シヴァリー 第四十三話

   ◆◆◆

  試練の時、来たる

   ◆◆◆

「……」

 雲一つ無い快晴となった翌日、リックは箒を手に黙々と掃除していた。
 場所は教会。
 教会と名が付いているわけでは無いが、リックはこの場所の雰囲気をそのように感じたため、勝手にそう呼んでいる。
 そして、いまリックがやっている掃除も勝手に始めたことだ。頼まれてはいない。
 しかしリックはこれくらいのことはやって当たり前である、という意識を持っていた。タダ飯食らいになるのは御免だという、自尊心があった。

「感心ですね、息子よ」

 そんなリックに、母クレアが松葉杖で歩み寄りながら声をかけてきた。
 リックは母に必要以上に歩かせぬよう、自分から歩み寄りながら声を返した。

「仕事を持たぬ厄介者ですからね。これくらいのことはしないと」

 答えながら、リックはクレアの足元に視線を移した。
 ここに来るまでに鎖使いにやられた傷が、腐る前に切り落とした左足首の切断面が何度か化膿したからだ。
 しかし今はもう治まっている。色も過度に赤くなく、熱を発している様子は見られない。
 そんなリックの考えを察したのか、クレアは再び口を開いた。

「心配は無用ですよ。もう良くなりましたから」

 その言葉にリックは眉をひそめながら口を開いた。

「前もそう言いながら無茶をして、熱を出したではありませんか。せっかくルイス殿が良い部屋を用意してくださったのですから、ちゃんと休んで――「息子さんの言うとおりですよ。休んでいてもらわなくては困ります」

 割り込むように飛び込んできたその声に、リックとクレアは同時に振り返った。
 そこにいたのは、声の主はルイス。
 直後に二人の表情が少し硬くなったことから、察したルイスは口を開いた。

「ここに到着された時にも言いましたが、あなた方は客人では無い。同じ血を引く家族だと私は思っている。ですから、そのように堅苦しくならないで頂きたい」

 言いながらルイスはリックが持つ箒に手を伸ばしたが、これをリックは別の手で遮った。

「……ルイス殿、そうおっしゃっていただけるのは嬉しいのですが、どうにも落ち着かないのです。どうか、性分だと思って、このような我々の身勝手をお許し願いたい」

 こう丁寧に言われては、ルイスも引かざるを得なかった。

「わかりました。あなた方がそう望むのであれば、私からも無理を言うつもりはございません」

 そう言った後、ルイスは来た方向に視線を移しながら言葉を続けた。

「では、私は少し用事があるので出かけなければなりませんが、その間の留守番をお願い出来ますか」

 これにリックとクレアが肯定の返事を返すと、ルイスは「宜しくお願いします」と言い残して場から去っていった。
 その背中が見えなくなった後、リックが母に尋ねた。

「母上、あの御方は、ルイス殿はどうして『あのような』――」

 リックが何を言わんとしているのかを察したクレアはその言葉を遮るように口を開いた。

「妙な詮索をするものではありませんよ、リック」

 しかしクレアも気にはなっていたらしく、言葉を続けた。

「……少し『物騒』ですが、『あれ』は彼なりに『武』を求めた結果なのでしょう。体術の型は一通り修めているかもしれませんが、彼は魔法が使えないはず。しかし、それでも力を求めた結果、彼は『ああなった』のでしょう」
「……」

 あくまでも推測でしかなかったが、リックは母の言葉が正解であるように感じた。

「……ん?」

 直後、リックはふと、窓を見た。
 そこには先と変わらぬ雲一つ無い空が広がっていた。

「……?」

 しかしリックは違和感を覚えた。

 何か、大きな雲のようなものに光を遮られたような、覆われたような、そんな気がしたからだ。
 
   ◆◆◆

 ルイスは「客人」が指定した場所に辿り着いた。
 そこはただ少し開けた野原であった。
 人気は無い。

「来ることを事前に虫で報せてくれるなんて、君にしては珍しいな」

 が、ルイスは誰もいないその野原に向かって口を開いた。
 当然のように返事は無い。
 が、

「……ずいぶんと、人間らしくなったものだね」

 ルイスはまるで誰かと話しているかのように再び口を開いた。

「いや、非難しているわけでも、馬鹿にしているわけでもないよ。その変化を嬉しく思っている。本当だ」

 ルイスの独り言は続いた。
 いや、それは独り言では無かった。
 この場にサイラスがいれば、驚いていただろう。
 ルイスは肉眼では見えないものと話していた。
 その存在感は圧倒的。雲のようなものを想像させるほどに巨大。
 しかしこのままでは話しづらいと思ったのか、「それ」はルイスと大きさを合わせるように変化した。
 ルイスの形を、人の姿を真似て。

「……物真似が随分上手くなったんだな。見た目だけなら人間と変わらない」

 その変化を、ルイスは皮肉を交えて賞賛した。

 こいつは一体なんなのか。
 これも死神と同じ、かつて人であったものだ。
 先に述べたように、あの世にも独自の生存競争が存在する。
 こいつはその競争を勝ち上がったものだ。食らい、大きくなり、あの世における食物連鎖の上位に上り詰めたものだ。

 ルイスは人に化けたその者(物?)の存在感が濃くなったのを感じた。
 というよりも前が薄すぎた。密度が非常に低かったのだ。
 ゆえに、「雲」という印象を抱くのはあながち間違いでは無い。
 そしてその雲は全体が罠である。広がっているのは獲物を広範囲で探すためであり、末端には獲物をからめとる力と機能が備わっている。
 ゆえに、正確には「雲」では無く、「蜘蛛」である。巨大な巣が動いているようなものだ。

