先は碌に除雪されていない。
 ゆえに、魔王の足はすぐに、

「むう、やはり進めんか」

 深い雪に捕まった。
 しかし魔王は動じる事無く、「杖」を足元にかざした。
 先端が赤く輝き、炎が噴出す。
 その赤い蛇は舐めるように雪を溶かし、瞬く間に新たな道を作り出した。

「ちっ」

 が、魔王は舌を打った。
 雪解け水が靴の中に染みたからだ。
 痛いほどに冷たい。
 魔王は少しだけ帰りたくなった。
 が、その足が城の方に向くことは無かった。
 今日を逃すと快晴はしばらく訪れない。
 だから選択肢は一つしか無かった。

「……はあ」

 魔王はため息をつきながら、足を前に出した。
 この鬱憤は『運動』で解消しなければな、などと考えながら。

 魔王はこの国では珍しい炎の使い手であった。
 しかし魔王の力はそれだけでは無い。そしてそれが魔王たる所以の一つである。
「魔王」とはすなわち、「魔法使いの王」なのだから。

   ◆◆◆

 魔王の足は開けた場所で止まった。

「……」

 これ以上進めば山に入ってしまう。
 さすがに登山はやりたくない。
 だから魔王はそこで待つことにした。
 足は深い雪に埋まっている。
 あえて溶かさずにこの場に踏み込んだのだ。

「……ちっ」

 魔王は再び舌を打った。
 足が冷たいからでは無い。
 中々仕掛けて来ない事に苛立ったからだ。
 相手は我を包囲しようとしている。
 しかしその速度が緩慢だ。

(数は……十三か)

 数も期待より少ない。
 そしてその十三人の中に「和の国」の「忍者」はいないようだ。
 彼らの気配は遠くに感じる。
 罠かもしれないと警戒しているようだ。

「はあ……」

 魔王はため息をついた。
 これだけお膳立てしてやって、たったの十三人だからだ。

(……まあ、いい)

 しかし魔王は気を取り直した。
 たった十三人でも、やりたいことはやれるだろうと思ったからだ。

(……ん? 止まったか)

 そして、包囲の輪はある距離から縮まらなくなった。
 狙撃を狙っているのか、それとも単純に緊張しているだけか。
 魔王は相手の心を読もうとはしなかった。
 どうでもよかったからだ。
 さらに、魔王にはこれ以上待つ気も無かった。
 だから、魔王は杖を適当な目標に向けながら、

「よし、始めるか」

 一方的に開始を宣言した。
 同時に発光し始める杖。
 その輝きは先端に集まり、拳ほどの大きさの光球を形成した。
 光球は膨張し、瞬く間に頭ほどの大きさに。
 しかし球はまだ発射されない。
 されど膨らみ続ける光球。
 その大きさが上半身を隠すほどになった頃、魔王は目標が緊張と恐怖を抱いたことを感じ取った。
 そうだ、この大きさは異常だ。
 普通はここまで膨らむ前に勝手に離れてしまう。維持出来ない。
 何かが光球を拘束している。
 その鎖の正体は間も無く明らかになった。
 雷だ。
 杖の先端と光球の間にあるわずかな隙間から、電撃魔法特有の炸裂音が鳴り響いている。
 そうだ、魔王は炎だけでなく雷まで使える。
 そしてこれは、老いによる衰えを補うために編み出した魔王なりの工夫だ。
 反動を抑え切れず、両手が震える。
 力強い感覚。

「……っ」

 が、魔王は唇を噛んだ。
 自身の衰えを感じたからだ。
 数年前はこれくらい平気だった。もう少し光球を大きくすることも出来た。
 しかし今はこれが精一杯。
 自分の体は着実に老いに蝕まれている。
 だから魔王は、

「くそっ」

 悪態をつきながら、魔力を「爆発させた」。
「大量の火の粉」とともに発射。
 同時に生じたのは空気を裂いたような爆発音。
 そうだ。これはリーザとカルロが使ったものと同じ爆発魔法。
 その衝撃力を利用して光球を発射したのだ。
 反動に魔王の上半身が大きくのけ反る。
 そして放たれたのは散弾。
 爆発魔法の衝撃で光球が砕けたのだ。
 あえてそうした理由も老いのため。
 今の魔王には正確に目標を狙う精度が無いのだ。
 だから散弾。今の魔王の攻撃手段はそのほとんどが広い範囲攻撃なのだ。
 しかし散弾の数とそれぞれの軌道は運任せ。
 ゆえに、分かれた弾のいくつかは発射直後に雪原に着弾してしまった。

「!」

 瞬間、魔王は目標の緊張が跳ね上がったのを感じ取った。
 原因は着弾によって舞い上がった粉雪。
 視界を完全に遮るほどの量。
 散弾一つ一つの威力が尋常では無いことが分かる。
 目標はその舞い上がった雪の柱を見たと同時に左へ回避行動を取った。
 しかしその動きは鈍い。
 雪に足を取られているせいだ。
 そして、目標は碌に動けぬまま散弾の雨に飲まれた。

「まず一つ」

 目標の命がそれで終わったことを感じ取った魔王はそう声を上げた。
 言い終えると同時に次の目標に照準を合わせる。
 こいつも一発で終わるだろう、魔王にはそんな確信めいたものがあった。
 なぜなら、こいつも動けないからだ。
 雪原で高速移動する手段を持っていないのだ。
 射程と精度だけが優秀な狙撃要因だと思われる。
 そして、狙われていることを察したその次なる目標は、咄嗟に近くにあった凍った老木の影に隠れた。
 それを見た魔王は、

「無駄だ」

 と、声を上げながら次弾を発射した。
 放たれた散弾は氷の彫像と化した老木をなぎ倒し、

「――っ!」

 背後にいた目標を飲み込んだ。
 悲鳴を上げたようであったが、その声は着弾の轟音にかき消され魔王の耳には届かなかった。
 その直後、魔王は先と同じように、

「これでふた――」

 撃破数を宣言しようとしたが、魔王は途中でその口を閉ざした。
 己の体で十字を作るように、杖を横に構える。
 そして魔王は水平に構えた杖の両端から防御魔法を展開。
 二枚の防御魔法は丸みを帯びながら広がり、合わさって球となった。
 隙の無い全方向防御。
 その輝く球に敵が放った光弾が次々と炸裂する。
 しかしびくともしない。
 魔王は光球の中で笑みを浮かべながら、口を開いた。

「無駄だ、無駄。弱すぎる」

 そこからでは遠すぎる。貴様らの貧弱な魔力では我に対して有効な攻撃にはならない。
 我に傷を負わせたいのであれば、もっと近づいてこなくては。
 魔王はその思いを心の手紙として、連中に送った。
 しかし攻撃は止む気配を見せなかった。
 敵は魔力の枯渇を狙っているようであった。
 その考えに対し、魔王はうんざりした様子で口を開いた。

「残念だが、その期待も無駄だ」

 その声には忠告を無視された苛立ちが含まれていた。
 そして、魔王のその言葉にも嘘は無かった。
 確かに、全方位防御状態を長時間維持するのは愚手だ。
 しかしそれはあくまで一般論である。
 魔王に限っては違う。魔王は例外なのだ。
 なぜなら――

「……」

 魔王はその理由を言葉では無く、感覚で送った。
 腹部が熱を帯びる感覚。
 魔力を生む内蔵が活発に動作している感覚だ。
 しかし、魔王のそれは普通の人のそれよりも熱く、そして大きい。
 なぜか。
 単純に、魔王の内蔵が大きいからだ。
 何かの病気なのではないか、と魔王自身が不安になったことがあるほどの大きさ。
 実際、その考えは正解であった。
 この世には体の特定の部位が極端に成長、肥大化する病気が存在する。
 魔王もそれである。遺伝子疾患にかかっているのだ。
 ゆえに、魔王は魔力の回復が異常に早い。
 全方位防御の状態で、消費と回復が五分の状態なのだ。
 かといって永久に維持出来るわけではない。魔力を生むために体に蓄えられた栄養を消費しているからだ。
 しかし十分すぎるほどの持続時間。
 それを魔王は心の声で説明してやった。

「……ちっ」

 しかし直後、魔王はまたしても舌を打った。
 わざわざ丁寧に教えてやったにもかかわらず、接近してくる気配を見せないからだ。
 だから魔王は、

「ならば、痛みとともに学んでもらおうか」

 と言いながら、片手を杖から離した。
 その手の平を目標に向けながら発光させる。
 すると間も無く、光の球の中で新たな光の弾が生まれた。
 しかしその成長は緩慢。
 全方位防御のほうに多くの魔力を割いているからだ。
 だが急ぐ必要は無い。
 相手は変わらず動こうとしていないのだから――

「む?」

 直後、魔王は自身の心に浮かんだ「急ぐ必要は無い」という思いを消した。
 目標が走り始めたのだ。
 走り出したといっても、その速度は徒歩とあまり変わらないが。

「合流するつもりか」

 そして、目標の考えを読み取った魔王はそれを言葉にした。
 事実、少し離れたところにいた味方が駆け出している。
 しかしどちらも遅い。
 これならば合流前に散弾を撃ち込めるだろう。

「……」

 が、魔王はわざと待った。
 笑みを浮かべながら走る二人を眺めた。
 そのほうが面白いと思ったからだ。
 そして、合流した二人は魔王が感じ取った通り、協力して防御魔法を展開した。
 一般人からすれば強力な光の壁。
 しかしそれは、あくまで「一般人」にとっての評価。
 魔王にとっては違う。
 だから魔王はそれを言葉にした。

「良い考えだが、無駄だ」

 同時に防御魔法を一瞬解除し、散弾を発射。
 放たれた暴力は、身を寄せ合う二つの目標をまるで紙くずのようになぎ払った。
 その予想通りの結果に、魔王は満足した様子で口を開いた。

「やはり、二枚抜きになってしまったな」

 そしてそれを見てからようやく、敵は前進を開始した。
 接近しなければ数を減らされ続けるだけであることに気付いたのだ。

「ようやく来るか」

 魔王は待ちくたびれたかのような口調でそう言った。
 喋りながら、魔王は敵の前進速度を計った。

(『速い』やつが五人いるな)

 魔王は「たったの五人か」という思いを抱きながら、丘の方に視線を移した。
 その方向から一際速いやつが来ているからだ。
 共感を使って全員に指示を出しているので隊長格だと思われる。
 そんな重要な人物が最前を走っているのだ。
 味方を鼓舞するためだろうか?
 何にしても我相手にその行動は愚かだ。
 だが、

「……気に入った」

 その勇気は賞賛しよう、魔王は本当にそう思った。
 だから顔をちゃんと見ておこうと思ったのだ。
 すると間も無く、その者は丘の向こう側から姿を現した。
 いや、飛び出した。
 舞い上がる雪煙と共に。
 太陽を背負いながら。

「っ!」

 その後光の眩さに魔王は目を細めた。
 そして、ゆえに魔王は即座に撃てなかった。
 狙いを狂わされたからだ。
 太陽光を利用した『外し』である。
 しかし魔王はそのずれを瞬時に修正し、

(おっと)

 右に跳ぶように『雪を蹴った』。
 いや、それは雪では無かった。
 同時に鳴り響いた、重く硬いものが割れたような音がその証拠。
 それは氷であった。氷に『成って』いた。
 ゆえに、魔王の影は地を蹴った時とさほど変わらぬ勢いで右に流れ始めた。
 直後、直前まで魔王がいた場所に光弾が着弾。
 そして舞い上がった雪柱の高さは、魔王が放った散弾によるそれと同じほどであった。
 魔力が高いからでは無い。射手の速度が乗っているからだ。
 そしてこの光弾は通常の射撃。
 ゆえに、魔王の散弾とは異なり連射が利く。
 右に流れる魔王を追う様に、次々と光弾が飛来。
 しかし当たらない。影に触れるだけ。掠めるだけ。
 傍目には「惜しい」ように見えた。
 残念ながらその考えは間違いであった。
 魔王には相手が放つ攻撃の内容が、威力と速度、その数が分かっていた。
 だから速く、大きく動く必要が無かった。魔王は最小限の回避行動を選べたのだ。
 そして数が分かっているがゆえに、反撃も最速で行える。

「返すぞ!」

 最後の一発が真横を通り過ぎたと同時に、魔王は散弾で反撃した。
 これで終わってくれるなよ、という思いを込めて。
 が、放たれた散弾はその魔王の思いを裏切るかのように、良いものであった。
 集弾性が高く、数も申し分無い。
 だから魔王はすぐに敵の生存に対する期待感を失った。
 しかし直後、

「シャァァッ!」

 独特の雄叫びが空に響いた。
 耳に残るその声と共に、太陽を背負った男の影が煌く。
 後光よりも眩しく。
 手先から溢れたその煌きは、線の形を成した。
 太陽を遮る自身の影を両断するかのように、縦に、真っ直ぐに描かれた。
 切り裂くように、飲み込むように、線と散弾がぶつかり合う。

「ほう」

 瞬間、魔王は感嘆の声を漏らした。
 瞬時に、男の生存を確信したからだ。
 男は散弾を切り裂いたわけでは無かった。
 男の線に魔王の弾を切る力は無かった。そも、二つに分けても意味が無い。
 だから男は受け流した。
 弾を選んで「撫でた」のだ。
 そうして男は弾の軌道を変え、自身がすり抜けられる隙間を作ったのだ。
 それは賞賛すべき判断力であった。下手に受けようとすれば終わっていただろう。
 だから魔王は、

「いいぞ! そうでなくては!」

 興奮の声を上げながら着地する男に向かって踏み込んだ。
 近くで顔を見たいと思ったからだ。
 何より、近くで「やり合いたい」と思ったからだ。
 そして、魔王のその踏み込み速度は男と同等であった。
 その速度の秘密はやはり足に見えた。
 足裏から防御魔法が展開されている。
 単純に接地面積を大きくすることで単位面積あたりの雪に対しての加重を減らし、足が沈まぬようにしているのだ。
 そしてその形状は細長い。
 滑走性を増すためだ。
 そう、この走行術は我々が知るスケーティング技術となんら変わらない。
 違うのは、光魔法と雪の間に斥力(せきりょく)が働くため、加速性が非常に高いこと。
 男が使っている高速移動技術も同じ。
 そうだ。この世界において、足裏からの魔力放射能力を発達させるスポーツの一つは、スキーだ。
 ゆえに、雪国の人間は足で魔法を使える者が多い。
 だから、魔王は「たったの五人か」と思った。
 そして魔王はその理由を先ほど知った。
 男の手に握られている剣が、この国では見慣れないものであったからだ。
 その刀身は大げさなほどに丸みを帯びていた。
 それは曲刀。撫で斬ることに特化した剣であった。
 そして直後に魔王の望みは叶った。
 男と魔王の視線が交錯する。
 男の顔は目元以外が白い布で覆われているため、傍目にはその表情は窺い知ることが出来ない。
 しかし魔王は感じ取った。
 大きな緊張と、それを凌駕する強い覚悟の意思を。
 対し、魔王の顔に浮かんでいるのは表情は愉悦。期待の色を含んだもの。
 服装の色が対照的であるゆえにより際立つ。
 男は全身白。雪の中に身を隠すための色。
 対し、魔王は黒装束。隠密性を無視した色。
 対照的なその二人の意識の交錯は、一瞬で終わった。
 男が加速して視線を外したからだ。
 迫ってくる魔王を振り切ろうとするかのように。
 丘の上から飛び出してきた時よりも速い。
 一度も減速していないからだ。着地の時すらもである。
 しかし魔王との距離はみるみる縮まっていった。
 あと五秒もすればぶつかり合う距離。
 魔王の方が速いからでは無い。
 男の動き方が魔王を中心とした時計回りだからだ。
 魔王の動きは単純な直線。
 まっすぐ男を追いかける魔王の心は「突撃」という単語で埋まっていた。
 魔王は昂ぶるその心に身をゆだね、

