シヴァリー 第三十六話

   ◆◆◆

   選択と結末

   ◆◆◆

 サイラスとラルフが移動を開始してから一ヶ月半後――

 クラウスは収容所を遠目に眺めていた。
 ここにアランが運び込まれたことをクラウスはその目で見ていた。
 そして奇しくも、この収容所はクラウスにとっての思い出の場所である。
 ここを出てから長いが、未だに感情は風化していない。ここには辛い記憶が多すぎる。
 クラウスはその思い出の場所を眺めながら、どうやってアランを救うかを考えていた。
 自分が単身で乗り込んでどうにかなることではないことは分かっていた。
 それでもアラン様のところにまではたどり着けるかもしれない。しかし問題はその後だ。

(同じ処置がされているとしたら、アラン様は自力で歩けなくなっているはずだ)

 クラウスは知っていた。ここに運び込まれた捕虜がどうなるのかを。アランが両足を失っている可能性が高いことを。
 となれば、救出時はアランを担ぎながら脱出するということになる。
 それは困難の一言に尽きる。
 だからクラウスは機会を待っていた。
 そしてその好機が訪れつつある気配を、クラウスは感じ取っていた。
 クラウスが視線を別の場所に移す。
 そこには、ちょっとした陣があった。
 町から離れた場所に軍が駐留しているのだ。
 どこかの貴族がアラン様を受け取りに来たのだろうか、と思った。最初は。
 しかしどうやらそうでは無いようであった。
 何をするわけでもなく、場に留まっているだけだ。
 まるで誰かを待っているかのようだ。

(町から兵を集めているのだろうか?)

 徴兵のために留まっている、クラウスはそう考えた。
 それが正解だとすれば、収容所から兵士が減る可能性が高い。狙うとすればその時。

(……)

 クラウスは藪の中に身を潜めながら、訪れるかもしれないその時をじっと待った。
 
 
   ◆◆◆

 一方、クラウスが目で見つけたそれを、アランは自身の神秘で感じ取っていた。
 しかしそれに対する判断はクラウスとは違っていた。

(……何かを待っていることは間違い無い。合図か、それとも誰かか――)

 思考を重ねていたその時、アランの神秘はさらに別のものを感知した。

(南から何かが近づいて来ている? 数が多い。ということはこれも軍隊か……?!)

 瞬間、アランの心は驚きを浮かべた。

(なんだ?! この魔力は!?)

 感じ取ったのだ。ラルフの存在を。彼が有する魔力を。

(……こんな魔力を一人の人間が持っているというのか?!)

 あまりのことに、アランは自身の神秘の方を疑った。
 少なく見積もってもアンナの倍は強い。そして間違いなく父も凌駕している。
 現実感が薄れるほどの魔力に、驚きが薄れ始める。
 そして別の感情が表に出てきた。
 それは疑問。

(南から来ているということは、この者は戦場で戦っていた? そして負傷して離脱した? こんな強力な魔力を持つ者が、負けるとは思えないが……)

 瞬間、アランの心に再び父の姿が浮かんだ。

(……父と戦ったのだろうか? そして父が勝った?)

 アランの思考は希望ある予測を描いた。それが間違いであることは今は知りえないし、知らなくていい。

 そして直後、南から迫るその部隊は奇妙な行動を取った。

(……? 何人かが離脱し、駐留している部隊のほうに向かった?)

 挨拶でもするつもりだろうか、とアランは考えたが、アランが持つ神秘はそれが間違いであることを示した。
 少数が接触して暫くした後、ひりひりと焼け付くような感覚が、その部隊から放たれ始めたのだ。
 それが敵意によるものであることを、アランは部隊の行動から察した。
 駐留していた部隊が町に向かって前進を開始したのだ。きちんとした隊列を組んで。
 その行動が意味するもの、それは一つしか思い浮かばなかった。

(まさか、この町を攻撃するつもりなのか!?)

 一体何が始まろうとしているのか。動けない今のアランにはそれを予想することしか出来なかった。

   ◆◆◆

 一方、サイラスは相変わらずラルフと同じ馬車の中にいた。
 しかし今の二人の間に会話は無い。
 もう話すことが無くなったからだ。
 そして、サイラスは時が訪れるのを待っていた。

(……そろそろか)

 時が間近に迫っている、サイラスがそう思った瞬間、

「……何の音でしょうか?」

 それが訪れたことを、ラルフが疑問という形で声に出した。
 その音は町の方から響いていた。
 もっと正確に言えば収容所の方からだ。
 そしてそれが軍隊の進軍音であることを理解するのに時間はさほどかからなかった。
 ラルフは声を上げようとしたが、それよりも先にサイラスが馬車を操縦する御者に向かって口を開いた。

「馬車を走らせろ! 全速力でだ! マズいことが起きようとしているぞ!」

 サイラスはそう叫んだ。そのマズいことがなんなのかを知っていながら。

   ◆◆◆

 その異常を収容所の作業場にいたリリィも感じ取っていた。

(何の音……?)

 リリィの耳には地鳴りのような音が絶え間なく届いていた。
 それは次第に鮮明になり、大勢の走る音であることがすぐに分かった。
 そしてそれに応じるかのように収容所の中も慌しくなっていった。
 兵士達が廊下を走る。
 異常事態であることは間違いない。しかし物騒なことにはならないだろうと、リリィは思っていた。次の瞬間までは。

(!?)

 直後、耳に飛び込んできた新しい音に、リリィは肩を震わせた。
 それは衝突音。
 何かが大量にぶつかる音が門の方から鳴り始めたのだ。
 これに廊下を走る兵士達は声を上げた。

「何が起きている!?」

 年配の兵士が放った質問に、門の方にいる誰かが答えた。

「攻撃を受けている!」

 これを聞いた老兵士は併走していた別の者の肩を掴み、その場に引き止めながら声を上げた。

「お前はそこにいる無能共を収容所の隅に移動させろ! 私は他をあたる!」

 この老兵士には何が起きているのかが分かっていた。
 なぜならば二度目だからだ。この老兵士はサイラスが以前起こした反乱を経験していた。だからすぐに対応出来るのだ。
 そして、指示を受けた兵士はリリィ達の方に向き直りながら声を上げた。

「全員作業を中断! 私についてこい!」

 従うしかないリリィは、素直に席から立ち上がった。

   ◆◆◆

 移動させられたリリィ達は、兵士の監視のもと、黙って事の流れを見守るしか無かった。
 しばらくして、門が破られたような音がリリィの耳に入った。
 そして次に戦闘音が耳に入るようになった。
 怒声と悲鳴が収容所内で響くようになり、戦闘音は徐々にリリィ達のほうに近づいてきた。
 それはつまり、収容所を守る兵士達が押し込まれているということであり、劣勢であるということを示していた。
 戦闘音が近づくほどにリリィを監視していた兵士達が一人、また一人と場から離れていった。
 そして怒声が間近に聞こえるようになった頃には、リリィ達を監視している兵はたったの三人になっていた。
 瞬間、リリィの心に一つの心配事が浮きあがった。

(……このままだとアランはどうなるの? 無事で済むの?)

 それと同時に、リリィの心はある一つの望ましい未来を描いた。
 そしてリリィは気付いた。それを成す好機が訪れていることを。
 監視はたったの三人。これならば隙を見てこの場から離れることが出来る。
 リリィは三人の視線を注意深く伺い、逃げる隙が生まれるのを待った。
 そしてそれは直後に訪れた。

「!? おい! 待て!」

 三人が同じ方向を向いたのだ。
 その視線の先には、走り出した奴隷達の姿があった。
 リリィと同じ事を考え、実行したのだ。
 そして、リリィの足も直後に動き出していた。
 しかしその足の向きは違っていた。
 リリィが目指す場所は独房。アランが閉じ込められている場所であった。

   ◆◆◆

 幸いにも、リリィ達が移動させられた場所はアランがいる独房のすぐ傍であった。
 だからリリィは戦闘に巻き込まれることなく、目的の場所に辿り着くことが出来た。
 が、リリィの足はその独房の前で止まっていた。
 リリィは物陰に隠れながら、独房の前を凝視していた。

(見張りがまだ残っている……!)

 数は一人しか見えない。
 しかし、魔法が使えない上に細腕のリリィでは、たった一人相手でも正面からでは勝ち目が無い。
 だからか、リリィは無意識のうちに武器を、拳ほどの大きさの石を拾っていた。
 だがこれは出来れば使わずに事を済ませたい。
 ゆえにリリィは行動を起こせなかった。物陰から様子を見ることしか出来なかった。
 兵士はそわそわしている。戦闘音が気になるのだろう。
 しばらくして、すぐ傍から聞こえてきた悲鳴と、

「誰か!」

 という助けを求める声に、見張りの兵はとうとう走り出し、その場から離れた。
 当然、その隙を突いてリリィが棟の中に入る。
 リリィの目に一直線の廊下と、それに沿って並ぶ四つのドアが映りこんだ。
 アランが閉じ込められている部屋は一番奥だ。
 しかし、リリィはまず一番手前にある木製のドアを開いた。
 この部屋に鍵が置かれているからだ。兵士がこの中に鍵を取りに行っていたのを何度も見て知っている。
 しかし部屋のどこに鍵があるのかは知らない。だからリリィは棚を片っ端から空けた。
 が、

(……無い?! どこにも無い!)

 どの棚にも、部屋のどこにも見当たらないのだ。
 リリィの心に一つの悪い推測が浮かんだ。

(……まさか、さっきの兵士が持っている?!)

 先ほどまでそこにいたあの見張りが、鍵をあるべき場所に置いておかず、勝手に持ち歩いているのではないか。
 リリィがそんな事を考えた瞬間、さらに悪いことが起きた。

(……足音?!)