「……」

 人の形をしてはいるが、放たれる気配は明らかに人ならざるもの。その異様な感覚にルイスは言葉を失ったが、すぐに己を取り戻し、尋ねた。

「それで、今日は何の用があってここに来たんだ?」

 それは答えた。

「……いや、大した事では無いんだが――」

 それは何気ない一言であったが、彼(?)の変化を証明するのに十分なものであった。
 前回会った時は、このような「会話の間」や「言葉の繋ぎ方」というものを、まだ意識出来ていなかった。ゆえに、双方の会話は必要な情報だけを言葉にする、という非常に淡白なものであった。
 初めて会話した時のことをルイスは今でもよく覚えていた。
 はっきり言って会話の体を成していなかった。当時の彼に使えたコミュニケーション技術は単純な感情と、原始的な言語のような記号だけであった。ゆえに、意思疎通にかなりの苦労を要した。

 つまり、この大きな存在はいまだ成長途中にあるのだ。
 いや、正確にはかつての自分を、人間性を取り戻そうとしているのだ。

 ルイスはその成長を強く実感するために、彼の言葉に、耳に意識を集中させた。
 間も無く、彼は言葉を続けた。

「そろそろ『彼女』がここに来る頃かと思ってね。前回の『調整』からかなり時間が経っているだろう?」

 その言葉に、ルイスは「そういえば、もうそんな時期か」と返し、「残念だが、まだ来ていないぞ」と言葉を続けた。
『彼女』がここにいないという事は既に知っていたらしく、彼は頷きを返しながら口を開いた。

「ああ、そのようだね。君に会う前に町を少し探ったけど、彼女の気配はどこにも無かった。……そういえば、その時に面白いものを見つけたな」

 これに「なんだ?」とルイスが促すと、彼は口を開いた。

「……リックと言ったかな? 末裔が君の教会に居候しているようだね」

 ルイスが「まさか、話したのか?」と尋ねると、彼は首を振りながら口を開いた。

「いや、遠くから見ただけだよ。向こうもこっちを見たけど、気付いてはいない。彼の感知はそれほど強くは無いみたいだね」

 これにルイスは「そうか」と淡白な感想を返した。
 気付かれたところで何か問題が生じるわけでは無いからだ。
 それよりもむしろ――そう思ったルイスは口を開いた。

「じゃあ、話してみないか? リックがどんな反応をするのか気になる。リックには君の声が聞こえないかもしれないが、その時は私が『共感』を使って補助しよう」

 これに彼は難しい顔を作った後、口を開いた。
 そして、その黒い空洞から放たれた言葉は返事では無かった。

「……その、『君』という呼び方なんだが、どうにかならないかな?」

 返事を期待していたルイスはその予想外の言葉に意味が分からず、一瞬言葉を詰まらせた。
 そして、ルイスはすぐに彼が何を言わんとしているのか察したが、あえて気付かないフリをしようと思った。

「……じゃあ、お前とでも呼んだ方がいいかい?」

 これに彼は眉をひそめ、

「意地悪はやめてくれ。僕が何を言いたいのか、分かってるだろう?」

 と言った後、視線をルイスから外しながら言葉を続けた。

「そろそろ、名前が欲しい」
「……」

 その言葉に、ルイスは口を閉ざした。
 名前を考えているわけでは無い。彼にふさわしい名前ならいくらでも思いつく。
 それをすぐに提案しないのは、彼が「感情無く」視線を外したからだ。
 視線を外したのがただの「フリ」だったからだ。視線を外す動作に感情は一切働いていなかった。こういう場合、人間は視線を外すことがある、というのを観察で知っていて、それを実践しただけなのだ。どこかにいた誰かが似たような状況になり、その時に見たものを「真似」しただけなのだ。
 人間への道はまだ遠いみたいだな、ルイスはそう思った。
 しかし同時に嬉しい事実もあった。
 名前を欲しがっている、という感情は本物であったからだ。
 だからルイスは薄い笑みを浮かべながら尋ねた。

「生きていた頃の名前は覚えていないのかい?」

 彼は首を振った。

「……名前があったのかどうかすら思い出せない」

 これにルイスは「そうか」と返した後、次の質問を投げた。

「じゃあ性別は? これくらい覚えているだろう」

 彼はこの質問にも即答出来なかった。

「……実は、それすらもよく覚えていないんだ」

 しかし彼は「でも、」と言葉を続けた。

「……僕は男の名前が欲しいと思っている。男性として、男らしく振舞いたいと思っている。……この感覚が、かつて男として生きていたからなのかどうかは分からないけれど」

 その言葉に、ルイスは少し間を置いてから口を開いた。

「……じゃあ、『アトラク=ナクァ』っていうのはどうだ?」

 聞いた事の無い名詞であったゆえに、彼は尋ねた。

「なんだい、その、『アトラク=ナクァ』っていうのは?」

 ルイスは浮かべている笑みを強くしながら答えた。

「恐怖を題材にした娯楽話に出てくる、蜘蛛の神様の名前だよ」

 この答えに、彼は微妙な表情を作りながら、再び尋ねた。

「蜘蛛? ルイス、君は僕が蜘蛛に似ていると言いたいのかい?」

 ルイスは「ああ」と肯定の返事を返し、言葉を続けた。

「大きく網を張って獲物を捕らえる、まさに蜘蛛だと思うぞ」

 そう言われればそうなのかもしれない、生きている人間にはそう見えるものなのかもしれない、彼はそう思ったが、やはり微妙な表情は戻せなかった。「恐怖を題材にした娯楽話」という部分が気に食わなかった。
 だから彼は再び尋ねた。