「そおら、いくぞっ!」

 心のおもむくままに、杖を水平に振るった。
 そして放たれたのは大量の光る糸。
 光魔法を練りこまれた電撃魔法の束だ。
 触れただけで感電死しそうな太さ。
 速度が出ている状態でなぎ払うように放たれたゆえに、その形状は綺麗な三日月であった。
 これに対し男は、

「ジャアァッ!」

 同じく、曲刀から三日月を放った。
 しかしその軌道は斜め下。
 ゆえに三日月は直後に雪面へ着弾。
 立ち昇る雪の柱と共に、光る濁流があふれ出る。
 嵐と化した刃が雷蛇を飲み込み、切り裂く。

「ふんっ」

 しかし、魔王はそれを鼻で笑った。
 視線を上に向けながら。
 魔王の意識は濁流の方には一切向いていなかった。
 濁流は脅威では無いと分かっていた。
 雷蛇とぶつかり合った時点で、その威力のほとんどを失っている。
 残りかすが多少飛んでくるが、これは防御魔法でどうとでもなる。
 しかし、なぜ「上」なのか?
 魔王は気付いていた。
 三日月が雪面に着弾した直後、男が体を右に鋭く傾け、曲刀を雪に突き刺しながら急減速したことを。
 感知したわけでは無い。これは単純な経験則。
 そして同時に、魔王の意識は一瞬右に向いた。
 走り続ける男の幻影を追いかけるように。
 しかし魔王はそれが男が仕掛けてきた感覚汚染であることを経験から知っていた。
 だから破るまでも、感覚を修正するまでも無く、魔王は反射的に視線を上に向けられた。
 そして思った通り、男の姿はそこにあった。
 減速した後、魔王の頭上を越えるように跳躍したのだ。
 わざわざ三日月を下に放ったのは、雪の柱と濁流で身を隠すため。
 男と魔王の視線が再び交錯する。
 瞬間、

「シャラァッ!」

 男は気勢と共に、曲刀を振るった。
 振り上げるように、顔面を縦に撫でるように。
 しかし直後に散ったのは鮮血では無く火花。
 刃が撫でたのは皺だらけの肌では無く、杖。
 魔王はその衝撃を手に感じながら、心の声を送った。
 残念だが、それはよくある手だ、と。

「そして――」

 頭上を飛び越えた男に向かって、魔王は口を開いた。
 着地する男に向かって杖を向けながら、声を上げた。

「そんなありふれた手で獲れるほど、我の首は安く無いぞ!」

 叫びながら、魔王は杖を輝かせた。
 先端から光弾が放たれる。
 単発では無い連射。

「ッ!?」

 その数に、男は顔を歪ませた。
 視界が埋まるほどの数。
 まるで部隊から制圧射撃を受けているかのよう。
 しかしやはり精度は低い。
 杖が向いている方向の通りに、まっすぐ飛んでいる光弾の数はそれほど多くない。
 だから男は下手に左右に動かず、魔王から離れることを優先しながらこれを受けた。
 が、

「くっ!」

 男の口から苦悶の声が漏れた。
 直撃したわけでは無い。撫でられただけ。
 しかし、それだけで白い布ごと皮膚を持っていかれたのだ。

「「チィっ」」

 直後、魔王と男、二人の口から同時に舌打ちの音が漏れた。
 魔王が舌打ちした理由は、もっと派手な赤色を期待していたからだ。
 対し、男が舌打ちした理由は避けきれなかったからでは無い。
 感覚汚染が効かなかったからだ。
 だからこんな窮地に見舞われた。
 いや、効かなかったという表現は正しくない。
 復帰が異常に早いのだ。ほぼ瞬間的に回復している。
 感覚汚染に慣れているとしてもおかしい。

(それに――)

 それだけでは無いのだ。
 感覚汚染を仕掛けた時に、奇妙な感じがしたのだ。
 まるで、『魔王が二人いたような』――

「!?」

 瞬間、男の背筋は凍りついた。
 突如、魔王が攻撃の手を止めて笑みを浮かべたからだ。
 おぞましい笑み。
 まるで、獣のような――

(そうだ、それだ)

 あれに似ている。獲物を追い詰めた肉食獣の目に。
 圧倒的優位に立つものだけが浮かべられる表情。
 それだけじゃない。あれは、あの目は愉悦の色も含んでいる。
 命を弄ぶ子供のような目。
 だから恐ろしい。おぞましい。
 なぜそんな表情を浮かべる?! どうしてそんな目が出来る?!

 なぜか――

 魔王は嬉しかったのだ。本当に。
「二人いる」と感じてくれたことに。
 だから魔王は思った。今の反撃で終わらなくて良かった、と。
 だから攻撃の手を止めた。
 だから見せてやろうと思った。

(ちょうど、お仲間も到着したようだしな)

 そんな事を考えながら、魔王は再び走り始めた。
 直後、四方八方から光弾が飛来。
 追いついた男の部下達が放ったものだ。
 四人の部下達は光弾を撃ちながら隊長と合流し、円状の陣形を組んだ。
 魔王を包囲したまま旋回を開始し、攻撃を続ける。
「狼牙の陣」に似た攻め。
 違うのは距離感。
「狼牙の陣」と比べると、円が大きい。
 接近戦は選択肢に入っていないかのような大きさ。
 接近戦が出来ないわけでは無い。部下達も隊長と同じく曲刀を所持しており、その扱いに長けている。
 単純に近づく必要が無いからだ。
 むしろ、包囲した今の状態では近づいてはいけない。なぜなら――

「おおっと」

 直後、その理由たるものに襲われた魔王は声を上げながら跳び避けた。
 それは濁流。
 小さな三日月から生まれたものゆえに、その規模は大きくない。
 が、

「ほほう」

 魔王はその攻撃に喉をうならせた。
 数が多いのだ。
 小さな三日月の連射。
 一撃の威力よりも手数を重視した攻め。
 しかしその数ゆえに、生まれた濁流は嵐のよう。
 だからうかつに近づいてはいけない。巻き込まれるからだ。

「はっは! いいぞ!」

 が、魔王はその嵐の中で笑った。
 魔王にとってはそれは「楽しい運動」でしかなかった。
 あの時のシャロンと同じである。魔王もまた、高速演算とそれに伴う快楽に身をゆだねていた。
 しかしその快楽は長続きしなかった。
 足が疲れてきたのだ。魔王は若くない。
 ゆえに、魔王はすぐに楽な方に切り替えた。
 正確には、より楽でかつ、「楽しい」方に。
 右手にある杖を輝かせ、先端から蛇を生みだす。
 雷を纏った蛇。
 魔王はその蛇を雪の上でのた打ち回らせるように、杖を振るった。
 暴れまわる雷蛇が光を飲み込み、嵐を食らう。
 雷独特の破裂音と共に消え去る三日月。
 同じものを左手からも。
 そして魔王は両手から生やした二匹の蛇を存分に暴れさせるために、体を回転させた。
 自身の体で十字を描くように、両腕を大きく広げて。
 回る。踊るように、雪の上でくるくると。

「ふ、はははは!」

 回りながら、魔王はさらに大きな笑い声を響かせた。
 避けるのも楽しいが、潰すのも楽しい。
 いつからだろう、こういう事を楽しいと思うようになったのは。
 最初は恐怖しか無かった。戦いというものを心底恐れていた。
 こうなったのはきっと、「あいつ」のせいだ。
 我は「あいつ」から色々な影響を受けた。
「あいつ」の真似をしようとしたこともある。
 それはまだ続いている。だから我は今もこの手に「こんなもの」を持っている。

「ふはは……」

 しかし時と共に魔王の笑みは薄くなっていった。
 単純に飽きてきたからだ。
 それに、『準備』も出来た。
 だから、魔王は男の方に意識を向けながら、それを始めた。

「!?」

 瞬間、同じ違和感が男を襲った。
 まただ! 二人いるように感じる! 以前よりも強く!
 違和感はそれだけでは無い。魔王の回転が妙に綺麗になったように感じる。
 それに、魔王の背が少し低くなったような――

(いや、違う! あれは――)

 男は気付いた。
 魔王の体が沈んでいるということに。
 なぜだ。
 言葉として心に浮かぶよりも早く、男はその疑問の答えを足で感じた。

「!?」

 ずぶり、と足が深く沈む感覚。
 視界の中を流れる景色がその速度を失う。
 まるでぬかるみに踏み込んだような感覚。
 直後、疑問の答えは言葉となった。

(雪が溶けている!?)

 同時に湧き上がるもう一つの疑問。
 ならば何故、魔王の動きは、回転は鈍くならない?
 その答えは瞬時に言葉となった。

(冷却魔法で自分の足元だけを固め直している……?)

 直後、正解だ、と頭の中で声が響いた。
 魔王の声で。

「……!」

 だから男はそこで思考を切った。
 切ってしまった。
 もう一つの疑問の答えを考えぬままに。
 なぜ、「二人いる」と感じたのかを。
 なぜ、その感覚が強くなったのかを。
 そしてそれが魔王の『準備』の答え。
 魔王は雪が溶けるのを待っていたのでは無い。
 後はこの『準備』の成果を見せるだけだ。
 しかしそうするとこの戦いはすぐに終わってしまうだろう。魔王はそう思っていた。
 だから魔王は男達に向かって叫んだ。

「どうした、ぬるいぞ!」

 さらなる攻撃を煽るために。
 しかし攻撃は苛烈になる気配を見せない。
 それどころか密度が徐々に下がっている。
 男達が距離を取ろうとしているからだ。
 動きが鈍くなった今の状態で撃たれることを恐れているのだ。
 溶けていないところまで逃げようとしている。
 その姿に失望の念を抱いた魔王は怒りと共に声を上げた。

「そこまでか?! その程度なのか?!」

 しかしその期待に応える者はいなか――

「シャアアアァッ!」

 いや、一人だけ、隊長がいた。
 真っ直ぐに、魔王に向かって駆けて来ている。
 しかしその速さに先ほどまでのような鋭さは無い。
 だから魔王は笑みを返した。
 隊長の心に、思いを伝えた。
 純粋に嬉しいと感じたことを。
 同時に、馬鹿にしていることを。
 だから魔王は隊長に対して背を向けながら、

「水の上での走り方を教えてやる!」

 そう声を上げた。
 そして直後、魔王は本当に言ったとおりの事を、溶けた雪の上を走り始めた。
 それはクレアが見せた水面立ちとは異なるもの。
 その原理は、誰でも一目で分かるほどに分かりやすいものであった。
 魔王が水面に足を降ろすたびに、轟音と派手な水しぶきが立ち上がる。
 足裏で魔力を爆発させているのだ。
 単純に水面を蹴る力が強いのだ。

「っ!」

 派手に迫るその魔王に対し、突撃対象にされている男の部下は目を見開いた。
 そして部下は反射的に三日月での迎撃姿勢を取った。
 曲刀が水平に振りぬかれ、三日月が放たれる。
 次の瞬間、

「!」

 今度は隊長が目を見開いた。
 隊長は見た。感じた。
 魔王が二人に別れたのを。
 二人になった魔王はそれぞれ右と左に跳んだ。
 三日月は右の魔王を捕らえたが、すり抜けてしまった。
 つまりこれは――

(魂で作られた偽者?!)

 同じ事を三日月を放った部下も考えていた。
 その証拠に、偽者は目には映っていない。魔王は二人に増えてなどいない。
 なのに、なぜか偽者の方に目がいってしまう。意識が向いてしまう。
 見てはいけない。なのに、見てしまう。

(外されている?!)

 部下はそう思った。
 直後、声が響いた。
「違う。外しでは無く、汚染だ」という魔王の声が。
 汚染――その表現は透き通るように部下の心に響いた。
 なぜなら、さっきから感じているからだ。

手

 暗い闇の中から伸びてきた無数の手に、心を掴まれているような感覚を。

「!」

 その感覚は突然消えた。
 そして気付けば、魔王は既に目の前。
 反射的に部下は右手にある曲刀を肩の上に振り上げ、袈裟の軌道で振り下ろした。
 三日月を叩き込むつもりだった。しかし、魔王の踏み込みの方が速かった。
 刃は三日月を放つこと叶わず、魔王が前にかざした杖とぶつかり合った。
 直後、

「?!」

 部下は目を細めた。
 視界は白一色。
 それが、刃と杖の衝突点から生まれた閃光のせいだと気付いた瞬間、部下の腹部に鋭く熱い痛みが右から左へ一文字に走った。

「!?」

 魔力を込めた杖で腹を打たれた? 白い世界の中で部下はそう判断した。
 そして魔王の気配は真左を通り抜けようとしている。
 後ろに回りこむつもりだ。
 そうはさせぬと、体を左に鋭く半回転させる。
 しかし次の瞬間、

「え?」

 部下は間抜けな声を上げた。
「背中に」痛みが走ったからだ。
 右脇腹から左肩へと鋭いもので撫でられた感覚。
 なぜ? 部下の心はその言葉で埋まった。
 そして直後に部下の視界は回復した。
 前には誰もいない。
 しかし気配は目の前に感じる。

(あ、これは――)

 気付いた部下は再び振り返ろうとした。
 しかしもう何もかも手遅れだった。
 真横に裂かれた腹からは臓物が垂れ流されている。
 背中も真っ赤。背骨まで断たれている。
 もう戦える状態じゃない。振り向いても何も出来ない。
 しかしそれでも部下は最後の力を振り絞って振り向いた。振り向かずにはいられなかった。
 そして振り向いた先には、部下が想像した通りのものがあった。
 それは杖を真上に、大上段に構える魔王の姿。
 いや、それは杖では無かった。

(なぜ――)

 なんでそんなものを持っている? それが言葉になるよりも早く、魔王はその手にあるものを、

「むんっ!」

 振り下ろした。

「あがっ!」

 部下の額から真下に赤い線が引かれ、腹にある横線と交差する。
 まるで赤い逆十字を描くように。

「……っ」

 そして部下は「それ」を凝視したままその場に崩れ落ちた。
「それ」は剣だった。
 先ほどまでは杖だった。
 それは俗に「仕込み杖」と呼ばれる武器。
 刃を内包した杖だ。
 なぜ魔王がこんな武器を使うのか。
 魔王にもあったのだ。彼らと同じ頃が、若く弱かった頃が。自分よりも強いものと戦う機会が。
 そんな戦いを生き残るために若き魔王は剣を手に取った。自身の弱さを補うために、硬い相手の防御魔法を突破するために、重量物を手に取る必要があったのだ。
 意外にも、若き魔王が得意としていた戦闘方法は接近戦である。速度を乗せた重量物を叩き込み即座に離れる、いわゆる一撃離脱戦法だ。
 だから魔王は老いてなお、雪の上を走る体力がある。

「……ふん」

 そして魔王は苛立ちを滲ませた表情で刃についた血を振り払った。
 自身の太刀筋が弱くなっていることを実感したからだ。
 魔王はその醜い表情を維持したまま、刃を「納めた」。
 凶器を隠していればその機構がなんであれ、「仕込み」という接頭語が付くが、魔王が所持している仕込み杖は至極単純なものであった。
 はっきり言ってただの剣と変わらない。杖が「鞘」である。
 先端が「柄」。握りやすいように指の形に合わせて波打った形状をしている。飾りに見せかけた「鍔」もちゃんと付いている。

「……」

 そして魔王は表情を戻しながら隊長の方に意識を向けた。

「……っ!」

 隊長はその光景に目を見開いていた。
 だが、隊長の目線は、意識は部下の亡骸の方には向いていなかった。
 隊長は直前の出来事を思い返していた。
 目には、部下が斬られながら一回転しただけに見える。
 部下は背後に回った「偽者」を追いかけてしまったのだ。
 問題はそこだ。
 なぜ、「幻」では無く「偽者」と表現してしまうのか。
 その理由はすぐに分かった。
 生々しいのだ。
 魂の集合体である「偽者」から、筋肉の収縮や、血の巡り、心臓の鼓動が感じ取れるのだ。
 それだけでは無い。足音もだ。人の形をした「偽者」がその足を降ろすたびに、「音」が発生していた。
 そう、あれは確かに「音」だった。「耳」に届いた。
 そのように魂が振動している? 魂を使ってよく似た「波」を生み出している?
 いや、それは何かおかしい。
 いくら集合体とはいえ、魂に「音」を生み出せるとは思えない。波の形状や振動数は合わせられても、耳が感知出来るほどの大きな波を出せるとは思えない。
 本当にそんなことが可能ならば、この世界は耐え難いほどにうるさいはずだ。

(一体どうやって……?!)