 誰かがここに近づいてきているのだ。
 しかも、もうすぐそこだ。
 今から部屋を出ても鉢合わせることになる。そんな距離。
 隠れなければと思ったが、身を隠せる場所はこの部屋には無い。
 だからリリィの足はその場ですくんでしまった。
 迫るその者の足音がドアの前で止まり、取っ手に手をかける音がリリィの耳に届く。
 リリィは無意識のうちに持ち込んでいた石を両手で握り締めた。
 ドアが開いたと同時にこの石を思いっきり叩き付けてやろう、そう考えたリリィが両手を振り上げた瞬間、

「待て、リリィ! その人は敵じゃない!」

 廊下の奥から、アランの叫び声が届いた。
 アランは続けて廊下に声を響かせた。

「ここだクラウス! 一番奥の部屋だ!」

 直後、ドアの前から気配が消え、廊下を奥へ走る音がリリィの耳に届いた。
 その足音を追うように、リリィが廊下へ飛び出す。
 すると、アランが閉じ込められている独房の前に一人の男が立っているのがリリィの目に入った。
 その男は「がんがん」と、右拳でドアのあちこちを叩いていた。
 鍵が置いてある部屋のドアとは違う音だ。そのドアは木製では無く鉄板で出来ている。腕力だけで突破出来る代物では無い。
 なのにクラウスと呼ばれたその男は、腰に差していた刀を抜き、ドアの前で身構えた。
 まさか、その剣でどうにかするつもりなのだろうか、とリリィは疑った。
 そのまさかであった。
 クラウスは鉄板の厚さと各部の強度を確かめるためにドアを叩いていた。
 その時に、クラウスはある箇所を見て「やれる」と踏んだ。
 それは取っ手のすぐ隣にある、ドアと壁の間にある隙間。
 その隙間に棒状のものがあるのが見える。
 ドアと壁を繋いでいる鍵だ。
 クラウスはその棒状のものが覗き見える細い隙間に向かって、刀の先端を突きつけた。
 狙いを定めながら剣を握る手に魔力を込める。
 そして刃が発光を始めた瞬間、

「はっ!」

 気勢と共に、クラウスは刀を突き出した。
 甲高い音と火花を発生させながら、刃の先端が隙間に突き刺さる。
 直後、壁との繋がりを失ったドアは、錆び付いた音を立てながらゆっくりと開き始めた。

「アラン様!」

 その緩慢な動作を待っていられないクラウスは、主人の名を呼びながらドアを乱暴に引き開けた。
 クラウスの目にアランの姿が映りこむ。
 探していた主人は汚いベッドの上に拘束されている。その体には包帯が巻かれており痛々しい。
 しかし、クラウスはなによりもまずアランの足元を注視した。
 そしてクラウスは安堵した。ちゃんと足があるからだ。
 が、視線を上に向けた瞬間、その安堵は消えた。

(目が焼かれている)

 同時にクラウスは理解した。なぜアランの足が無事だったのかを。ここの連中は足の代わりに目を奪ったのだ。
 残酷である。が、クラウスの心には怒りも絶望も無かった。
 足を失っているよりはマシだと思ったからだ。ここから脱出するならば目よりも足があるほうが有利だ。
 だからクラウスは表情を変えず、光る刀で淡々とアランの拘束を断ち切った。
 開放されたアランが声を上げる。

「すまないクラウス、それとリリィも! 助かった!」

 そしてベッドから降りたアランに、クラウスは背負っていた荷物を差し出した。

「アラン様、これを!」

 それは細長い麻袋。
 形状から察したアランは、受け取った袋の中身を勢い良く引き出した。
 現れたのはやはりクラウスが持っているものと同じ刀。
 アランはすかさず刃に魔力を流し、

(これは……俺の刀!)

 先端に魔力が偏る感覚から、手にある刀が親方の形見のものであることを確信した。
 そして、アランは刃を光らせたまま声を上げた。

「急いで脱出しよう!」

 当然の発言にクラウスが口を開く。

「お手を、アラン様。私が先導します」

 目が見えない相手に対する当然の提案である。
 が、アランは首を振った。

「いや、必要無い! 俺が先頭に立つ。二人とも付いて来てくれ!」

 さらに自分が前を歩くという。
 これをクラウスは、

「……わかりました」

 承諾した。少し間を要したが。
 クラウスはアランが持つ神秘を認め、理解しつつあった。
 先ほどもそうだった。アラン様は目が見えないのに、差し出した剣を戸惑い無く受け取った。
 さらに決定的なのは自分の居場所を叫んだことだ。
 よく考えればこれはとんでもないことだ。アラン様はどうやって私が近くにいることを認識したのか。ベッドに拘束されていたから廊下を覗き見ていたというのはありえない。
 目が無くても見えるどころでは無い。アラン様は見えないところも見えている。そうとしか思えない。
 クラウスはそう考え、自分を納得させた。
 対し、リリィは困惑した表情を浮かべていた。
 奇妙な事が起きているという程度の認識しか、この時のリリィには無かった。
 アランはそれを察していたが、今は説明する時間は無いと判断し、

「よし、行くぞ!」

 声を上げながら、我先に部屋を飛び出した。

   ◆◆◆

 その後、クラウスが危惧したような事は起こらなかった。
 クラウスとリリィはアランの先導のもと、危なげなく前進を続けた。
 敵兵との接触が全く無かったわけでは無い。が、アランは確実に相手の虚を突き、叫ぶ暇も与えずに全て切り伏せていた。
 そしてそれらの過程においてアランは一切足を止めていない。先が見えない角を曲がる時もだ。まるで角の先がどうなっているのか知っているかのように。
 奇妙である。が、クラウスの心はそれよりも安心感の方が強くなっていた。
 その安心感は信頼に変わりつつある。
 そして、その信頼に応えられるほどに、アランの神秘は上手く機能していた。
 それはアランの心に自信を生みつつあった。
 しかしアランは気付いていなかった。
 アランはまだ理解していない。自身の神秘が有する弱点を。
 そして今、その弱点を突こうとしている男がいた。
 その者はアラン達の背後、やや遠くにいた。
 男は遮蔽物に身を隠しながら、アラン達の様子をうかがい、そして追跡していた。
 その男はフレディ。サイラスの命令でその場にいた。
 フレディの目的はアランではない。リリィである。しかし仕事柄、フレディはアランの動きに注目していた。

(……上手く移動してるな。しかし妙な動きだな。前方の確認をまったくやってねえ。見なくても分かってるのか? それともただ運がいいだけ?)

 フレディの心にはクラウスとリリィが抱いたものと同じ疑問が湧き上がっていたが、それはすぐに沈んだ。

(……まあ、今はどうでもいいか。とにかく、その調子なら脱出出来るだろう。……でも、それじゃあ困るんだよ)

 そんな事を考えながらフレディは弓を構えた。
 狙いはリリィ。
 アランは気が付いていない。フレディの存在は感知している。しかし、リリィが弓で狙われていることには気が付いていない。
 これには複数の原因がある。
 まず第一に、フレディが敵意を抱いていないこと。
 そして殺意も無い。フレディは激しい攻撃意識を抱いていない。今のフレディは平常心なのだ。
 ゆえにアランは警戒心を抱けない。
 そしてもう一つの原因はアランが集団の中にいること。
 うごめく虫の群れを想像してみて欲しい。集団がどこに向かおうとしているか、などの全体の大まかな動向は把握出来るだろう。しかし、虫一匹一匹の動きを全て正確に把握することは非常に困難だ。瞬間記憶と凄まじい集中力、さらにそれらを処理する計算能力が無ければ不可能に近いだろう。 
 今のアランの状況はそれである。近くにいる敵に対しては動きだけでなく感情の向きも把握しているが、遠くの敵については存在を認識しているだけだ。
 それでも、フレディの攻撃が光弾であったならば、魔力が目立つものであったならば反応出来たかもしれない。しかしフレディは無能力者。今から放つ攻撃はただの矢なのだ。
 そしてなにより、これらの問題が顕在化したのはアランの脳の情報処理能力が変わっていないせいである。
 アランの神秘自体は強化された。感情をはっきりと感知出来るようになっただけで無く、範囲も広がった。
 しかしそれが害に繋がっている。脳の処理能力が追いついていないのだ。ゆえにアランの『台本』は弱くなっている。リックと戦った時のような、瞬時に数手先まで読むなんてことは今のアランには出来ない。時間を要するようになってしまった。『台本』が以前のように機能していればフレディの攻撃も既に読めている。
 そして神秘を管理しているのが理性であるという点も負荷を大きくする要因の一つになっている。どうしても思考という処理を挟んでしまうのだ。
 今のアランは集団に飛び込んで剣を振るうよりも、遠くから状況を眺めながら、時間をかけて考え、そして指示を下す、そんな役割のほうが明らかに向いている。いわゆる司令官だ。政治家も良い。感情を読めるということは、駆け引きや民の心情を汲む事に長けているということだからだ。

 それをアランは痛感することになる。この収容所で。しかも一度では無い。
 そしてその一度目が今まさに訪れようとしていた。

 フレディがリリィのある箇所に狙いを絞る。
 直後、アランは足を止めた。
 悪寒が走ったからだ。
 しかし『台本』はまだ開かない。
 その時間をフレディが待ってくれることはありえない。
 アランが足を止めたことでリリィも立ち止まったからだ。撃ち易くなった。
 当然、フレディがこの機を逃すことはありえない。
 フレディは羽をつまむ指の力を緩め、矢を放った。

「!」

 瞬間、アランの『台本』はようやく開いた。
 同時に絶望も抱いた。
 間に合わないことが分かったからだ。
 アランに出来たことはリリィの方を向くことだけであった。
 そして、リリィの視線とアランの開かなくなった瞼が交わった瞬間、

「あぅっ!」

 リリィは悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
 リリィの両手が傷を押さえるために下にさがる。
 その場所は、矢が突き刺さった箇所は足首の少し上。
 アランはすぐさまリリィの傍に駆け寄り、手当てにかかった。
 矢を抜き、布で止血をする。
 その最中に、アランは気がついた。

(……腱を断たれている)

 これでは速く走れない。
 そして気付いたことはもう一つあった。

(この矢はリリィの足首を狙って放たれた。……なぜだ? なんで足首なんだ?)

 それが意味する事は一つしかない。殺すつもりは無く、足を止めることが目的であったということ。
 しかし奇妙なのは狙われたのがリリィであること。撃たれたのが自分であったならば、納得出来る理由が思いつくのだが。
 その理由を探るべく、アランは射手であるフレディの方に顔を向けた。

(おっと!)

