シヴァリー 第四十三話

   ◆◆◆

  試練の時、来たる

   ◆◆◆

「……」

 雲一つ無い快晴となった翌日、リックは箒を手に黙々と掃除していた。
 場所は教会。
 教会と名が付いているわけでは無いが、リックはこの場所の雰囲気をそのように感じたため、勝手にそう呼んでいる。
 そして、いまリックがやっている掃除も勝手に始めたことだ。頼まれてはいない。
 しかしリックはこれくらいのことはやって当たり前である、という意識を持っていた。タダ飯食らいになるのは御免だという、自尊心があった。

「感心ですね、息子よ」

 そんなリックに、母クレアが松葉杖で歩み寄りながら声をかけてきた。
 リックは母に必要以上に歩かせぬよう、自分から歩み寄りながら声を返した。

「仕事を持たぬ厄介者ですからね。これくらいのことはしないと」

 答えながら、リックはクレアの足元に視線を移した。
 ここに来るまでに鎖使いにやられた傷が、腐る前に切り落とした左足首の切断面が何度か化膿したからだ。
 しかし今はもう治まっている。色も過度に赤くなく、熱を発している様子は見られない。
 そんなリックの考えを察したのか、クレアは再び口を開いた。

「心配は無用ですよ。もう良くなりましたから」

 その言葉にリックは眉をひそめながら口を開いた。

「前もそう言いながら無茶をして、熱を出したではありませんか。せっかくルイス殿が良い部屋を用意してくださったのですから、ちゃんと休んで――「息子さんの言うとおりですよ。休んでいてもらわなくては困ります」

 割り込むように飛び込んできたその声に、リックとクレアは同時に振り返った。
 そこにいたのは、声の主はルイス。
 直後に二人の表情が少し硬くなったことから、察したルイスは口を開いた。

「ここに到着された時にも言いましたが、あなた方は客人では無い。同じ血を引く家族だと私は思っている。ですから、そのように堅苦しくならないで頂きたい」

 言いながらルイスはリックが持つ箒に手を伸ばしたが、これをリックは別の手で遮った。

「……ルイス殿、そうおっしゃっていただけるのは嬉しいのですが、どうにも落ち着かないのです。どうか、性分だと思って、このような我々の身勝手をお許し願いたい」

 こう丁寧に言われては、ルイスも引かざるを得なかった。

「わかりました。あなた方がそう望むのであれば、私からも無理を言うつもりはございません」

 そう言った後、ルイスは来た方向に視線を移しながら言葉を続けた。

「では、私は少し用事があるので出かけなければなりませんが、その間の留守番をお願い出来ますか」

 これにリックとクレアが肯定の返事を返すと、ルイスは「宜しくお願いします」と言い残して場から去っていった。
 その背中が見えなくなった後、リックが母に尋ねた。

「母上、あの御方は、ルイス殿はどうして『あのような』――」

 リックが何を言わんとしているのかを察したクレアはその言葉を遮るように口を開いた。

「妙な詮索をするものではありませんよ、リック」

 しかしクレアも気にはなっていたらしく、言葉を続けた。

「……少し『物騒』ですが、『あれ』は彼なりに『武』を求めた結果なのでしょう。体術の型は一通り修めているかもしれませんが、彼は魔法が使えないはず。しかし、それでも力を求めた結果、彼は『ああなった』のでしょう」
「……」

 あくまでも推測でしかなかったが、リックは母の言葉が正解であるように感じた。

「……ん?」

 直後、リックはふと、窓を見た。
 そこには先と変わらぬ雲一つ無い空が広がっていた。

「……?」

 しかしリックは違和感を覚えた。

 何か、大きな雲のようなものに光を遮られたような、覆われたような、そんな気がしたからだ。
 
   ◆◆◆

 ルイスは「客人」が指定した場所に辿り着いた。
 そこはただ少し開けた野原であった。
 人気は無い。

「来ることを事前に虫で報せてくれるなんて、君にしては珍しいな」

 が、ルイスは誰もいないその野原に向かって口を開いた。
 当然のように返事は無い。
 が、

「……ずいぶんと、人間らしくなったものだね」

 ルイスはまるで誰かと話しているかのように再び口を開いた。

「いや、非難しているわけでも、馬鹿にしているわけでもないよ。その変化を嬉しく思っている。本当だ」

 ルイスの独り言は続いた。
 いや、それは独り言では無かった。
 この場にサイラスがいれば、驚いていただろう。
 ルイスは肉眼では見えないものと話していた。
 その存在感は圧倒的。雲のようなものを想像させるほどに巨大。
 しかしこのままでは話しづらいと思ったのか、「それ」はルイスと大きさを合わせるように変化した。
 ルイスの形を、人の姿を真似て。

「……物真似が随分上手くなったんだな。見た目だけなら人間と変わらない」

 その変化を、ルイスは皮肉を交えて賞賛した。

 こいつは一体なんなのか。
 これも死神と同じ、かつて人であったものだ。
 先に述べたように、あの世にも独自の生存競争が存在する。
 こいつはその競争を勝ち上がったものだ。食らい、大きくなり、あの世における食物連鎖の上位に上り詰めたものだ。

 ルイスは人に化けたその者(物?)の存在感が濃くなったのを感じた。
 というよりも前が薄すぎた。密度が非常に低かったのだ。
 ゆえに、「雲」という印象を抱くのはあながち間違いでは無い。
 そしてその雲は全体が罠である。広がっているのは獲物を広範囲で探すためであり、末端には獲物をからめとる力と機能が備わっている。
 ゆえに、正確には「雲」では無く、「蜘蛛」である。巨大な巣が動いているようなものだ。

「……」

 人の形をしてはいるが、放たれる気配は明らかに人ならざるもの。その異様な感覚にルイスは言葉を失ったが、すぐに己を取り戻し、尋ねた。

「それで、今日は何の用があってここに来たんだ?」

 それは答えた。

「……いや、大した事では無いんだが――」

 それは何気ない一言であったが、彼(?)の変化を証明するのに十分なものであった。
 前回会った時は、このような「会話の間」や「言葉の繋ぎ方」というものを、まだ意識出来ていなかった。ゆえに、双方の会話は必要な情報だけを言葉にする、という非常に淡白なものであった。
 初めて会話した時のことをルイスは今でもよく覚えていた。
 はっきり言って会話の体を成していなかった。当時の彼に使えたコミュニケーション技術は単純な感情と、原始的な言語のような記号だけであった。ゆえに、意思疎通にかなりの苦労を要した。

 つまり、この大きな存在はいまだ成長途中にあるのだ。
 いや、正確にはかつての自分を、人間性を取り戻そうとしているのだ。

 ルイスはその成長を強く実感するために、彼の言葉に、耳に意識を集中させた。
 間も無く、彼は言葉を続けた。

「そろそろ『彼女』がここに来る頃かと思ってね。前回の『調整』からかなり時間が経っているだろう?」

 その言葉に、ルイスは「そういえば、もうそんな時期か」と返し、「残念だが、まだ来ていないぞ」と言葉を続けた。
『彼女』がここにいないという事は既に知っていたらしく、彼は頷きを返しながら口を開いた。

「ああ、そのようだね。君に会う前に町を少し探ったけど、彼女の気配はどこにも無かった。……そういえば、その時に面白いものを見つけたな」

 これに「なんだ?」とルイスが促すと、彼は口を開いた。

「……リックと言ったかな? 末裔が君の教会に居候しているようだね」

 ルイスが「まさか、話したのか?」と尋ねると、彼は首を振りながら口を開いた。

「いや、遠くから見ただけだよ。向こうもこっちを見たけど、気付いてはいない。彼の感知はそれほど強くは無いみたいだね」

 これにルイスは「そうか」と淡白な感想を返した。
 気付かれたところで何か問題が生じるわけでは無いからだ。
 それよりもむしろ――そう思ったルイスは口を開いた。

「じゃあ、話してみないか? リックがどんな反応をするのか気になる。リックには君の声が聞こえないかもしれないが、その時は私が『共感』を使って補助しよう」

 これに彼は難しい顔を作った後、口を開いた。
 そして、その黒い空洞から放たれた言葉は返事では無かった。

「……その、『君』という呼び方なんだが、どうにかならないかな?」

 返事を期待していたルイスはその予想外の言葉に意味が分からず、一瞬言葉を詰まらせた。
 そして、ルイスはすぐに彼が何を言わんとしているのか察したが、あえて気付かないフリをしようと思った。

「……じゃあ、お前とでも呼んだ方がいいかい?」

 これに彼は眉をひそめ、

「意地悪はやめてくれ。僕が何を言いたいのか、分かってるだろう?」

 と言った後、視線をルイスから外しながら言葉を続けた。

「そろそろ、名前が欲しい」
「……」

 その言葉に、ルイスは口を閉ざした。
 名前を考えているわけでは無い。彼にふさわしい名前ならいくらでも思いつく。
 それをすぐに提案しないのは、彼が「感情無く」視線を外したからだ。
 視線を外したのがただの「フリ」だったからだ。視線を外す動作に感情は一切働いていなかった。こういう場合、人間は視線を外すことがある、というのを観察で知っていて、それを実践しただけなのだ。どこかにいた誰かが似たような状況になり、その時に見たものを「真似」しただけなのだ。
 人間への道はまだ遠いみたいだな、ルイスはそう思った。
 しかし同時に嬉しい事実もあった。
 名前を欲しがっている、という感情は本物であったからだ。
 だからルイスは薄い笑みを浮かべながら尋ねた。

「生きていた頃の名前は覚えていないのかい?」

 彼は首を振った。

「……名前があったのかどうかすら思い出せない」

 これにルイスは「そうか」と返した後、次の質問を投げた。

「じゃあ性別は? これくらい覚えているだろう」

 彼はこの質問にも即答出来なかった。

「……実は、それすらもよく覚えていないんだ」

 しかし彼は「でも、」と言葉を続けた。

「……僕は男の名前が欲しいと思っている。男性として、男らしく振舞いたいと思っている。……この感覚が、かつて男として生きていたからなのかどうかは分からないけれど」

 その言葉に、ルイスは少し間を置いてから口を開いた。

「……じゃあ、『アトラク=ナクァ』っていうのはどうだ?」

 聞いた事の無い名詞であったゆえに、彼は尋ねた。

「なんだい、その、『アトラク=ナクァ』っていうのは?」

 ルイスは浮かべている笑みを強くしながら答えた。

「恐怖を題材にした娯楽話に出てくる、蜘蛛の神様の名前だよ」

 この答えに、彼は微妙な表情を作りながら、再び尋ねた。

「蜘蛛? ルイス、君は僕が蜘蛛に似ていると言いたいのかい?」

 ルイスは「ああ」と肯定の返事を返し、言葉を続けた。

「大きく網を張って獲物を捕らえる、まさに蜘蛛だと思うぞ」

 そう言われればそうなのかもしれない、生きている人間にはそう見えるものなのかもしれない、彼はそう思ったが、やはり微妙な表情は戻せなかった。「恐怖を題材にした娯楽話」という部分が気に食わなかった。
 だから彼は再び尋ねた。

「ルイス、僕はそんなに恐ろしい存在に見えるかい?」

 これにルイスは再び同じ肯定の言葉を返し、理由を述べた。

「普段はかなり大きいからな。初めて見る人はみんな驚いて警戒すると思うぞ」

 自分もそうだったからな、とルイスは言葉を付け足した。

「……」

 彼は微妙な表情を維持したまま押し黙り、ルイスが別の候補を提案してくれることを期待した。
 しかし、それはどうやら無駄のようであった。
 だから彼はあきらめ、

「……わかった。じゃあそれでいいよ」

 とりあえず受け入れることにした。

 この日、一つの大きな存在に名前が与えられた。

 翌日、ルイスは思い出す。
 作者によって、話に登場する『アトラク=ナクァ』は男性であったり、女性だったりすることを。
 しかしルイスは「まあ、大したことでは無いな」と勝手に判断し、本人には黙っておくことにした。