 瞬間、隊長は気付いた。
 というより、魔王が見せた。気付かせた。
「偽者」はただの魂の集合体では無かった。
 それは糸で、電撃魔法で結びついていた。
 まるで透明な糸で編んだ人形。
 その糸は魔王の手から伸びている。
 透明な操り人形だ。
 電気の力を使っているゆえに、「音」を出せる。
 そして恐ろしいことに、この人形は「音の反射」まで再現している。「音」を受けると、即座に似た「波」を返している。
 本当にそこに何かいるように感じられる。
 しかし対抗手段はある。
 隊長はそれを叫んだ。

「目を使え! 光の情報だけを信用しろ!」

 と。
 これに魔王は、

(それはいい対抗策だ)

 と、心の声で賞賛を送ったが、

(だが、)

 同時に警告も送った。

(我がこれまでに経験した戦いの中で、同じ対抗手段を思いついた奴が一人もいなかったと思うか?)

 それに、隊長は他の大事な事を忘れている。
 偽者の方に意識が向きすぎている。
 だから魔王は見せた。

「何っ?!」

 それを見た隊長は驚きの声を上げた。
 魔王と偽者が重なったのだ。

(いや、違う。これは――)

 しかし、隊長はすぐに自分の言葉の間違いに気付いた。
 重なっているのでは無い。身に纏っているのだ。

 これはシャロンが見せた技術と同じ類のものである。
 が、その効果は大きく異なる。
 まず第一に、身体能力はあまり強化されない。
 出来ないわけでは無い。単純に魔王の体が耐えられないのだ。
 そして第二に、糸が体外に露出しているゆえに、攻撃を受ければ簡単に破壊されるということ。
 欠点は多い。しかし、魔王は遠隔操作出来るという点に大きな価値を見出していた。

 そして、隊長が最も驚いたことは他にあった。
 魔王が偽者を身につけた瞬間、それは起きていた。

(偽者が、魔王の意識を、感覚を塗り替えた?!)

 瞬間、隊長は理解した。
 魔王に精神攻撃が通じなかった理由を。

 ここまで読んで、察した方は多いだろう。
 その通り、魔王は最も混沌に近い存在だ。

「ふん……」

 そして、魔王は隊長達がまだ重要なことを見落としていることに対して、ため息のようなものを吐いた。

(まだ「偽者」などと考えておるのか)

 魔王は「偽者」という表現が気に食わなかった。
 ゆえに、

(……まあ、いい。死んで学んでもらうとしよう)

 そう思った魔王は次の目標に向かって「杖」を構えながら雪を蹴った。

(来る!)

 その動きに、突撃対象となった男は即座に反応し、迎撃の三日月を放った。
 予想していたからだ。次の攻撃対象は近くにいる自分だろうと。
 それは他の者達も同じであった。
 ゆえにすぐにその男の援護に回れた。瞬時に情報の提供を開始出来た。
 そんな警戒の目が集まる中、三日月を回避した魔王が反撃の光弾を放つ。

(遅い?!)

 その速度に、男は戸惑った。
 突進する魔王より少し速い程度。軽く放り投げただけ。
 この弾は一体何なのか。
 その答えは直後に明らかになった。

「――っ!」

 耳をつんざく轟音と共に白む視界。

(これは――)

 言葉にするまでも無く、理解した。
 あの弾は破壊を目的としたものじゃない。強い光と轟音で視力と聴力を一時的に奪うためものだ。

(しかし!)

 問題は無い! 男は白い世界の中でそう己に活を入れた。
 なぜなら、見えなくとも分かっているからだ。
 離れたところにいる仲間達が正確な位置情報を提供してくれているからだ。
 目の前に気配が迫っている。
 しかしこれは偽者。本体はそのすぐ後ろにいる。

「!」

 直後、気配が二つに、左右に別れた。
 視界はいまだ白。
 だが問題は無い! 本体は、

(左!)

 仲間を信じた男は、左に回りこもうとする気配に向かって曲刀を振るおうとした。
 が、

「ぐ?!」

 直後、痛みとともに男の体は硬直した。

「う、お、があああぁっ!?」

 そして痙攣した。
 本体は右だった? 男は一瞬そう思った。
 しかし男は直後にそう思った己を、仲間を疑った事を恥じた。
 本体はやはり左。
 回復した視界に映るその姿が証拠。
 だが魔王は、本体は何もしていない。
 痛みの正体は電撃。
 右に回りこんだ偽者に抱きつかれているのだ。

「これに攻撃能力が無いと思っていたのか? 愚か者め」

 突如魔王が放ったその罵倒に、男は返す言葉が無かった。
 その通りであった。『幻』という印象が強すぎた。身に纏っていたから、攻撃能力が無いと勝手に思い込んでいた。
 そんなわけが無い。「手と繋がっている」のだから、本人の意思で強弱を自在に変えられる。
 魔王はわざわざそれを見せてくれたのに、その事に気付けなかった。

「糞っ……!」

 だから、男は己に対して、見えない何かに対して毒を吐いた。
 そしてそれが男の最後の言葉になった。

「っ!」

 杖から抜き放たれた銀閃が、男の胸を横一文字に切り裂いた。
 振りぬいた勢いを利用して刃についた赤色を振り払う。
 そして即座に納刀。
 その一動作は美しく、そして我々の知るものであった。
 クラウスや雲水の見せた居合いと全く同じ。
 魔王もまた、「杖」と「剣」の使い分けを模索するうちに、同じ技を身に着けていたのであった。
 そして魔王は分身を身に纏いながら「杖」を構え、次の目標に向かって再び突進。
 それを見た隊長は、

「撃て!」

 と叫んだ。
 それしか言えなかった。
 それ以上の対策が浮かばないからだ。
 そして部下達は声に応じるまでもなく、既に援護の三日月を放っていた。
 狙撃隊からの援護もほぼ同時に始まった。
 しかし当たらない。
 火力が、密度が足りない。
 だから隊長は考えた。考えようとした。
 しかし出来なかった。

(くそ! なんだこれは!?)

 隊長は心の中で叫んだ。
 あるものを振り払うために。集中力を取り戻すために。
 だがその願いは叶わなかった。
 隊長の心は依然、「手」のようなものに掴まれていた。

 かつてアランはその感覚を「魅了」と表現したが、まさしくその通りであった。
 考え方の基本は魔王が言った通り「汚染」。別の感覚を植えつけるというもの。クラウスが放った「無明剣」と同じだ。
 しかしこの汚染は「無明剣」とは異なり、負の感情を基礎としたものでは無い。
 魔王が植えつけているものは「好奇心」。
 見てはいけないが見たい、見ている場合では無いが気になる、魔王はその感覚を利用しているのだ。
 この感覚は幅が広い。「恐怖」を基本とした「怖いもの見たさ」や、さらに「性欲」や「罪悪感」を利用した「背徳感」など様々だ。
 魔王は自身が知る限りのものを混ぜて使っており、この感覚に支配されたものは集中力を失う。つまり隊長は「気が散っている」のだ。深刻なレベルで。
 そして付け加えると「手」は魔王が見せているものではない。強度の汚染を受け、「見てはいけないが見なければならない」、という矛盾した感覚に陥った時にその「手」は現れる。「手」に心を掴まれているような感覚を覚える。
 これはただの錯覚である。脳が、魂が勝手にそのようなイメージを生み出すのだ。この世界の人間はそのように出来ている、ただそれだけの話である。

 では、アランが見たものも「錯覚」なのか?
 否。この世界には人間の錯覚を利用するものが存在する。

 そして、その感覚に汚染されているものは隊長だけでは無い。

「うおぉぉぉぉっ!」

 だから次の目標は迫る魔王に向かって必死で三日月を放った。連射した。それしか思いつかなかったからだ。
 しかし当たらない。避けられ、弾かれ、防がれる。
 引き撃ちしているが、その速度は緩慢。
 詰まる双方の距離。
 その間合いが三度の大きな踏み込みで消えるほどになった瞬間、魔王は仕掛けた。

「!」

 目標の眼前に偽者が迫る。
 これに目標は「外し」を仕掛けながら、曲刀を振り下ろし、三日月を放った。
 偽者の感覚を外すことに意味があるのだろうか、この時の目標にはそれを判断するほどの集中力すら無かったが、

「!?」

 瞬間、目標は感じ取った。
 偽者の感覚が瞬間的に回復したことを。
 本体が修正したのだ。
 わざわざ本体が修正したということは、この偽者はある程度「自動」で動いている? 外すにしても両方同時に仕掛けなければ意味が無い?
 そのような疑惑が目標の心に湧いたが、それを考える集中力も、そして時間も今の目標には無かった。
 そしてそのような集中力で放たれたゆえにか、三日月の軌道は完全に外れていた。
 ほぼ真下と言える軌道。
 しかしこの失敗が今回は功と成った。
 沼のように溶けた雪に叩き付けられた三日月は、派手なしぶきを上げながら少し潜り、そして弾けた。
 水面下から湧き上がる光る嵐。
 その小さな濁流は偽者を飲み込み、偽者を切り裂いた。
 ばらばらになる偽者。
 これで偽者は無力化した、後は本体だけ――そんな考えが安堵感と共に浮かんだが、

「!?」

 その思いは一瞬で泡沫と化した。
 偽者が再生したのだ。ばらばらになった部位が瞬く間に繋がったのだ。
 そして同時に声が頭の中に響き始めた。

「見ての通りそれは脆い」

 しかしその言葉は目標の意識には入らなかった。
 声と同時に攻撃されたからだ。

「!」

 偽者が放った「右拳」による一撃を、目標は防御魔法で受け止めた。
 電撃魔法による独特の炸裂音と同時に声が続く。

「ゆえに、我は簡単に治せるように設計した」

 偽者に重さが無いゆえか、その一撃は軽かった。
 しかし速い。
 そしてやはり、魔王の声は目標の意識には入らなかった。
 立て続けに左、再び右、さらに左と、攻撃されたからだ。聞く余裕など無かった。
 しかしそれでも声は続いた。

「よく出来てるだろう?」

 その言葉だけが、感情と共に目標の意識に染みこんだ。
 その感情が喜び、愉悦であることを理解した瞬間、

「ぐっ?!」

 目標の右足に鋭い痛みが走った。
 すねを蹴られた。上段に気を取られたその隙を付かれた。
 追撃される、その言葉が恐怖となるよりも早く、

「あがっ!」

 目標の顔は見上げるように空へ向いた。
 低姿勢で懐に潜り込んで来た偽者にアゴを打ち上げられたのだ。
 そして目標の目に映った空の色は鮮やかな青では無かった。
 白みがかっていた。
 それはアゴを強く打たれたことだけが原因では無かった。
 離れたところにいる仲間達にはそれが見えていた。
 目標を打ち上げた瞬間、偽者が「光った」のだ。
 視認出来るほどに、高い電流が流れたのだ。見逃されているが、大きな音を発する時もわずかに光っている。
 その閃光に、目標の目は眩んだのだ。
 そして同時に脳を激しく揺らされた目標は、わずかに残っていた判断力すら失っていた。
 それでも、目標は朦朧とした意識の中で体勢を立て直そうとした。目線を前へ向けなおした。
 だがその直後、

「!」

 視界を水平に切り裂くように、銀色の閃光が奔った。
 目の前にいる偽者の胴と腰が別れる。
 偽物ごと斬られたのだ。
 痛みからその傷の深さも分かった。
 これはもう助からない、ならば――

(せめてあと一撃!)

 目標は残った力の全てを右手にある曲刀に込めながら、背後に斬り抜けた魔王の方に振り返った。
 激しく発光する曲刀。
 我が最大の濁流をもって貴様を道連れに、目標はその思いとともに曲刀を振り上げたが、

「くッっっ!」

 その右腕が振り下ろされることは無かった。
 二つになった偽者に後ろから抱きつかれたのだ。
 そして、魔王は痙攣する目標に向かって笑みを浮かべながら口を開いた。

「いい覚悟だ。華々しく散らせてやる」

 言いながら、魔王は目標の額に杖の先端を押し当てた。
 これに、目標は、

「おのれ……!」

 無念さを吐き出すことしか出来なかった。
 そして次の瞬間、魔王は杖を輝かせた。
 先端から閃光が、白色が溢れる。
 その色は刹那の間を置いて爆発音と共に赤に変じた。

「ーーーーッ!」

 直後、場に目標の叫びが響き渡った。
 それは声では無かった。頭は既に無くなっている。
 それは魂の叫びであった。
 その叫びはほとんど言葉の形を成していなかった。複数の感情を混ぜたものであった。
 最も目立つのは無念さ。
 その後ろに後悔。
 その後悔の中に、隊長への思いが含まれていた。
 その思いだけは言葉に変換することが出来た。
 それは、「強い思いを持てば、『手』を消すことが出来る」という助言であった。
 死の直前、彼は気付いたのだ。覚悟が汚染を吹き飛ばしていたことを。
 そして隊長はその思いを受け取った直後、

「魔王ーーッ!」

 叫んだ。
 そして走り出した。
 その心は同じように赤く燃えていた。
 部下が残した無念さが、命を弄ぶ(もてあそぶ)魔王の姿がその燃料となっていた。
 その顔は正に「鬼気迫る」という言葉を表したものであった。
 が、その顔を見ても魔王は笑みを崩さなかった。
 魔王は釣り上がったその口尻をさらにひきつらせるように、口を開いた。

「そうだ。より強い感情で、または相性の良い感情で己を上書きすれば汚染は解除出来る」

 そこで魔王は笑みを消し、言葉を続けた。

「だがお前は未熟だ。その感情に振り回されている。怒りを使うのであれば、それ相応の冷静さも必要なのだ。静かに熱くならねばならんのだ」

 怒りを利用して異なる汚染を仕掛けることが出来るのだ、魔王はそう隊長に教えてやった。
 しかし隊長はこの助言に応えなかった。出来なかった。
 だから隊長はただ走り続けた。
 その姿に魔王は落胆の表情を浮かべながら口を開いた。

「そうか、出来ないか。残念だ」

 そう言った直後、魔王はあることを思い出した。
 こんな事を始めたそもそもの理由だ。
 楽しむことばかりに執着して忘れてしまっていた。
 遊びで殺しすぎた。あと二人しかいない。狙撃要因はこれ以上近づいてこないだろう。
 この二人で本来の目的を済ませることにしよう、そう思った魔王は、

「では、もう疲れたのでな。遊びはここまでだ」

 終わりを宣言した。
 言いながら魔王は杖を隊長の方に向け輝かせた。
 先端に巨大な光弾が形成される。
 しかしそれを見ても隊長は足を止めなかった。隊長の怒りは、心は揺るがなかった。
 どんなに強烈な散弾が来ようとも突破してみせる、隊長の心はそんな覚悟で埋まっていた。

「くくっ」

 その覚悟を察した魔王は笑い声を漏らした。
 嬉しかったのでは無い。
 馬鹿にしているのだ。散弾だと思い込んでいる隊長の事を。
 隊長は汚染されているのだ。
 魔王は「挑発されている」という感覚と共に、散弾のイメージを隊長の意識に刷り込んだのだ。
 怒りで塗りつぶされているゆえに、簡単に「偽りの挑発」に乗ってくれた。
 だから面白い。簡単すぎて少し白けるほどに。
 そして直後、魔王はその思いを隊長の心に送ると同時に、杖の先端を「足元に向けながら」爆発させた。

「何っ!?」

 直後、眼前に表れた「白い壁」に、隊長は思わず足を止めた。

(雪の津波?!)