 瞬間、フレディは遮蔽物に身を隠した。
 アランは失明しているのだから見られる心配をする必要は無いのだが、フレディは反射的にそうしていた。
 そして、アランは隠れるフレディの感情を調べた。

(……この矢を撃った者の意識は、やはりリリィの方に強く向けられている。しかし敵意は感じられない。むしろ穏やかだ)

 フレディが落ち着いている理由は単純であった。矢が当たったことに安堵しているのだ。
 フレディはサイラスから「最悪死んでいても構わないが、出来れば生かしたままリリィをラルフに会わせてくれ」と頼まれていた。
 これで大将の希望が叶う可能性が高くなった。後は自分の安全を確保しながらしばらく様子を見るだけ――そんなことを考えながら、フレディはその場から離れていった。

   ◆◆◆

 その後、事はフレディが想像した通りになった。
 アラン達の足は門の近くで止まってしまった。
 この門は収容所唯一の出入り口である。これを通る以外の脱出方法は壁を乗り越えるか破るしかないのだが、はしごのようなものは収容所内に存在せず、そして壁を破る力もアラン達には無い。
 そしてその門前には新たな部隊が陣取り、道を塞いでいた。
 それはサイラスとラルフ達。
 アラン達は間に合わなかったのだ。アランはこの部隊が収容所に辿り着く前に脱出する算段であった。しかしリリィの足が遅くなったことで、その予定が狂ってしまったのだ。
 アランは物陰に身を隠しながら、様子をうかがっていた。

(あの部隊を力ずくで突破することは不可能に近い)

 収容所内に散開してくれればその好機が訪れるかもしれない、アランはそんな事を期待していたが、門の前に陣取る部隊は動く気配を全く見せなかった。
 そしてアランはある事に気がついた。

(あの男……確かサイラスといったか? なぜ、あいつは空を見ている?)

 指揮官らしき男、サイラスの意識の向きが妙なのだ。
 サイラスの意識は上へ向いている。
 この状況で鳥を眺めているとは思えない。
 一体何を――アランがそう思った瞬間、事は始まった。

「!」

 直後、アランは振り返った。
 感じ取ったのだ。後方にいる男が、リリィを撃ったあの男が動き出した事を。
 男は、フレディは再び矢を構え、そして放った。
 その方向は、

(上?!)

 であった。
 これが何を意味するのか、アランはすぐに察した。
 空を眺めていたサイラスの意識がその矢の存在を捉える。
 その矢は、アラン達が隠れている場所のすぐ傍に落ちた。
 サイラスの意識が隠れているアランの方に向く。
 そしてサイラスは口を開いた。

「そこに敵が隠れているぞ!」

 サイラスは「敵」と表現した。隠れている者がこの収容所に囚われているただの無能力者かもしれないのに。
 その声から刹那遅れて、兵士達の意識が一斉にアラン達の方に向く。
 ラルフの意識も同様だ。
 前列にいる兵士達が手を前にかざし、攻撃態勢を取る。
「撃て」という命令が発せられればすぐに実行できる構えである。
 しかし、サイラスはその命令をすぐには出さなかった。
 サイラスは横目にラルフの様子をうかがっていた。
 そして、ラルフはサイラスが期待した通りに動いた。
 サイラスの傍を離れ、前列に歩み出たのだ。
 そこまで待ってから、サイラスはようやく声を上げた。

「撃て!」

 兵士達の手が、ラルフの手が眩く発光する。
 そしてそれらの手から光弾が放たれるよりも一瞬早く、壁の向こうにいるアランが動いた。

「危ない!」

 アランはそう叫びながらリリィとクラウスを突き飛ばし、自身は逆の方向に飛んだ。
 直後、兵士達の手から光弾が放たれる。
 アランは当然それらを察知していたが、アランの意識はその中のある一つにのみ向けられていた。
 それはラルフが放った光弾。
 そのひときわ大きい光弾が壁に激突した瞬間、

「っ!」

 アラン達の耳を轟音が襲った。
 轟音は二つ。
 一つはアラン達が隠れている壁を貫いたものだ。
 もう一つはさらに奥にある壁に穴を空けたことによるもの。
 ラルフが放った光弾は二枚の石壁を抜いたのだ。

「……」

 その尋常では無い威力に、リリィは恐怖を通り越したような表情を浮かべた。

「……」

 そしてそれは敵兵達も同じだったらしく、場は奇妙な静寂に包まれた。
 この静寂を破ったのはアラン。
 アランはクラウスに向かって声を上げた。

「クラウスはここに残れ!」

 その言葉がリリィを守れという命令であることをクラウスは瞬時に察したが、異を唱えずにはいられなかったため口を開いた。

「しかしアラン様!」

 無謀すぎる、という意を含めた当然の反論。
 これにアランは即座に答えた。

「俺では防御魔法を張れない!」

 リリィの盾になれるのはお前しかいない、という意を込めた言葉。

「……」

 その答えにクラウスは何も返せなかった。
 そしてアランはクラウスに背を向け、無謀の場に飛び出した。
 敵兵達の意識が出てきたアランに集まる。
 対するアランは二人の意識にだけ注目した。
 それはラルフとサイラス。
 ラルフはアランの方を見ている。
 一方、サイラスはラルフが空けた穴の方を見ていた。
 サイラスは今のラルフの攻撃でリリィがどうなったのかを気にしていた。

(ここからではリリィの姿が見えんな。ラルフも気付いていないようだ)

 サイラスはあることを期待していた。

(ラルフの攻撃でリリィが死んでくれれば後が楽になりそうだな。重傷でも悪くない。ラルフの感情が乱れるならばどんな結果でも歓迎だ)

 そんなことを考えた後、サイラスはアランの方に視線を移した。

(アランは捕虜になったと聞いていたが、クラウスもそこにいるのか。奇妙な縁だな、まったく)

 再会の場が同じ師から剣を学んだ収容所であることが、その奇妙さを増していた。
 そして兵士達とラルフ、それとサイラスに見つめられながら、アランは構えた。
 それが合図になったかのように、兵士達が光弾を放ち始める。
 アランという小さな点に向かって次々と伸びる大量の光の線。
 アランは動かない。ただ一つ変わったことは、刃が発光を始めたことだけ。
 アランはその光る刀の先端を、目前に迫る光弾の方に向けた。
 そして、刀の切っ先が光弾に触れる寸前、アランは刀を少し下げた。
 結果、光弾は刀の先端に突き刺さることなく、斜めになった刃の上に乗った。
 その光弾の重みを感じたと同時に手首を捻り、刀の先端を上に向ける。
 下から押し上げたことで光弾の軌道が上向き、飛び立つように刃の上から離れる。
 そして、アランはその反動を利用して体を僅かに屈めた。
 次の瞬間、直前まで頭があった位置を別の光弾が通り過ぎていく。
 下がった姿勢を戻しながら、次の光弾を受け、流す。
 その際、先と同じように反動を利用して体の位置をずらし、別の光弾を避ける。
 一連の防御を三度繰り返した頃には、アランに迫っていた光弾は全て後ろに通り過ぎていた。

「……」

 場に再びの静寂が訪れる。
 兵士達はまたも驚いていた。
 それも当然、先の防御にアランが要した時間はたったの二秒である。
 傍目には剣を前に突き出していただけにしか見えない。
 三つの光弾の軌道が変わったことを認識出来たものは僅か。ほとんどの者は光弾がアランをすり抜けたように見えている。

「……」

 先ほどは攻撃に参加しなかったラルフも同じ表情をしている。
 そんな静けさの中、サイラスだけは違う表情を浮かべていた。

(クラウスが教えたのだろうな。師の型に似ている……憎らしいぐらいに)

 サイラスは懐かしさを感じていた。
 刃を盾とする防御は師も使っていた。師は魔法を使えなかったので、アランのような「流す」防御では無く、「切り払う」ことのほうが多かったが。
 だからか、師は厚みのある剣を、強度と重量のある剣を愛用していた。
 思い返せば、師はこの収容所でも特別な存在だった。
 ここの乱暴な兵士達でさえも師に対しては距離を取っていた。
 なぜか? 強かったからだ。
 今でも覚えている。この収容所で行われた「試験」で見せた師の動きを。
 圧倒的だった。師は試験管を瞬く間に切り伏せた。
 殺しはしなかった。後の事を考えたのだろう。
 そして私とクラウスも同じ試験に参加し、そして勝った。
 だが、私とクラウスの勝利は師のような鮮やかなものでは無かった。特に、クラウスとは違って光魔法が使えない私の方は、勝てたのが奇跡と思えるような内容だった。
 しかし―――それなのに、師は収容所から出ることを許されなかった。私とクラウスは出られたのにだ。
 当時の試合の審判員であり、私を拾った雇い主でもあるヨハンに、そのことを尋ねたことがある。
 直後、ヨハンの口から出た内容は、まだ若かった当時の私には衝撃的だった。
 ヨハンの答えはこうだ。

「彼は出られんよ。魔法能力に目覚めない限りな。……少し考えれば分かるだろう。『魔法使いよりも強い無能力者が存在する』、この事実は教会にとって都合が悪いことだと」

 これを聞いた時、その場で「ふざけるな」と言いそうになったことを覚えている。教会にとって重要なのは「魔法が使えるかどうか」だけで、「強いか弱いか」では無かったのだ。おかしな話だ。収容所内では強弱の関係をふりかざして地獄の所業が行われているというのに。
 その後、私は反乱を引き起こし、師はその総大将を務めることになった。
 そして師はヨハンと戦い、閃光魔法に貫かれた。
 あの戦いを思い出すたびに私はやり場の無い感情を抱く。

(ああ武の神よ、なぜ、なぜ我が師に勝利を与えてくれなかったのか)

 問いながら、サイラスの理性はその答えを導き出していた。

(……神に尋ねるまでも無いことだったな。分かっている。あの戦いは師のほうが分が悪かった。師の動きは速かったが、ヨハンの目と閃光魔法から逃れられるほどでは無かった。そして防ぐ手段もあの時の師には無かった)

 戦いというものは現実を見せ付けてくる。残酷なほどに。
 戦う場所が悪かったせいもある。遮蔽物の多い所で戦うべきだった。ヨハンと対峙した時点で相当の傷を負っていたのもあるだろう。
「こうだったら勝っていたかもしれない」、そんな事を考えても過去が変わるわけでは無い。……が、その思考の積み重ねは未来に生かすことが出来る。

(……だから私は反省し、準備してきたのだ)