 はたして、ルイスとこの蜘蛛の怪物は一体どういう関係なのか? どういう立場にあるのか?
 そもそも、ルイスは何者なのか?
 今のところアランの味方では無い。共感を使ってアランの才能の開花をうながそうとしなかったことがその証拠だ。ルイスがその気なら、この物語は序盤から大きくその様相を変えていただろう。
 しかし敵でも無い。もしそうであったなら、アランの物語はとっくに終わっている。
 今のところルイスは中立を装って(よそおって)いる。アラン達の戦いから距離を置いている。しかしある者に協力しているゆえに、ルイスはまったくの無関係というわけでは無い。
 そしてそれだけでは無い。ルイスにもシャロンが抱いているような夢が、望みがあり、それを目指して行動している。
 だがそれはシャロンのものと比べると途方も無いものだ。一人の人間の一生ではとても辿り着けないような、そんな大きなものだ。
 しかし、時間というものはルイスにとってさしたる問題では無い。その点に関しては、ルイスは蜘蛛の怪物とほぼ同じ価値観を持っている。
 だからルイスはのんびりと構えている。ゆえにその行動は非常に遅い。いつか出来たら、叶ったらいいな、程度に夢を追っている。危険から身を遠ざけて。

 しかしリックが来たことで、その状況にヒビが入ったことをルイスはまだ気付いていない。

   ◆◆◆

 一方、蜘蛛と称されたものが探している『彼女』は、まだ森の中を移動していた。

「……」

 シャロンは息を乱す事無く、軽快に駆けていた。
 虫の報告から、連中の狙いはやはりアランであることが分かった。
 そしてどうやら、先ほどそのアランは見つかったようだ。
 情報の流れが止まったのがその証拠。上からの指示を待っているのだ。伝達者の心を読むまでも無い。
 指示はまだ下りてくる気配が無い。しかし準備はしているはずだ。

(さて……アランは一体どこに)

 これに関しても伝達者の心を読む意味は無い。伝達者は情報を運んでいる虫に魂の力を与え、次の伝達者に向かって投げ送るという作業をしているだけなのだ。何もしらない。
 ゆえにアランの位置を知るには、情報を持つ虫自体を捕まえるか、末端にいる者、最前でアランに張り付いているものを見つけなければならない。そして情報の流れが止まった以上、期待できる選択肢は後者のみだ。

「……っ」

 そして、ある虫からの報告を聞いたシャロンはその場で足を止めた。
 帰ってきた内容は「辿り着けなかった」というもの。
 捜索のために放った虫がその力を使い果たしたのだ。
 つまり、かなり遠いということ。

(アランが収容所から姿を消して既に二ヶ月。その間、移動し続けていたとしたら……馬を使ったとしたら、既に故郷に辿り着いていても不思議では無い)

 ならばこちらも馬を使わないと。
 しかしそうすると確実に見つかる。連中と合流することになる。
 そうなると再び隠れるのは難しくなる。好き勝手するのが難しくなる。言い訳を作るのが困難になる。

(……やむを得ない、か)

 そう考えたシャロンはその足を、最寄にある馬屋の方へ向けた。

「……?」

 直後、シャロンは足に違和感を感じた。
 足が重くなったような、反応が鈍くなったように感じたのだ。
 そして同時にある感情が湧きあがった。
「逃げたい」「やめたい」という類のものだ。

「!?」

 瞬間、シャロンの背中は「びくり」と跳ね上がった。
 これはマズい、という危機感とともに心臓が加速する。

「……」

 シャロンは即座に目を閉じ、意識を集中させた。
「自己点検」するためだ。
 それはすぐに終わった。
 見つかった「問題」を「上」に報告する。
 すると間も無く、シャロンの足はいつもの感覚を取り戻した。

「……」

 しかしシャロンの気持ちは晴れなかった。

 シャロンの身に何が起きているのか。
 これはオレグの身に起きたものと似た問題である。
 違うのは、シャロンの体において「第四の存在」は権力を持たないということ。シャロンの体は基本的に独裁制度である。
 しかし、裏の手があるのだ。
 第四の存在が持つ機能自体は失われていない。それを利用した攻め手だ。
 良い機会なので「第四の存在」について説明しよう。もう隠す必要は無いからだ。
 オレグの過去話が出た時点で気付いた方がいると思うが、「第四の存在」とは「魂を一から創造する」機能を持つ存在である。つまり、肉体である。肉体が己を操作、支配する独裁者を自ら生み出しているのだ。そして魂が理性と本能を生み出す。
 なぜ、そんなことをするのか。そのようになっているのか。
 理由は単純である。独裁の方が何をするにも速いからだ。メリットはそれのみであり、それが肉体においてはとても重要である。考えてみてほしい。命の危機が迫っているような緊急時に、多数決を取っている暇があるのかと。
 ではオレグはその弱点をどのように補っているのか、と思われた方は多いだろう。申し訳ないが、ここでそれについて触れるのは避けさせていただく。オレグには「技」がある、とだけ言っておこう。
 話を戻そう。
 既に独裁者がいる場合は第四の存在は活動しない。
 しかしある条件が満たされている場合は別だ。
 それは、いま存在する独裁者が第四の存在にとって「気に食わない者」である場合だ。
 第四の存在は支配者が誰でもいいわけでは無いのだ。ゆえに、「作り変える」。
 ケビンが真実に辿り着いた時に疑問に思った方は多いだろう。なぜ、シャロンは作り変えられないのかと。
 実際にはシャロンも時々作り変えられている。しかしシャロンはそれを「自己修復」しているのだ。混沌にはそのための部品、予備も格納されている。シャロンは定期的に「メンテナンス」されている。
 つまり、シャロンは本来あるべき関係を歪ませているのだ。
 そして本来あるべきシャロンとは、元のシャロンとはどういう人物だったのか。
 それは今シャロンの身に起きている問題から察することが出来る。
 シャロンの心に突然湧きあがった「逃げたい」「やめたい」という感情が答えである。
 元のシャロンは臆病な人間である。戦いに身を晒すことなどありえないほどの。
 臆病であること自体は弱点では無い。危険な対象から隠れる能力に長けていれば、生存するという点では有利に働く。
 だが、逃げられない、または逃げてはいけない状況というものは存在する。こちらから攻め込まなければ、先手を仕掛けなければならない時というものは必ずある。
 元のシャロンはその点に関しては論外の域だ。元のシャロンに出来たことは「逃げ」の一手のみである。シャロンの肉体がそのような支配者を望んだがゆえに、シャロンは臆病な気質に作られたのだ。
 そのような欠点や問題は改善されることがある。ケビンが良い例だ。魂が理性や本能の影響を受けて変化することがあるように、同じことが第四の存在、肉体にも起きることがあるのだ。
 そして変わっているのはケビンだけでは無い。さらに言えば、その変化はケビンのような急なものだけでは無い。描写するまでも無い、本人すら気付かないようなゆっくりとしたものもある。ある者がその変化を突然自覚し、驚く場面がもうじき描かれるだろう。
 だが、それはシャロンでは無い。シャロンの肉体に変化が起きる望みは薄い。その理由としては、シャロンがいつでも逃げようと思えば逃げられる立場にあることが大きい。
 ゆえに、シャロンの「点検と修理」では根本的問題は解決しない。ただの時間稼ぎである。
 そしてその問題が発生する周期が短くなってきていることをシャロンは自覚していた。
 だから、シャロンは、

(アランの件が片付いたら、すぐにでも『調整』してもらったほうがいいわね……)

 と考えていた。

   ◆◆◆

 シャロンの考えは当たっていた。

「……」

 連中はアランに注力していた。
 指示を送る側である「上」の男は、椅子の背もたれに体を預けたまま考え込んでいた。
 しかしその表情は厳しく、うつむいている。

「やはり……」

 男は定期的に独り言を漏らしながら考え込んでいた。
 前に女が立っていることすら気付かぬほどの集中力で。
 報告のために尋ねてきたその女は、男の異常な様子にどう声をかけて良いかわからなくなっていた。
 しかしいくら待っても気付く気配が無いため、女は勇気を振り絞って声を出した。

「あの……」

 これに男は「はっ」と顔を上げ、口を開いた。

「ん? ああ、すまない。気付かなかった。考え事をしていたものでね」

 男は畳み掛けるように早口でそう弁明した後、報告を求めた。

「頼んでいたことは順調か? それとシャロンは?」

 気が少し動転したまま言葉を続けたせいか、男は早口のまま一度に複数の質問を女に浴びせてしまった。
 しかし女は冷静にこの質問に答えた。

「……指示された通り、この『一覧』に記載されている者達に対して召集命令を発しました。見つかっていないシャロンを除いて、ですが」

 そう言いながら女は男の前に広がる机の上に、その「一覧」が記載された紙を乗せた。
 男はその紙を手に取り、食い入るように眺めた。
 記載漏れが無いかもう一度確認するためだ。
 女に命令を出す前に数え切れないほど確認したが、それでももう一度眺めずにはいられなかった。

 この紙は、「一覧」はなんなのか。
 これは死んでもいい者、使い潰しても問題無い人間の名前を並べたものだ。
 もう役に立たないもの、顔が割れてしまっているせいでろくに活動出来ない者なども含まれる。
 その中でも、シャロンの名前は一際異彩を放っていた。
 なぜなら、「こいつには注意しろ」と、魔王から直接指名された人物だからだ。
 ゆえにシャロンは最重要監視対象である。立場上は味方であるにもかかわらずだ。
 無理な任務を与えて早めに潰すようにとも言われている。
 しかしシャロンはそれらの難題を淡々とこなしてきた。
 だが、シャロンは最近になってようやくボロを出した。
 直前の任務でシャロンは遂に悲惨な結果を出した。
 味方は全滅。にもかかわらずサイラス側の戦力は減るどころか、むしろ増加した。魂を扱う技術や、共感の錬度が増した。
 そして当のシャロンは行方不明。貼り付けていた優秀な監視役もだ。死体すら見つかっていない。
 こちらが送った増援を全滅させた連中は、和の国の忍者である可能性が高いという。
 シャロンと忍者達が通じていた、と考えてもおかしくない結果だ。

「……」

 そんなことを考えながら男は紙を机の上に戻し、大きなため息と共に目を両手の指で覆った。
 目の周辺の筋肉を指をほぐしながら思考を巡らせる。
 目元に纏わり付いていた重い疲労が溶けていくのを感じながら、男は小さなため息を吐いた。
 ため息無しではやっていられないほどに厄介な問題だ。
 シャロンがボロを見せたことは間違いないのだが、証拠が無い。
 せめて監視役さえ生きていれば。彼は間違いなく、シャロンとサイラス達の戦いを間近で見ていたはずなのだ。
 シャロンがどこかで野垂れ死んでくれていればどんなに気が楽か――

(いや、違う)

 直後、男は「シャロンの死への期待」を自身で否定した。
 自分はシャロンという戦力をまだ求めている。
 アランは軍と合流してしまった。そして恐らく、今後アランが自ら孤立するように動いてくれることは無いだろう。強力な感応者なのだから。尾行されていればすぐに気付く。それどころか、もう既に自身の立場を理解している可能性がある。
 ならば、こちらが取れる手は人混みにまぎれて仕掛ける奇襲だけだ。しかし、部外者が紛れること自体が不可能に近い軍隊の中にいるのではそれすら難しい。
 もし、アランが自身の能力を使ってアンナを鍛えるようなことが起きれば、後に手がつけられない事態になることは想像に難くない。
 そうなるのは時間の問題だろう。ゆえに、仕掛けるにしても強行手段になる可能性が高い。
 軍隊に正面から仕掛けるのであればシャロンを使いたい。サイラスにそうしたように。それが正直な気持ちだ。
 ならば自分が取るべき手は――

「あの……」

 直後、意識に割り込んできた女の呼び声に、男は再び「はっ」と顔を上げた。
 集中しすぎたせいで女の存在を忘れてしまっていた。
 男はそれを謝ろうとしたが、それよりも早く、女が口を開いた。

「では、私はこれからシャロンの捜索に就きますが、それでよろしいですか?」

 これに男は「ああ、頼む」と、短いがはっきりとした答えを返した。

「……」

 そして男は部屋から出て行く女の背中を見送りながら、顎に手を当てた。
 男の頭の中ではある言葉が木霊していた。
 ならば、都合がいいじゃないか、と。
 もしシャロンがずうずうしく戻ってきたら、使ってやろうじゃないか、と。
 次の作戦は地獄そのものなのだから。

   ◆◆◆

 一方、同じようにため息を吐いている者がいた。

「……ふう」

 それはクラウス。
 しかし、その息に込められている感情はまったく違うものであった。
 ここまでくればまずは一安心、そんな言葉がクラウスの頭の中で木霊していた。
 腰を下ろしている場所がただの木箱であるがゆえに、臀部は鈍い痛みを発していたが、今のクラウスにとってはどうでもよかった。
 椅子が欲しくないわけでは無い。しかし注文しても出てこないだろうとクラウスはあきらめていた。
 なぜなら、今クラウスがいる場所が戦いの最前線だからだ。こんなところで満足な家具を望むのは、世間知らずの馬鹿だけだ。
 しかしありがたいことに、この陣を守っている隊長は屋根と一つの寝具を与えてくれた。
 その寝具にはアランが横たわっている。