「ルイス、僕はそんなに恐ろしい存在に見えるかい?」

 これにルイスは再び同じ肯定の言葉を返し、理由を述べた。

「普段はかなり大きいからな。初めて見る人はみんな驚いて警戒すると思うぞ」

 自分もそうだったからな、とルイスは言葉を付け足した。

「……」

 彼は微妙な表情を維持したまま押し黙り、ルイスが別の候補を提案してくれることを期待した。
 しかし、それはどうやら無駄のようであった。
 だから彼はあきらめ、

「……わかった。じゃあそれでいいよ」

 とりあえず受け入れることにした。

 この日、一つの大きな存在に名前が与えられた。

 翌日、ルイスは思い出す。
 作者によって、話に登場する『アトラク=ナクァ』は男性であったり、女性だったりすることを。
 しかしルイスは「まあ、大したことでは無いな」と勝手に判断し、本人には黙っておくことにした。

 はたして、ルイスとこの蜘蛛の怪物は一体どういう関係なのか? どういう立場にあるのか?
 そもそも、ルイスは何者なのか?
 今のところアランの味方では無い。共感を使ってアランの才能の開花をうながそうとしなかったことがその証拠だ。ルイスがその気なら、この物語は序盤から大きくその様相を変えていただろう。
 しかし敵でも無い。もしそうであったなら、アランの物語はとっくに終わっている。
 今のところルイスは中立を装って(よそおって)いる。アラン達の戦いから距離を置いている。しかしある者に協力しているゆえに、ルイスはまったくの無関係というわけでは無い。
 そしてそれだけでは無い。ルイスにもシャロンが抱いているような夢が、望みがあり、それを目指して行動している。
 だがそれはシャロンのものと比べると途方も無いものだ。一人の人間の一生ではとても辿り着けないような、そんな大きなものだ。
 しかし、時間というものはルイスにとってさしたる問題では無い。その点に関しては、ルイスは蜘蛛の怪物とほぼ同じ価値観を持っている。
 だからルイスはのんびりと構えている。ゆえにその行動は非常に遅い。いつか出来たら、叶ったらいいな、程度に夢を追っている。危険から身を遠ざけて。

 しかしリックが来たことで、その状況にヒビが入ったことをルイスはまだ気付いていない。

   ◆◆◆

 一方、蜘蛛と称されたものが探している『彼女』は、まだ森の中を移動していた。

「……」

 シャロンは息を乱す事無く、軽快に駆けていた。
 虫の報告から、連中の狙いはやはりアランであることが分かった。
 そしてどうやら、先ほどそのアランは見つかったようだ。
 情報の流れが止まったのがその証拠。上からの指示を待っているのだ。伝達者の心を読むまでも無い。
 指示はまだ下りてくる気配が無い。しかし準備はしているはずだ。

(さて……アランは一体どこに)

 これに関しても伝達者の心を読む意味は無い。伝達者は情報を運んでいる虫に魂の力を与え、次の伝達者に向かって投げ送るという作業をしているだけなのだ。何もしらない。
 ゆえにアランの位置を知るには、情報を持つ虫自体を捕まえるか、末端にいる者、最前でアランに張り付いているものを見つけなければならない。そして情報の流れが止まった以上、期待できる選択肢は後者のみだ。

「……っ」

 そして、ある虫からの報告を聞いたシャロンはその場で足を止めた。
 帰ってきた内容は「辿り着けなかった」というもの。
 捜索のために放った虫がその力を使い果たしたのだ。
 つまり、かなり遠いということ。

(アランが収容所から姿を消して既に二ヶ月。その間、移動し続けていたとしたら……馬を使ったとしたら、既に故郷に辿り着いていても不思議では無い)

 ならばこちらも馬を使わないと。
 しかしそうすると確実に見つかる。連中と合流することになる。
 そうなると再び隠れるのは難しくなる。好き勝手するのが難しくなる。言い訳を作るのが困難になる。

(……やむを得ない、か)

 そう考えたシャロンはその足を、最寄にある馬屋の方へ向けた。

「……?」

 直後、シャロンは足に違和感を感じた。
 足が重くなったような、反応が鈍くなったように感じたのだ。
 そして同時にある感情が湧きあがった。
「逃げたい」「やめたい」という類のものだ。

「!?」

 瞬間、シャロンの背中は「びくり」と跳ね上がった。
 これはマズい、という危機感とともに心臓が加速する。

「……」

 シャロンは即座に目を閉じ、意識を集中させた。
「自己点検」するためだ。
 それはすぐに終わった。
 見つかった「問題」を「上」に報告する。
 すると間も無く、シャロンの足はいつもの感覚を取り戻した。