 かつて抱いた決意とその過程を振り返ったサイラスは、意識を目の前の戦いに戻した。
 サイラスが思い出に浸っている間に、兵士達は二度攻撃を行っていた。ラルフも数発撃っている。
 しかし結果は同じ。一発も当たっていない。
 アランはラルフが放った強力な光弾を体捌きで避けながら、兵士達の攻撃を受け流していた。
 アランは無傷のまま先とほぼ同じ位置、そして姿勢で剣を構えている。
 サイラスはそれを眺めた。
 その構えに隙が無いか、作れないかを探るためだ。
 そして、サイラスはアランが目を負傷していることにようやく気が付いた。

(目がちゃんと開かなくなっているようだが……)

 あまりにも見事な防御をするので気が付けなかった。

(薄目でよくそんな動きが出来るものだ)

 サイラスはアランの体捌きを素直に賞賛したが、同時に「これは使える」と判断していた。

(あの様子だと視界がかなり狭くなっているはず)

 サイラスは自身が知る「常識」に従って判断を下していた。
 サイラスはアランが「薄目」で周りを見ていると思っている。
 言うまでも無いがこれは間違いである。しかし、アランが持つ『神秘』のことを知らなければ、こう考えるのが普通なのだ。
 そしてサイラスはその間違いを基本にアランをどう攻めるかを考え、声に出した。

「奴は目を負傷している! 広く展開して、その隙を突け!」

 指示を聞いた兵士達は各々の間隔を広げるように動いた。
 部隊が左右へ伸び、アランを取り囲むように半円の形に変化する。
 中央にいるラルフは動かない。
 兵士の間隔が広がったためか、ラルフの周囲は少し手薄になった。
 そしてそれはラルフのやや後方に控えているサイラスの周りも同様であった。
 対するアランはやはり動かない。
 アランは考えがあって静止しているわけでは無かった。
 アランは『台本』が開くのを待っていた。
 しかし、この場に飛び出してから『台本』はまだ一度も開いていない。
 アランは自身の神秘が弱くなっていることに、『台本』が開きにくくなっていることに気付き始めていた。
『台本』には頼れない、そう思うようになったアランは考えた。

(このまま守っているだけではいつか殺されるだけだ。何とかして攻めないと!)

 飛び道具で反撃しながら勝機を待つべきか、そんな事を考えた瞬間、アランはある事に気付いた。

(……兵士の間隔が広がったということは、隊列の中に切り込みやすくなったということ)

 この思いつきは、今の状態を維持するよりかはいくらかマシに感じられた。

(問題はどこから攻めるかだが……)

 目標は当然大将格。後ろに控えているサイラスだ。
 しかし、最短距離を進むには、目の前にいる強力な魔法使いを突破しなければならない。
 勝利のイメージはある。リックが使っていたあの技で一気に相手の背後に回りこみ、切り伏せるという手だ。
 しかしこの手は、この技は出来るだけ使いたくない。
 なぜなら、

(もし失敗すれば、またあの時のように動けなくなるだろうな)

 確実に成功させる自信が無いからだ。
 初めて使ったあの時は失敗し、さらなる窮地に陥った。そして今回は成功する、なんていう保証も無い。
 だからアランは安全策を取ることにした。

(……やはり正面から突っ込むのは危険か? ここは側面から切り込んで、敵兵士達を盾にしつつ、サイラスに近づくべきか)

 アランがそこまで考えたところで、隊列の変更が終わった兵士達が攻撃を再開した。
 アランに向かって前から、そして側面から多量の光弾が迫る。
 しかし今のアランにとって多面攻撃事態はそれほど脅威では無い。
 そして兵士の数そのものは変わっていないので、間隔が広がったぶん単純に光弾の密度が下がっている。ゆえに先よりも避けやすくなっている。
 迫る攻撃をひらりひらりとかわし、時に流しながら、アランはある一つの光弾に意識を集中させた。
 それは真左から飛んで来ている一つの光弾。
 これを利用しようと考えたアランは、その光弾が来ている方向とは逆の、右のほうへ体の向きを変えた。
 同時に姿勢を低くする。
 後ろから飛んできている、利用しようと考えている光弾を、ある箇所で受け止めるためだ。
 前から飛んでくる光弾を適当に捌きながらその時を待つ。
 そして、ひりひりとした感覚が自身の首筋に走った瞬間、アランは振り返りながら刀を握る左手を勢いよく後ろに引いた。
 直後、

「!」

 兵士達の顔つきが変わった。
 兵士の顔には期待感の色が滲みつつある。
 なぜなら、兵士達の目には光弾がアランの後頭部か側頭部の辺りに炸裂したように見えたからだ。
 光弾を受けたアランは前へ勢い良く倒れつつある。
 兵士達はその傾いた体に狙いを定めた。
 地面に寝そべったところに追撃を叩き込むためだ。
 みな好機だと思っている。これで決着だと。
 しかし、そう思っていない者が、アランがどこで光弾を受けたのかを正確に視認出来ていたものが一人だけいた。
 それはサイラス。
 剣術で鍛えたサイラスの目は捉えていた。アランが柄の底で光弾を受け止めたことを。
 なぜそんな回りくどい防御を? という当然の疑問がサイラスの頭の中に浮かび上がる。
 サイラスの意識はすぐにその答えを導き出した。
 が、それを声に上げることは間に合わなかった。
 サイラスが口を開くよりも早く、アランは狙いを実行した。
 アランは体が地に着く寸前、兵士達の手が再び眩く輝いたのと同時に、右手を下に振り下ろしながら両足に力を込めた。
 だん、という音とともに右手が地面に叩きつけられ、アランの体の落下が止まる。
 そしてアランは足に込めた力を解放し、勢い良く前へ飛び出した。

「!?」

 直後、アランの前方にいる兵士達の顔が驚きの色に変わった。
 倒れると思っていた相手がそうならず、低姿勢の突進を仕掛けてきたからだ。
 アランの狙いはこれ、兵士達の不意を突くことであった。
 慌てて兵士達が迎撃の光弾を放つ。
 しかしその数はまばらであった。
 一部の兵士は光弾では無く防御魔法を展開していた。単純に反応出来ていない者もいる。
 アランはその半端な迎撃を減速せずに回避し、一気に距離を詰めた。
 敵兵はもう目の前。もう一度踏み込めば手が届く距離だ。
 正面の敵は右手で防御魔法を展開したまま固まっている。
 アランは鋭く踏み込みながら、その右手に向かって刀を一閃した。

「っ!」

 直後、敵兵は声にならない悲鳴を上げながら後ずさった。
 アランが放った光る刃は、まるで紙を切り裂くが如く防御魔法を切り裂いていた。
 そしてその壁を展開していた兵士の右手は地面の上を転がっている。
 兵士は右手首に出来た赤い蛇口を左手で押さえようとしたが、それよりも早くアランが真横を駆け抜けながら胴を一閃した。
 傷口を押さえようとした兵士の動きが硬直する。
 刹那の後、兵士はわき腹から血を噴出しながら崩れ落ち始めた。
 既にアランの姿は傍に無い。駆け抜けた勢いのまま、次の目標に向かって踏み込んでいる。
 崩れた兵士の膝が地に着いたのとほぼ同時にアランが次の兵士に向かって刀を一閃。
 その兵士も防御魔法でアランの刀を受けたが結果は変わらず。
 ここでアランは数秒ほど足を止めた。
 感知に集中するためだ。
 サイラスまでの距離と、そこに至るまでの障害の数と位置を把握する。
 そしてそれを突破する手順を頭の中で描きながら、アランは再び地を蹴った。
 動き出したアランに周辺の兵士達が光弾を放つ。
 しかし当たらない。掠りもしない。
 敵兵士達が確保出来る射線から、来るであろう反撃の数と方向も予測していたからだ。
 アランは弾幕をくぐり抜けながら次の目標に接近し、刀を振るった。

「ぁがっ!」

 悲鳴が上がった時には既にアランの姿は兵士の前に無い。

「うっ!」

 そして数秒もたたぬうちに近くで次の悲鳴が上がる。

「一体なに……ぐぁ!」

 移動と攻撃、この二つの動作をアランは可能な限り速く、連続させた。
 その動きは鋭く、滑らか。
 予定通りに事が運んでいるからだ。筋書き通りに移動し、そして刀を振るうだけの作業のようなものだ。
 しかし直後、事態はアランが予想していなかった方向に動いた。

「隊列を戻せ! 密集しろ!」

 場に響いたのはサイラスの声。
 サイラスは気付いたのだ。自分の指示が間違っていたことに。
 周囲の兵士達がサイラスの傍へ駆け寄り始める。
 しかし一人だけ動いていない者がいた。
 その者はラルフ。
 それを見たサイラスはラルフの背中へ向かって地を蹴った。
 サイラスはこの状況は危険であると認識していた。
「もしかしたら」ラルフがアランに倒されることがあるかもしれないと、サイラスは本気で思っていた。
 アランが「技」を持っているからだ。純粋な身体能力で劣る弱者が強者に対して「もしかしたら」の結果を生み出すもの、「技」とはそういうものであることをサイラスは身をもって知っているからだ。
 そしてラルフの背後についたサイラスはいつでも電撃魔法を放てるように、右手に魔力を込めた。
 そのサイラスを庇うように左右と背後に兵士がつき、さらにその兵士達を守るために別の兵達が駆け寄る。
 そうしてサイラスの周囲の兵士の密度はみるみるうちに高くなっていった。
 一方、兵士達が激しく動き始めたからか、アランの動きは少し鈍くなった。
 しかしサイラスとの距離は確実に詰まってきている。
 ラルフは迫るアランに向かって右手を前にかざした。
 だがその手から光弾が放たれる気配は無い。
 動いている味方のせいで撃てないのだ。そしてアランは明らかに敵を盾にするように立ち回っている。
 このままだと隊形が元に戻る頃には目の前まで接近されるだろう。
 それは非常にマズい。だからサイラスは声を上げた。

「最前列の大盾兵、突撃しろ!」

 直後、反応した十人の大盾兵達が鋭く地を蹴った。
 横一列の壁となってアランに迫る。
 これで圧殺出来るなどと思っていない。サイラスは時間稼ぎを期待していた。
 のだが、