「……」

 アランはここに辿り着いてからほとんど言葉を発していない。
 当然である。ここまでほとんど休み無く移動し続けてきたのだから。
 だがクラウスは、明日になったらまたすぐに移動しなければならない、と考えていた。
 この陣地にいる戦力が弱いからだ。
 クラウスの意識には、あの夢で師が放った言葉がこびりついていた。
 アランは狙われている、と。
 だから移動しなければならない。幸いにも近くにクリス将軍の陣地があるらしい。そこにはアンナ様もいる可能性が高い。そこに移動するべきだ。

「……」

 クラウスは何一つ喋らず、まるで確認するかのように、同じ思考を繰り返した。
 その心の声は木霊の様にアランに伝わっていた。
 だからアランは上半身を起こし、口を開いた。

「なあ、クラウス」

 これにクラウスは、今はお休みくださいと制止しようとしたが、それよりも早くアランが言葉を続けた。

「少し前から尾行されているが、あいつらは何者だと思う?」

 この質問にクラウスは少し考えてから、

「……分かりませぬ」

 と答えた。
 しかし少しでも絞ることは出来る、それを考えていたクラウスはすぐに「ですが、」と言葉を続けた。

「教会側の人間では無いと思われます」

 同意見であったアランは頷きを返した。
 アランとクラウスは理解していた。教会が反乱を起こされていることを。
 だからこの最前線も静かなのだ。
 そしてクラウスの言葉にはまだ続きがあったが、アランは口を開き、それを代弁した。

「さらに言えばサイラスが放った追っ手でも無い、だな?」

 その言葉にクラウスが頷きを返すと、アランは言葉を続けた。

「町を出た後、しばらくはサイラスの部隊に追われた」

 これを振り切るのは難しくなかった。アランの感知能力を持ってすれば、相手の警戒線を外し、くぐり抜けることは簡単なことであった。
 しかし問題は次だ。アランはそれを言葉にした。

「しかし奴らは、それを振り切ってしばらくしてから現れた。……全く違う方向から」

 そうなのだ。「連中」が出現した方向から考えるに、サイラスの仲間とは思えないのだ。
 アランはその時のことを思い出した。
「連中」は自分達が向かっている方向から、平原の方から現れた。
 そいつらは森の中から意識を巡らし、自分のことを探していた。相手の心が、台本がそう教えてくれた。だからこれは避けた。
 しかし次の集団に見つかってしまった。
 それは商人らしき風貌をした荷馬車の一団だった。
 だから油断してしまった。相手の思考を読む前に視線に入ってしまった。遠距離から見られてしまった。
 自分を認識された直後に、意識の線がこちらに結びついた瞬間に台本が開いた。この一団は商人では無いと。自分を探すために、欺くためにそう振舞っているのだと。
 しかしかなりの距離があったおかげで、振り切ることは出来た。
 そしてその後、自分達を見失ったその一団は、先に現れた賊のような連中と合流した。
 一体こいつらは何なのか。
 なぜ、自分を探しているのか。
 その答えを導く情報をアランは持っていない。

「……」

 だからアランの言葉はそこで止まってしまった。
 しかしまだ気になる事があったアランは、その口を再び開いた。

「そういえば、気になっていたんだが……クラウスはあの収容所のことを知っていたのか? 内部の構造を熟知しているように見えた」

 相手の心を読めるがゆえに、アランは既にある程度答えを知っていたが、それでもあえて尋ねた。

「……」

 この質問にクラウスは即答しなかった。
 しかしその沈黙が否定的なものでは無い、相手に分かり易く伝えるための言葉選びによるものであることを感じ取ったアランは、クラウスの返事を黙って待った。
 しばらくして、クラウスは口を開いた。
 クラウスはかつてそこに住んでいたことを、収容されていたことを告白し、そこでの生活がどんなものであったかを語り始めた。
 その内容は、アランが収容所で感じ取った通りのものであった。
 クラウスの舌はよく回った。
 その調子は時に、まるで別人の言葉を借りているかのようであった。
 実際そうなのかもしれないと、誰かが時々クラウスの口を借りて言葉を発しているのかもしれないと、アランは思った。
 アランは感じていた。クラウスの中にもう一人、別の誰かがいるような気配を。
 そしてそれは自分の中にも感じる。
 自分が三つあるような、そしてクラウスと同じように自分では無い別の誰かが、とても深いところにいるように感じる。
 何かが分かりかけている、何かが変化している、アランはそう感じていた。

「……」

 そしてクラウスの舌はあるところで止まった。
 アランは感じ取った。クラウスが話すのをためらっていることを。
 強い後悔と絶望、そして罪悪感もだ。
 あの時、クラウスの剣に込められたものとよく似ている。いや、同じ感情のように思える。
 話したくないのであれば無理に聞くまい、そう思ったアランはそれを言葉にしようとしたが、

「……それから、」

 直後、クラウスはゆっくりと話し始めた。
 師と共に反乱軍を率いて教会と戦ったことを。
 敗れ、貧民街に逃げ込んだことを。

「……」

 そこでクラウスの口は止まった。
 しかしアランは感じ取った。
 クラウスの心に母が死ぬ映像が流れているのを。
 この時、アランは初めて母の死の経緯を知った。
 だからアランは、

「……そういうことだったのか」

 と、言葉にした。
 アランの心には怒りが湧きあがっていた。
 なぜ、という言葉がアランの中で木霊していた。
 教会と戦っている時は正義だと思った。
 しかし彼らはその後、悪に転化した。
 なぜだ。もともとそういう気質だったのか、それとも堕落したのか。

(いや、待て……?)

 直後、アランは一度思考を切った。
 悪について考えようにも、悪についてのはっきりとした定義が自分の中に無かったからだ。ただ悪いと、そう感じただけだ。
 悪とは何なのか。

(そういえば……)

 アランは気付いた。
 あの時も、収容所でも同じ怒りを抱いたことを。
 リリィを拉致し、酷い仕打ちを行っていた教会の連中にも同じ感情を抱いたことを。悪だと思ったことを。

「……」

 しかしアランはその感情を言葉にして表さなかった。
 アランはまだ他に聞きたい事があった。

「……クラウスはその後どうして兵士に、父の部下になれたんだ?」

 アランは「当時、ただの難民の一人であり、母が死んだ原因の一人かもしれなかったクラウスを、なぜ?」という思いを心で伝えながら尋ねた。

「……」

 クラウスはやはり即答しなかったが、しばらくして口を開いた。

「……私が、首を持って行ったからでしょうな」

 クラウスは「アランの母を殺した者の」という部分をあえて口にしなかった。
 言葉にすることで、その時の映像が鮮明に思い起こされることを恐れたからだ。

「……」

 そして、アランはその態度を責めようとも、尋ね返すようなこともしなかった。
 アランは感じ取っていた。クラウスの絶望の裏に怒りが渦巻いていることを。
 その怒りはアランのものと同じであった。共感し、共鳴していた。
 同時にアランは納得もした。
 クラウスが事の原因に関わっていないとは限らないが、それでもクラウスは母の仇を討ったのだ。
 だからアランは尋ねた。

「クラウス、難民達はどうしてそうなってしまったのだと思う?」

 それは先ほど湧き上がり続ける怒りとともに飲み込んだ質問であった。

「……」

 この質問にクラウスは考え込んだ。
 クラウスは思い返していた。
 あの時、貧民街で状況がどのように変化していったのかを。
 多くの者が境遇に不満を漏らし、暴力的になっていった。
 しかしそれに対して声を上げる者もいた。
 だがその数は少なかった。
 戦いでそれなりの功績を挙げていた隊長格の者達だけであったように思える。
 彼らは自身が戦いで残した功績に名誉と誇りを抱いていたのだろうか? だから正しい声を上げることが出来たのだろうか?
 分からない。
 だから、クラウスは自身の感想だけを答えた。

「……我々は教会に対しては正しく戦ったが、別の戦いでは道を間違った、それだけのことだと私は考えています」

 その答えにアランは、

「……」

 沈黙だけを返した。
 クラウスの言葉から、悪とは何か、という疑問の答えを見出すことが出来なかったからだ。

 お気付きだろうか。
 皆が強くなることばかりに意識が向いている中で、アラン一人だけが少し違うことを考えていることを。

 そしてクラウスは知らない。
 収容所で「何が行われていたのか」、「自分が何をされたのか」ということを。
 もっと考えるべきなのだ。
 なぜ、隊長格以上の人間だけが、貧民街で正しい声を上げることが出来たのかということを。

   ◆◆◆

 次の日――

 早朝に出発したアランとクラウスは昼過ぎにはクリスの陣地に到着した。

 アランは真っ先に、陣を仕切るクリスの元へ挨拶に向かった。

「お久しぶりですね、クリス将軍」

 アランは再会を純粋に喜び、薄い笑みを口元に張り付かせていた。
 しかし対照的に、クリスは難しい顔で口を開いた。

「……正直、このような形で再会出来るとは思っていませんでしたよ、アラン殿」

 クリスが何を言わんとしているのか、その言葉の裏に何が含まれているのかを、アランは読み取った。
 クリスはこのような「まともな再会」を半ばあきらめていた。
 良くて交渉材料、悪ければ肉の盾として使われるだろうと踏んでいた。
 状況によってはアランごと敵を焼き払うことの許可を、カルロに伺いに行かねばならなくなるだろうなと考えていたほどだ。
 そして、クリスの表情に込められていた思いはそれだけでは無かった。
 クリスの視線は開かなくなったアランの両目に釘付けになっていた。
 生きたまま帰還出来たとはいえ、代償は払わざるを得なかったのか、いや、むしろこの程度で済んで幸運だったと考えるべきなのか、という思いがクリスの視線に込められていた。
 さらに同時にクリスは奇妙な感覚も抱いていた。
 存在しないはずのアランの視線がこちらの視線と綺麗に重なっているような、目を合わせて見つめられているような感覚があった。
 表現し難い、経験したことの無い感覚がクリスの体を包んでいた。
 まるで何もかも見透かされているような――

「……」

 馬鹿馬鹿しい、そう思ったクリスは思考を切り、それは不自然な沈黙という形で表に現れた。
 ゆえに、次に口を開いたのはアランの方であった。

「そういえば気になったのですが――」

 その言葉に、クリスが少し慌てたような調子で「ああ、なんでしょう?」と促すと、アランは言葉を続けた。

「この陣を囲むように、深い溝が迷路のように掘られているのを見たのですが、あれは……?」

 敵の侵入を妨害するために溝を掘るにしても、迷路にする必要は無いのでは? そう思ったゆえにアランは尋ねた。
 これに対し、クリスはアランが放った「見た」という言葉に少し違和感を覚えたが、それは表情に出すことなく答えた。

「まだ試行錯誤の段階なので、なんとも言えませんが……より硬い防御を築きたいと私なりに考えた結果があれなのですよ」

 クリスのこの回答にアランは、

「……なるほど」

 と淡白な返事を返した。
 しかしクリスの思考を読んでいたアランは、内心では「これは本当に良いものかもしれない」と共感していた。
 その感覚が伝わったのか、クリスは表情を和らげながら口を開いた。

「ところでアラン様。もう知っているとは思いますが、アンナ様もこの陣に滞在しておられます。早めに会ってくるとよろしいでしょう」

 これに、アランは即答した。

「ええ、もちろん。今から会いに行くつもりです」

 そしてアランは小さな礼をしながら「では、また後ほど」と言葉を続けた後、クリスの前から離れた。

(……やはり)

 その時の動きをクリスは見逃さなかった。
 目が見えないはずなのに、平然と歩いている。

「……」

 どうしてそんなことが出来るのか分からなかったクリスは、ただ沈黙するしか無かった。

   ◆◆◆

 その後、アランは言った通りにアンナの元に向かった。
 強力な感知があるゆえに探す必要は無かった。アランの足は真っ直ぐにアンナのほうに向いていた。

「……」

 しかしその足取りは軽く無かった。
 アランは感知を使ってもう一人探していた。
 しかし見つからないのだ。
 この陣にはいない? 何かあったのだろうか? そんな考えが暗い感情とともにアランの心に湧きあがっていた。
 足を遅くしながら感知の範囲を絞り、捜索能力の精度と強度を増す。
 だが、それでも見つからない。
 牛歩のように遅くなるアランの足取り。
 しかし妹との再会の時はアランのその足取りの重さにかかわらず、早く訪れた。
 向こうのほうから走って来たからだ。

「お兄様!」

 アランが生きて戻ってきたという話は既に陣全体に伝わっていた。
 それを耳にしたアンナは誰よりも早く会いたいという思いを抱き、足に乗せていた。
 その勢いはまるで体当たりでもするかのようであったが、

「!? お兄様……目が?!」

 その足はアランの目の前で止まった。

「……」

 そして訪れる沈黙。
 アンナが口を開かないのは何と声をかければ良いのか分からなくなったから。
 アランはどう説明すればいいのか分からなかったから。
 その沈黙はアランにとっては息苦しさを覚えるほどでは無かった。
 しかしアンナにとっては重いものであることを感じ取ったアランは、咄嗟に口を開いた。

「気にしないで。問題は無いから」

 言いながら、これは無理があるなとアランは思った。
 そして思った通りに、アンナは、

「見えないのに、そんなわけが!」

 と返した。
 これにアランは「そりゃあそうだよな、そう思うのが普通だろうな」などと思い、危うく笑みを浮かべそうになった。
 いま笑えば自虐的か、不謹慎だと受け取られるに違いない。まずは説明しなくては。
 しかしどう言えば分かってもらえるのかが分からない。

(いや、待てよ?)