 出身地が海のそばであったがゆえに、隊長はそれをそう表現した。
 違う、これは雪崩だと、理性が瞬時に言葉を訂正したが、それは本能と魂にとってはどうでもよかった。

“飲まれる――後退しながら左右に逃げ――だめだ、この足場では間に合わない!”

 隊長の本能と魂は激しい言葉を交わしながら逃げ道を探した。
 しかし見つからなかった。

“ならば防御魔法で受ける? 馬鹿を言うな、無理に決まっているだろう!”

 ゆえに、二人のやり取りは過熱化していったが、

“逃げられないのであれば――”

 直後、透き通るような理性の声がその場に割り込んだ。

“突破しよう。押しつぶされないように、雪の中に埋められないように、上を目指して泳ぐんだ”

 その意見に、隊長の魂と本能は即座に賛成した。同時に隊長の足は動いた。少しでも上に跳ぶように、溶けた雪を蹴った。
 隊長は雪崩に対しての対処法を知っていたわけでは無い。
 しかし幸運にも、彼の理性は正解を引き当てることが出来た。

「うおおぉっ!」

 雪崩を掻き分けるように両腕を動かしながら、隊長は叫んだ。
 心を押しつぶされないために。体をすり潰すかのような激しい雪の圧力に抵抗するために。

「!?」

 しかし次の瞬間、隊長の心に絶望の色が滲んだ。
 左腕が止まってしまったのだ。
 重い。もう腕力だけでは動かせる気配が無い。
 しかしこの事態に本能が立ち上がった。

「ぐ……ぉ、」

 無意識のうちに逆手持ちに切り替えていた右手の曲刀を輝かせる。
 そして、本能は右肩と肘の内部で魔力を爆発させた。

「うお、ラアアァァァッ!!」

 瞬間、隊長の右腕は激しい痛みと引き換えに軽さを得た。
 雪の壁を突き抜けた感覚。
 その感覚は希望に変わり、隊長の体に力を与えた。
 這い上がるように、左手を爆発させる。

「ぶはぁっ!」

 次の瞬間、隊長の体から重さが消えた。
 激しく消耗した体に活を入れ直すために、息を吸い込む。

「げほっ! げほっ!」

 雪を飲み込んでいたらしく、激しくむせかえる。

「……が、ごほっ!」

 隊長は咳き込みながら、周囲に最大限の警戒を払った。

「……?」

 しかし、隊長が恐れていた事が起きる気配は無かった。
 頭を出した直後に追撃されると思っていた。

(魔王は?)

 姿が見えない。雪崩を起こした後、移動したようだ。
 どこに? そう思った隊長が視線と感知能力を巡らせるよりも一瞬早く、

「隊長ーーっ!」

 それは耳に届いた。
 女の声。この場にいる最後の部下だ。
 視線をそちらに向ける。
 来るな、という思いを込めながら。

「っ!」

 しかしそこには予想通りの光景があった。
 魔王に向かって突撃する女の姿。
 魔王も女に向かって走り始めている。

「駄目だ、逃げろっ!」

 お前一人でどうにかなる相手じゃない、その思いを込めて隊長は叫んだ。
 隊長は察していた。
 魔王の狙いがその女であることを。
 隊長は感じ取っていた。
 魔王が「この女は弱いから、『試す』にはちょうどいい相手だ」と考えていることを。
 何を試すつもりなのか、それを探る余裕は今の隊長には無かった。
 叫ぶことしか出来なかった。

「やめろ!」

 やめてくれ、という思いを込めながら。
 その叫びは女にだけでは無く、魔王にも向けられていた。

「……ふん」

 しかし魔王はその思いを鼻で笑った。

「……っ!」

 それを感じ取った隊長は歯を食いしばった。
 なんとかしなくては、本能がそう叫んだ。
 なにか出来ることは無いのか、魂がそう叫んだ。
 その叫びに理性が応えた。せめて援護を、と。
 その理性の声が響いたと同時に、隊長は意識を女の方に向けた。
 感知能力を、虫を使って情報を送る。
 その思いは瞬時に伝わり、女を動かした。

「シィッ!」

 気勢と共に曲刀を一閃。
 三日月が放たれる。
 助走の勢いが乗ったその一撃は「偽者」をとらえ、真っ二つに切り裂いた――
 かのように見えた。

「?!」

 しかし違った。「すりぬけた」のだ。そのように見えた。
 瞬間、隊長は思い出した。
 二人目の時もそうだったと。
 あいつが放った三日月もすり抜けたことを。だから「幻」という印象を抱いてしまったのだと。
 そして隊長は理解した。
 すり抜けたのでは無い、瞬間的に回復されたのだと。その証拠に、わずかであるが偽者の動きが被弾時に鈍くなっていた。
 つまり三日月では、単発の直線攻撃では駄目なのだ。例えば左右に引き裂くように、同時に複数の方向に力を加えなくては駄目なのだ。だから「濁流」は有効だった。
 あれは粘りのある液体のようなものだと考えるべきだ、隊長はそう思った。
 瞬間、「正解だ」という忌々しい声が隊長の心に響いた。
 しかし隊長はその声に何も返さなかった。
 ただ、女に情報を送るだけで精一杯だった。
 だが、女は、

「っ!」

 その声に応えることが出来なかった。
 既に偽者は目の前。濁流を気軽に放てる距離じゃない。自分を巻き込んでしまう。
 されど、女の体は反射的に動いた。
 右手から広く防御魔法を展開しながら突き出す。
 この本能に従った選択は正解であった。

「……」

 光る盾に突き飛ばされた偽者が声無くよろめく。
 相手の勢いを完全に止めた事を確認した女は、すぐさま防御魔法を解除すると同時に光弾を発射。

「……」

 声も、音すらも無く偽者の頭が吹き飛ぶ。
 偽者から発せられていたひりひりとした感覚が、攻撃意識が消える。
 殺せた? 無力化出来た? 
 そんな甘い意識が隙を生んだ。

「うっ?!」

 左すねに鋭い痛みが走る。

「がっ!」

 直後に今度は顔面に。
 女の上半身がのけ反り、よろめく。
 しかし女は千鳥足になりながらも、再び防御魔法を展開した。
 光の盾に偽者の拳が何度も叩きつけられる。
 その軽くも速い連打の衝撃を感じたと同時に、女の心に「なぜ?」という言葉が浮かんだ。
 魔王の手から偽者に伸びている線に信号は流れていない。今の偽者は自動操作のはずだ。
 頭を吹き飛ばした時に、偽者の意識が消えたのも確認した。
 なのに動いている。
 再び「なぜ?」という言葉が女の頭に浮かび上がった。
 その直後、声が響き始めた。
 それは感情を持っているが、感情をもとに行動しているわけでは無い、と。
 頭はただの意識と感情の発信源。我の感情を修復させるためだけに持たせてあるのだと。
 動作させている司令塔は別にあると。だから頭を潰しても止まらないと。
 この偽者は心無く戦う、ただの戦闘兵器なのだ、と。

「くっ」

 その言葉に、女は苦しみを表す音しか返せなかった。

「ふふ……」

 それを感じ取った魔王は新しい笑みを浮かべたが、

「……ん?」

 すぐにその笑みを消した。
 察したのだ。自分の感情が攻撃されたのを。
 先ほど、魔王は「手加減して、少しなぶって遊ぼうか」と一瞬思った。
 しかし、魔王はそれが自分の本当の感情から生まれた言葉では無いことを見破ったのだ。

「ほう……やはり、まったくの馬鹿、というわけでは無かったか」

 魔王は隊長に賞賛の言葉を送った。
 分身が魔王の感情を修復する能力を失った直後に、隊長は仕掛けていたのだ。魔王に偽りの感情を植えつけたのだ。
 そのタイミングは完璧であった。
 しかし今回は距離の遠さが仇となった。
 波が弱すぎたのだ。だから魔王は一瞬で看破出来たのだ。
 そして直後、その束の間の好機は終わりを迎えた。
 偽者の頭が生え、機能が回復する。

「!」

 瞬間、女は感じ取った。
 感情では無い、何かの信号が偽者の中を駆け巡ったのを。
 それが何を意味するのか、それは目に明らかになった。

「!?」

 直後、偽者は変わった。
 人の形を捨て、溶けるように、広がるように、網のように。
 そうだ。身に纏い、己の動作の精度を向上させるという機能を使わないのであれば、人の形にこだわる必要性などどこにも無い。

「くっ!」

 来るな、という思いを込めながら女は光弾を何度も引き撃ちした。
 しかし効果無し。確かに光弾は網にいくつかの穴を開けたが、瞬く間に回復された。
 そして女の目の前まで近づいた偽者は口を開けるように、飲み込むようにさらに広がった。
 やめろ、という拒絶の思いを込めて女が防御魔法を展開する。
 しかし、偽者はその光の壁ごと女を飲み込んだ。

「ぐ、きゃあああああぁっ!」

 紫電に包まれる女。
 焼ける匂いがその身から煙と共に周囲に溢れる。

「ぐ、あ、う?」

 その壮絶な痛みの中で、女は違和感を覚えた。
 痛みが緩んだのだ。
 そして同時に声のようなものが響いた。
 それは言葉では無かった。意思であり、要求だった。
 その要求を言葉にすれば、それは「明け渡せ」というものであった。「そうすれば楽になる」という誘惑も含まれていた。

「!?」

 そして女は気付いた。
 自分の右腕が、体が勝手に動きつつあることに。
 ゆえに女は気付いた。魔王が考えていることを。
 だから女は叫んだ。

「ふざ……け、るなっ!」

 全身の筋肉を硬直させて、抗う。
 そして女は感電しながらも、肉を焼かれながらも、魔王を睨み付けた。

「ちっ」

 その強い反抗の意思に、魔王は舌を打った。

(やはり抵抗されるか……)

 ある程度予想してはいたが、かなり酷い結果だ。ここまで自由に動かせないとは思わなかった。
 強い敵意を持つ相手を自由に操る、というのはやはり無理があるようだ。
 特にこの女は、強烈な痛みと死の恐怖を与えているというのに動じる気配が無い。
 複眼による指令はほとんど抵抗されている。多少動かせているのは、単純に電気信号のおかげだ。
 ゆえに効果が無いわけでは無い。が、実戦的では無い。偽者の能力を全て使ってこの程度ならば、やる意味が無い。割に合わない。
 やはり時間をかけて相手を屈服、または従順にしなければならないようだ。
 残念だ。魔王はそう思った。しかし、

「まあ、それでも、」

 魔王は口を開き、

「いいおもちゃにはなるか」

 気を取り直すことにした。

「立て」

 言葉と共に、魔王の手から伸びる糸に流れる魔力がその激しさを増す。

「ぐうううぅぅっ!」

 女の体に激痛が走り、同時に感情汚染が始まる。

 ――あきらめろ、と。

「ふ、ざけ」

 口から出る言葉に反して、地に着いていた女のひざが浮き上がる。
 そして嫌な言葉が再び響く。

 ――あきらめろ。心で抵抗しても、体に流れる電気信号はどうにもならん。我の電撃魔法の方が貴様の体内を流れる電流よりも圧倒的に強い。

 意に反して、立ち上がる女の体。

「い、いや……」

 懇願に変わる女の声。
 その理由は瞳に映っていた。
 あの人が、隊長がこっちに駆けて来ている。
 間違いなく、魔王は自分を盾に使うつもりだ。

「や、やめて……」

 されど意に反して、隊長の方に曲刀の切っ先を向ける女の右腕。

「い……」

 再び響く、あきらめろという声。

「……」

 直後、女の口は閉じた。
 それはわずかな間であったが、魔王はその変化に一瞬の期待を持った。
 本当に一瞬だけ。
 なぜなら、この沈黙は、

「う、あああアアァッ!」

 覚悟を決めるための時間だったからだ。

 女は体内で魔力を爆発させた。
 その魔王の鎖を凌駕する力をもって、女は右腕を動かした。
 曲刀が激しく輝き、振り下ろされる。
 そして真下に放たれた三日月はすぐに雪面に着弾し、嵐となった。

「ぅああああアアアアッ!」

 濁流が女を飲み込んだ瞬間、隊長も同じように叫んだ。

「アアあ……あ、う、うう」

 そしてその叫びはすぐに涙に変わった。
 溢れる光と共に、「さよなら」という最後の言葉が伝わったからだ。
 隊長と女は男女の仲になりつつある関係であった。
 だから隊長は足を止め、うつむいた。目をそらすために。

「うう、う……?!」

 しかし直後、隊長は感じ取った。
 女が動く気配を。
 生きているのか!? そんな希望を持って隊長は顔を上げた。
 が、

「な?! ……あ、あ、あああ?!」

 目に映ったのは、残酷な光景であった。
 首の無い体が立っている。
 左腕は無くなっている。
 切り刻まれている右足は今にも千切れそうだ。
 しかし、それでも、それは、「曲刀を構えて」立っている!