「……」

 しかしシャロンの気持ちは晴れなかった。

 シャロンの身に何が起きているのか。
 これはオレグの身に起きたものと似た問題である。
 違うのは、シャロンの体において「第四の存在」は権力を持たないということ。シャロンの体は基本的に独裁制度である。
 しかし、裏の手があるのだ。
 第四の存在が持つ機能自体は失われていない。それを利用した攻め手だ。
 良い機会なので「第四の存在」について説明しよう。もう隠す必要は無いからだ。
 オレグの過去話が出た時点で気付いた方がいると思うが、「第四の存在」とは「魂を一から創造する」機能を持つ存在である。つまり、肉体である。肉体が己を操作、支配する独裁者を自ら生み出しているのだ。そして魂が理性と本能を生み出す。
 なぜ、そんなことをするのか。そのようになっているのか。
 理由は単純である。独裁の方が何をするにも速いからだ。メリットはそれのみであり、それが肉体においてはとても重要である。考えてみてほしい。命の危機が迫っているような緊急時に、多数決を取っている暇があるのかと。
 ではオレグはその弱点をどのように補っているのか、と思われた方は多いだろう。申し訳ないが、ここでそれについて触れるのは避けさせていただく。オレグには「技」がある、とだけ言っておこう。
 話を戻そう。
 既に独裁者がいる場合は第四の存在は活動しない。
 しかしある条件が満たされている場合は別だ。
 それは、いま存在する独裁者が第四の存在にとって「気に食わない者」である場合だ。
 第四の存在は支配者が誰でもいいわけでは無いのだ。ゆえに、「作り変える」。
 ケビンが真実に辿り着いた時に疑問に思った方は多いだろう。なぜ、シャロンは作り変えられないのかと。
 実際にはシャロンも時々作り変えられている。しかしシャロンはそれを「自己修復」しているのだ。混沌にはそのための部品、予備も格納されている。シャロンは定期的に「メンテナンス」されている。
 つまり、シャロンは本来あるべき関係を歪ませているのだ。
 そして本来あるべきシャロンとは、元のシャロンとはどういう人物だったのか。
 それは今シャロンの身に起きている問題から察することが出来る。
 シャロンの心に突然湧きあがった「逃げたい」「やめたい」という感情が答えである。
 元のシャロンは臆病な人間である。戦いに身を晒すことなどありえないほどの。
 臆病であること自体は弱点では無い。危険な対象から隠れる能力に長けていれば、生存するという点では有利に働く。
 だが、逃げられない、または逃げてはいけない状況というものは存在する。こちらから攻め込まなければ、先手を仕掛けなければならない時というものは必ずある。
 元のシャロンはその点に関しては論外の域だ。元のシャロンに出来たことは「逃げ」の一手のみである。シャロンの肉体がそのような支配者を望んだがゆえに、シャロンは臆病な気質に作られたのだ。
 そのような欠点や問題は改善されることがある。ケビンが良い例だ。魂が理性や本能の影響を受けて変化することがあるように、同じことが第四の存在、肉体にも起きることがあるのだ。
 そして変わっているのはケビンだけでは無い。さらに言えば、その変化はケビンのような急なものだけでは無い。描写するまでも無い、本人すら気付かないようなゆっくりとしたものもある。ある者がその変化を突然自覚し、驚く場面がもうじき描かれるだろう。
 だが、それはシャロンでは無い。シャロンの肉体に変化が起きる望みは薄い。その理由としては、シャロンがいつでも逃げようと思えば逃げられる立場にあることが大きい。
 ゆえに、シャロンの「点検と修理」では根本的問題は解決しない。ただの時間稼ぎである。
 そしてその問題が発生する周期が短くなってきていることをシャロンは自覚していた。
 だから、シャロンは、

(アランの件が片付いたら、すぐにでも『調整』してもらったほうがいいわね……)

 と考えていた。

   ◆◆◆

 シャロンの考えは当たっていた。

「……」

 連中はアランに注力していた。
 指示を送る側である「上」の男は、椅子の背もたれに体を預けたまま考え込んでいた。
 しかしその表情は厳しく、うつむいている。

「やはり……」

 男は定期的に独り言を漏らしながら考え込んでいた。
 前に女が立っていることすら気付かぬほどの集中力で。
 報告のために尋ねてきたその女は、男の異常な様子にどう声をかけて良いかわからなくなっていた。
 しかしいくら待っても気付く気配が無いため、女は勇気を振り絞って声を出した。

「あの……」

 これに男は「はっ」と顔を上げ、口を開いた。

「ん? ああ、すまない。気付かなかった。考え事をしていたものでね」

 男は畳み掛けるように早口でそう弁明した後、報告を求めた。

「頼んでいたことは順調か? それとシャロンは?」

 気が少し動転したまま言葉を続けたせいか、男は早口のまま一度に複数の質問を女に浴びせてしまった。
 しかし女は冷静にこの質問に答えた。

「……指示された通り、この『一覧』に記載されている者達に対して召集命令を発しました。見つかっていないシャロンを除いて、ですが」

 そう言いながら女は男の前に広がる机の上に、その「一覧」が記載された紙を乗せた。
 男はその紙を手に取り、食い入るように眺めた。
 記載漏れが無いかもう一度確認するためだ。
 女に命令を出す前に数え切れないほど確認したが、それでももう一度眺めずにはいられなかった。

 この紙は、「一覧」はなんなのか。
 これは死んでもいい者、使い潰しても問題無い人間の名前を並べたものだ。
 もう役に立たないもの、顔が割れてしまっているせいでろくに活動出来ない者なども含まれる。
 その中でも、シャロンの名前は一際異彩を放っていた。
 なぜなら、「こいつには注意しろ」と、魔王から直接指名された人物だからだ。
 ゆえにシャロンは最重要監視対象である。立場上は味方であるにもかかわらずだ。
 無理な任務を与えて早めに潰すようにとも言われている。
 しかしシャロンはそれらの難題を淡々とこなしてきた。
 だが、シャロンは最近になってようやくボロを出した。
 直前の任務でシャロンは遂に悲惨な結果を出した。
 味方は全滅。にもかかわらずサイラス側の戦力は減るどころか、むしろ増加した。魂を扱う技術や、共感の錬度が増した。
 そして当のシャロンは行方不明。貼り付けていた優秀な監視役もだ。死体すら見つかっていない。
 こちらが送った増援を全滅させた連中は、和の国の忍者である可能性が高いという。
 シャロンと忍者達が通じていた、と考えてもおかしくない結果だ。