「!」

 直後、サイラスは警戒心を強めた。
 アランが中央の大盾兵に向かって突撃し始めたからだ。
 いつぞやのように跳び越す気か? サイラスはそう思ったが、アランは違う動きを見せた。
 アランは姿勢を低くしながら、刀を腰だめに構えたのだ。
 刀の切っ先を前に突き出しながら固定するその構えに、サイラスの心は「まさか」という言葉を浮かべた。
 そしてアランはサイラスが想像した通りの攻撃を放ち、危惧した通りの結果をもたらした。
 アランが放った突進突きは、中央の大盾兵を盾ごと串刺しにした。
 すぐさま前蹴りを放ち、押し倒しながら刃を引き抜く。
 そして赤く染まった刀身を胸元に引き寄せながら腰を右に捻り、刃が兵士の体から自由になったと同時に振り返りながら水平に一閃。
 すれちがった左右の兵はこれに反応し、自身の大盾で受けたが、アランが放った光る刃は二枚の盾を後ろにある頭蓋ごと両断した。
 鼻から下だけ残った二つの体が赤い噴水となり、地に崩れ落ちる。
 直後、サイラスは再び声を上げた。

「大盾兵は左右に散開しろ!」

 時間稼ぎにもならないのならば、ラルフの射線を塞がないようにその場からすぐに離れろ、という意味を込めた命令。
 その声が場に響き渡った瞬間、なぜかアランはその場で足を止めた。
 なぜ? という言葉が湧き上がる前に、サイラスの目はその原因を突き止めた。
 いつの間にか、ラルフが構えを変えていたのだ。
 右拳を脇の下に引いた構え。
 左手は真っ直ぐに突き出されており、人差し指と親指の間にある空間でアランの姿を捉えている。
 この構えから放たれる攻撃をアランはよく知っていた。

(この男もあれを、閃光を放つのか!?)

 その魔法の凄まじさを恐怖と共に覚えていた。だから足を止めた。止めてしまったのだ。
 そしてアランはすぐに気付いた。立ち止まっていてはいけないと。狙いをつけられやすくなるだけだと。
 ひりひりとした攻撃意識が胸に、心臓に向けられている。
 すぐさま、アランは「あの技」を使って真左に跳んだ。

「っ!」

 アランは瞬時に失敗したことを悟った。
 両膝に激痛が走る。
 それだけでは無い。地の蹴り方がおかしくなってしまったため、少し高く浮いてしまった。
 そして、ひりひりとした感覚は振り切れていない、敵はまだ自分の姿を捉えている。
 狙いが反れたのか、攻撃意識は胸から顔面に移動している。
 アランはもう一度地を蹴ろうと、足を伸ばした。
 しかし出来なかった。高く浮きすぎている。
 そして、アランの両足が地に着くよりも早く、ラルフの右拳が前に突き出された。
 拳骨が眩く輝く。
 それとほぼ同時に、アランは首を勢いよく左へ傾けた。

「!」

 右こめかみの上辺りに鋭い痛みが走り、首を痛めるほどの衝撃が伝わる。
 アランは満足な受身を取ることが出来ないまま、地の上に倒れた。
 朦朧とする意識を理性でねじ伏せながら立ち上がる。
 が、その動きは滑稽なものであった。
 膝ががくがくと震えているのだ。
「あの技」を使ったことによるものでは無い。アランは脳震盪を起こしていた。
 平衡感覚が無く、耳鳴りがする。
 さらに感知も鈍くなっている。
 誰がどこにいるかがはっきりと分からない。ぼやけている。
 そんな中、アランの背中を悪寒が走った。
 誰かが次の攻撃の準備を、手に魔力を込めたことが分かった。
 しかし方向が分からない。数もだ。

(マズい! どこから、どれだけ攻撃が来る!?)

 この時ようやく、アランは目を失ったことによる恐怖を覚えた。
 アランの背中を走る悪寒がおぞましいと呼べるほどに強まる。
 撃たれる、その言葉が心に浮かんだ瞬間、アランは先とは逆の方向に向かって地を蹴った。
 攻撃が来る方向が判別出来たわけでは無い。これは「動かなければ」という意識から生まれた当てずっぽうの回避行動。
 その動きはみっともなかった。足裏は地面をちゃんと掴めておらず、滑っていた。
 足に力がちゃんと入らないせいだ。
 しかも遅い。
 直後、ラルフと兵士達はその無様な標的に向かって一斉に光弾を放った。

「っっっ!!」

 幾つかがアランの体に炸裂したが、アランは悲鳴を上げなかった。
 あるものに集中していたからだ。
 それは大きなもの。ラルフが放った光弾だ。
 真っ直ぐこっちに飛んできている。が、距離と高さがわからない。
 だから、アランはその場に伏せようとした。
 瞬間、

「!? うぉぁっ?!」

 アランは驚きなのか悲鳴なのかわからぬ声を上げた。
 ラルフの光弾はアランの左肩を掠めた。
 しかし、それだけのことでアランの体は吹き飛ばされたのだ。
 地の上を転がるアラン。
 そこへさらなる追撃が放たれる。
 その数と方向を、アランはある程度感知することが出来た。
 立ち上がるのは間に合わなかった。だからアランはすかさず横に寝転がった。
 瞬間、直前までアランが仰向けに寝ていた場所に次々と着弾。
 その炸裂音を耳にしながら、アランは手と足に力を込め、跳ね起きた。
 そこへラルフが放った追撃が迫る。
 懸命に身を反らす。
 だが間に合わない。
 アランは反射的に刀を構え、切っ先を迫る大きな光弾に向けた。
 直後、

「! うぁぁっ!」

 アランは悲鳴を上げた。
 アランの体が吹き飛び、背中から地に落ちる。
 その衝撃に咳き込みながら、アランはラルフの光弾の威力がかつて感じたことが無いものであることを認識した。

(重過ぎる! 受け流せるものじゃ無い!)

 光る刃の上に乗せたが、一方的に押し返された。
 そして運がよかった。受け方が悪ければ腕ごともっていかれていた。
 立ち上がりながら構え、さらなる追撃をいなす。
 光弾を受け流しながら、アランは膝の震えが小さくなっていることに気付いた。
 そして同時に、前方で大きな魔力が収束するのを感じた。
 あの男が次の光弾を放とうとしているのが分かる。正確な距離と方向もだ。
 感知も回復しつつあるのだろう。それを感じながら、アランはラルフの攻撃に合わせて地を蹴った。
 アランの体が右へ流れ、真横を大きな光弾が通り抜けていく。
 鋭さは無いが先よりも幾分かしっかりとした動き。
 その足取りの力強さを感じたアランは、意識をラルフの方に向けた。

(……あれを使って仕掛けるしかない! これ以上傷が増える前に!)

 意を決し、地を蹴る。
 直後、アランの影が鋭く前へ伸びた。
 あまりの速さに霞んで見える。
 初の成功であった。

「!」

 その人外の踏み込み速度に、兵士達が目を見開く。
 直後、反応出来た数名の兵士とラルフが迎撃の光弾を放った。
 しかし今のアランと比べると光弾の速度のほうが遅く見える。
 アランはその迎撃を避けるついでに、進路を少し右に変えた。
 狙いはラルフの側面を突くこと。
 しかしラルフの左右は兵士達で固められている。
 アランは兵士を切り崩しながら強引に踏み込む考えであった。
 刃に魔力を流し込みながら、さらに地を蹴って加速。
 正面にいる兵士が防御魔法を展開しようと、かざした手を発光させる。
 が、その手から光の膜が広がるよりも速く、アランが一閃。
 兵士の右手が宙に舞い、その顔が苦痛に歪み始める。
 直後、アランは間を置かずにさらに踏み込み、肩を前へ突き出した。
 あの技による加速を乗せた体当たりをぶちかます。

「ぐぅえっ!」

 嗚咽を漏らしながら兵士が後ろへ吹き飛ぶ。
 それに後続の者達が巻き込まれ、倒れた。
 アランはその巻き込みによって出来た空間へ踏み込みながら、左方にいるラルフへ意識を向けた。
 あと一歩踏み込めば剣が届く距離。
 そしてラルフはアランの回りこみについてこれていない。ラルフはアランの方に向き直れていない。
 いける、アランはそう思った。
 しかし直後、

(!?)

 アランの背に悪寒が走った。

(? なんだ?!)

 その悪寒の原因が分からなかったアランは、ラルフに集中させていた意識を周辺に向けた。
 すると、あるものに気付いた。
 自分の足元に糸のようなものがあるのだ。
 魔力で出来ており、水中を漂う藻のようにゆらめいている。
 それがサイラスの手から伸びていることに気付いたアランは、即座に右足を引いた。
 が、間に合わなかった。
 這うように忍び寄っていた魔力の糸がアランの右足首に「するり」と伸びる。
 瞬間、

「っ!?」

 アランの右足に電流が走った。
 これはアランにとって意外であった。
 電撃魔法は瞬間着弾する高速の攻撃魔法だと思っていた。
 そうでは無かった。不可視の糸に触れることで発動する代物だったのだ。
 激痛と共に右足が膠着する。
 直後、さらに大きな悪寒が背中に走った。

「!」

 その原因は考えなくても分かった。
 ラルフがこちらに向き直り、右手を発光させているのだ。
 アランは回避行動を取ろうと、右足に力を込めた。
 しかし動かない。痺れている。
 目の前で輝きを強めるラルフの右手。
 アランは焦りの色を顔に滲ませながら心の中で叫んだ。

(動け!)