 そもそも言葉に頼る必要は無いのでは? それに気付いたアランは直後にいい手を思いつき、口を開いた。

「本当だよ。手を貸して」
「……?」

 兄が何を言いたいのか、何をしようとしているのか分からなかったゆえに、アンナは動けず、ただ奇妙な表情を返すことしか出来なかった。
 だからアランはやや強引にその手を取った。

「あ……え?」

 直後、アンナの体にかつて経験したことの無い感覚が走った。

クラウスが見た世界2

 まるで自分が水の中にいるような感覚。
 その水が、世界が様々な波で満たされていることが分かる。その振動を全身で感じる。
 あの時のクラウスと同じであった。この瞬間、アンナもまた新たな世界を知ったのだ。
 しかし同時に疑問も沸き起こる。
 どうして私は、私の体は今までこれを感じ取ることが出来なかったのか――

(いや違う、これは、この感覚は――)

 その答えはすぐに分かった。正確には教えられた。
 これは私が感じ取っているものじゃない。私の体は、脳はまだそのような能力を持っていない。体に走っている振動は恐ろしく微弱なものだ。これを正確に解析する精度を、私の脳はまだ有していない。
 この感覚は兄様の感覚だ。兄様が感じ取っているものを、私が感じ取っているんだ。繋がっている手から増幅した波が送り込まれているんだ。

 アンナの考えは正解である。共感者として重要な能力は、波を正確に分析する精度と、解析した波を増幅して他者に伝播する能力である。

 良い機会なので神楽についても説明しておこう。
 共感の連鎖を利用する神楽は、発動者である神官の能力と、全体の共感能力の平均値が規模に直結する。
 ほとんどの人間は波を正確に受信、解析する能力を有していない。しかしそれは微弱な通常の波に対しての場合であり、とてつもなく大きな波であれば話は別だ。神楽の起動条件はその巨大な波を発生させることが出来るかである。
 そして波は距離に応じて減衰していくが、伝播者がそれを少しずつ増幅して他者に伝えることで、その距離を稼ぐことが出来るというわけだ。

 そしてアランがわざわざ手から伝えている理由は、あることを教えるためだ。
 そのために、アランは繋がっている手を離した。

「あ……」

 直後、アンナは残念そうな声を漏らした。
 身を包んでいた感動的な感覚が失われたからだ。

 能力が突然開花するということは、一瞬で別人に変化するということはありえない。
 なぜなら、体を作り直さなければならないからだ。古いものを破壊してから、新しく強力なものを作り直さなければならない。それには時間が必要であり、材料である大量の栄養も消費する。
 古いものの破壊には強い刺激が必要である。大きな負荷、大きな信号である。そして変化の速度には個人差があり、成長が鈍い場合には継続的な刺激が必要となる。
 しかし世の中は広い。
 鍛えるまでも無く、生まれた時点でその能力を有する人間は存在する。
 アランは違う。鍛錬によって登った人間だ。そして戦場がアランにとって良い鍛錬場となった。戦場には強い感情が、大きな波が頻繁に飛び交うからだ。
 アランの成長は早い方であった。そしてそれは才能だけによるものでは無かった。
 鍛錬を補助する道具があったからだ。
 アランはそれをアンナに教えてあげようと思っていた。
 だからアランはそれを声に出した。

「剣を抜いて、アンナ」

 返事をするまでも無くアンナの体は動いていた。
 何をすればいいのかが頭に流れ込んできていた。
 左手で剣を撫で、その刀身を発光させる。
 向かい合うアランは右手で。
 二人の動きが鏡合わせのように寸分違わず重なる。
 まるであの時のアランとクラウスのように。
 しかし今のアンナの心境はあの時のクラウスとは異なる。
 アンナの心を埋め尽くしているのは弾けるような期待感。
 再び身を包んだ感動的感覚がそれをさらに大きくしている。
 その激しい感情の中に、透き通るように兄の声が響く。

「そうだ、それでいい」と。

 今からやろうとしていることには大きな感情が必要なのだと。
 しかしまだ足りないと。
 その声が響き終わった直後、今度は言葉では無く感情がアンナの中に流れ込んできた。
 それは熱い何か。
 その熱いものは映像となってアンナの脳裏に映った。
 それは戦いの場面だった。
 一つでは無い。ある場面ではリックが、そしてまたある場面ではリーザが、そしてラルフが映っている。
 そして順序立ってもいない。時系列順に並んでいない。様々な場面がごちゃ混ぜに、そして不規則に流れている。
 だが、いずれの場面にも共通点がある。
 どれも激しく、そして熱い。
 戦いでアランが感じた緊張と、それを凌駕する闘志が映像と共に湧き上がってくる。
 それらの感情が好奇心と混ざって形容し難い何かになった直後、再び兄の声が響いた。

「そうだ! 大きく、そして激しくなければ他人の心を揺らすことなど出来ない!」と。

 その声と共に、二人の体は再び同時に動いた。
 腕が上がり、刀の切っ先が空へと向く。
 やはりあの時と同じ大上段の構え。
 その構えが完成した瞬間、アンナの心を埋め尽くしていた形容し難い感情はある形を成した。

弔い

 それは炎。
 激しく、そしてひたすらに熱い。
 じっとしているのがつらいほどに。
 そしてそれはアランも同じであった。
 だから二人は同時に、

「「破ッ!」」

 気勢と共に輝く刀身を振り下ろした。

   ◆◆◆

「!?」

 直後、クリスは椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がった。

(戦闘?!)

 クリスは直感的にそう思った。戦いが始まったと思った。

「……?」

 しかし変だとも思った。
 静かすぎるからだ。
 警鐘の音も鳴っていない。
 戦闘なんて起きていない。そうとしか思えない。
 だが心は昂ぶっている。戦いの時のように。
 そして耳を澄ませば、何か聞こえる。
 いや、違う。耳は何も音を拾っていない。
 何かが伝わってきている。

「これは……アランとアンナ?」

 その場には一人しかいないのに、クリスは誰かに尋ねるようにそう声を漏らした。
「そうだ」という声が返ってくるような気がしたからだ。
 いつもなら馬鹿馬鹿しいと笑って済ませるような考え方だ。
 しかし今はそうは思えない。

「……」

 そして気付けば、クリスは歩き出していた。
 誰も答えてくれないのであれば自分の目で見に行こう、そう思ったからだ。

   ◆◆◆

「「!」」

 そして表情を変えたのはクリスだけでは無かった。
 シャロンも、そして彼女の上司も同じように驚いていた。
 しかしその驚きはクリスのものと比べると小さかった。
 いつか起こるだろう、彼はやるだろうと予想出来ていたことだったからだ。

   ◆◆◆

「……」

 それを見た瞬間、クリスの常識はどこかへ吹き飛んだ。
 口が半開きになるほどに。
 それほどまでに目の前で起きている事は強烈だった。
 二人が、アランとアンナが斬り合っている。
 応酬は速くは無いが、振りは全て豪快。本気で殺す気で太刀を放っているように見える。
 しかしそうでは無いことが分かる。
 伝わってくる。どんな攻撃を出すのかが、事前に相手に教えられている。

(これは……剣の練習では無い?)

 クリスは気付いた。
 これは相手に自分の考えを伝える練習だと。
 直後、その考えが正解であるかのように、クリスの心に「そうだ」というアランの声が響いた。
 しかしそれはクリスだけに放たれた声では無かった。
 初めてにしてはアンナは上手くやれていた。
 それをアランは褒めたのだ。
 しかしアンナはその賛辞に対し、畏れ(おそれ)の感情を返した。
 強い敬意の中に恐怖が混じった感情。
 その恐怖の根源は後に訪れるかもしれない喪失感に対してのもの。
 これが終わったらまた元に戻ってしまうのではないか、そんな恐れがアンナの中にあった。
 これにアランは「そんなことは無い」という言葉を刀に乗せ、袈裟の軌道で放った。
 これをアンナは後退して避けながら受け取った。
 即座に「どうしてそう思うのです?」という言葉を刀に乗せ、振り上げる逆風の型で返す。
 その下から迫る刃を、横に叩き払うように受け流しながら、アランが込められた言葉を受け取る。
 そしてアランは横に振るった刀身を即座に胸元に引き戻し、突きを放った。
 体を一歩左にずらしてそれを躱す(かわす)アンナ。
 真横を銀閃が真っ直ぐに流れると同時に、「俺もそうだったから」という言葉が頭の中に流れ込んでくる。
 そしてその一撃に込められていたものはそれだけでは無かった。
 そう思う理由も、根拠もその一突きに込められていた。
 この能力は大なり小なりほとんどの人間が持っているもので、自覚していないだけだと。 道具が手元にあるのに、その存在に気付いていないか、使い方が分かっていないだけなんだ、と。
 そしてアランは間髪入れずに再び突きを放ち、言葉を繋げた。
 アンナはもう違う。完全に自覚している。脳のどこにその機能があり、どうやれば動かせるのか、その感覚を俺は君に教えた、と。
 さらにもう一突き。
 そしてアンナはもう覚えている。俺はもうアンナを補助していない。今、アンナは自力だけで俺に言葉を伝えられている。と。
 三段突きの型で放たれたそれらの言葉にアンナの心は震えた。本当に嬉しいものであった。
 しかしその喜びは大きすぎた。
 アンナはまだ未熟であったゆえに、それは次の反撃の動作に現れた。

(アンナが失敗した?)

 それを見たクリスは気付いた。
 アンナが放った反撃に動作の事前通知が無かったことを。喜びの感情が込められていただけであることを。
 しかしアランはそれをいとも簡単に避けた。
 失敗を読み取り、動作自体を見切ったのだ。
 その事も、台本と呼ばれる未来予測のようなものがアランの中で機能していることまでクリスは気付いていた。
 同時に、注目されているアランもまた同じようにある事に気付いていた。

(クリス将軍がアンナの失敗に気付いたか。俺の能力のことまで少し見抜かれているようだ)

 クリス将軍の感知能力がかなり高いことをアランは感じ取っていた。
 だからこの場にいる観客の中で彼「だけ」がアンナの失敗に気付けたのだと、アランは思った。
 それは間違いであった。
 アランは気付いていない。もう一人いることを。

「……」

 その者は静かにアランを見ていた。
 遠くは無い。むしろ近い。
 だが、やはりアランは気付かず、アンナに向かって再び剣を振るった。
 思いがアンナに伝わる。
 しかしアンナの力はまだ弱く、近くにいる人間にしか思いを伝えられないだろう、と。
 続けざまにもう一太刀振るい、言葉を続ける。
 だから鍛えるんだ、この剣を使って。と。
 剣が補助してくれる。剣に思いを込めれば勝手に増幅してくれるから、自分が伝えようとしている波が正確に作れているか確認出来る。もちろん、相手の思いを受け取るのにも便利だ、と。
 その言葉はアンナにとって力強く、そして同時に納得出来るものでもあった。
 だから、お兄様はこんな事が出来るようになったのだと。光る剣を誰よりも長く使っているからなのだろうと。
 そんな思いを抱きながら、アンナは言葉を、太刀を返した。
 なら、しばらくこのまま練習に付き合っていただけますか、と。
 これにアランは、もちろんいいともと、太刀を使って即答した。
 その言葉を境に、二人のやり取りはただの雑談となった。
 しばらくはアランばかりが喋ることになった。
 行方不明になっている間、何があったのか質問攻めされたからだ。
 そしてアランはこの質問に正直に、隠し事無く答えた。
 その内容がリーザとの戦い、クラウスの無明剣についての話になった時、アランは剣について説明を加えた。
 増幅させる波、受け取る波、その周波数の範囲に制限を設けることが出来ることを。そしてそれは習得すべき技術であることを。