「……」

 そんなことを考えながら男は紙を机の上に戻し、大きなため息と共に目を両手の指で覆った。
 目の周辺の筋肉を指をほぐしながら思考を巡らせる。
 目元に纏わり付いていた重い疲労が溶けていくのを感じながら、男は小さなため息を吐いた。
 ため息無しではやっていられないほどに厄介な問題だ。
 シャロンがボロを見せたことは間違いないのだが、証拠が無い。
 せめて監視役さえ生きていれば。彼は間違いなく、シャロンとサイラス達の戦いを間近で見ていたはずなのだ。
 シャロンがどこかで野垂れ死んでくれていればどんなに気が楽か――

(いや、違う)

 直後、男は「シャロンの死への期待」を自身で否定した。
 自分はシャロンという戦力をまだ求めている。
 アランは軍と合流してしまった。そして恐らく、今後アランが自ら孤立するように動いてくれることは無いだろう。強力な感応者なのだから。尾行されていればすぐに気付く。それどころか、もう既に自身の立場を理解している可能性がある。
 ならば、こちらが取れる手は人混みにまぎれて仕掛ける奇襲だけだ。しかし、部外者が紛れること自体が不可能に近い軍隊の中にいるのではそれすら難しい。
 もし、アランが自身の能力を使ってアンナを鍛えるようなことが起きれば、後に手がつけられない事態になることは想像に難くない。
 そうなるのは時間の問題だろう。ゆえに、仕掛けるにしても強行手段になる可能性が高い。
 軍隊に正面から仕掛けるのであればシャロンを使いたい。サイラスにそうしたように。それが正直な気持ちだ。
 ならば自分が取るべき手は――

「あの……」

 直後、意識に割り込んできた女の呼び声に、男は再び「はっ」と顔を上げた。
 集中しすぎたせいで女の存在を忘れてしまっていた。
 男はそれを謝ろうとしたが、それよりも早く、女が口を開いた。

「では、私はこれからシャロンの捜索に就きますが、それでよろしいですか?」

 これに男は「ああ、頼む」と、短いがはっきりとした答えを返した。

「……」

 そして男は部屋から出て行く女の背中を見送りながら、顎に手を当てた。
 男の頭の中ではある言葉が木霊していた。
 ならば、都合がいいじゃないか、と。
 もしシャロンがずうずうしく戻ってきたら、使ってやろうじゃないか、と。
 次の作戦は地獄そのものなのだから。

   ◆◆◆

 一方、同じようにため息を吐いている者がいた。

「……ふう」

 それはクラウス。
 しかし、その息に込められている感情はまったく違うものであった。
 ここまでくればまずは一安心、そんな言葉がクラウスの頭の中で木霊していた。
 腰を下ろしている場所がただの木箱であるがゆえに、臀部は鈍い痛みを発していたが、今のクラウスにとってはどうでもよかった。
 椅子が欲しくないわけでは無い。しかし注文しても出てこないだろうとクラウスはあきらめていた。
 なぜなら、今クラウスがいる場所が戦いの最前線だからだ。こんなところで満足な家具を望むのは、世間知らずの馬鹿だけだ。
 しかしありがたいことに、この陣を守っている隊長は屋根と一つの寝具を与えてくれた。
 その寝具にはアランが横たわっている。

「……」

 アランはここに辿り着いてからほとんど言葉を発していない。
 当然である。ここまでほとんど休み無く移動し続けてきたのだから。
 だがクラウスは、明日になったらまたすぐに移動しなければならない、と考えていた。
 この陣地にいる戦力が弱いからだ。
 クラウスの意識には、あの夢で師が放った言葉がこびりついていた。
 アランは狙われている、と。
 だから移動しなければならない。幸いにも近くにクリス将軍の陣地があるらしい。そこにはアンナ様もいる可能性が高い。そこに移動するべきだ。

「……」

 クラウスは何一つ喋らず、まるで確認するかのように、同じ思考を繰り返した。
 その心の声は木霊の様にアランに伝わっていた。
 だからアランは上半身を起こし、口を開いた。

「なあ、クラウス」

 これにクラウスは、今はお休みくださいと制止しようとしたが、それよりも早くアランが言葉を続けた。

「少し前から尾行されているが、あいつらは何者だと思う?」

 この質問にクラウスは少し考えてから、

「……分かりませぬ」

 と答えた。
 しかし少しでも絞ることは出来る、それを考えていたクラウスはすぐに「ですが、」と言葉を続けた。

「教会側の人間では無いと思われます」

 同意見であったアランは頷きを返した。
 アランとクラウスは理解していた。教会が反乱を起こされていることを。
 だからこの最前線も静かなのだ。
 そしてクラウスの言葉にはまだ続きがあったが、アランは口を開き、それを代弁した。

「さらに言えばサイラスが放った追っ手でも無い、だな?」

 その言葉にクラウスが頷きを返すと、アランは言葉を続けた。

「町を出た後、しばらくはサイラスの部隊に追われた」

 これを振り切るのは難しくなかった。アランの感知能力を持ってすれば、相手の警戒線を外し、くぐり抜けることは簡単なことであった。
 しかし問題は次だ。アランはそれを言葉にした。