「くくく……はぁっはっはっはっはっは!」

 直後、魔王が放った盛大な笑い声が場を包んだ。
 魔王は気付いていた。
 女と隊長の間にある意識のつながりが深いものであることを。男女の感情であることを。
 だから魔王は「あえて」女を先に狙った。わざわざ、隊長を雪の中に沈めて時間を稼いだ。
 それで隊長が死ぬ可能性もあった。が、その程度で終わるのであればどうあっても楽しめないだろうと魔王は考えたのだ。
 そして今、魔王は打ち震えている。
 この二人と今日、この場でめぐり合わせてくれた幸運に。
 男が生き残ってくれた幸運に。
 女の肉体がデュラハンとして残ってくれた幸運に、最大限の感謝を抱いている!
 その感覚は叫びとなって魔王の口を開かせた。

「これで我が分身は重さと武器を得た! 次の一撃はこれまでのようなやさしいものではないぞっ!」

 その声に、隊長は、

「魔王ーーーーーッ!」

 同じ叫びを持って応えた。
 完全になめられ、遊ばれている。その遊びで大事な人を殺された。重さと武器なんて本当はこの戦いでは必要無いと思っている。本当に必要であったならば、手に入れる機会は既に何度もあった。ただ、女の形をしたものと自分を戦わせたいだけなのだ。魔王の心がそう言っている。笑っている。
 そこから生まれた怒りが、その叫びに込められていた。
 しかし、その激しい感情は叫びと共に場を包んだ直後に消えた。
 隊長の口尻から流れる赤い線と共に。
 舌を噛んだのだ。
 怒りを消すために。封じ込めるために。強すぎる感情につけこまれないために。
 真っ赤に染まった歯を見せながら、歯軋りをしながら、震えながら、曲刀をゆっくりと構える。
 あれはもう彼女じゃない、ただの敵だ、そう自分に言い聞かせながら。
 そうして構えを整えるうちに、隊長の震えは止まった。
 もう、その心に怒りは無い。
 しかし最後に残っていた感情が、一つの雫となって隊長の頬を流れ落ちた。
 そして、隊長の心は波一つ無い水面のように静かになった。
 それを感じ取った魔王は、

「さすがだ! よく学習しているな!」

 馬鹿にしているように、褒め称えた。
 しかしその挑発に隊長の心は揺れることはなかった。その程度の言葉に動じるような境地では無かった。
 ただ、覚悟だけが隊長の水面に映り込んだ。
 隊長はその感情を叫んだ。

「いくぞ、魔王!」

 その響きに魔王は再び打ち震えながら、

「来い!」

 戦士の挑戦を迎え入れた。
 女への誤射を恐れて一時中断されていた狙撃援護が再開される。
 同時に、隊長は魔王に向かって突撃を開始。
 それを迎え討つように、首なし騎士も前進を開始。
 少し距離を置いて、魔王がその後ろを追従する。
 遠距離戦では勝ち目が無い、だから近づくしかない、隊長はそう考えていた。
 たとえ「アレ」と斬り合うことになろうとも。
 雪を蹴る度に、首なし騎士との距離が詰まる。
 涙で滲んでいた像がはっきりとした形を取り戻す。
 その瞬間、あるはずの無い首が、顔があるように感じた。
 隊長はその幻を振り払うかのように、

「シィヤッ!」

 曲刀を冷たくなりつつあるその骸に振り下ろした。
 首の無い人形が同じ武器で迎え撃つ。
 二つの輝く刃が交錯し、火花と光の粒子が散る。

「!」

 その銀閃に隊長は目を見開いた。
 その一動作だけで、女の幻は掻き消えた。
 動きが、太刀筋が女のものと違いすぎたからだ。
 魔王が操作しているのだから当然と言えば当然。
 しかし、隊長はその当たり前の事に安堵した。
 ならば、もう思う存分この人形を切り刻める。

「シャッ!」

 迷いが溶ける感覚と共に、水平に放たれる隊長の曲刀。
 胸元に迫るその刃に対し、首無し騎士が武器を盾とするように構える。
 首無し騎士はその丸い刃で隊長の一撃を受け流そうとしたが、

「チッ」

 直後、魔王が舌を打った。
 隊長の一撃が首無し騎士の防御を一方的に弾き飛ばしたからだ。
 隊長は首無し騎士の胸元に出来た深く、そして赤い線を見つめながら、

(やはり!)

 確信した。
 この人形は踏ん張りが利かないことを。
 先の一合でもそう感じた。
 右足が切り刻まれているからだろう。
 これなら力だけで押し込める。

「!」

 が、隊長の心に湧いたその優位感は次の瞬間に消えた。
 人形が振り上げた曲刀から感じ取ったのだ。その刀身が震えているのを。

(糞っ!)

 すかさず、隊長は丸みのある刃を盾にするように構えた。
 そうだ、命の無い人形だからこれが出来る。気兼ねなく、捨て身の一撃を放てる。
 そしてこれは受けてはならない。あの震える刃から放たれるものが想像通りのものなら、受けられるものでは無い。

(ならば!)

 隊長は己の刃を人形のものと同じくらい激しく発光させながら、活路を見出した。
 そして次の瞬間、その活路は言葉と成り、同時に隊長の体はそのように動き始めた。

(受けられないのであれば、流しながら避ける!)

 ほぼ真下に振り下ろされ始めた人形の刃に向かって丸みのある盾を構えながら、雪面を左に蹴る。
 直後にぶつかり合う二つの曲刀。
 接触箇所から伝わるいびつな振動を手に感じながら、隊長は丸みのある刃の上に人形の刃を滑らせた。
 大きく右に流れる人形の刃。
 その軌道の変化が自身の安全を確保するのに十分であることを、隊長は安堵感と共に確信したが、

「!?」

 次の瞬間にはその安堵感も消えた。

(切り返してくる?!)

 隊長は感じ取った。魔王がその一撃で濁流を放つのは止めたことを。こちらの回避行動を見て対応したのを。
 雪面に振り下ろした直後、刀身に込めた魔力はそのままに、左側に逃げたこちらに向かって振り上げるつもりだ。
 その一撃で三日月を、濁流を放つかどうかはまだ魔王も決めていない。しかし、確実に当てられると判断すれば、間違いなく撃ってくるだろう。
 そして恐らく、このままだとそうなる可能性が高い。

(どうすればいい!)

 止まったかのような緩慢な時間の中で、隊長の理性と本能、そして魂が議論を交わす。
 そのやり取りは激しく、誰が何を提案し、答えたのかすら分からなくなりそうなほどであった。
 しかしそれでも、隊長は最良と思われる答えを導き出した。
 その正解とは――

(回り込み!)

 人形の背後を取るように雪面を蹴り直す。
 魔王は人形のやや後方にいる。つまりこうすれば魔王を射線上に入れることが出来る。直線に走る三日月はもちろん、前に大きく広がる濁流も使いづらくなるはずだ。

「ふむ」

 確かに、とでも言うかのように、その動きに対して魔王が相槌を打つ。
 その直後、またしても人形の動きが変わった。

「っ!」

 隊長はそれを感じ取った。
 背中をこちらにぶつけようとするかのように、人形が後方に雪面を蹴ったのを。
 そして同時に体を捻り始めたのを。
 後ろに跳びながらの水平回転切りだ。

「くっ!」

 直後、隊長は同じく体を捻ってそれを迎え撃った。
 同じ型から放たれた二つの刃がぶつかり合う。
 この激突もやはり、隊長が勝った。
 押し負けた人形の姿勢が崩れる。
 ふらつくその様子を感じ取りながら、隊長は迷った。
 曲刀に込めた魔力を今解き放ち、人形の腕を斬り飛ばすべきかを。
 その迷いは一瞬で消えた。

「シャァッ!」

 この刀身に込めた魔力はやはり魔王に対して使うべきだと、隊長は判断した。
 雪面を蹴り直し、魔王の方に向き直りつつ、回転の速度を増す。
 隊長は勢いを増したその回転斬りを、三日月を魔王に向かって解き放とうとしたが、

「!」

 それは叶わなかった。
 金属音と共に生まれた光の粒子が隊長の視界を埋め尽くした。
 三日月を放つより早く、踏み込んできた魔王の刃に止められたのだ。
 競り合うように擦れる二つの刃。
 その接触点から、魔王の意識が流れ込んできた。
 今、我に向かって捨て身の一撃を放つかどうか迷ったな? と。
 だから我もお前と同じ気持ちになったぞ。厄介だ、と。

「くっ!」

 その言葉を忌々しく感じながら、隊長は曲刀を持つ腕に力を込めた。
 深い皺が刻まれた老人の腕ならば、押し切れるのではないかと思ったからだ。

「!」

 しかし次の瞬間、その考えはあきらめざるを得なくなった。
 想像以上に魔王の腕力が強かったのもあるが、最大の理由は復帰した人形が後方から切りかかってきたからだ。
 ここは仕切り直すべき、そう思った隊長は大きく距離を取るように左に雪面を蹴った。
 当然のように追ってくる人形。
 しかし魔王は動かず。
 三本目の足とした杖に体重を預け、休もうとしている。
 高みの見物とさせてもらおう、そんな言葉が隊長の頭の中に響いた。
 だがその言葉は隊長の意識には入らなかった。
 そんな余裕は無かった。人形は既に目の前。攻撃態勢を取っている。

「!?」

 瞬間、隊長は思わず後ずさった。
 人形が左拳を突き出してきたからだ。
 しかも完全に届かない距離。
 だが、この時後ずさったのは正解であった。

「なっ?!」

 直後、人形の腕が伸びた。そのように見えた。感じられた。
 それが違うことも、何であるかもすぐに分かった。
 取り付いている分身が拳の先から糸を伸ばしたのだ。
 この奇襲を隊長は防御魔法で受けた。

「っ!」

 驚かされたが、やはり軽い一撃。
 ゆえに隊長はすぐに反撃に移ろうとしたが、

「何っ?!」

 直後、隊長は先よりも強い驚きの声を上げた。
 人形が太陽を遮るように、こちらに覆いかぶさるかのように跳躍してきたのだ。
 しかし分身は下。雪の上に立っている。
 操作を放棄して女の体を投げつけた? 隊長は一瞬そう思った。

(いや、違う! これは!)

 操作は放棄されていない! 隊長はそれを感じ取った。
 曲刀を握る右手に糸が、魔王の魂が絡み付いている!
 右手を振り下ろせれば、濁流を放てれば後はどうでもいいということだろう。
 何にしても直撃はマズい、そう思った隊長は距離を取ろうとしたが、

「チィっ!」

 足を引っ掛けるかのように伸びてきた分身の糸がそれを邪魔してきた。
 曲刀から小さな三日月を放ち、その迫る糸を断ち切る。
 この時点で上からの攻撃を魔力を込めた曲刀で受ける選択肢は完全に消えた。
 だから隊長は膝の中で魔力を爆発させた。

「ぅっ」

 膝から走った鋭くも重い痛みが隊長の顔を歪める。
 しかし隊長はその痛みと引き換えに速度を得た。
 視界の中を流れる景色が加速する。
 その速さは景色が滲んで見えるほどであったが、

「!」

 それよりも速く、分身が隊長の目の前に、上から来る人形との間に割り込むように迫ってきた。
 この時、隊長は「そこにいると濁流に巻き込まれるぞ」などと一瞬でも思った己を恥じた。
 再生出来るこいつにとっては何の問題にもならない。
 そしてこいつの狙いは間違い無く、

(足止め!)

 それが分かっていたから、隊長は直後に分身が放ったすね蹴りを防御魔法で受けることが出来た。
 即座に防御魔法を叩き付けて分身を押し返す。
 しかし安堵する余裕は無い。上に跳んだ人形は既に落下に入っている。
 だから隊長はすかさず、もう一度膝の中で魔力を爆発させた。

「っ!」

 隊長が痛みを感じたのと、視界が光に包まれたのは同時であった。
 近すぎる。避けきれない。そして曲刀だけで受けきることも難しい。
 そう思った隊長は左手を前に突き出し、防御魔法を展開した。
 光の壁で威力と勢いを少しでも弱らせられれば、あとは曲刀で捌ける、そう判断したのだ。
 しかし言うまでも無いが、この防御方法は、

「ぐっ!」

 左手が、腕が犠牲になる前提のものだ。
 小指と親指が斬り飛ばされた感覚が左腕から脳に伝わる。
 しかし痛みはほとんど無かった。感じなかった。
 脳の機能のほぼ全てが、迫り来る刃の軌道を読むことだけに使われていたからだ。

「雄ォッ!」

 そして一つの光明を見出すと同時に隊長は叫んでいた。
 致命に至る恐れのある威力を持ち、かつ回避不能な全ての刃が、一本の直線上に並んだのだ。
 口を開くと同時に隊長は動いていた。
 その直線をなぞるように、切り裂くように、曲刀を振るう。
 そして、曲刀が描く光の直線と荒れ狂う光の曲線がぶつかり合った瞬間、

「っ!」

 隊長の視界は再び閃光に包まれた。
 同時に体のあちこちに鋭い痛みが走る。
 隊長が放った一撃は全ての蛇を切り落としたわけでは無い。あくまでも致命に至る恐れのある大きなものだけだ。
 残った小さな蛇に対しては、ただ成すがままだ。
 その痛みの嵐が通り抜けた直後、隊長の視界は回復した。
 隊長は少しうつむき、己の体を見た。
 幾重もの赤い線が出鱈目に描かれている。
 しかしそんな赤い落書きの中でも、最前に晒した左腕は目立つほどに真っ赤だ。
 心臓の鼓動に同期して、脈打つように血が左腕からあふれ出ているのを感じる。
 だが、

(動く……魔力の通りも感じられる。まだ使える!)

 今の隊長にとっては何も問題では無かった。
 前方にいる首無し騎士がゆらりと立ち上がる。
 瞬間、隊長は存在するはずの無い頭と意識が交錯したかのような錯覚を抱いた。
 その存在しない頭は「行くぞ」と言っていた。
 ならば来い、と隊長は思った。
 直後、人形は雪面を蹴った。
 同時に隊長も動いた。
 人形から距離を取りながら迎撃の三日月を放つ。
 これを人形は同じ三日月で迎え撃った。
 二つの三日月がぶつかり合い、破片が、濁流が周囲に飛び散る。
 しかし人形はその破片を意にも介さず、前進した。
 小さな蛇が人形の体に赤い線を引く。
 しかしその線は細く、浅い。
 それが分かっていたから、隊長はすぐに次の攻撃態勢に移った。
 隊長は「行くぞ」という言葉と共に感じ取っていた。
 人形の狙いは先と変わらぬ自爆狙い。
 だから隊長の選択肢は引き撃ち。
 命の無いものと命を張った削り合いをしても不利にしかならない。
 魔王の相手はこの人形を完全に破壊した後だ、隊長はそう考えていた。
 しかし、次の瞬間、

「!」

 隊長の頭の中で声が響いた。
 そんな展開は面白くない、と。
 同時に閃光が隊長の視界に入った。
 隊長は反射的にその迫る光に向かって防御魔法を展開した。
 が、

「ぐっ!?」

 爆音と共に隊長の視界が大きく揺らいだ。
 その揺れと共に、受けに使った左手首が折れた感覚が隊長の脳に伝わった。
 ふらついた姿勢を立て直すために膝に力を入れ直すが、足裏が雪の上を滑る。
 そうこうしているうちに人形は再び目の前。
 そうだ。分かっていた。遠距離戦では勝ち目が無い事を。魔王から離れれば離れるほどに不利になることを。
 そして恐らく、引き撃ちに徹すれば魔王はこの遊びを終わらせようとするだろう。
 ならば取れる選択肢は一つ。

(奴の遊びに付き合った上で、奴の望む展開を覆すしか無い!)