「……」

 しかし、この話にアンナは良い感情を返さなかった。
 少し前から、収容所での話をしてからずっとそうであった。
 アンナの心には怒りが渦巻いていた。
 その怒りは、兄にそんなことをした連中を焼き払ってやりたいと本気で思うほどに高まっていた。

「……」

 それを察したアランは言葉を止め、しばらくは型のやり取りだけ行うことにした。
 そのつもりだった。
 自然と、アランの心に言葉が湧きあがって来た。
 アンナの心に渦巻いている怒りの色が、自分が収容所で抱いたものと全く同じだったからだ。
 あの時の自分もそうだった。リリィが酷い目に遭い続けていたという事実に怒りを抱いた。
 悪に対しての怒りだ。
 そう思った瞬間、アランは「またか」と思った。
 またこの言葉が出てきた。そしてこの疑問を解決するには、「悪とは何か」ということについて自分なりの答えを出さなくてはならないだろう。
 彼らは自分の心が痛んだりしないのだろうか?
 分からない。しかし今の自分なら調べることが出来るだろう。試す価値はある。
 では、彼らも同じことをされれば自分と同じ思いを抱くだろうか? そして例えば、それをアンナがやったとしたら、自分はアンナを「悪」だと思うだろうか?
 これは考えるまでも無い。思うわけが無い。

(それはむしろ――)

 その答えになる言葉はすぐに浮かびあがった。
 それはきっと正義だと。
 そうだこれが一番しっくりとくる。
 だが、この感覚をもっと確かなものにしたい。揺ぎ無いほどに。そのためには「悪」を知らねばならない。
 悪とは一体なんなのか。

(いや、待てよ)

 瞬間、アランは気付いた。

(そこを思考の出発点にしては駄目な気がする。もっと分かりやすいところ、例えば――)

 そう思ったアランは「自分が悪と感じる行為」について考えることにした。
 これはすぐに思いついた。貧民街での経験が生きた。
 泥棒、裏切り、そして殺人――

(殺人?)

 その言葉が浮かんだ瞬間、アランは「はっ」となった。
 殺人なんて、戦場で数え切れないくらいやってるじゃないか、と。
 しかしこれを「悪」だとは思わない。守るための戦いが「悪」なわけが無い。

「……!」

 直後、アランの心の中で何かが組み上がっていった。そしてそれはすぐに言葉になった。
 つまり、「悪」と感じるものをまとめれば、それは「破壊行為」に分類されるものであることを。
 そして「悪」であるかどうかは実行する者の立場と、対象との関係によって決まるということを。「悪」を破壊するものは「悪」では無い。それはむしろ「正義」または「善」などの類のものであることを。

(そういえば――)

 そこまで考えたところで、ふと、父の顔が浮かんだ。
 幼い頃、父がそれに関する事を言っていたのを思い出したからだ。
 確か――

(我々は強くあらねばならない……)

 いや、そこじゃない。この言葉の前に、父は確か――
 その言葉は父の肉声とともに脳裏を流れた。

(何かを成す者はそれが善であれ、悪であれ、強いものである。強き者が弱き者を倒すことが出来る、それはこの世界に定められた絶対の法である。ゆえに――)

 その続きを、アランは自然と口ずさんでいた。

「ゆえに……我々は強くあらねばならない」

 そして、父の声はまだ続いた。

「そして力を正しきことに使うことを『武』と呼び、その道を歩む者を『武人』と呼ぶ。アラン、お前もその『武人』にならねばならないのだ。それは我々、炎の一族の使命と言ってもいい」

 瞬間、アランの心に不思議な感情が湧きあがった
 その感情は悲しみと後悔の色が濃かった。
 幼き頃の自分はなんと愚かだったのかと。
 父のこの言葉に対し自分はひねくれた解釈をしたからだ。ならば、弱い自分はどうしようもないじゃないか、と。
 最も大事なのはそこじゃない。重要なのは、「力を正しいことに使う」という部分だ。強弱の概念はあらゆるものに付きまとうだろうが、弱いなりにやれることはある。
 ああ、なんと自分は愚かだったのか。幼き頃に気付けていれば、自分の人生は大きく違ったものになっていたのでは無いか。
 しかし同時に奇妙でもある。幼き頃の自分がひねくれていたから、腐っていたから、自分はディーノやリリィと出会い、だからこそ今の自分がある。これが運命というものなのか。
 そして大事なのはこれからだ。自分には他の人には無い力がある。だから――
 その先の言葉は、自然と口から漏れた。

「俺はどうしたら、どうすべきなんだ? 何を『成す』べきなんだ?」

 弱肉強食、そのような変えられない自然の法を「摂理」と呼び、それに人間としてどう向き合うか、どのように考え実行するか、それを「義」と呼ぶ。
 この時、アランは真の武人の土俵に登ったのだ。
 ここに至るまでに何度くじけただろう、何度死線をくぐっただろう、何と遠い回り道であろうか。

「……」

 アランが漏らしたその問いにアンナは何も答えることが出来なかった。
 そしていつの間にかアランの手は、二人の動きは止まっていた。
 その事にようやく気付いたアランは、

「すまない。考えすぎた」

 そう言って、練習を再開した。
 そして今度はアランの方から尋ねた。
 最近何があったのかと。俺がいない間どうしていたのかと。

「……」

 しかしこれにもアンナは言葉を返さなかった。剣に思いを乗せなかった。
 だが、それはアンナの心の表層に強く現れていた。だからアランは覗き見るまでも無く、アンナ自身から感じ取ることが出来た。

「……え?」

 直後、アランは少し間の抜けた声を上げた。
 同時に手も再び止まった。
 それほどまでに信じ難いものだったからだ。
 だからアランは、思わずそれを声に出した。

「アンナがディーノに、負けた……?」

 さらに、ディーノはまだこの陣にいるという。
 どこに? あれほど探しても見つからなかったのに。

「あ……」

 直後、アンナが声を漏らした。
 その声には「そこに」という思いの後に、「兄様の後ろからゆっくりと近づいて来ている」という言葉が含まれていた。

「え?」

 そして、アランは少し間の抜けた声を漏らしながら振り返った。
 そこにはアンナが言うとおり、何かがいた。
 しかしあくまでも何かだ。アランにはそれがディーノだとは思えなかった。
 だが、直後、

「久しぶりだなアラン」

 その何かは、ディーノの声を放った。

「……え?」

 しかしアランは、その挨拶に間の抜けた声を返す事しか出来なかった。

(……なんだ、これは?!)

 アランには信じられなかった。

(これがディーノ?!)

 まるでそこだけ切り取られているような、黒いもやのような何か。アランにはそのようにしか感じ取れ無かった。
 波をぶつけても何も帰って来ない。吸収される。
 まるで暗黒。何もかも吸い込む虚無。
 これが本当に、ディーノ?
 しかしアンナはそう言っている。そう認識している。アンナの目にはあのディーノが映っている。周りにいる目が見える者達はみな同じだ。これをディーノだと言っている。
 何がディーノの身に起きたのだ。
 それをアランは脳波を使ってディーノの頭に直接尋ねた。
 しかしその波もやはり虚無に、暗黒に吸い込まれた。波が伝わったのかどうか、何も分からない。

(暗黒……)

 そして直後、アランが抱いた「暗黒」という印象に思うところがあったアンナは、その言葉を心の中で復唱した。
 確かに、言い得て妙だと思ったのだ。
 しかし、目が見えるアンナが今のディーノに対して最初に抱いた印象は別のものであった。
 それは「影」。
 比喩では無い。本当に、ディーノのところだけ日光があまり届いていないかのように、影が薄く差しているように見えるのだ。
 遠目には単純に日焼けしたかのように見える。
 しかしよく見ると違う。焼けたというよりは、暗くなっているように見えるのだ。
 一体、ディーノの身に何が起きているのか。
 それはアンナも知りたいことであった。
 だからアンナはディーノの言葉を待った。
 が、直後にディーノの口から飛び出した言葉はその答えでは無かった。

「……そうか。お前でも分からないか。良かった。自信がついたよ」

 そう言った後、ディーノはアランに対して背を向け、周囲を取り囲んでいる観客達の方へ歩き始めた。

「ディーノ……!」

 待ってくれ、話を聞かせてくれ、そんな思いを放ちながらアランは声を上げたが、ディーノは何の声も返さなかった。
 しかし代わりに、アランの頭の中にディーノの言葉が響いた。

「悪いが、まだ大した事は話せない。実はまだ俺にもはっきりとは分かってないんだ。なんとなく使えてるだけなんだ」と。
「!」

 これに、ディーノが声では無く脳波を返してきたことに、アランは驚いた。
 こちらからの波は吸い込んでしまうが、ちゃんと受け取っている上に、しかも返すことが出来る?!
 その事実に、やはりアランはディーノから話を聞こうと、引きとめようと口を開いた。
 しかしその口から音が出るよりも早く、別の者の声が場に響いた。

「せっかくの再会のところ悪いのだが、少しいいか?」

 声の主はクリスであった。

   ◆◆◆

 意外なことに、クリスの話はアランが見せた神秘についてでは無かった。

「お二人が練習している間にカルロ将軍の使いが命令を伝えに来た。アンナは至急城に戻ってくるように、とのことだ」
「ただの伝言では無く、命令、ですか?」

 その内容に、アンナが尋ね返すと。

「そうだ。大至急とのことだ」

 クリスは即答しながらアランの方に視線を移し、

「そしてアラン殿、『今回は』あなたも戻ったほうがいい」

 含みを持たせる言い回しで、そう言った。
 わざわざ『今回は』などという言葉を付けた理由を、アランは尋ねるまでも無く読み取っていた。
 それはある噂であった。
 カルロが突然前線から離れ、しかも戻ってこないのは、戦いで重症を負ったからだという噂。
 クリス自身は真実を知らない。あくまでもただの噂である。
 が、

「……」

 アランは何かをかみ締めるように歯に力を入れていた。
 アランは思い出していた。
 ラルフと共感した時に、彼の記憶の中に父の姿があったことを。
 その時は大変だったからそれ以上記憶を探る余裕が無かった。

「……」

 そんな言葉が浮かんだ瞬間、アランの心は沈んだ。
 いまの言葉を言い訳にするにはあまりに苦しいと、自分自身分かっていたからだ。
 本当は探ろうと思えば探れた。でもそうしなかった。
 どうしてかはもうはっきりとは思い出せない。もしかしたら、怖かったのかもしれない。
 自分の予想では、ラルフの心から感じ取れた勝気と自信から察するに――

「……」

 そこでアランは思考を切った。
 会って確かめよう、そう思ったからだ。

「兄様……?」

 そして、兄が何かを知っていることを察したアンナは尋ねるように声を出した。
 が、アランは、

「……」

 アンナに対しては何も答えず、

「わかった。俺もアンナと一緒に城へ戻るよ」

 と、クリスに対して少し遅い返事を返すだけに終わった。
 それを聞いたクリスは、

「そうか。なら早速出発しよう。二人はすぐに準備してくれ。私は外で馬を用意しておく」

 と言いながら、戦装束などの私物が詰まった麻袋を肩にかけた。
 その動作に、気付いたアランはそれを尋ねようとしたが、それよりも先にクリスが答えた。

「命令には私も来るようにとあった。将軍としての務めは一時お休みしていいらしい。……何の話かは分からないが、よほど大事な事のようだな」

 クリスが不安を煽ろうとしているわけでは無いことは分かっていたが、それでもアランの心はその言葉に少しざわついていた。

   ◆◆◆

 移動は早馬によるものでは無く、徒歩に合わせた馬車となった。
 アランとクラウスが話したからだ。妙な連中に尾行されていると。
 ならばと、クリスは防御が硬い馬車を用意した。
 護衛の兵士も多くついている。
 クラウスはその兵士達を率いるように、自ら外の警護についた。
 そしてアランは尾行の位置を馬車の中から探し出し、クラウスに伝えていた。
 馬車の中にいる人数は三人。アランとアンナ、そしてクリスだ。
 アンナが一緒にいるためか、緊張感はあまり無かった。
 だからクリスは、馬車の中でアランが見せた神秘について尋ねた。
 これにアランは快く、隠し事無しに答えた。
 そしてアンナに対してやったように、クリスとも練習を行った。
 馬車の中なので剣を振り回すことは出来なかったが、クリスに関してはそれでも問題は無かった。やはりアランが思った通り、クリスの感知能力の素質は本物であった。
 クリスが慣れてからはアンナを交えて三人で練習するようになった。三人で剣を抜き、刀身を鏡とするように、輝く剣に祈るように眼前に構えながら、感情をやり取りした。
 クリスの上達は速く、みるみるうちにアンナと差をつけ始めた。それに伴い感知の範囲も急速に広がっていった。尾行の位置に気付くほどに。
 その円はアランほどには大きくない。神楽を起こせるほどの強大な波も発生させられないように感じられた。
 しかしそれは「今はまだ」というだけのものに思えた。練習を積めばクリス将軍はきっと化ける。アランはそう思っていた。
 そして三人はそのまま練習を楽しみながら、目的地に着くのを待った。
 ゆえに緊張感は薄かった。
 それが問題であった。
 クラウスもだ。アンナと一緒に行動出来ていることに安心感を抱いている。
 アランとクラウスは致命的な間違いを犯している。ディーノを強引にでも連れてこなかったことだ。
 まだ誰も気付いていない。自分達を遥かに凌駕する怪物に狙われていることに。