 あの技を使って右足に活を入れる。
 直後、地を蹴る音と共にアランの影が左に流れ始めた。

「「!」」

 瞬間、アランとラルフ、二人の顔に驚きが浮かんだ。
 ラルフの驚きは先に動かれたことによるもの。
 対するアランの驚きは、ラルフの攻撃が予想していたものとは違っていたことによるもの。
 ラルフの右手から生まれたものは光の膜。
 ラルフはアランに防御魔法を叩き付けようと、踏み込みながら展開したのだ。
 盾の一族が使うものと比べても、遜色の無い規模と輝き。
 その光の壁は跳び下がるアランの胸部に炸裂した。

「げほっっ!」

 胸骨のへし折れる音がアランの脳内に響き、その身が吹き飛ぶ。
 アランは受身を取ることも出来ないまま背中から落ち、地面の上を派手に滑った。

「……がはっ! ごほっ!」

 咳き込みながら上半身を起こす。

「っ!」

 しかし直後、アランの上半身は再び地面に叩きつけられた。
 追撃を受けたからでは無い。立ち上がるための支えにしていた右手が滑ったのだ。
 ぬるぬるとしたものが右手に纏わりついている。
 なんだこれは? アランの脳裏に浮かんだその疑問の答えはすぐに分かった。
 血だ。自分の。右腕が血に塗れているのだ。
 先の攻撃によるものでは無い。
 出血箇所は右のこめかみ。
 ラルフの閃光魔法を受けた時に出来た傷。そこから流れ出た血が右腕に伝っているのだ。
 今更気付いたのもおかしいが、軽い傷では無い。かなりの出血量だ。このままだと自分の右半身は赤く染まるだろう。
 そこまで考えた瞬間、アランはもう一つあることに気付いた。

(同じだ。あの時と)

 傷をつけられた場所が同じなのだ。リックと初めて戦った時に負った傷に似ているのだ。
 あの時、自分は初めて光の剣を成功させ、そして危機を乗り切った。
 今回も窮地に陥っている。
 しかし今回はあの時のように乗り切れるのだろうか?
 そんな事を考えながら再び上半身を起こす。
 瞬間、アランの背に再び悪寒が走った。

(! 追撃が来る!)

 立ち上がるのは間に合わないと判断したアランは即座に横転。
 直後、大量の光弾がアランが寝ていた場所に着弾。
 土煙が舞い上がり、転がっていたアランの姿が包まれる。
 そのように見えた直後、アランは地の上を滑りながら、土煙の中から飛び出してきた。
 自らそうしたわけではない。敵が放った光弾によって弾き出されたのだ。
 そこへさらなる追撃。
 再びアランが転がり、そしてまた土煙が舞い上がる。
 しかし直後、土煙は掻き消えた。
 ラルフが放った光弾のせいである。着弾時に生じた余波が煙を吹き飛ばしたのだ。
 視界が開けたと同時に、兵士達が再び光弾を放つ。
 それによって生じた土煙をラルフが再び払う。
 この視界の確保と攻撃という流れは延々と繰り返された。
 アランの周囲を大量の光弾が飛び交う。
 耳が機能しなくなるほどの着弾音が場に響いている。
 アランはこの苛烈な攻撃を跳び、転がり、懸命に避けていた。
 しかし徐々に被弾は積み重なってきている。
 致命傷はなんとか避けている。ラルフの光弾に対しての集中力は切らしていない。
 攻撃する兵士達とラルフの顔に緊張は無い。
 時間の問題だと思っている。
 だがその中に一人、サイラスだけが違う表情を浮かべていた。
 サイラスは神妙な面持ちをしていた。

(……妙に粘るな)

 アランを追い詰めている。時間の問題のように見える。普通は。
 しかし何故かそうは思えないのだ。
 際どいが、アランは回避し続けている。
 そしてその回避が少しずつ上手くなっているように見えるのだ。

(……いや、気のせいでは無い。不恰好だが、アランの回避は良くなってきている)

 陸に揚げられた魚のように地の上を倒れたり跳ねたりしているが、それでもちゃんと避けている。

(……)

 サイラスは感付き始めていた。
 それが何かは分かっていない。
 対し、アランは「それ」に対して叫びを上げていた。

(……糞、糞っ!)

 激しい攻撃を受けながらアランは毒を吐いていた。

(……あれが、『台本』さえあれば!)

『台本』が強く機能していればこんなことにはならなかった。サイラスの電撃魔法も見切っていただろう。

(今の自分にはあれが必要なんだ!)

 直後、立ち上がりかけていたところに被弾。

「!」

 姿勢が大きく崩れる。
 そこへ迫る複数の光弾。

(あ、これはマズ――)

 避けられない。
 アランに出来た抵抗は歯を食いしばることだけだった。

「っっ!」

 直後、アランの体に複数の痛みが走り、意識が白く染まった。
 再び崩れるアランの体勢。
 このままだと確実に倒れる、というような挙動。
 そこへさらに複数の光弾が迫っている。
 それを見たサイラスは表情を少し緩めた。
 これはさすがに決まったか? と感じたからだ。
 しかし、その言葉がサイラスの脳裏に浮かび始めた瞬間、

『右手側の――を利用して―――――つつ、左手側の光弾を――』

 アランの中で「それ」が開いた。
 白む意識の中、「それ」をおぼろげに感じ取ったアランの体が自然と動き始める。
 そこへ光弾が到着。

「!」

 直後、サイラスの顔に驚きが浮かんだ。
 アランが体勢を立て直したからだ。
 しかも普通ではないやり方だ。

(右腕で光弾をわざと受け、その反動で立った?!)

 しかも立ち上がりながら光弾を一つ斬り払っている。
 まぐれのように、偶然のように見える。普通は。
 当然ながらサイラスにはそう思えない。
 今の動きには「技」があるからだ。
 さらにそれだけでは無い「何か」も感じる。
 そして、直後のアランの動きはサイラスをさらに驚かせた。

「!?」

 さらに迫っていた複数の光弾を全て切り払ったのだ。
 先ほどまで追い詰められていた、みっともなくのたうち回っていた者とは思えない動き。
 しかも尋常な剣速では無い。瞬間に三撃だ。
 サイラスは驚きだけでなく、別の感情も同時に抱いていた。
 それは既視感。
 先の剣速が師と同等かそれ以上に見えたからだ。
 型が似ているだけだと思った。最初は。
 そして直後、サイラスの心に言葉が浮かんだ。
 まさか、「あの技」も使えるのか? という疑惑。
 期待感めいたものが込められたその眼差しを、サイラスはアランに向けた。
 対するアランはその感情を受け取らなかった。
 正確には『受け取れなかった』。

「……」

 アランの心は静かであった。
 今も絶え間なく攻撃を受けている。
 しかし何の脅威も感じない。淡々と処理している。
 先ほどまで感じていたひりひりとした感覚が無い。敵意を感じない。
 音も無い。
 本当に静かだ。

(……)

 そんな静かな世界の中、アランは先の出来事について考えていた。
 もう駄目かもしれないと思った瞬間、何かが起きた。
 そして気付けば、自分は立ち上がっていた。
 光弾をわざと受け、その反動で体を起こしながら別の光弾を切り払ったのだ。
 どうしてそんな事が出来たのかはすぐにわかった。『台本』が開いたのだ。
『台本』は今正常に機能している。
 気になるのは、どうして『台本』がまた開いてくれたのかということ。
 何が変わった?
 まず分かるのは音が聞こえなくなったこと。
 先の攻撃で耳がやられたのか?
 この音の無い世界が『台本』が開いたことに何か関係しているのか?
 そこまで考えたところでアランはあることに気付いた。

(……そういえば、)

 この感覚は初めてじゃない。
 リックと初めて戦ったあの時、光の剣を初めて成功させた時もこんな感じだった。

(……自分の身に一体何が起きている?)

 答えを求めるアラン。

 その答えを今のアランが見出すことは難しいが、耳が敵の攻撃によって一時的に機能不全に陥ったのでは、という考えは正解である。
 そしてその瞬間、アランの本能はあるものを切り替えていた。
 それは処理能力の割り当ての配分。
 アランの本能は聴覚機能と感情察知機能を一時的に封印し、それによって余った脳の処理能力を別の所に回したのだ。
 それは魔力感知と台本。

 アランは戦いの中で見出したのだ。弱点を克服する手段を。「能力の切り替え」という技術を。

 そして、アランはもう一つある事に気がついていた。
 追撃の光弾を切り払うために「あの技」を自然に使ったことだ。しかも連続して。
 まぐれでは無い。そう思える。今の自分にはこの技を自在に扱う自信が芽生えている。
 感知が鋭くなっているから、それだけが理由では無い。「全てが遅く感じるから」だ。
 まるで時間の流れが遅くなったかのような感覚。
 さらに重要なのは「三度」連続で使えたことだ。

(……)

 アランは自身の魔力制御技術が普段とは比べ物にならないほどに高まっていることを感じながら構えを整えた。
 そして今、あの男が放った強力な光弾が目の前に迫っている。
 受け流すことは出来ない。
 一撃では切り払えない。
 あくまでも「一撃では」。
 では「三撃」ならば?
 避けるのは容易い。しかし、『台本』はそれが出来ると言っている。
 試したい。そう思ったアランは刀を握る手に力を込めた。
 続けて足に力を込める。
 待つまでも無い。むしろ踏み込みの速度を刃に乗せたほうが有利だ。
 そして、アランは体を前に出しながら肩と肘に対して「あの技」を使った。

「!?」

 直後、サイラスとラルフは目を見開いた。
 アランの剣から放たれた閃光が、ラルフの光弾の軌道を変えたからだ。
 ラルフは「流された」と思った。
 サイラスは違った。目を見開いた理由も違う。
 サイラスの目は捉えていた。アランが三本の閃光を放ったことを。一撃目で光弾の勢いを削ぎ、二撃目で光弾の軌道を僅かに逸らし、三撃目で完全に突き払ったことを。
 アランは遂にやって見せたのだ。サイラスとクラウスの師と同じ技を。
 再び目にした懐かしき剣閃。その感動がサイラスとクラウスの心に浮かぶよりも速く、アランはラルフに向かって踏み込んだ。

「!」

 意外な防御からの突進に、ラルフの身が強張る。
 だがそれは一瞬。ラルフはすぐに防御魔法を展開した。
 後ろに控えているサイラスは左右を警戒。
 先と同じようにアランは回り込もうとすると思ったからだ。
 しかしアランの考えは違った。
 アランの狙いは正面突破。
『台本』はそれが出来ると言っている。
 アランは示された単純な筋書きを反芻しながら、刀の先端をある箇所に向けた。
 それはラルフが展開する防御魔法の中心点。
 その奥にはラルフの右手がある。
 アランはその点に向かって刀を突き出し、閃光を奔らせた。
 その数はやはり三本。
 傍目には一本に見える。重なっている。三本の閃光が全く同じ箇所に向けて放たれたのだ。
 一本、二本と突き刺さった閃光は防御魔法の中心点を傷つけ、穿ち、そして三本目で遂に――