「しかし奴らは、それを振り切ってしばらくしてから現れた。……全く違う方向から」

 そうなのだ。「連中」が出現した方向から考えるに、サイラスの仲間とは思えないのだ。
 アランはその時のことを思い出した。
「連中」は自分達が向かっている方向から、平原の方から現れた。
 そいつらは森の中から意識を巡らし、自分のことを探していた。相手の心が、台本がそう教えてくれた。だからこれは避けた。
 しかし次の集団に見つかってしまった。
 それは商人らしき風貌をした荷馬車の一団だった。
 だから油断してしまった。相手の思考を読む前に視線に入ってしまった。遠距離から見られてしまった。
 自分を認識された直後に、意識の線がこちらに結びついた瞬間に台本が開いた。この一団は商人では無いと。自分を探すために、欺くためにそう振舞っているのだと。
 しかしかなりの距離があったおかげで、振り切ることは出来た。
 そしてその後、自分達を見失ったその一団は、先に現れた賊のような連中と合流した。
 一体こいつらは何なのか。
 なぜ、自分を探しているのか。
 その答えを導く情報をアランは持っていない。

「……」

 だからアランの言葉はそこで止まってしまった。
 しかしまだ気になる事があったアランは、その口を再び開いた。

「そういえば、気になっていたんだが……クラウスはあの収容所のことを知っていたのか? 内部の構造を熟知しているように見えた」

 相手の心を読めるがゆえに、アランは既にある程度答えを知っていたが、それでもあえて尋ねた。

「……」

 この質問にクラウスは即答しなかった。
 しかしその沈黙が否定的なものでは無い、相手に分かり易く伝えるための言葉選びによるものであることを感じ取ったアランは、クラウスの返事を黙って待った。
 しばらくして、クラウスは口を開いた。
 クラウスはかつてそこに住んでいたことを、収容されていたことを告白し、そこでの生活がどんなものであったかを語り始めた。
 その内容は、アランが収容所で感じ取った通りのものであった。
 クラウスの舌はよく回った。
 その調子は時に、まるで別人の言葉を借りているかのようであった。
 実際そうなのかもしれないと、誰かが時々クラウスの口を借りて言葉を発しているのかもしれないと、アランは思った。
 アランは感じていた。クラウスの中にもう一人、別の誰かがいるような気配を。
 そしてそれは自分の中にも感じる。
 自分が三つあるような、そしてクラウスと同じように自分では無い別の誰かが、とても深いところにいるように感じる。
 何かが分かりかけている、何かが変化している、アランはそう感じていた。

「……」

 そしてクラウスの舌はあるところで止まった。
 アランは感じ取った。クラウスが話すのをためらっていることを。
 強い後悔と絶望、そして罪悪感もだ。
 あの時、クラウスの剣に込められたものとよく似ている。いや、同じ感情のように思える。
 話したくないのであれば無理に聞くまい、そう思ったアランはそれを言葉にしようとしたが、

「……それから、」

 直後、クラウスはゆっくりと話し始めた。
 師と共に反乱軍を率いて教会と戦ったことを。
 敗れ、貧民街に逃げ込んだことを。

「……」

 そこでクラウスの口は止まった。
 しかしアランは感じ取った。
 クラウスの心に母が死ぬ映像が流れているのを。
 この時、アランは初めて母の死の経緯を知った。
 だからアランは、

「……そういうことだったのか」

 と、言葉にした。
 アランの心には怒りが湧きあがっていた。
 なぜ、という言葉がアランの中で木霊していた。
 教会と戦っている時は正義だと思った。
 しかし彼らはその後、悪に転化した。
 なぜだ。もともとそういう気質だったのか、それとも堕落したのか。

(いや、待て……?)

 直後、アランは一度思考を切った。
 悪について考えようにも、悪についてのはっきりとした定義が自分の中に無かったからだ。ただ悪いと、そう感じただけだ。
 悪とは何なのか。

(そういえば……)

 アランは気付いた。
 あの時も、収容所でも同じ怒りを抱いたことを。
 リリィを拉致し、酷い仕打ちを行っていた教会の連中にも同じ感情を抱いたことを。悪だと思ったことを。

「……」

 しかしアランはその感情を言葉にして表さなかった。
 アランはまだ他に聞きたい事があった。

「……クラウスはその後どうして兵士に、父の部下になれたんだ?」

 アランは「当時、ただの難民の一人であり、母が死んだ原因の一人かもしれなかったクラウスを、なぜ?」という思いを心で伝えながら尋ねた。

「……」

 クラウスはやはり即答しなかったが、しばらくして口を開いた。

「……私が、首を持って行ったからでしょうな」

 クラウスは「アランの母を殺した者の」という部分をあえて口にしなかった。
 言葉にすることで、その時の映像が鮮明に思い起こされることを恐れたからだ。

「……」

 そして、アランはその態度を責めようとも、尋ね返すようなこともしなかった。
 アランは感じ取っていた。クラウスの絶望の裏に怒りが渦巻いていることを。
 その怒りはアランのものと同じであった。共感し、共鳴していた。
 同時にアランは納得もした。
 クラウスが事の原因に関わっていないとは限らないが、それでもクラウスは母の仇を討ったのだ。
 だからアランは尋ねた。

「クラウス、難民達はどうしてそうなってしまったのだと思う?」

 それは先ほど湧き上がり続ける怒りとともに飲み込んだ質問であった。

「……」

 この質問にクラウスは考え込んだ。
 クラウスは思い返していた。
 あの時、貧民街で状況がどのように変化していったのかを。
 多くの者が境遇に不満を漏らし、暴力的になっていった。
 しかしそれに対して声を上げる者もいた。
 だがその数は少なかった。
 戦いでそれなりの功績を挙げていた隊長格の者達だけであったように思える。
 彼らは自身が戦いで残した功績に名誉と誇りを抱いていたのだろうか? だから正しい声を上げることが出来たのだろうか?
 分からない。
 だから、クラウスは自身の感想だけを答えた。