   ◆◆◆

 三週間後――

 アランは久しぶりに父と再会した。

「……」

 しかし言葉は無かった。
 場はカルロの寝室。
 入室時の「失礼します」以降、誰も口を開いていない。
 片足を失い、力無く寝具に横たわるカルロを前に、何と声をかければいいのか誰も分からなかった。
 クレアと違いカルロの容態は良くなかった。その傷口は腐る危険性を孕んでいた。
 カルロは布団をかぶらず、その黄色い汁を垂らす痛々しい傷口を三人に晒していた。
「自分はこうなってしまった」という事をすぐに分からせるためだ。
 そしてこれを見た三人が言葉を失う可能性もカルロは予想していた。
 そもそも、慰めの言葉が欲しいわけでは無い。
 カルロは三人をここに呼んだ理由について口を開いた。

「見ての通りだ。だからお前達を呼んだ。今後について話すためにな」

 カルロは言葉を続けた。

「しばらくは前に出れぬ。なのでアンナ、お前が私の代わりをやれ」
「……」

 気持ちの整理がついていなかったゆえに、アンナはすぐに言葉を返すことが出来なかった。

「……」

 そして隣にいるアランも同じように口を閉じたままであった。
 しかしアランの沈黙は理由が異なっていた。
 アランは感じ取っていた。父がこの後どうするつもりなのかを。
 父は傷口を自ら焼くつもりであった。
 もう薬などうんざりするほど試した。しかし容態は悪くなるばかり。ならば我に残された手段はこれしかないだろう、という思いが父の心の奥底にあった。
 それで駄目ならば腐りかけている部分を切除してもう一度だ、と考えている。
 驚異的なのは、その激痛を伴うであろう行為に一切の躊躇が無いこと。
 父はやはり凄まじい、アランはそれを再認識していた。
 そしてはっきりした態度を示さないアンナに対し、カルロは口を開いた。

「何を躊躇う? いつかこの時が来るかもしれぬと、何度も忠告はしていただろう? 私はこの時のためにお前を鍛え上げた。そしてお前は私の期待を超えるほどに強くなった」

 この言葉に小さな嘘が含まれていることをアランとクリスは感じ取った。
「期待を超えるほどに」という部分だ。
 これはただの励ましの言葉。本当は少し危ういと思っている。
 だからカルロは、

「ただし、我を倒した者とは絶対に直接戦うな。徹底的に避けろ。奴は無視して奴の周囲を頻繁に攻め、引きずり回すのだ」

 新たな助言と忠告をアンナに与えることにした。
 そしてその助言に出てきた者が誰であるかをアンナは既に知っていた。兄の記憶に出てきたからだ。
 相性の差があるとはいえ、遠距離戦であのリーザを封殺した化け物。
 確かに、今の私ではあれには勝てない。
 そう素直に思ったアンナは、

「分かりました」

 と、同意を示した後、

「御父様の御役目、このアンナが引き継がせていただきます」

 躊躇いの無い言葉を返した。

   ◆◆◆

 その後、話はすぐに終わった。
 クリスから現在の状況と、彼が知る限りのこれまでの詳細な経過報告がされたくらいである。
 その話にカルロは即答せず、「続きは明日にする」と答えるだけに留めた。
 クリスの城を勢いだけでねじ伏せるほどの戦力が、リックが存在することに、カルロは頭を痛めたのだ。
 リックはもう教会側の人間では無い。しかしカルロはそれを知らない。
 そしてアランに対しては、生きて帰って来たことに対しての言葉が贈られるだけに終わった。
 これにアランも同じような言葉を返したが、それ以上は何も言わなかった。
 話すならば一対一で、そう思っていたからだ。

 そしてその時は予想外に早く訪れた。

 重症の身でありながらカルロは寝具から降り、松葉杖を片手に部屋を出た。
 そして城から出る頃には、片手に花束が握られていた。
 行き先は城の裏手にある一族の墓地であった。
 そこにある妻の墓前に、カルロは花束を添えた。

「……」

 妻に対しての言葉は特に無かった。
 カルロは自問自答していた。今後について。
 しかしどう考えても戦力が足りない。
 教会側でまた反乱が起きたという情報は届いていたが、カルロは確定では無い甘い未来に希望を抱くような男では無かった。教会が倒れたとしても、その後の権力者達が同じ態度で我々に迫るとすれば、状況は大して変わらないだろうとカルロは考えていた。
 そしてこの問答にカルロは少し追い詰められていた。
 こういう時、カルロはよくここに来ていた。
 妻の霊が助言を与えてくれるなどとはカルロは思っていない。
 これはカルロにとっての一つの儀式であった。自身が困難に立たされていることの再認識を行う、そのためのもので、それ以上のものでは無かった。
 だがそれでも、いつもならば妻に対して一つか二つの言葉がある。
 しかし今日は無い。なぜなら、

「……どうした、アラン?」

 アランが尾けてきていることに気付いていたからだ。
 といってもアランは隠れてはいなかった。距離を置いていたというだけだ。
 そして声をかけられたアランは足を前に出した。

「……」

 しかし歩み寄るだけで、問われた用件については即答しようとしなかった。
 聞きたいことは数多くあった。
 しかし、それらについては既にアランの中で答えが出来上がっていた。
 父からどんな返事をもらおうと、それは今の自分にとって一つの意見に過ぎないだろうと、そう思えるほどにその答えは強固なものだった。
 そしてそれらを口で説明するのは正直面倒だった。
 そう思ったアランは、

「父上、お聞きしたいことがたくさんありました」

 と、「過去形」で言いながら、父の手を握った。

「!?」

 瞬間、カルロはあの時のアンナと同じ顔を浮かべた。
 わざわざ手を握ったのは、「自分がこれをやっている」ということをはっきりと分からせるためだ。
 そしてカルロの脳内では映像が流れていた。
 それはアラン自身が感じ取った収容所の惨状から始まった。
 その後、映像はクラウスから知った、教会と反乱軍の戦いの記憶へ。
 そして映像の場面は戦いから貧民街へ。

(やめろ……!)

 直後、アランの脳内に父の拒絶の声が響いた。
 やはり鮮明には思い出したくないのだろう。
 しかしアランはこの声を無視した。

「……っ!」

 父の苦悶の感覚とともに「その場面」が映し出される。
 アランはそこで映像を停止し、口を開いた。

「父上、私は最初彼らのことを、教会と戦ったこの者達のことを『正義』だと思いました」

 これにカルロは怒りの感情を滲ませ、声を上げようとした。
 しかしそれよりも早くアランが言葉を続けた。

「しかし彼らの多くは貧民街で『悪』に転化しました」
「……」

 父が感情を沈めるのを確認してから、アランは再び口を開いた。

「今となっては真実は分かりませんが、彼らのほとんどはただ教会が憎かっただけで、高潔な人間では無かったのでしょう」

 そしてアランは母の墓に視線を向けながら、言葉を付け足した。

「……母は、彼らの『正義』であった『一面』だけを全てと思い込んでしまったのかもしれません」
「……」

 アランの言葉に対し、カルロは何の言葉も感情も返さなかった。
 今となっては真実は分からないからだ。
 そして正直なところ、今のアランにとって重要なことは別にあった。
 アランはそれを声に出した。

「父上、私はこの力を使ってやってみたいことがあります」

 それはなんだ、と、カルロが心の声で尋ねるよりも早く、アランは手を離し、共感を切った。
 そこから先は読まれたくないからだ。まだ早い。そう思う理由をアランは声に出した。

「ですが私にはまだ分からないことがあります。ゆえにおぼろげなのです。何を目指してこの力を使うべきなのかが、まだはっきりと定まっていないのです」

 その言葉にカルロは残念だと思ったが、それが顔に表れることは無かった。
 アランがすぐに言葉を続けたからだ。

「ただそれでも、一つはっきりしていることは――」

 そしてその言葉はカルロの内に湧いた残念という思いをひっくり返すに十分なものだった。

「父上、私はどんな形であれ、この国を今よりも善く、そして強くしたいと思っています」

 アランが悩んでいること、それは魔法使いと無能力者の関係をどうすべきか、であった。
 そしてそのことについて相談する相手はもう決まっていた。
 それはただの直感であった。しかし、これが正解であろうという確信がアランにはあった。

   ◆◆◆

 一方その頃――

 かつてアランが働いていた貧民街の鍛治屋にめずらしい客が訪れていた。
 それはアンナ。

「……」

 しかしアンナは店先に立ったまま中に入ることも、声をかけることも出来ずにいた。
 どのように振舞うのが正解なのか分からなかったからだ。
 よくいる魔法使いの貴族らしく、高圧的に立ち回ればいいのだろうか?
 いや、それは個人的に嫌だ。それにここは兄様がかつて働いていた職場。貧民相手であっても失礼な振る舞いをしてはいけない気がする。

「……」

 アンナはそんな決着のつかない問答を繰り返していたがゆえに動けなかった。
 しかし次の瞬間、救いの手がアンナのもとに伸びた。

「いらっしゃいませ」

 鍛冶場から出てきた一人の男が、軽快な声と共に丁寧な礼を見せた。
 その男は魔法使いとの商売のやり方、すなわち作法や言葉遣いを心得ていた。
 ゆえに男の口はよく回った。

「当鍛冶場は初めてで御座いますか? ご安心ください。私達は貴族の方ともよくお付き合いさせて頂いておりますゆえ。特に、カルロ様には御贔屓にしてもらっております」

 最後の部分はこの男にとって殺し文句であった。
 しかしアンナにはその効果は無かった。
 だが、アンナはカルロの名を耳にしたことでわずかな安心感を抱き、それを勇気に変えて声に出した。

「あの、ここに私の兄がよく来ていたはずなのですが……」

 言いながら、アンナは「しまった」と思った。
 これでは何を言いたいのかよく分からないからだ。
 しかし男は察した。

「アラン様の妹君ということは……まさか、貴女はアンナ様?!」

 この男はアランに対して「様」をつけたことなど無かったのだが、そこはさすが商売人と褒められるべきところであった。
 そして万が一にもそれを指摘されると困る男は、口調に表れない程度に焦りながら用件を尋ねた。

「それで、本日はどのようなご用件で? 何かお探しのものでも?」

 その質問を待っていたアンナは即座に答えた。

「剣を探していて……それで、兄が働いていたここになら、良いものがあるのではないかと思って」

 これに男は「なるほど」という意味を込めた頷きを返しながら、アンナを誘導するように手を鍛冶場の方に向けた。

「では中へどうぞ。炉に火が入ってるんで少し熱いですが」

 今は真冬。しかしそれでも鍛冶場が蒸し暑いことを、男の額に滲んだ汗が証明していた。
 だが、アンナは気にせず中に入った。
 その時、アンナはある人物とすれ違った。
 それはルイス。
 ルイスがここに来ること自体は珍しく無い。アランが働いていた間でも、包丁などの日用品を求めて店先のほうには何度も顔を見せている。
 しかし鍛冶場の中にまで入って来ることは別だ。
 ルイスはある鍛冶師と机を挟んで話し合っていた。
 アンナの視線は短い間だが、その机の上に釘付けになった。
 妙な絵が描かれた大きな紙が数枚乗せられている。
 それは何かの図面であった。
 その絵が何を意味しているのか分からなかったゆえに、アンナはすぐに興味を失った。