「っ!?」

 遂に光る壁を貫いた。
 右手の甲を串刺しにされたラルフの顔が苦痛に歪む。
 直後、その手に走る鋭い痛みが激痛に変わった。
 アランが刃を回転させ始めたのだ。
 このままだと手を斬り裂かれる――それを恐怖と共に察したラルフは反射的に右手を後ろに引きつつ、ねじられているのと同じ方向に手首を捻った。
 刃が右手から「ぬるり」と引き抜かれる。

「っっぅあ!」

 その痛みを堪え切れなかったラルフは口から悲鳴を漏らした。
 無理も無かった。ラルフの右手親指と人差し指の間には大きな裂傷が出来ていた。
 親指と人差し指を別々の手で持って引き裂こうとしたかのような傷。
 刀は抜けた。しかしその際、刃はラルフの右手にある生命線をなぞるように切り裂いたのだ。
 ラルフの右手から血が噴出し、赤く染まる。
 それを見たラルフは思わず左手に魔力を込めた。
 その型は閃光魔法。
 痛みと恐怖から、ラルフの本能は最大の反撃を選んでいた。
 これにラルフの理性が声を上げた。
 どこを狙う? 正面は自分の防御魔法で塞がっている、と。
 その答えをラルフの本能は既に用意していた。
 ラルフの瞳がある箇所を捕える。
 それは防御魔法の中心点。
 そこに穴が出来ている。
 穴はちょうどいい具合に広がりつつある。
 さらに防御魔法は回転している。右手から刃を抜く際に、手首を捻ったからだ。
 ここに同じ回転を加えた閃光魔法を通せば何が起きるか。本能が語るよりも早く、ラルフの理性はそれを察し、そして行動に移した。

「!」

 瞬間、アランは表情を変えた。
 ラルフが何を繰り出そうとしているのかを知ったからだ。
 しかし驚きは無い。
 その顔に浮かんでいる色は迷い。
 台本は二つの選択肢を提示していた。
 最初に浮かんだのは「避ける」かどうか。
 難しくはない。ラルフが放とうとしている攻撃は扇状に広がっていく性質のもの。ゆえに、この近距離であれば横に高速移動するだけで回避出来る。だからアランの顔には恐怖も驚きも無い。
 しかしアランはこの選択肢を即座に却下。
 なぜなら、後ろにいるリリィが巻き込まれるからだ。
 だからアランは真後ろに向かって地を蹴った。
 アランは「庇う」という選択肢を選んだのだ。

 これは大きな分岐点であった。
 この時、アランはラルフに勝つことが、ラルフを倒すことが出来た。
 ラルフの最大攻撃を回避しつつ回り込み、そして斬る。それで終わっていた。
 しかしアランはそれを選べなかった。この瞬間からアランとラルフの長い因縁が始まったのだ。

 この因縁は業が深く、多くの血が流れることになる。
 もしもアランがその未来を知っていれば、ここで終わらせていたかもしれない。
 しかしアランはラルフと同じようにリリィを選んだ。
 だが、それはラルフと同じ理由では無い。
 この時のアランの心に「性」の概念は一切無い。リリィが「女」だからというのは一切関係無い。
 アランがリリィを庇った理由はアランの本質を示すものだ。リリィと親しいからというだけではない。リリィが優しく、そして弱いから、というのが最大の理由なのだ。
 しかし強い魔法使いを倒す機会を逃したことは事実である。後にアランはこの時の選択について思い悩むことになる。

 そして、アランは跳び下がりながら輝きを増していくラルフの左手を見つめていた。
 間も無くそこから凄まじい攻撃が繰り出されることが分かっていた。
 しかしその刹那の時間も、今のアランにとってはとても長いものであった。
 アランは自然と奥歯をかみ締めていた。
 緊張しているのだ。本人は気付いていないが。
 だがアランの心は至極冷静。体が少し硬くなった程度にしか感じていない。 
 当然、緊張の原因も分かっていない。
 それは、これからやらなければならないことの難度の高さからであった。
 そして直後、それは遂にラルフの左手から放たれた。

「!」

 それを見たアランは表情を変え始めた。
 迫ってくるものがあまりにも凄まじいからだ。
 台本で知っていたが、それでも驚きを禁じえない。
 まるで光る嵐だ。
 光る矢と針が束となり、うねっている。光る刃の濁流だ。
 そして同時にあれに似ているな、と思った。
 かつて見た、光の剣の暴走によく似ているのだ。
 あの時は避けるしか手が無かった。
 今はそれが出来ない。対抗手段はこの剣一本。

「……」

 恐ろしくゆっくりとした時の流れの中、握り手に力を込めながらアランは足に神経を集中させた。
 そして爪先が地に触れた瞬間、

(今!)

 アランは「あの技」を使った。
 足首と足指の中で星が煌く。
 直後、アランの足首と指は地面を掴むように曲がった。
 爪先が食い込むほどの勢い。
 それを支えとして次の動作へ、膝に対してあの技を使う。
 流れるように次は腰、そして肩。
 一連の動作から生まれた勢いを全て刀に乗せる。

(うぉぉ!)

 アランは体が前に飛び出すであろうほどのその力を、叫びと共に放った。
 刀から一条の閃光が迸る。
 かつてない勢いと力強さを有すその一撃は、嵐に打ち負けることなく、光の濁流を切り裂いていった。
 しかし直後、アランはすぐに刀を引いた。
 一撃では足りないのだ。この濁流を突き払うには、一本では全然足りない。
 続けて二閃、三閃。
 先に見せた三段突きを光る嵐に刺し込む。
 しかしまだ足りない。
 さらにもう一閃。

「!」

 その四本目の閃光を放った瞬間、アランの背に「ぞわり」とした悪寒が走った。
 これは打ち負ける――初撃に乗せた飛び出すような勢いはもう殺されている――下からも来ている――そのような複数の情報がアランの台本から生まれ、脳裏に走った。
 放った閃光が濁流の一部とぶつかり合う。
 直後、台本が警告した通り、アランが放った閃光は打ち負けた。
 刀が弾かれ、光の矢がアランの胸に迫る。
 が、アランはその反動を利用した。弾かれた刀に身を預けながら体勢を変えた。
 迫る矢の軌道から身を逸らしながら、刀を下段に構える。
 そして即座に突き。
 下方に放たれた閃光が突き上げるように迫っていた濁流の一部とぶつかり合う。
 しかしこれも打ち負けた。
 それも当然、アランの足は地に着いていなかった。体が浮いているのだ。
 正確には吹き飛ばされ始めている。
 これでは踏ん張りが利かない。
 そこへ迫る複数の光の束。
 適当なものに打ち込み、その反動を利用して回避しよう――アランがそう考えた瞬間、

「!?」

 それはマズい結果に繋がることを、台本がアランに示した。
 この光の束はリリィに向かっている。

(……っ)

 アランは迷った。
 なぜなら、ここで回避を選ばなければ直後に悲惨な結果を迎えるであろうことも台本は示したからだ。
 しかし、アランはすぐにこの迷いを振り払った。
 迫る光の束に向かって刀を突きこむ。
 弾かれるが、即座に刃を返して再び打ち込む。
 繰り返す。光の束の軌道が変わるまで。
 だが光の束はものともせずに迫ってくる。

(……雄雄ぉっ!)

 瞬間、アランは裂帛の気合を込めた。
 アランの右肩で大きな星が煌く。
 その星は周辺の骨を犠牲にしながら、強い力をアランの刀に与えた。
 剣先から迸る力強い一閃。
 その閃光は迫る光の束を切り裂いた。
 が、

「っ!!」

 突き破られた光の束は小さな矢の群れに変わり、アランの体に次々と突き刺さった。
 激痛が全身に走り、刹那送れて悪寒が背中をなでる。
 悪寒の正体は新たに迫る光の束。
 これを防ぐ手は無い。迎撃も間に合わない。
 光の束がアランの胸を撫でる。
 アランの意識はその直後に消えた。

   ◆◆◆

「……!」

 うっすらと砂煙が立ち込めるなか、サイラスは驚きの表情を浮かべていた。
 ラルフが放った最大の一撃は眼前の光景を一変させていた。
 地面はまるで巨大な獣の爪で耕かされたかのように、全てめくれ上がっていた。

(ラルフは光る嵐を放つと聞いていたが、これほどとは)

 奇妙なのは、受けたアランがほぼ真上に吹き飛んだこと。
 ラルフが放った攻撃がどういうものかを知らないサイラスは、その理由がどうしてもわからなかった。
 回転する光の嵐に飲まれたアランは地面に叩きつけられた後、地面と共に巻き上げられたのだ。
 そしてもう一つ奇妙なのは、倒れているアランが五体満足であることだ。
 光る嵐に飲み込まれる寸前、アランは自分から飛び込んだように見えた。
 今の攻撃をまともに受けて五体満足でいられるはずがない。
 やはりアランはあの技で対抗したのだろう。

(しかしそれだけとは思えない。運が良かっただけ? それとも……)

 サイラスが考えているとおり、アランは剣だけで切り抜けたわけでは無い。
 アランが五体満足で生き残れた秘密は体捌きにあった。
 光る嵐に巻き込まれながら、アランは被害が少なくなるように台本に沿って姿勢を制御していたのだ。それも薄れる意識の中で。もちろん運が良かったのもある。体を引き裂かれるような直撃を避けることが出来る位置にあったのだから。

「……」

 サイラスは答えの出ぬ疑問に対して考えるのを止め、砂煙の奥に視線を向けた。
 いま気になるのは、壁の向こうに居る二人がどうなったのかだ。
 しばらくしてそれは明らかになった。
 まず最初にサイラスの目に入ったのはクラウスの姿。
 クラウスは右肩を左手で押さえていた。
 その手は血に塗れている。
 壁は無い。吹き飛ばされたのだろう。
 もう一人の姿は見えない。
 瓦礫の中に埋もれてしまったのか? そう思ったサイラスの目が別の場所に移りかけた瞬間、それはクラウスの後ろから姿を現した。

「!」

 それを見たラルフは先のサイラスと同じ表情を浮かべ、口を開いた。

「……リリィ!?」

 どうして君がここに、とは言えなかった。ここは収容所。居て当たり前だからだ。
 そして駆け寄れなかった。知らなかったとはいえリリィを自分の攻撃に巻き込んだことは明らか。その後ろめたさがラルフの足を地面に縫いとめていた。
 そして、当のリリィはそんなラルフの事など意識に入っていないかのように、