「……我々は教会に対しては正しく戦ったが、別の戦いでは道を間違った、それだけのことだと私は考えています」

 その答えにアランは、

「……」

 沈黙だけを返した。
 クラウスの言葉から、悪とは何か、という疑問の答えを見出すことが出来なかったからだ。

 お気付きだろうか。
 皆が強くなることばかりに意識が向いている中で、アラン一人だけが少し違うことを考えていることを。

 そしてクラウスは知らない。
 収容所で「何が行われていたのか」、「自分が何をされたのか」ということを。
 もっと考えるべきなのだ。
 なぜ、隊長格以上の人間だけが、貧民街で正しい声を上げることが出来たのかということを。

   ◆◆◆

 次の日――

 早朝に出発したアランとクラウスは昼過ぎにはクリスの陣地に到着した。

 アランは真っ先に、陣を仕切るクリスの元へ挨拶に向かった。

「お久しぶりですね、クリス将軍」

 アランは再会を純粋に喜び、薄い笑みを口元に張り付かせていた。
 しかし対照的に、クリスは難しい顔で口を開いた。

「……正直、このような形で再会出来るとは思っていませんでしたよ、アラン殿」

 クリスが何を言わんとしているのか、その言葉の裏に何が含まれているのかを、アランは読み取った。
 クリスはこのような「まともな再会」を半ばあきらめていた。
 良くて交渉材料、悪ければ肉の盾として使われるだろうと踏んでいた。
 状況によってはアランごと敵を焼き払うことの許可を、カルロに伺いに行かねばならなくなるだろうなと考えていたほどだ。
 そして、クリスの表情に込められていた思いはそれだけでは無かった。
 クリスの視線は開かなくなったアランの両目に釘付けになっていた。
 生きたまま帰還出来たとはいえ、代償は払わざるを得なかったのか、いや、むしろこの程度で済んで幸運だったと考えるべきなのか、という思いがクリスの視線に込められていた。
 さらに同時にクリスは奇妙な感覚も抱いていた。
 存在しないはずのアランの視線がこちらの視線と綺麗に重なっているような、目を合わせて見つめられているような感覚があった。
 表現し難い、経験したことの無い感覚がクリスの体を包んでいた。
 まるで何もかも見透かされているような――

「……」

 馬鹿馬鹿しい、そう思ったクリスは思考を切り、それは不自然な沈黙という形で表に現れた。
 ゆえに、次に口を開いたのはアランの方であった。

「そういえば気になったのですが――」

 その言葉に、クリスが少し慌てたような調子で「ああ、なんでしょう?」と促すと、アランは言葉を続けた。

「この陣を囲むように、深い溝が迷路のように掘られているのを見たのですが、あれは……?」

 敵の侵入を妨害するために溝を掘るにしても、迷路にする必要は無いのでは? そう思ったゆえにアランは尋ねた。
 これに対し、クリスはアランが放った「見た」という言葉に少し違和感を覚えたが、それは表情に出すことなく答えた。

「まだ試行錯誤の段階なので、なんとも言えませんが……より硬い防御を築きたいと私なりに考えた結果があれなのですよ」

 クリスのこの回答にアランは、

「……なるほど」

 と淡白な返事を返した。
 しかしクリスの思考を読んでいたアランは、内心では「これは本当に良いものかもしれない」と共感していた。
 その感覚が伝わったのか、クリスは表情を和らげながら口を開いた。

「ところでアラン様。もう知っているとは思いますが、アンナ様もこの陣に滞在しておられます。早めに会ってくるとよろしいでしょう」

 これに、アランは即答した。

「ええ、もちろん。今から会いに行くつもりです」

 そしてアランは小さな礼をしながら「では、また後ほど」と言葉を続けた後、クリスの前から離れた。

(……やはり)

 その時の動きをクリスは見逃さなかった。
 目が見えないはずなのに、平然と歩いている。

「……」

 どうしてそんなことが出来るのか分からなかったクリスは、ただ沈黙するしか無かった。

   ◆◆◆

 その後、アランは言った通りにアンナの元に向かった。
 強力な感知があるゆえに探す必要は無かった。アランの足は真っ直ぐにアンナのほうに向いていた。

「……」

 しかしその足取りは軽く無かった。
 アランは感知を使ってもう一人探していた。
 しかし見つからないのだ。
 この陣にはいない? 何かあったのだろうか? そんな考えが暗い感情とともにアランの心に湧きあがっていた。
 足を遅くしながら感知の範囲を絞り、捜索能力の精度と強度を増す。
 だが、それでも見つからない。
 牛歩のように遅くなるアランの足取り。
 しかし妹との再会の時はアランのその足取りの重さにかかわらず、早く訪れた。
 向こうのほうから走って来たからだ。

「お兄様!」

 アランが生きて戻ってきたという話は既に陣全体に伝わっていた。
 それを耳にしたアンナは誰よりも早く会いたいという思いを抱き、足に乗せていた。
 その勢いはまるで体当たりでもするかのようであったが、

「!? お兄様……目が?!」

 その足はアランの目の前で止まった。

「……」

 そして訪れる沈黙。
 アンナが口を開かないのは何と声をかければ良いのか分からなくなったから。
 アランはどう説明すればいいのか分からなかったから。
 その沈黙はアランにとっては息苦しさを覚えるほどでは無かった。
 しかしアンナにとっては重いものであることを感じ取ったアランは、咄嗟に口を開いた。

「気にしないで。問題は無いから」

 言いながら、これは無理があるなとアランは思った。
 そして思った通りに、アンナは、

「見えないのに、そんなわけが!」

 と返した。
 これにアランは「そりゃあそうだよな、そう思うのが普通だろうな」などと思い、危うく笑みを浮かべそうになった。
 いま笑えば自虐的か、不謹慎だと受け取られるに違いない。まずは説明しなくては。
 しかしどう言えば分かってもらえるのかが分からない。

(いや、待てよ?)