「……?」

 しかしアンナの意識は別のものにも引かれた。
 それはルイス自身。
 この男、何か変だ、とアンナは感じた。
 服の下に妙なものを身に着けているような感じがする。
 だがアンナの感知はまだ未熟であったがゆえに、具体的な造形までは分からなかった。
 そしてその興味の持続力もそれほど長くは続かなかった。
 ゆえに、

「奥です。こちらへどうぞ」

 直後に耳に入った男の声に、アンナは即座に従った。
 そして案内された場所には、大小様々な剣がずらりと並んでいた。

「これは……?」

 アンナが尋ねると、男は答えた。

「実は剣はあまり種類は作っていないんです。兵士達はみんな腰に差してはいますが、やっぱりあまり使われないみたいで。盾の方が圧倒的に数は多いんです。じゃあこれは何なのかっていうと、アラン様が打ったものです」

「全部?」というアンナの問いに男は「はい」と即答した。
 そしてアンナは並べられた剣を見渡すように眺めた。
 すると、

(あ、これは……)

 ある一本が目に止まった。

(お兄様が昔使っていたものとそっくり……)

 それは長剣であった。
 そしてそれがアンナが探していた理想に近いものであった。
 だからアンナはそれを手に取った。
 直後、男は少し困惑した様子で口を開いた。

「それ、で御座いますか?」

 その声色には「あなたにはそれは重過ぎる」という思いが込められていた。
 しかしアンナは断言した。

「ええ。これです。これを探していました。これをください」

 アンナは新たな力を求めていた。
 自分を打ち負かしたディーノに近づくために。
 そのためには自分も重いものを持つ必要があると、アンナは考えたのだ。

   ◆◆◆

 それからしばらくして、アランが教会に顔を見せた。
 しかし主人はまだ戻っていなかった。
 感知能力があるゆえにアランはそれを分かっていた。
 そして入り口を抜けたところにある広間には誰もいなかった。
 当たり前である。今日は休館日なのだ。
 しかし玄関に鍵はかかっていなかった。
 その理由もアランは感じ取っていた。
 それは警戒すべき気配であった。
 だが、アランは待つついでに話してみようと思った。

「……」
 アランが適当な椅子に腰を下ろしてその時を待っていると、それは通路の奥から姿を現した。

「……久しぶりだな、アラン」
「……」

 リックが放った簡単な挨拶にアランが沈黙を返すと、

「そう警戒するな。俺にはもうそんなつもりは無い」

 その言葉が本心からのものであることを感じ取ったアランは、口を開いた。

「どうしてここに?」

 アランの質問にリックは一瞬考える素振りを見せた後、答えた。

「それを聞きたいのはこっちも同じなんだが……いいだろう、俺から話そう」

 そう言いながらリックはアランの対面側に座り、口を開いた。

「あの後、教会が俺の息子を人質にしようとしてな。それで一戦交えた後、ここに逃げて来たというわけだ」

 非常に簡潔だが分かり易く、そして十分な言葉であった。
 しかしアランはその短い言葉の裏に隠された激戦を感じ取っていた。

(たったの三人で、軍を押し返した……?!)

 アランはその内容に驚き、それは沈黙という形で表れた。
 だからリックはアランにその口を開くように促した。

「俺の話はそれだけだ。……で、お前の方はどうして? どうやって捕虜の状態から脱出したんだ?」

 これにアランは同じように簡潔に答えた。
 収容所に運ばれたこと、そこで反乱に巻き込まれたこと、そしてリーザに助けられたことを。

「……」

 それを聞いたリックもまたアランと同じように沈黙を返した。
 収容所に連れて行かれたことを聞いた時は、リーザに対して激しい怒りを抱いた。
 しかし最後にアランを助けたのもリーザだという。
 なんとも奇妙な話であった。

「「……」」

 そして二人とも無言になった。
 それが重苦しく感じるほどになった直後、

「これはこれは、アラン様ではないですか」

 アランの後方、入り口から第三の声が響いた。

「え?」

 それにアランは妙な声を出しながら振り返った。
 声と気配が一致しなかったからだ。
 誰かが近づいてきていることには気付いていた。しかしそれがルイスだとは思っていなかった。
 しかし今の声は間違いなくルイスのもの。

(何だ、これは?!)

 そしてアランはアンナが感じた異常にもすぐに気付いた。
 服の下に、右腕に何かを身に着けている。
 アランの感知能力はそれが何であるかを即座に識別した。

(これは……武器?!)

 それは刃を内蔵した機械弓であった。
 恐ろしく精巧な作りであった。長い鍛治経験のある自分でも正確に複製出来るか怪しいほどの。
 驚異的なのはそれが傍目には目立たないほどに小型化されていること。

(いや、それよりも!)

 しかしアランにとってはそれよりも驚くべきことがあった。
 ルイスの考えていることが分からないのだ。
 かつて戦った時のリックに様子が似ている。脳がほとんど動いていない。

(これがルイス? まさか、この人は初めて会った時からこうだったのか?!)

 アランの心にそんな疑問が浮かんだ直後、

「ええ、そうですよ」

 と、ルイスの声が響いた。

「!」

 しかしそれは耳にでは無く、頭の中であった。
 ルイスはその反応を楽しみながら、アランの能力を品定めしていた。

(やはり魂はまだほとんど機能していないようだな。音で接近は察知出来ていたようだが、理性と本能を殺して脳波を抑えるだけでこちらの思考が読めなくなっている。この様子だと魂だけで体を動かすこともまだ出来ないはず。魂が活動するのは、肉体が死に近づいた時だけだろう)

 まだ未熟。それがルイスの第一印象であった。
 が、

(しかし思っていた通り、感知能力の強度自体は本物だな)

 その潜在能力の高さは疑う余地が無かった。
 そしてルイスは最後に「だからリリィに惹かれたんだろうな」と付け加えた。

 その通り、アランがリリィを好きになったのは偶然でも、気が合ったからでも、環境によるものでも無い。リリィがある特殊な性質を備えていたからだ。

 そしてルイスはアランの警戒を緩めるために、再び言葉を送った。

「右腕のこれについては御気になさらず。これはただの自衛用の装備。ここの治安は決して良いとは言えませんからね」

 アランの緊張は弱まらなかったが、ルイスはさらに言葉を続けた。

「しかしさすがですな。衣擦れから生じる小さな音の乱反射をここまで解析出来るとは。あなたが頭の中に描いたこれの設計図はかなり正確なものですよ」

 ルイスは素直にアランの能力の強さを賞賛したが、

「……!」

 再び頭の中に響いたその声に、アランはまた驚いただけであった。
 喋る瞬間だけ脳が活動したからだ。
 事前に喋る内容を考えている気配が全く無かった。
 一体どうやって今の言葉を紡いだのだ?! アランはその疑問をルイスの頭にぶつけたが、

「……」

 ルイスは即答しなかった。
 ルイスは少し悩んでいた。
 教えても自分が困ることは特に無さそうだと思った。
 だから、ルイスはそれを声に出そうと口を開こうとしたが、

「!」

 ルイスはその口を半分のところで止めてしまった。
 その膠着は一瞬のことで、ルイスはすぐに声を出したのだが、

「……アラン様、申し訳無い。急用を思い出しました。すぐに出かけなければいけません」

 これにアランは即答した。

「ではここで待っていますよ」

 しかしその返事にルイスは首を振った。

「いえ、遅くなる可能性が高いので、今日のところは城に御戻りを」

 その言葉に嘘は無かったのだが、

「……」

 アランは言葉を返すことも、首を縦に振ることもしなかった。
 アランが待つつもりであることを、先ほど見せた技術にアランが大きな興味を抱いたことを察したルイスは、

「分かりました。……ですが、帰りたくなったらいつでもどうぞ。鍵は気にしなくて結構ですよ。リック様がおられるので」

 そう言いながら入り口の方に振り返り、

「では失礼します」

 と、家主らしからぬ言葉を残して教会の門を出た。

   ◆◆◆

 教会を出たルイスが向かった場所は、前に蜘蛛と再会したところであった。
 そこは「ルイス達」がよく使う密会場であり、ルイスを呼び出した客は既にその場所で待っていた。

「久しぶりね。早速『調整』をお願いするわ」

 それはシャロンであった。
 彼女が放った第一声には必要なことだけ早く済ませたい、という事務的な感情しか含まれていなかった。
 ゆえにルイスは少しうんざりしながら挨拶を返した。

「……久しぶりだな。調子はそんなに悪いのか? あんなに五月蝿い虫を送ってくるなんて、君にしては珍しい」

 これにシャロンは正直に頷きを返し、口を開いた。

「……重要なところを、闘争心を大きくいじられたわ。しかもすぐには気付けないほど静かに、かつ速く」

 その答えにルイスは「それはまずいな」と返したが、双方の感情には大きな開きがあった。
 それを感じ取ったシャロンは少しイラつきながらも、

「だから今日はいつもよりもじっくりお願いするわ」

 と、彼女にしては比較的に丁寧に頼み込んだ。

「分かった。じゃあ見せてくれ」

 ルイスがそう言うと、シャロンはうなじを見せるようにその場に座りながら背を向けた。
 ルイスは彼女の背後に立ち後頭部を凝視するように、その頭を両手で挟み込むように掴んだ。

「……」

 そしてルイスは静かに目を閉じ、意識を集中させた。
 ルイスはシャロンの頭の中を見ていた。
 正確には脳と魂から発せられる波を、だ。
 自分から適当な波を送り込んで、どう反応するかも調べている。
 目星はついていた。
 静かで、かつ速かったということは、手段はかなり限られるからだ。
 事前にかなりの準備がされていたはず。
 そしてその準備は定期的な自己点検を回避していたということ。
 ならば、実行犯はある程度自由に動ける魂であるはずだ。
 理性と本能は神経網である。自由に動くことが出来ないため、点検から逃れることは出来ない。
 普段本能が管理している闘争心の神経回路とそれに繋がるものを魂を使って改変、または繋ぎ変えたのだろう。

 ここで理性と本能と魂の関係についての説明を補足しておこうと思う。混沌を語る上で重要な情報だからだ。
 先に述べられたように理性と本能は神経網である。信号は魔力と電気であり、それが脳波となる。それが魂との大きな違いである。魂も独自の波を出しており、アランはまだこれを検出していないだけである。
 そして魂はその神経網に影響を及ぼすことが出来る。が、破壊は難しい。かなり魂が消耗する。ただの虫では不可能に近い。
 だが神経網の代わりを務めることなら簡単だ。経路の作成、条件分岐の増加自体はそう難しく無いのである。これがシャロンに起きている問題と混沌を理解する上で重要である。
 魂によって行われる理性と本能の抹殺は破壊によるものである。感覚器官と運動器官、計算や記憶を司る器官との接続を全て切断しているのである。理性と本能からすれば、全ての機能と感覚が失われることになり、それは確かに死に近い。
 しかしこの破壊が実施されるのは一回目だけになることが多い。消耗が激しく、全ての接続を断とうとするとやはり手間と時間がかかるからだ。以降は神経回路の再生を待たず、接続を魂がずっと代替する場合がほとんどである。
 実はあの時のリーザの魂は参戦した時点でかなり消耗していたのである。そしてリーザの本能が述べた通り、再接続の前に改造が行われることも珍しく無い。魂が表に立つことは普通の人にとっては異常事態であり、そのようなことが二度と起きないように、より上手く立ち回れるように性格や考え方を変えるのである。
 つまり混沌とは、大量にある様々な部品を、状況に応じて魂で繋ぎ変えているだけなのである。
 このように詳細を見れば混沌は完璧、無敵には程遠いことがよく分かる。知っていれば弱点だらけであると言っても間違いでは無い。構造を知っているのであれば外部からの破壊も可能だ。接続は魂に頼っているのだから。魂は魂で直接攻撃出来る。
 ならばすなわち、一度天に至った人間は理性と本能にある共通の弱点を抱いていることも、察しの良い方は気付いたはずだ。接続の位置さえ知っていれば容易に攻撃出来る。利点と欠点は表裏一体であることが多い。

 話を元に戻そう。

 ルイスはすぐにそれらしいものを見つけた。
 本能の近くに大量の虫のような「部品」が転がっている。
 これだ、とルイスは思った。
 専用の虫を送り込んで解析させる。
 すると答えはすぐに明らかになった。

(やはりな)