 その隊長の心の叫びに、魔王は笑みを返した。
 そして魔王は隊長から視線を外し、

(さて、我は今のうちに狙撃主を排除しておくか)

 この娯楽に水を差す、うっとうしい邪魔者に向かって杖を向けた。
 その直後、魔王の杖が光ったのと同時に、

「シャァァッ!」

 隊長の雄叫びが場に響いた。
 その口が閉じるよりも速く、剣戟の音が鳴り始める。
 何度も何度も。絶え間無く。耳に痛いほどに。

「ラアアアアアああぁッ!」

 しかしそれに負けじと隊長は叫び続ける。
 剣戟の音が響く度に隊長と人形の間で光の粒子が散る。
 隊長が叫び声を上げる度に、人形の姿勢が崩れる。
 剣と剣のぶつけ合いでは今だ隊長に分がある。
 しかし押し切れない。人形がふらつく度に生ずるその隙を突くことが出来ない。
 分身がその隙を埋めるように手を、時に足を、増やし、時に伸ばし、反撃してくるからだ。
 そしてこの反撃方法は奇抜の一言。時に胸から手が伸びてきたりする。
 だが、鋭くなった隊長の感覚はそれら変幻自在の反撃を全て見切り、光の盾で受け止めていた。
 しかしその度に隊長の姿勢はわずかに崩されていた。
 手首が折れたせいで支えが効かなくなったからだ。偽者の軽い攻撃でも盾がふらつく。
 単純な力のぶつけ合いでは隊長に分があるが、手数では人形の方が勝る。
 そしてその天秤は完全な五分であった。
 時に少し傾くが、すぐに水平に戻る。
 完全な拮抗状態。
 先に体力が尽きた方が終わる、隊長はそう考えていたが、

「っ!?」

 その考えが甘いことを、隊長は左肩に走った衝撃とともに知った。
 再びの横槍、魔王が放った光弾であった。
 そしてその光弾には意思が込められていた。着弾と同時に、痛みとともに声が頭の中に響いた。
 それは「膠着状態などつまらん」という内容であった。
 体勢を崩した隊長に分身の重さ無き拳が、蹴りが襲い掛かる。
 次々と隊長の体に打ち込まれ、流れる紫電がその身を焦がす。
 受け止めることは出来なかった。そうしなかった。出来なかった。それよりも受けるべきものがあった。
 それは人形が放つ曲刀の一撃。
 電流に身を焼かれながらも、隊長はその光る刃を叩き払い、時に受け流し続けた。

「あぐっ!」

 そこへ魔王の光弾が再び着弾。
 よろめく体に分身の容赦無い追撃が次々と打ち込まれる。
 大きく崩れ、千鳥足になる隊長の足。
 それでも隊長は致命の一撃を避け続けた。人形が放つ斬撃をいなした。
 しかし状況は良くならない。魔王も手を止めない。
 さらなる追撃の光弾で隊長の視界が大きく傾く。
 魔王は楽しんでいる。隊長を少しずつ追い込んで遊んでいる。そしてこれを邪魔していた狙撃主はもう全滅した。光弾からそう伝わってくる。
 しかし隊長の意識は魔王の方には傾かない。
 ただ必死に、体勢を立て直すことを考えている。滑る足裏を止めようと、必死に膝に力を込めている。
 そして隊長の感情は一色に染まっている。

(まだだ、まだ……っ!)

 不屈の闘志が彼の心を埋め尽くし、燃えている。
 しかし直後、

「うっ!?」

 分身が放ったある一撃に、隊長は焦りの声を漏らした。
 曲刀を打たれたのだ。
 手から弾き飛ばされることは無かったが構えを大きく崩された。
 がら空きになる隊長の胸元。
 立て直すよりも早く、分身の前蹴りがみぞおちに差し込まれる。

「っ!」

 軽い。嗚咽を漏らすほどの一撃では無い。しかし電流のせいで筋肉が硬直する。動けない。構えを戻せない。
 そして次の瞬間、人形がその開きっぱなしの胸元に向かって曲刀を振り上げている姿が隊長の瞳に映った。

(――あ)

 その人形の構えに、隊長は不思議な感覚を抱いた。
 懐かしいと感じた。同時に喪失感もある。
 懐かしい理由はすぐに分かった。思い出した。
 あの時の彼女とそっくりなのだ。彼女と練習組み手をしたあの時と。
 あの時も今のように、曲刀を右肩にかつぐように大きく構えていた。彼女にはそういう癖があった。その構えから相手の反対側のわき腹に向けて斜めに振り抜く袈裟斬りを放つのがお約束だった。
 少しでも加速を乗せるためにそうしていたのだろうが、俺は彼女がそうする度にいつも注意していた。隙が大きく読まれやすいからやめろと。
 あの時もそうだった。君は今のように、俺の体勢を大きく崩すことに成功したのに、そんな大きな動きを選んでその好機を自ら潰した。

(だからあの時、俺は――)

 悪戯心をくすぐられたから、「あんな意地悪なお返し」をしたんだ、ということを隊長は思い出した。
 その記憶と共に隊長の体は動いていた。曲刀を右下に構えていた。
 人形の刃が、左上から右下に向かって迫ってくる。
 隊長はそれを迎え撃つように、曲刀を左上に振り上げ始めた。
 人形のものとは真逆の、逆袈裟の軌道。
 対となるその二つの軌道が交わる。
 寸分違わず刃がぶつかり、重なり、二つの刃が一つの直線と成る。
 相手の太刀筋の癖を良く知っているからこんな事が出来る。出来た。
 そして、その様は正に芸術であった。

「……!」

 だから魔王は表情を硬直させた。
 その瞬間、魔王の心から愉悦の色は消えていた。
 驚きと感動が魔王の心を埋めつつあった。
 そしてその芸術には続きがあった。
 あの時とは違うことが一つあった。
 それは、

「雄ォッ!」

 三日月を放つ、ということであった。
 そしてそれは完全に同時であった。
 一つの線となった二つの刃から放たれた三日月は瞬時に交わり、弾け、そして濁流となった。
 衝突点から生まれた蛇が産みの親である鋼の刃を、そして二人の肉を削る。
 隊長の曲刀が中ほどで折れ、蛇になぞられた左目がその色を失う。
 人形の右腕が根元から切り飛び、高く舞い上がる。
 隊長の左わき腹が引き裂かれ、中身が少しはみ出す。
 人形の腹が真横に大きく割れ、上半身と下半身が別れる。
 白い嵐とともに噴出す赤い華。
 それはまるで芸術の締めとして行われたかのような、残酷な彩りであった。

「……?!」

 だから魔王はすぐに気付けなかった。
 感動という強い感情の隙を突かれていたことに。
 しかし魔王の中で違和感は着実に膨らんでいった。
 そしてその疑問の答えが言葉になる瞬間、

「まだだ!」

 隊長の叫びが耳に飛び込んだ。
 気が付けば、隊長は既に走り出していた。
 真っ赤な体を見せ付けるように。
 周りが白一色であるゆえに余計目立つ。
 走れていることが不思議に思えるほどの傷。

「……っ!」

 魔王の意識はその凄まじさに捕らわれた。
 だがそれは一瞬だった。
 魔王はすぐに気付いた。己を取り戻した。
 これは精神汚染であると。
 自分の思考能力を止めるためのものであると。
 驚いている場合では無い、迎撃しなくてはならない。さっさと分身を手元に戻さなくてはならない。
 その事に気付いた魔王は杖を構えようとしたが、

(いや、違う?!)

 直後、魔王は正解に気付いた。
 そして魔王はその答えを頭の中で言葉にした。

((仕掛けたのは二人!))

 頭の中で響いたその声は魔王のものだけでは無かった。
 隊長が教えたのだ。答えを。これは俺だけの力で出来たことではない、と。
 その答えはいま考えるべきことでは無かったが、魔王の意識はその真実に引き摺られた。
 隊長の声は続いた。
 彼女が協力してくれたから出来たのだ、と。
 そうだ。なぜすぐに気付かなかった。なぜ、「人形が女の悪癖を再現したのか」ということを。
 女の魂は分身で砕いた。
 しかしそれは完全では無かったのだ。
 残ったわずかなカケラが隊長の中に隠れていたのだ。そして機をうかがっていたのだ。
 だから女はあの動きを選んだのだ。我を感動で塗りつぶすために。その隙を突くために。
 そしてその時点で女の魂は全ての力を使い果たし、消えた。
 だから隊長の中で喪失感が沸きあがったのだ。

「貴様!」

 その答えに、魔王は声を上げながら杖を輝かせた。
 やってくれたな、という思いと共に光弾が放たれる。
 一切の手加減が無い散弾。
 そして、これをどうにかする力は今の隊長には残っていなかった。
 ただ、運に任せて光の盾を張りながら突っ込むことしか出来なかった。

「ぐぉおおっ?!」

 盾が一瞬で消し飛び、肉をえぐるかのような衝撃がその身を包む。

「ま……だだ!」

 だが、隊長は倒れなかった。堪えた。
 しかしその右手から曲刀は無くなっていた。
 指ごと吹き飛ばされたのだ。
 されど、隊長の心は揺るがなかった。

「まだ終わってない!」

 叫びながら足を前に出す。
 そしてその叫びには根拠があった。
 その根拠は直後に空から降ってきた。
 隊長はそれを三本指になった左手で受け止めた。
 それは先ほど斬り飛ばされた女の右腕。
 その手にはまだ力強く曲刀が握られていた。
 隊長はその腕を左脇にかかえ、握り締められたその拳の上に左手の平を重ね、三本の指を巻きつかせた。
 これは、腕がここに都合良く飛んで来たのはただの偶然。彼女の魂はあの時確かに、最後の力を使い果たしたはずだ。
 そう分かっていた。しかし、隊長はこの偶然に神秘性を感じずにはいられなかった。
 そして気付けば、隊長の頬には再び涙が流れていた。
 赤く染まった顔がその温かい水に洗い流されていた。
 その水は隊長の理性を強くし、己の状態を冷静に見直す切っ掛けとなった。
 何もかも深刻な状態だ。
 まだ走れているが、いつこの足が止まってもおかしくない。
 そして、曲刀を大きく、速く振ることはもう出来なくなった。
 彼女の右腕は三本指だけで支えるには重過ぎる。彼女の腕を捨てて武器だけを手に入れたいが、その指は恐ろしく硬く握り締められている。ゆえに脇に抱えるしか無いのだが、これだとかなり動きが制限される。
 さらに自分の左腕も限界が近い。感覚が薄い。あと何回曲刀を振れるのかすらよく分からないほどに。
 そして対する魔王は無傷。
 絶望的と言って間違い無い状態差。
 しかし足を前に出す隊長の心に絶望の色は、影は無い。
 踏み込んで斬る、それしか頭に無い。
 必中の間合いで最大の一撃を放つ、それしか考えていない。
 あと数度の踏み込みでそれは成せる。
 その間にもう一度攻撃されるが、それを凌げば勝機が手元にまで近づく。
 隊長はそう考えていた。
 魔王が次の言葉を放つ瞬間までは。

「阿呆が」

 そう言って魔王は輝く杖の先端を下に、雪面に向けた。
 また津波か?! と隊長は思った。
 その直後、今回は違う、という言葉と共に魔王の声が流れ込んできた。
 いくら我とて一発の光弾で津波を起こすことなど出来ぬ、と。
 その言葉と共に魔王は杖の先端を爆発させた。

「!?」

 直後、地震が起きた。
 それは短い間であったが、隊長の足を止めるには十分であった。
 そして同時に声が続いた。
 地震では無い、と。
 では何なのか、その答えはすぐに分かった。

(爆発?!)

 雪の下で、爆発魔法が起動したのだ。
 それも一発では無い。思い返しても正確な数が分からないほど。
 光弾は空気中に長く留めて置くことが出来ない。
 しかし水中ならば別。その劣化速度は大きく下がる。
 つまり、爆発魔法であれば地雷や機雷のように、罠として扱えるのだ。
 そこまで隊長が考えたところで、声は再び響いた。

「正解だ」と。

 そして声は続いた。
 お前は遊びや実験で命を賭けるか? と。
 我はそんな馬鹿なことはしない。安全なところに身を置く。例えば、「周囲に罠を張り巡らせて」。
 津波を起こした時もそうだ。雪の下に仕込んでおいた大量の爆弾を起爆させたのだ。だからあんな事が出来た。

「……」

 その言葉に、隊長の足は完全に止まってしまった。
 まだ埋まっているのでは? という警戒心がその足を止めてしまった。
 雪の下に感知能力を向けて探る。
 それはすぐに見つかった。
 おぼろげであるが、丸いものが埋まっている気配を感じる。
 それに糸がついていることを隊長が認識した瞬間、魔王が答えた。
 我の爆発魔法は衝撃で起爆するものと、電撃魔法で起爆するもの、この二種類があると。先の地震と津波の時は前者のものを使ったと。

「……」

 隊長の背中を冷たいものが流れ落ちる。
 つまり、魔王の言葉が真実であるならば、自分は自ら罠の中に踏み込んだということ――

「!」

 瞬間、隊長は足元で何かが膨らんだかのような気配を察知した。
 先ほどまではそこには何も無かった。糸しか無かった。
 根のように張った糸の先端から、爆発魔法を作り出したように感じられた。

(もしや――)

 隊長は一つの答えを見出した。
 雪を溶かした本当の目的はこれなのか、と。糸を張りやすくするためなのか、と。
 糸は雪の中に張り巡らされている。
 これでは逃げ場が無い。

「……!」

 背中を伝う冷や汗がその量を増す。
 同時に魔王の声が頭の中に響いた。

「正解だ」と。

 その声が終わった瞬間、足元に出来たその丸いものが破裂した。

「ぐはっ!」

 後ろ斜め下から生まれた衝撃波が隊長の背中を突き上げる。
 浮遊感と共に体が前に押される。
 足裏が地に着いた、そう感じた瞬間、再びの爆発。
 さらに前へ体が流れる。
 浮遊感が消えるよりも早く、さらなる爆発。先よりも間隔が短い。
 隊長の瞳の中を流れる景色がその速度を増し、魔王の像が拡大する。
 魔王の方に引き込まれている? そう思った瞬間、また爆発。
 ならばよし、この加速を逆に利用させてもらおう、息も出来ないほどの爆発の嵐の中で隊長はそう考え、左腕に最後の力を込めた。
 既に必中と言って良い間合い。
 後はその輝く曲刀を振るだけ。
 そう、たったそれだけだったのだが――

「っ!」

 出来なかった。
 声も出せなかった。
 突如眼前で起きた爆発によって舞い上がった雪の壁に飲み込まれたからだ。
 衝撃波によって折れた肋骨の痛みと共に、冷たさが全身を覆う。
 しかしそれは直後に熱さへと変わった。
 色も白から赤へ。

噴きあがる炎4

 気付けば、全身が炎に、火柱に包まれていた。
 魔王が振り上げるように炎を放ったのだ。
 だが、背中を押される感覚はまだ続いている。
 衝撃波によるものでは無い。感覚が違う。鋭い痛みを伴っている。そしてその痛みは炎によるものでは無い。
 その力の正体が何なのか隊長には見えなかった。分からなかった。
 隊長の背中には光る糸が張り付いていた。
 そしてその光る糸はうずを巻いていた。巻線の形状を取っていた。
 それと同じものが魔王が正面に向けた杖の先端に、光球の中にあった。
 膨らみ続ける光球。
 その大きさが胸を覆うほどになった瞬間、引き寄せられた隊長の体がその丸い暴力と接触した。

「ぐあああああぁっ!」

 光球に削られる隊長の体。
 しかし引っ張られているがゆえに離れることが出来ない。
 傍目にはまるで隊長が光球を抱きかかえているように見える。
 地獄のような痛みが隊長の体を、心を侵し続ける。
 されど隊長はあきらめていない。

(振るんだ……曲刀を)

 しかしその願いは叶わない。電撃魔法に拘束されているからだ。
 そして悲しき事に、隊長の手に曲刀は既に無い。雪の壁に飲まれた時に、彼女の腕ごと手放してしまっている。
 隊長はその事に気付いていない。
 だが、それが希望となって隊長の心を支え続けている。

(まだだ、まだ……)

 痛みと共に薄れていく隊長の意識。
 思考能力の低下と共に消えていく情報。
 痛みという雑音は遂には曲刀の事すら隊長の意識から消した。
 だが、それでも隊長の意識はあるものにしがみついた。すがりついた。
 そのあるものすらおぼろげになりつつあったが、隊長はその最後の拠り所から言葉を搾り出した。

「まだ――」

 しかしその言葉が最後まで紡がれることは無かった。
 爆発音と共に全て消えた。零距離で放たれた散弾と共に終わった。

「……」

 魔王は前に散らばったその残骸を眺めながら、遊びの終わりを実感し、表情を戻した。

「まあ、こんなものか……」

 その言葉が何を指してのものなのか、呟いた魔王自身よく分からなかった。
 だが、その呟きが切っ掛けになった。
 魔王はあることを思い出した。
 隊長が放っていた「シャァ」という奇声に信仰心が含まれていたことを。
 比較的最近制圧した地域に、その奇声を「神に捧げる戦いの声」として扱う者達がいたことを。

「ああ、お前達はあの……」

 あの、と言いながら、魔王はそれ以上の記憶を引き出す事はしなかった。
 どうでもよかったからだ。
 だが、自分が反射的に「こんなものか」と呟いた理由は分かった。
 神などという大層なものを抱えている割に、弱かったからだ。
 だから最後まで遊んでやった。こいつらが掲げるその「神」とやらを侮辱するために。
 その「神」とやらが見ているとして、そいつは怒っているだろうか?