 そもそも言葉に頼る必要は無いのでは? それに気付いたアランは直後にいい手を思いつき、口を開いた。

「本当だよ。手を貸して」
「……?」

 兄が何を言いたいのか、何をしようとしているのか分からなかったゆえに、アンナは動けず、ただ奇妙な表情を返すことしか出来なかった。
 だからアランはやや強引にその手を取った。

「あ……え?」

 直後、アンナの体にかつて経験したことの無い感覚が走った。

クラウスが見た世界2

 まるで自分が水の中にいるような感覚。
 その水が、世界が様々な波で満たされていることが分かる。その振動を全身で感じる。
 あの時のクラウスと同じであった。この瞬間、アンナもまた新たな世界を知ったのだ。
 しかし同時に疑問も沸き起こる。
 どうして私は、私の体は今までこれを感じ取ることが出来なかったのか――

(いや違う、これは、この感覚は――)

 その答えはすぐに分かった。正確には教えられた。
 これは私が感じ取っているものじゃない。私の体は、脳はまだそのような能力を持っていない。体に走っている振動は恐ろしく微弱なものだ。これを正確に解析する精度を、私の脳はまだ有していない。
 この感覚は兄様の感覚だ。兄様が感じ取っているものを、私が感じ取っているんだ。繋がっている手から増幅した波が送り込まれているんだ。

 アンナの考えは正解である。共感者として重要な能力は、波を正確に分析する精度と、解析した波を増幅して他者に伝播する能力である。

 良い機会なので神楽についても説明しておこう。
 共感の連鎖を利用する神楽は、発動者である神官の能力と、全体の共感能力の平均値が規模に直結する。
 ほとんどの人間は波を正確に受信、解析する能力を有していない。しかしそれは微弱な通常の波に対しての場合であり、とてつもなく大きな波であれば話は別だ。神楽の起動条件はその巨大な波を発生させることが出来るかである。
 そして波は距離に応じて減衰していくが、伝播者がそれを少しずつ増幅して他者に伝えることで、その距離を稼ぐことが出来るというわけだ。

 そしてアランがわざわざ手から伝えている理由は、あることを教えるためだ。
 そのために、アランは繋がっている手を離した。

「あ……」

 直後、アンナは残念そうな声を漏らした。
 身を包んでいた感動的な感覚が失われたからだ。

 能力が突然開花するということは、一瞬で別人に変化するということはありえない。
 なぜなら、体を作り直さなければならないからだ。古いものを破壊してから、新しく強力なものを作り直さなければならない。それには時間が必要であり、材料である大量の栄養も消費する。
 古いものの破壊には強い刺激が必要である。大きな負荷、大きな信号である。そして変化の速度には個人差があり、成長が鈍い場合には継続的な刺激が必要となる。
 しかし世の中は広い。
 鍛えるまでも無く、生まれた時点でその能力を有する人間は存在する。
 アランは違う。鍛錬によって登った人間だ。そして戦場がアランにとって良い鍛錬場となった。戦場には強い感情が、大きな波が頻繁に飛び交うからだ。
 アランの成長は早い方であった。そしてそれは才能だけによるものでは無かった。
 鍛錬を補助する道具があったからだ。
 アランはそれをアンナに教えてあげようと思っていた。
 だからアランはそれを声に出した。

「剣を抜いて、アンナ」

 返事をするまでも無くアンナの体は動いていた。
 何をすればいいのかが頭に流れ込んできていた。
 左手で剣を撫で、その刀身を発光させる。
 向かい合うアランは右手で。
 二人の動きが鏡合わせのように寸分違わず重なる。
 まるであの時のアランとクラウスのように。
 しかし今のアンナの心境はあの時のクラウスとは異なる。
 アンナの心を埋め尽くしているのは弾けるような期待感。
 再び身を包んだ感動的感覚がそれをさらに大きくしている。
 その激しい感情の中に、透き通るように兄の声が響く。

「そうだ、それでいい」と。

 今からやろうとしていることには大きな感情が必要なのだと。
 しかしまだ足りないと。
 その声が響き終わった直後、今度は言葉では無く感情がアンナの中に流れ込んできた。
 それは熱い何か。
 その熱いものは映像となってアンナの脳裏に映った。
 それは戦いの場面だった。
 一つでは無い。ある場面ではリックが、そしてまたある場面ではリーザが、そしてラルフが映っている。
 そして順序立ってもいない。時系列順に並んでいない。様々な場面がごちゃ混ぜに、そして不規則に流れている。
 だが、いずれの場面にも共通点がある。
 どれも激しく、そして熱い。
 戦いでアランが感じた緊張と、それを凌駕する闘志が映像と共に湧き上がってくる。
 それらの感情が好奇心と混ざって形容し難い何かになった直後、再び兄の声が響いた。

「そうだ! 大きく、そして激しくなければ他人の心を揺らすことなど出来ない!」と。

 その声と共に、二人の体は再び同時に動いた。
 腕が上がり、刀の切っ先が空へと向く。
 やはりあの時と同じ大上段の構え。
 その構えが完成した瞬間、アンナの心を埋め尽くしていた形容し難い感情はある形を成した。

弔い

 それは炎。
 激しく、そしてひたすらに熱い。
 じっとしているのがつらいほどに。
 そしてそれはアランも同じであった。
 だから二人は同時に、

「「破ッ!」」

 気勢と共に輝く刀身を振り下ろした。


   このお話はまだ続きます
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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