 当たりであった。混沌の部品では無い。こいつらが実行犯だ。
 一つ一つの部品に意味は無いが、上手く繋げるとシャロンの闘争本能に問題を起こす厄介な組織と化す。
 点検時には闘争本能の回路から離れ、ばらばらになってやり過ごしていたのだろう。
 その仕組みの精巧さは芸術に見えたが、ルイスは淡々と攻撃用の虫を送り込み、それらを破壊した。

(とりあえず破壊は完了、と)

 しかしこれで問題が解決したわけでは無いことをルイスは分かっていた。
 同じ攻撃をされれば、また同じ問題が再発してしまうからだ。防御を強化しなくてはならない。
 それはつまり、シャロンを「改造」するということ。本人の性格に影響が出る可能性が高い。
 ルイスがそれを伺うよりも早く、分かっていたシャロンは答えた。

「構わないわ。ただし、戦闘に関わる部分は慎重にお願い。弱くなるようなことはしないで」

 これにルイスは、

「……」

 分かったと、即答することが出来なかった。
 難しいからだ。
 そもそも、問題の根源は「第四の存在が戦うことを嫌がっている」ことである。
 これを完全に解決しようと思ったら、第四の存在からの攻撃が二度と起きないようにしようとするならば、シャロンを「元の彼女」に戻すしか無い。
 それは出来ない。それに、元の彼女がどうであったか、元の神経回路がどうなっていたか、実はもう覚えていない。
 ならば今後も攻撃を受け続けるのが前提となる。
 対処法は一応ある。だが、それはこれまでにも「調整」としてやってきたことだ。
 ゆえにルイスは肯定の返事では無く、警告を口に出した。

「シャロン、これまでに何度も言ったが、この体は私がちゃんと『厳選』したものじゃない。都合の良い身分や立場であったから、電撃魔法の素質も備えていたから、ただそれだけで君が選んだものだ」

 これにシャロンは、

「……」

 ただ、沈黙を返した。
 そしてその無言に感情が無い事を感じ取ったルイスは言葉を続けた。

「この体は気質に関しては全く戦闘に向いていない。このような問題が起き、それが徐々に深刻化していくことも最初に言ったはずだ。……シャロン、正直に言おう。この体と君の関係は、もう限界に近い」

 ルイスのこの警告は本心からのものであった。

「……」

 しかしシャロンは先と同じ沈黙を返した。
 そしてしばらくしてシャロンは口を開いた。

「……別に構わないわ。あと一回戦えればそれでいい」

 独り言のように漏れたその言葉に、ルイスが「あと一回?」と理由を尋ね返すと、シャロンは答えた。
 次の仕事は派手なものになるかもしれないことを。
 その仕事でアランを始末するつもりであることを。
 そしてそれがこの体での最後の仕事になる可能性が高いことを、奴らの味方のフリを続けることが限界に近いことを、自身の推測とともに答えた。
 シャロンが述べたそれらの言葉にルイスは、

「……」

 全て沈黙を返した。
 ルイスは考えていた。
 そのアランはいま自分の教会にいる。
 アランがまだ生きているということは、シャロンはまだアランの正確な位置を掴んでいないということ。つまり、ここに来たばかりであるということ。
 ならば教えてあげようか、とルイスは一瞬思ったが、

「……」

 やめておくことにした。
 アランは自分と何か話したいことがあるらしいから、それを済ませてからでもいいだろう、と思った。
 それに正直なところ、シャロンが身を置いている戦いは自分にとってはどうでもいいことだ。
 はっきりいって、この「調整」も長い付き合いから生じる義理感だけでやっていること。
 そしてこの作業は徹夜になるかもしれない。
 面倒くさい。明日はつらそうだ。

「……ふう」

 直後、その思いがため息となってルイスの口から漏れた。
 ルイスはシャロンに対して心を開いていない。脳波を抑え、虫に心を読まれないように監視している。
 対するシャロンもルイスの心を読もうとはしていない。「調整」を受ける側であるゆえに、失礼にあたる恐れのある行為を避けているだけだが。
 それでもそのため息に込められている思いは分かった。
 だからシャロンは口を開いた。

「……面倒くさいのは分かるけど、ちゃんとやってよ?」

 これにルイスは「分かってる。信じろ」と、少し怪しい返事を返しながら意識を再びシャロンの頭の中に向けた。
 ため息を吐いたせいか、幾分か気が楽になっていた。
 それにあと一回だけでいいのであればどうにでもなる、という気持ちも湧き上がっていた。
 普段は以前よりも大人しく、しかし戦闘時の気質は以前通りに、そうなるように条件付けしてみよう。効果があるかどうかは正直知らないが、もしかしたら上手くごまかせるかもしれない。

「……」

 そう決めたルイスは、淡々と作業を進めた。
 その手つきは慣れたものであった。勝手知ったる我が家のように、シャロンの頭の中の構造を理解しているからだ。
 だから他のことを考える余裕があった。

(そういえば……)

 あの時、シャロンが放った虫は私のそばにいたアランを認識出来ていなかった。
 本当にシャロンは焦っていたのだろう。だから虫に余分な機能を持たせられなかったのだ。
 そしてあの虫は本当にうるさかった。「早く、速く」と叫び続けていた。

(まったく、都合の良い時に呼ばれる方の身にもなってほしいものだ)

 シャロンが私のように自分で調整出来ればこんな煩わしい思いをせずに済むのだが。
 ならば、教えてみるか?

(……いや、それはそれでかなり面倒だな)

 ルイスは自分がこの技術を習得するのにどれだけの時間を要したかをすぐに思い出した。
 同時に、懐かしい記憶も奥底から浮き上がってきた。
 それは苦い記憶でもあった。

「……」

 ゆえに、ルイスの手は止まった。
 それは一瞬であったが、何かあったのかと心配になったシャロンは口を開いた。

「どうしたの? 何か、私の頭の中でマズいことでもあった?」

 これにルイスは首を振って答えた。

「いいや、そうじゃない。ちょっと昔を思い出しただけだ」

 これに興味を抱いたシャロンは尋ねた。

「……昔? そういえば私、会う前のあなたのことをあまり知らないわ。良ければ話してくれない?」

 その言葉に引っかかるものがあったルイスは尋ね返した。

「あまり? あまりってどういうことだ?」

 シャロンに昔のことを話したことはほとんど無い。だが、まるでそれ以上知っているかのような口ぶりだ。
 自分の心を、記憶を盗み見たのだろうか、ルイスはそう思ったが、シャロンは少し違う答えを述べた。

「『あいつ』から聞いたのよ。少しだけね」

 その確認のために、寝ているルイスの記憶をこっそり覗いたことはあるのだが、それは黙っておくことにした。
 そしてルイスは『それ』が蜘蛛の化け物のことを指していることを、聞き返さずとも理解した。
 ゆえにルイスは、「ああ、あいつか」と、何かをあきらめたかのような言葉を漏らした。
 そういえば『あいつ』はどこにいるんだろうか。シャロンを探していたはずだが。
 ルイスがそう思った瞬間、

「呼んだかい?」

 と、『あいつ』の声が魂に響いた。
 これに二人は、

「「!?」」

 同時に同じ表情を浮かべた。
 近くにいたことに全く気が付かなかったからだ。
 そしてその声の発生源は――

((下?!))

 ゆえにシャロンとルイスは同時に下を向いた。
 すると『あいつ』は地面の中から染み出すように、這い出るように、二人の目の前に姿を表した。
 人の形を成しながら。
 そしてその人の形をしたものは、シャロンに向かって口を開いた。

「久しぶりだねシャロン」

 音は出ていないが、その声はやはりシャロンの魂に響いた。
 しかしシャロンは同じ挨拶では無く、質問を返した。

「……あなた、ずっと地面の中に隠れていたの?」

 これに蜘蛛は「そうだよ」と即答した。
 シャロンが「どうやって?」と質問を重ねると、蜘蛛は意外な答えを返した。

「単純で簡単だよ。地面のふりをしていただけさ」

 これに二人は一瞬、「?」というような表情を浮かべたが、すぐに自分なりの推測を導き出した。
 そして二人が出した答えはまったく同じであり、心の声は重なって場に響いた。

((地面のふりをする……それはつまり、地面と波長を合わせるということ?))

 無機物である土が魂の波長を発しているわけでは無い。反射は存在するが、蜘蛛の言葉が指しているものは別のものであることを二人は察していた。
 それは植物。
 しかしそれは目に映る緑色のことでは無い。
 あの「手」のような、魂の植物のことである。
 魂の世界における植物の分野もまた生者の世界と同じように多種多様である。人の形をしているゆえに「手」は目立つが、それに限らない。
 蜘蛛はそれらに擬態していたのだ。シャロン達の足元に広がる、生者からすれば歪な造形をしたそれらに。
 そして、その「擬態」こそが蜘蛛が最も得意とする技術であり、彼をこれまで生き長らえさせてきたものであった。

 蜘蛛が生み出す網、罠に獲物が引っかかってくれるのは、第一に獲物が愚かであるからであり、第二に蜘蛛の擬態が上手いからである。
 死神からすればただの大きな森、または山に見えるように擬態しているのだ。
 その森や山の中からは甘い香りもする。死んだばかりの、新鮮な人間の魂の気配がするのだ。そして中に迷い込めば二度と出ることは出来ない。

 そして二人がそこまで理解した直後、

((しかし……))

 二人は再び同時に気付いた。
 植物への擬態は、魂だけでやるにはかなり危険な行為なのではないか、と。
 魂が発する波というものは肉体で例えれば、筋肉の収縮や血の流れから発せられる活動音のようなものである。当然思考も含まれる。
 これを植物に合わせたということは、構造と意識を植物そのもの、またはかなり近いものにしたということ。
 構造はまだしも、意識を植物と同じにするという行為は問題があるように思える。
 重要なのは危機、危険管理をどうするかだ。
 外敵が擬態に気付いたらどうするのか。ただの植物の意識でそれを察知し、即座に対応することが出来るのか。肉体の無いこいつの場合、理性や本能には頼れない。
 考えるまでも無い。無理だ。
 ならば、何か機械的な条件付けがされていると考えられる。

(ん? 条件付け?)

 瞬間、ルイスは気付いた。
 そういえばさっきこいつは、自分とシャロンが話し始めた直後に、会話にこいつを指す単語が出てきた直後に姿を現したな、と。
 ルイスがそう考えた直後、蜘蛛が口を開いた。

「さすがルイス。それが正解の一つだよ」

 既に多くの方が気付いたであろう。
 二人に「混沌」を教えたのは蜘蛛である。蜘蛛は「混沌」の達人であり、その技術力には相当の開きが存在する。

 そして正確には単語では無く思考であったのだが、蜘蛛にとっては似たようなものであるため、指摘することはしなかった。
 さらに蜘蛛自身が言ったとおり、条件は一つでは無い。
 今の蜘蛛にその答えを話すつもりは無かった。
 なぜなら、蜘蛛は嬉しさを感じており、かつ興奮しているからだ。
 蜘蛛はその感情を声に変えた。

「この擬態は何度やっても慣れないよ。息苦しい、という感じかな。……この表現が適切かどうかは、もう忘れてしまったがね」

 そう言った後、蜘蛛は笑みの表情を形作りながら、「呼吸なんて、もうかなり永い間やっていないからね」と言葉を付け加えた。

(こいつ……)

 その様子からルイスは気付いた。
 二人を完璧に騙せたことがよほど嬉しかったのだと。
 だから聞いてもいないことをべらべらと喋っている。
 そしてそれが正解であるかのように蜘蛛の口は止まる気配を見せなかった。

「ああそれと、大事なことがあるんだよシャロン」

 突然話を振られたシャロンは声を返せず、再び「?」というような顔だけを返した。
 しかし蜘蛛はお構い無しに言葉を続けた。

「名前が出来たんだ。だからこれからは、僕のことを『あいつ』や『こいつ』などとは呼ばないで欲しい」

 これに興味を抱いたシャロンは口を開いた。

「へえ。なんて名前にしたの?」

 蜘蛛は得意気に即答した。

「『ナチャ』だよ」

 瞬間、

(こいつ……)

 ルイスは口を開きそうになった。
 せっかくつけてやった名前をもう勝手に変えたのか、と。

「……」

 しかしルイスは声を上げなかった。
 確かに、『アトラク=ナクァ』よりはそっちの方が良いと思ったからだ。
『ナクァ』の部分だけを残して、発音をより普通の名前らしく、かつ耳障り良く変えたのだろう。

(それで『ナチャ』、か。ふむ、悪くない)

 ルイスは本当にそう思ったゆえに、何も言わないことにした。


   このお話はまだ続きます
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