「……くくっ」

 突如湧き上がったそのくだらない考えに、魔王は笑みをこぼした。
 そして魔王は釣り上がった口尻をそのままに、「くだらん」と吐き捨て、言葉を続けた。

「最後まで遊ばれるほどにお前達が弱かった、それだけのことだ」

 魔王は何かを侮辱するようにそう呟いたが、それでも気が晴れなかった。
 神という言葉が魔王の心に染みのように残っていた。
 魔王はそれを消すために、気持ちに決着を付けるために最後の言葉を放った。

「……本当に神とやらがいるのであれば、我を止めてみせろ」

 だが、その言葉で魔王の心に憑いた染みが消えることは無かった。
 なぜかは分からなかった。
 その感覚は気持ちの良いものでは無かった。

「……」

 だから魔王には笑みを消すことしか出来なかった。
 魔王の表情に苛立ちの色が滲み始める。
 その色が鮮明になる直前、魔王の背後から呼び声が響いた。

「魔王様」

 それはオレグ。魔王の心に出来た染みを消す答えを持っている者の一人であった。
 しかし魔王は声がした方に振り返るより先に、まず棘を返した。

「……護衛は必要無いと、尾けてくるなと言ったはずだが?」

 魔王自身、オレグがこの言い付けを守るとは思っていなかった。そういう性格であることをよく知っていた。

「……」

 そして、この棘にオレグが沈黙を返すことも予想がついていた。
 まるで自分はするべき仕事をしただけだと示すかのように。

「……ふん、まあよい」

 魔王はオレグのそういう性格が気に入っていた。だから咎めるつもりなど最初から無かった。
 オレグもそれを分かって振舞っている。多少の無礼が許されることを知っている。魔王との間に確かな信頼関係が出来ていることを感じている。
 しかしゆえに、オレグは「魔王に対して隠し事をしている」ことに心を少し痛めている。
 いや、「騙している」と表現しても間違いでは無い。
 だが、その痛みは今は無い。
 オレグが己の心を文字通り「殺している」からだ。
 今のオレグは「台本」に添って行動するだけのただの機械だ。
 そしてその「台本」には複数の選択肢が提示されていた。
 口を開くか、このまま何も言わぬか、感情だけを露(あらわ)にするか。
 機械のようなものになっているオレグは最初の選択肢を選んだ。
 それが、魔王が抱いているオレグのイメージに最も添う行動であると判断したからだ。

「……魔王様、このような残酷な遊びは今後ご遠慮願いたい。いつ、どこで、誰が見ているか分かりませぬので」

 そしてこの選択は正解であったようだ。
 魔王はこの発言に怒りを抱かなかった。
 それどころか、「お前らしいな」と、感心されたほどだ。
 だから魔王は、

「わかった、確かにうかつであったな。こんな事、人に見られて良いものでは無い」

 と、笑みを浮かべながら答えた。
 そしてその笑みと共に魔王の心の染みが消えるのをオレグは感じ取っていた。
 しかしそれは一時的なものであることをオレグは知っている。
 魔王が肝心な事を理解していないことをオレグは知っている。
 魔王が知るべき「答えの一つ」をオレグは持っている。
 それは「名誉」の概念。
 魔王がやった事は国全体の名誉を汚しかねない行為だ。
 しかし魔王の心にそのような概念は無い。知らない。感じた事も無い。
 魔王には「欲望」しか無い。自分の立場が危うくなる事を恐れているだけだ。国の事など今の魔王の意識にはかけらも無い。
 だからオレグは魔王のことを「邪悪」な存在だと認識している。
 若い頃、オレグは人間はみな同じだと、自分と本質的には変わらないと思っていた。
 それが間違いであることをオレグは感知能力の発達とともに理解した。
 その過程で、感情とは何であるかと考える機会があった。
 オレグが見出した答えは単純なものであった。感情とは、「ある情報に対して脳内で発せられる信号」ただそれだけである、と。
 目や耳が拾った情報や、ある思考や予測に対して、それが好きか嫌いか、己が望むものであるかどうかなどが自動で判別され、脳内で発信される信号、ただそれだけだと。
 それが若き頃のオレグが見出した答えであった。
 同じ情報に対して違う感情を抱くのは、あくまで「趣味趣向」の範囲内であると、若きオレグは考えていた。
「善悪」や「正邪」に関わる部分はきっと同じだと、変わらないと、若き頃のオレグは思い込んでいた。そう願っていた。
 しかしそれは残念ながら間違いであった。
「正」や「善」に関わる感情が弱い、それどころか持っていない人間がいることをオレグは成長とともに知った。
 そういう人間は平気な顔で「悪」を成せる。「罪悪感」や「恥」などのブレーキとなる感情が弱い、またはそもそも持っていないからだ。そのような機能が無いのだ。
 人間の構造が一人一人違うということを念頭に置いて考えれば、それは当たり前のことであったが、その答えは当時のオレグを悩ませた。
 だから、そのような人間に「善悪」などについて話しても共感は得られない。そもそも知らないし、感じた事も無いからだ。

「……」

 だからオレグはそれ以上の言葉を重ねようとはしなかった。
 言っても無駄だろうと、怒らせるだけであろうと判断したからだ。

 オレグは気付いてない。
 今回の件に関して、自身の考えが浅いことを。
 今回の件に対して今のオレグの中で言葉としてある答えは、国の名誉が穢れる、ただそれだけだ。
 その答えの根底にあるのはただの感情。嫌な感じがする、気分が悪い、それだけだ。
 今回の件は結果だけを見れば「強いものが弱いものを殺した」、それだけのことだ。ただの「弱肉強食」であり、「摂理」の領分である。オレグはその過程に「残酷さ」を、「嫌悪感」を感じ、その感情に「名誉」という言葉を当てはめただけだ。
 それは間違いでは無い。むしろ正しい。良き「名誉」の概念は国民の結束力を高め、国を善く、そして強くする。
 しかし、オレグの中にある言葉としての答えはたったそれだけだ。オレグは「摂理」というものと真剣に向き合ったことが無いのだ。深く考えたことが無いのだ。
 それが魔王に対して言葉を重ねられない理由の一つであることを、オレグは気付いていない。

 正確には、気付けない。
 今のオレグは色んな感情を、心の多くを殺している。自身の機能を制限している。
 魔王を騙すためだ。
 そんな事をする理由は、魔王が「邪悪」だからであり、そのような人間と上手く付き合うためだ。
 魔王は気付いていない。
 ある分野においては、己を凌駕する技術を持つ人間がすぐそばにいることを魔王は知らない。考えた事も無い。
 オレグにもあるのだ。シャロンの「混沌」のような、魔王が得られなかったものが。魔王には辿り着けなかった技術の一つをオレグは持っているのだ。
 今のオレグの心は「魔王の中にあるイメージとしてのオレグ」に合わせて「調整された」ものだ。
 過去のオレグもそうである。魔王と話している時のオレグは全てそうだ。魔王が望む答えを返すためだけに調整された機械だ。
 しかしその調整は完璧では無い。うかつな、魔王に呆れられる答えを返してしまったこともある。
 興味が湧いたのであれば彼の発言をさかのぼってみると良いだろう。まったく違う視点で彼の台詞を受け止められるはずだ。

 だが、オレグはどうやって心を殺しているのか、機能を制限しているのか。
 人格や魂を一から形成するシャロンや雲水の技術とは全く違うものである。あれは脳の中にいる何か、または誰かによって生み出されている。脳が活動している。
 オレグは違う。逆だ。脳が必要以上に活動していない。機械となった心がその制限された機能を実行する時にだけ脳が活動している。魔王を騙すために。魔王に感知させるために。
 現に、今話しているオレグは魔王のことを「邪悪」だと思っていない。そのように感じる機能を持っていない。オレグがそれを思い出すのは魔王から離れた時だけ、魔王の感知から身を守るに十分な距離を確保出来た時だけだ。
 しかしオレグはどうやってそれを成しているのか。調整を行っているのか。
 本当に全ての機能を殺せば、理性も本能も魂も全て封じれば何も出来なくなるはずだ。そうなるのが普通だ。
 それがオレグが有する最大の秘密であり、技術の根源。
 それが何かを我々は既に知っている。
 それは理性、本能、魂とは異なる「第四の存在」を利用したもの。
 それは、ケビンが聞いた声の正体。

 そしてしばらくして、沈黙が重く感じられるようになった頃、

「……では、そろそろ帰るとしよう。足が冷たくてかなわぬからな」

 そのうっとうしい空気を破ったのは魔王であった。
 その言葉とともに魔王はようやく、オレグの方に振り返った。
 そして魔王はオレグと目線を合わせながら、再び口を開いた。

「連中の死体は後で回収させることにしよう。首くらいは塩漬けにして祖国に帰してやっても良い。……その国の代表者は知らぬ存ぜぬを貫き通すだろうがな。我の暗殺など考えた事も無い、などと答えるだろうよ」

 目線を合わせた理由はその言葉に自信があったからだ。オレグが気に入るだろうと思ったからだ。
 そして機械となったオレグは、

「この件について相手が今後どう出るかはさて置き、良い判断だと思います。では、そのように」

 魔王が望むであろう言葉を、魔王が望むであろう感情と共に返した。

 オレグは知らない。
 海の向こうに、「摂理」というものについて深く考え始めている者がいることを。
 オレグと同じように、残酷なものを目の当たりにして、それについて考える切っ掛けを得た者がいることを。

 オレグは知っている。
 自身の調整が完璧では無いことを。
 離れていく魔王の背中。
 前に出ない己の足。

「……」

 問題が起き始めたことを、機械となったオレグの心は察した。
 あの「声」が大きくなってきている。
 ある特定の「意見」が多数を占めつつある。
 このままでいいのか、という、魔王への怒りの声がその数を急速に増している。

「……?」

 ついてこないオレグの様子に、魔王が何事かと振り返った。
 何が起きているのか魔王にはよくわからなかった。ただ、突っ立ているだけにしか見えなかった。
 オレグの中ではある種の「権力闘争」が起きていた。
 理性と本能、そして魂は体を動かすための権力を有している。
「普通の人にとっては」その権力は絶対的なものだ。「声」がいくら大きくても無視出来る。
 しかしオレグにとってはそうでは無い。
「多数の声」にも体を動かす権利が与えられている。その数が多いほど、その権力が増す。
 今は機能を制限した魂だけで体を動かしていたが、そこに横槍が入りつつある。
 魂だけでは押さえきれない、もう一つ強い権力を持つ者が必要だ、そう判断したオレグは理性の一部を復活させた。

「……どうした?」

 だが、その変化を、理性を復活させたことを魔王に気取られた。
 何か言い訳が必要だ、そう判断した機械のオレグは咄嗟に言葉を紡いだ。

「……少し、感傷のようなものに浸っておりました。彼らが見せたあの技が見事だったので」

 これを聞いた魔王は「ああ、あのことか」と、隊長と女が見せた感動的なあの技のことかと、納得した。その感動を強く味わうために理性を回復させたのだな、と。
 言い訳は成功した。効果的であった。魔王に対しても、自分にとっても。
 あの技を賞賛したことで「声」が弱まったのだ。

「確かにあれは感動的だったが、浸るのはあとにしろ。足が冷たくてかなわぬと言っただろう」

 急かす魔王のその言葉に、オレグはようやく足を前に出すことが出来た。

 オレグは後に冷や汗とともにこの出来事を振り返る。
 そして同時に安堵する。
 あの「声の主達」が、魔王に歯向かおうと声を上げてくれたからだ。邪悪に染まってはいないことを再確認出来たからだ。

   ◆◆◆

 一方――

「……」

 シャロンは静かに身を休めていた。
 しかしその服装は以前よりも汚れ、酷くなっていた。
 なぜなら、森にいるからだ。
 あの戦いの後、シャロンはずっと森の中に身を潜めていた。
 傷自体はほぼ完治している。
 なのに森を出ない理由は、時間を稼いだほうがいいと考えているからだ。
 その間、シャロンはついでにサイラスの情報を集めていた。
 正確にはサイラスの周辺の、だ。
 そのためにシャロンはサイラスの近くにいる。あの戦いからシャロンはあまり大きく動いていない。

(……やはり、)

 そして、ある虫からの報告を聞いたシャロンは、「今日もか」と思った。
「連中」に動く気配が、次の手をサイラスに仕掛ける気配が無いのだ。
 情報収集だけを担当する非戦闘員はずっとサイラスの周りをうろついている。
 しかし情報の流れが一方通行なのだ。非戦闘員が集めた情報が「上」に送られるだけ。逆に、「上」からの指示が下りてくることが無い。

(私がいないから、サイラス達に、リーザに仕掛けるのをためらってる?)

 こんな単純な答えだけで納得出来る人間では無いシャロンは思考を重ねた。

(……リーザがついているサイラスの方は一旦置いておくことにして、強力な戦力が付いていない可能性の高いアランの方に注力している?)

 この予想はシャロンの心を少しだけ軽くし、思考に弾みがついた。

(強力な共感者が現れると、その周辺の戦力が加速的に増し始める。ゆえに、連中が様子見を続けるとは考えにくい。早めに手を打ちたいはず)

 そこまで考えたところで、シャロンはある事を思い出した。

(そういえば、重要な戦力であるラルフがずっといないわね……。なんで彼はあんな大事な存在を手元から離しているのかしら)

 教会を早期に潰すためだろうか、と一瞬思ったが、それは不自然に思えた。

(私のような強力な刺客が他にもいるかもしれない、と考えるのが普通。それでも、そうしなければならない理由がある……?)

 その「理由」をシャロンは教会との戦力比較を基に探してみたが、思いつかなかった。
 だからシャロンは別の視点から思考を巡らせた。

(まさか、感情的な理由?)

 そしてそれは正解であった。
 普通なら正解とは思えない答えだ。
 しかしシャロンはあり得る、と考えた。

(今の彼の「状態」を考えれば、不自然とは言い切れない……)

 そしてその答えはシャロンにとって悲しいものであった。
 シャロンは知っている。サイラスの身に何が起きたのかを。何をされたのかを。

(いつか、リーザまで手元から離そうとするかもしれないわね。……これは悪い方に考えすぎかしら?)

 そんなことを考えながら、シャロンは「ふふ」と笑った。
 自分も「感情」にとらわれているからだ。サイラスを非難出来る立場では無いな、と思ったのだ。
 シャロンはサイラスに最後まで生き残ってほしいと考えている。
 その根源たる理由はただの感情だ。
 そしてシャロンはその事実から一旦目を反らし、アランの方へと意識を向けた。

(連中がアランを狙っているとすれば、ここにいても大した意味は無さそうね。……私もアランを追うべきかしら?)

 もしこのまま何もしなければどうなるか、その未来を予想することは容易かった。

(放って置けば間違い無く、アランとその仲間達はサイラス達と同じように、急速に強くなるでしょうね……)

 それはシャロンにとって都合の良いものでは無かった。
 シャロンはある望み、目的のために行動している。
 そしてその目的を達成するためには、この国が「獲物」のままである必要がある。ゆえに戦力が高くなりすぎるのはあまり好ましく無い。そうなると、魔王がこの国から手を引いてしまう可能性が発生する。それでは困るのだ。
 しかし弱すぎても困る。だからサイラスに色々教えたのだ。
 時間稼ぎをしている理由は、サイラス達が強くなるのを待つためであった。
 しかしこの時間稼ぎによってアラン達が強くなりすぎる可能性もはらんでいる。
 だがアラン達は魂の使い方を知らないだろう。サイラス達ほどの成長速度では無いはず。

「……」

 だからといってこの場に留まり続けてもいいわけでは無い、その考えがシャロンの表情を硬くした。
 この後どうすべきかは既に決まっていた。とにかくアランを追うべきだろうと、シャロンは考えていた。
 だからシャロンは立ち上がろうとしたのだが、

「……っ!」

 突如走った鋭い頭痛に、シャロンは表情を歪めた。
 脳に負荷をかけすぎたのだ。
 ここ連日、大量の虫を放ち続けたせいだろう。
 そのせいで脳が疲れている。魂を生み出す工場が疲弊している。
 移動する前に栄養補給が必要だろう。「狩り」をすべきだ、シャロンはそう思った。

「……」

 にもかかわらず、シャロンは目を閉じ、まるで眠ろうとするかのように意識を沈めた。

 シャロンが始めた「狩り」、それは我々の知るものでは無かった。

   ◆◆◆

「……」

 そしてシャロンは目を閉じたまま何かを待ち続けた。
 もう一時間近く微動だにしていない。
 その胸元は弱弱しく上下している。
 意識は薄く、朦朧としている。
 まるで重い病人かのように。
 醸し出される「死」の気配に引き寄せられたのか、彼女の周りには大量の「手」が生えていた。

手

 そう、アランが見たあの「手」だ。
 シャロンの狙いはこいつらでは無い。
 こいつらは植物に近い存在だ。弱った獲物を引き寄せ、そして食す、それだけの事しか出来ない、それしか考えていない存在だ。
 こいつらを食してもろくな栄養にならない。まったくの無駄というわけでは無いが、そんなことをすれば本命に逃げられてしまうだろう。

「……」

 風に吹かれているかのようにゆらめくそれらを、シャロンはうっとうしく感じながら待ち続けた。
 しばらくして――

(……ようやく、来たわね)

 本命は現れた。

死神

 それはかつてアランが見た「死神」であった。
 こいつは一体何なのか。
 これは成れの果てだ。かつて人間だったものだ。
 死んだ後、野に放たれた魂はいずれ力を失って消え行くのが普通だ。
 しかし中には生き残る者がいる。他人を食らって、生き長らえる者がいる。
 あの世にもあるのだ。「生存競争」の世界が。この世のものと比べるといささか歪で、不完全ではあるが。
 こいつらはその「生存競争」を生き抜いている者達だ。
 しかしかつて人間だった頃とは違い、満足な補給は滅多に得られないため、魂としての機能はかなり失われ弱くなっている。消費を抑えるためにそうせざるを得ないのだろう。
 生存に必要とは言い難い、人間的感情などはほとんど失われている。「食欲」や、狩りに必要な「威圧」や「恐怖」などだけが残っている。見た目もそれに合わせて作り直されているため、恐ろしいものとなっている。
 つまり、節約のために機能を削り、狩りに特化しているわけだが、それでもこいつらは我々生きている存在からすればはるかに弱い存在だ。それほどまでに脳から得られる補給というものは圧倒的なのだ。
 だからこいつらは元気な人間は狙わない。
 だからシャロンはこんなことをしている。脳波を細工して再現した、巧妙な「死んだふり」だ。
 目の前に現れた死神はそれに騙された、「釣られた獲物」なのだ。
 シャロンは十分近寄ってくれたその哀れな獲物を、糸ですばやく絡め取った。

「!?」

 ようやく罠だと気付いたのか、網の中でもがく死神。
 周囲に生えていた手も一斉に逃げ出した。
 しかしもう遅い。何もかも手遅れだ。力の差は圧倒的だ。
 それほどまでにこいつらはか弱い存在だ。しかし手と比べればかなりの栄養を持っている。かつて人間であったがゆえに、その体を構成する部品は今でも再利用出来る。
 だからシャロンは笑みを浮かべながら、

「いただきます」

 と、大きく口を開けた。

   ◆◆◆

 そんな「釣り」を場所を変えながら数度繰り返し、満足な補給を完了した頃には深夜になっていた。
 シャロンは頭痛が引いていく感覚を充足感と共に感じながら思考を巡らせていた。

(アラン自体は強く無かったはず。強さだけを見るならば問題は仲間。例えばアンナ。片足を失ったとはいえ、カルロも侮れない存在のままであることは間違い無い)

 アランが優先目標であることは間違い無いが、状況次第では優先順位が大きく変わる可能性があるわね、とシャロンは思った。

 皆様のご想像通り、シャロンはろくでもない事を考えている。シャロンはこの国にとって善たる存在では無い。どちらかと言うと悪である。アラン達の社会を、炎の一族が築き上げた社会を破壊しようとしている。サイラスに助力しているのは、単純にサイラスに思い入れがあるからだ。

 そして、シャロンの思考は順調に進んだ。

「……」

 が、シャロンはその考えをすぐに行動に移そうとはしなかった。
 出来なかった。
 久しく忘れていた迷いが、シャロンの心に湧きあがっていた。
 迷う理由の一つは、事の重大さ。
 恐らく、いや、間違い無く、これからやる事は修正が効かないことだ。やってしまったら、もう後戻りが出来ないことだ。
 これからやろうとしている事は戦力の調整である。
 鍵を握っているのは強力な神事を単独で引き起こすことが出来るサイラスとアラン。
 そして、二人の周りにある戦力も粒揃いだ。ラルフとリーザ、アンナとカルロ、これらは世界という大きな舞台で見ても、間違い無く上から数えた方が早い位置にいる者達だ。
 この者達が全員、我々と同じ域にまで登ったとしたら、魔王はどう思うだろうか?
 手を引く可能性が高いだろう。和の国からそうしたように。
 だから私は誰かを削ろうとしている。
 しかしその選別の中にサイラスは含まれていない。
 サイラスを生き残らせるということは、神事を単独で引き起こせる強力な神官がこの国に存在し続けるということ。
 つまり、生き残った者達は遅かれ早かれ、全員我々と同じ域にまで登ってくる可能性があるということだ。
 だからアランの優先順位が下がった。
 しかしそもそも、この考え方がおかしい。
 鍵となる二人を消せばそれで済む話なのだ。
 そして間違い無く、「私の一番の望み」を達成するにはそれが最善手である。
 だから悩んでいる。
 ただの小さな感情が、サイラスへの想いが、事の判断基準を狂わせているからだ。

 シャロンがサイラスに対して抱いている感情は「男女」のものでは無い。「身内に対する愛」に近い。
 かつて、シャロンはその感情を捨てようと努力した時があった。
「彼」はもう違う人間だと、別人になってしまっていると自分に言い聞かせ、あきらめようとしたことがあった。
 その考え方にはちゃんとした根拠があり、事実そうであったのだが、それでも結局シャロンはサイラスに対しての思いを完全に捨て去ることは出来なかった。だから悩み、苦しんでいる。
 混沌という技術を得てなお、シャロンは小さな感情に振り回されている。そも、「一番の望み」すら感情を基本としたものだ。彼女の行動原理に感情が含まれていないものは無い。
 しかし人間であるのだからそれはおかしな事では無い。「善」に基づく「高い志」などの崇高な目標に対しても同じだ。そのようなものには「希望」や「正義」などの眩い感情が伴うことが多く、そうあるべきである。
 彼女を悩ませているのは感情の「大小」、「程度の高さ」である。彼女には無いのだ。「高い志」のような大きな物を抱いた事が。考えた事すら無い。今の彼女の中にあるのは「取り戻したい」という欲求だけだ。

 不思議なことに、シャロンの苦しみの原点は「自分は小さな人間である」という思い込みから生ずる自己非難である。混沌という並外れた技術を有しているにもかかわらずだ。そしてシャロンはその事に気付いていない。

   ◆◆◆

 シャロンは、「彼」はもう別人になってしまっていると考えている。
 その根拠の一つはある現象であり、実際にシャロンはサイラスと会った時にその変化を確認した。
 そして、その現象をいま目の当たりにしている者がいた。
 それはケビン。
 目覚めた彼は自身の変化にすぐ気付いた。
 愛する者がそばにいて、そして自分を支えてくれているという事実に、感動した。

「……?」

 が、しばらくして、その感動は疑問に変わった。
 ケビンは気付いてしまったのだ。
 記憶にある「生きていた頃の彼女」と、「今の彼女」が重ならないことを。
 かつての彼女と自分は、こんな関係では無かったはずだ。
 自分にここまで尽くしてくれるような関係では無かったはずだ。
 思い出せ。彼女との間にある最後の記憶は、出来事はなんだった?
 思い出した。喧嘩だ。
 彼女は、俺が戦いに行く事を反対していた。
 彼女は兵士である俺を嫌っていた。いつ死ぬか分からぬ仕事など早くやめて、もっと安全な仕事に就けと。子供の将来を考えてそうすべきだと。
 しかし俺はやめなかった。やめられなかった。隊長という身分になっていたのもあるが、他の仕事を上手くやる自信が無かったことも理由として大きい。
 だから俺達の関係は冷めていた。そのはずだ。

(……まさか、)

 そしてケビンは気付いた。

(作り変えられたのか?!)

 虫が使えるようになった俺のように、と。
 目が覚めたら、自然と使えるようになっていた。
 どうすれば何が出来るのかが全て分かる。まるで頭の中に設計図と説明書があるかのように!

「……」

 冷めた関係であったという事実と、確信めいたものを感じる推測に、ケビンは絶句した。
 しかし唖然としながらもケビンは心の中で問うた。
 そうなのか、と。
 夢で感じた、あの声の主達に対して。

「……」

 しかし答えは無かった

「……っ」

 気付けば、頬の上を温かな水が流れていた。
 それが何に対しての涙なのか、ケビンは分からなかった。
 しばらくして、その答えは分かった。
 これは後悔の涙だ。
 彼女が生きている間に、今のような関係を築けなかったことに対しての涙だ。

「……くそ、……糞!」

 だからケビンには自分を責めることしか出来なかった。

 あの声の主達は知っていた。
 これがケビンが心の奥底で抱いていた理想の一つであることを。
 だから彼女をそのように作り変えた。
 そしてそれは戦いを有利にする上でも重要なことであった。
 反抗的なものを、役に立たないものをそばに置いておく必要性など無いと、あの声の主達は判断したからこうした。

 そして今、ケビンの涙を見た声の主達は後悔している。
 理性や魂を復活させるよりも先に、全ての権限が自分達にゆだねられていた間に、都合の悪い記憶を消しておくべきだったと。

 感の良い方は気付いただろう。
 では、今のクラウスと師の関係は? と。

 残念ながら皆様の想像通りである。

「都合良く作り変えられている」という事実を念頭に、もう一度師の発言を見直してみよう。さすれば、納得すると同時に、おかしな部分があることに気付くはずだ。
 なぜ、師は「クラウスが知らないことを、知りえないはずの事実を基にした未来予測が出来たのか」ということだ。

 そしてそれはクラウスと師に限ったことでは無い。アランとあの人の関係も、である。

   ◆◆◆

 一方――

「……っ!」

 アンナは膝をついていた。

「……くっ、はあ、はあ」

 その顔は疲れと驚きに染まっている。

「……」

 そして、ディーノはそんなアンナを見下ろしていた。

「おい……嘘だろ?」

 周囲からその結果に対しての声が上がる。
 周りは見物客で埋まっていた。
 ディーノとアンナが練習試合をしたのだ。
 いや、練習という表現は正しくない。
 途中からは完全な実戦だった。本気の殺し合いに見えるほどの。

「アンナ様が手加減したんじゃないのか?」

 再び上がる、結果に対しての疑問の声。
 そうだ。誰だってそう思う。普通は。
 しかし同時に、その考えが間違いであることも、アンナが本当に負けたということを、皆おぼろげに感じ取っている。

「はあ、はあ」

 立ち上がることも出来ないほどに疲弊したアンナの表情がそれを証明している。

「はあ、はっ、ぜっ、げほ、げほっ!」

 咳き込む口を手で隠すように覆う。

「はあ、……はあ」

 落ち着いたところで、アンナはその手の平を見た。
 あの時、ディーノ様が言ったことは、正解だったのだと。
 そう考えなければ説明がつかない。
 私は途中から本気になった。手加減されていると感じたからだ。そしてそれは実際その通りだった。ディーノ様は明らかに手を抜いて戦っていた。
 だから私は少し驚かせようと、強い炎を放った。
 だけど駄目だった。盾で防がれた。
 だから私は熱であぶるように、盾を溶かすつもりで炎を放ち続けた。
 だけど無駄だった。
 ディーノ様は盾を構えたまま平然と間合いを詰めてきた。
 まるで効いていないように見えた。
 いや、「まるで」じゃない、本当に効いていないのだ。その証拠にディーノ様の体に火傷は一切――

「そうでもないぜ」

 直後、耳に飛び込んできたディーノの声に、アンナは「はっ」となって顔を上げた。
 ディーノは己のまぶたを指差しながら言葉を続けた。

「嬢ちゃんの炎は強烈だったよ。その証拠に、ここが少し焼けちまった」

 確かに、言うとおりディーノのまぶたは焼け爛れていた。
 慰めるつもりでそう言ったのだろうが、アンナの心は混乱しただけだった。
 どうして、まぶただけなのかと。
 なぜ、そこにだけ熱が伝わったのかと。
 盾では熱の伝播は止められない。体全体がそのまぶたのようになっていなければならないはず。
 どうしてなのか。一体なぜ――

「……」

 アンナは心の中で疑問の声を何度も響かせたが、ディーノがそれに答えることは無かった。

 かつて、クラウスの師は「三割」しか勝ち目が無いと述べた。
 しかしそれは当時の情報を基にした予測に過ぎない。
 今のディーノを見ればどう思うだろうか。
 はたして、ディーノの身に何が起きているのか。ディーノは何に気付いたのか。ディーノは何をアンナに尋ねたのか。
 それはじきに明らかになる。

 この世界にはまだ謎が多い。
 その中には魔王ですら知らぬものもある。
 魔王は「神」を馬鹿にした。その存在を否定した。
 実際に会わない限り信じないだろう。それに近い存在はいるということを。
 それがどういう存在で、何に関わっているのかという謎も、じきに明らかになる。

 そして意外なことに、その鍵を握る人物はとっくの昔に舞台に上がっている。我々がよく知る人物だ。

   第四十三話 試練の時、来たる に続く
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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