「アラン!」

 別の男の名を叫び、走り出した。
 仰向けに倒れているアランの傍に駆け寄り、傷を見る。

「……!」

 瞬間、リリィはその身を硬直させた。
 アランは全身傷だらけであった。ここに来たばかりの時よりも酷い。
 だが、リリィの目はある一点だけを見ていた。
 それは胸部。
 そこに熊の爪痕のような、深くえぐられた傷が出来ているのだ。
 周辺は赤く染まっている。
「止血しなくては」、その言葉が心に浮かび上がった瞬間、リリィは手を動かした。
 身に纏っている服を適当に裂き、それで傷口を押さえる。
 しかしその程度では出血は止まらなかった。
 リリィの顔に焦りの色が浮かぶ。
 直後、遅れて駆け寄って来たクラウスが懐から包帯を取り出した。
 たすきがけるように胸に巻き付ける。
 強く圧迫することは出来なかった。胸骨が折れているからだ。
 ゆえに出血を完全に止めることは出来ず、包帯は瞬く間に赤く染まった。
 しかし先よりは遥かにマシになった。
 クラウスは折れた胸骨に気をつけながら、包帯を薄く広く重ねていった。
 その間にリリィが他の小さな傷を手当する。
 二人が忙しなく手を動かすその様を、ラルフとサイラスは少し離れたところから見つめていた。

「……」

 サイラスは難しい顔をしていた。
 なぜなら、

(アランにとどめを刺したいが、リリィが傍にいては手を出せんな)

 からだ。
 いまラルフの気を悪くするようなことは出来ない。
 サイラスは横目でラルフの顔色をうかがった。
 その顔には嫉妬の色が滲んでいる。
 理由はすぐに分かった。
 リリィがアランに手を尽くしていることが気に食わないのだ。
 サイラスはその若々しい色気染みた理由に内心苦笑いしながら、口を開いた。

「ラルフ殿も今のうちに手当てしておいたほうがいい。その右手の傷は軽くないぞ」

 言われたラルフは渋々といった様子で自分の手当てを始めた。
 リリィに手当てされるのを期待していたのだろう。
 サイラスはそんなラルフから視線を外し、クラウスの方に向けた。
 クラウスは一心不乱にアランの手当てを続けている。

(……)

 クラウスにこちらの隙をうかがっているような気配が無いことを確認したサイラスは、肩の力を少しだけ抜いた。
 しかし念のために手の魔力は込めたままだ。
 しばらくして、リリィとクラウスの手が止まった。
 直後、ラルフが口を開いた。

「こっちに来るんだ、リリィ」

 この言葉にリリィは何も答えなかった。視線を返しただけだ。
 ラルフはリリィの目をみつめながら再び口を開いた。

「僕は君を守るために、保護するためにここに来たんだ」

 その言葉にアランが含まれていないことを察したリリィはすぐに口を開いた。

「助けに来たというのならば私だけでなく彼もお願い」

 これにラルフは首を振った。

「……その男は敵側の人間だ。リリィの頼みでもそれは出来ない」

 この答えにリリィは表情を険しくした。
 その顔にラルフはうろたえ、おずおずと口を開いた。

「しかし捕虜という扱いならば……」

 ラルフが歯切れ悪くそこまで言った瞬間、割り込むようにリリィが口を開いた。

「彼は私のために命を張ってくれた。その人を見捨てて自分だけなんて事は出来ない」
「……」

 リリィの力強い返事にラルフは言葉を失ってしまった。
 その様子をサイラスは少しイラつきながら見ていた。

(……意外にしたたかな女だな。ラルフが強気に出れないことを上手く利用している)

 考えながら、サイラスは未来の二人の関係を想像していた。

(この状況で相手に譲歩するなど普通はありえないのだが……下手をすると、ラルフとリリィの関係はこのままずっと変わらない可能性があるな。将来、ラルフはリリィの尻に敷かれることになるかもしれん)

 正直それは困るな、と思いながらサイラスは口を開いた。

「ラルフ殿」

 呼ばれたラルフがサイラスの方に向き直る。
 サイラスはイラつきを顔に出さないようにしながら口を開いた。

「敵に対して甘くしすぎると部下に示しがつかなくなりますぞ」

 サイラスは打算の無い忠告をラルフに与えた。
 これに対してのラルフの答えは、

「……」

 沈黙。
 その言葉無き返事にサイラスは(駄目そうだな、これは)と思いながらラルフから視線を外し、前に歩み出た。
 サイラスの瞳がクラウスの姿を映す。
 それに気付いたクラウスはサイラスと視線を合わせた。

「……」

 クラウスの顔に浮かんでいるのは警戒心。
 しかしその瞳には何か別の感情の色が混じっていた。
 サイラスは形容し難い感情を称えたその瞳に対し、余裕の笑みを浮かべながら口を開いた。

「久しいなクラウス」

 第一声は再会を示す言葉。
 しかし直後の言葉は対照的に冷たいものであった。

「選べ。ここで死ぬか、それとも私の下につくか」
「……」

 これにクラウスはすぐには答えなかった。
 しかしこの選択肢に意味は無い。事実上の強制だ。
 クラウスはそれをよく分かっている。
 なのにクラウスが沈黙を返しているのは、答えた後のことを考えているからだ。頷きを返したところで、仲間として扱われないことは明らかだからだ。

「……」

 クラウスは大まかな予想とそれに対しての対応を頭の中に描いた後、ようやく口を開いた。

「……わかった。お前に従おう」

 待ち望んだ返事にサイラスは良い表情を返さなかった。答えるのが遅かったからだ。
 サイラスはため息を吐きそうな顔で口を開いた。

「二人を外に連れ出せ」

 淡々とした口調。
 しかしその目はリリィに向けられていた。
 口を挟ませないためだ。
 サイラスの指示に応じ、数人の兵士が歩み出る。

「……」

 これにリリィは何も言えなかった。
 サイラスがクラウスに対して放った言葉が強烈なものであったからだが、サイラスと面識が薄いということも理由として大きい。ラルフを絡めた手が通じないと思い込んでいるからだ。
 実際はそうでは無い。サイラスはラルフの顔を立てるように気を使っている。しかしそのことをリリィは知らない。
 だからリリィはサイラスから視線を外し、ラルフを見た。
 サイラスを止めて欲しいからだ。

「……」

 しかしラルフの返事はまたしても無言であった。
 これにリリィは表情を陰らせた。
 瞳には少し怒りの色が滲んでいる。

「……」

 しかしラルフの答えは変わらず。
 そしてラルフはリリィから目を背け、視線をサイラスと同じ方に、連れ出される二人の方に向けた。
 サイラスは二人をどうするかを考えていた。
 サイラスは迷っていた。
 始末するつもりだった。先ほどまでは。
 アランの戦いぶりを思い出しているうちにその考えが変わりつつあった。

(アランは『戦力』として残しておくべきだろうか……?)

 ヨハンが残した忠告がサイラスの考え方を変えさせていた。

(……先の戦いで見せたあの速度は驚異的だった。まるで偉大なる一族のようだった。もしかしたら、ラルフは負けていたかもしれない。……そう、今のアランには『もしかしたら』と思わせる力がある)

 サイラスはアランの力を認めていた。
 が、その評価は肯定的なものばかりでは無かった。

(しかしアランの強さは扱いにくい。まず集団行動が難しい。あの速さに付いて行ける兵士は滅多にいないだろう。結局、アランに出来るのは単身で切り込むことだけだ)

 そしてサイラスの思考はアラン個人だけにとどまらなかった。

(……炎の一族との関係がどうなるか、という点も重要だろう)

 様々な要素を考慮しながら処遇を考えるサイラス。
 結論は二人の姿が見えなくなったとほぼ同時に出た。

「……」

 が、サイラスは何も言わず、視線をリリィの方に向けた。
 彼女をどうするのかも重要だ。
 ラルフは彼女と一緒になることを望んでいる。
 が、サイラスはそれを良しと考えていなかった。

(それでは少し弱いな)

 何が弱いのか。
 それは動機。

(ラルフには強い感情を抱いてほしい。我々の仲間になるに十分な感情を。……そう、例えば憎しみのような)

 それにラルフがリリィの尻に敷かれるような事態になっても困る。ラルフに枷はつけたくない。ラルフは便利な駒であってもらいたい。
 サイラスはリリィを見つめながら、どうするかを決めた。
 そしてそれに気付いたリリィはサイラスと視線を合わせた。

(……何?)

 直後、リリィの心に疑問が浮かび上がった。
 見られていることに対してでは無い。
 それはサイラスが見せた奇妙な動作に対してのもの。
 サイラスは不自然なまばたきをしたのだ。
 まるで誰かに対しての合図のようだ、リリィがそう思った瞬間、

「っ!」

 リリィは声にならない悲鳴を上げた。
 激痛を発する胸元に視線を落とす。
 真っ赤に染まった棒状のものが胸元から生えているのが目に入る。
 矢だ。背中から貫通している。

「リリィ!!」

 直後、耳に飛んで来たのはラルフの声。
 しかしリリィはラルフに視線を返さず、サイラスの方を見た。
 サイラスはもうこっちを見ていない。
 サイラスはリリィの後方、矢が飛んで来たであろう方向に向かって声を上げた。

「敵だ! そこに教会の兵士が隠れていたぞ! 追え!」

 サイラスはまたも「敵」と表現し、さらに今回は「教会の」と付け加えた。
 この矢を撃った犯人が教会の人間であるとラルフに思い込んでほしいからだ。
 そしてサイラスはリリィの方に視線を戻しながら、再び口を開いた。

「彼女を手当てしろ! すぐにだ!」

 指示に従い、兵士達がリリィの周りに集まる。
 リリィは担架に乗せられながらサイラスを見つめた。
 リリィは理解しつつあった。彼が、サイラスがラルフを連れてこの収容所に現れた理由を。自身がラルフを抱き込むための生贄にされたことを。

   ◆◆◆

 その後、リリィはある宿の一室に運び込まれた。
 中に入ることを禁じられたラルフは、その部屋のドアに張り付くように立っている。
 部屋の中からは叫びのような呻き声が聞こえてくる。
 しばらくして、そのドアが開いた。
 そして中から出てきたのはサイラス。
 ラルフは組み付くようにサイラスに迫りながら口を開いた。

「リリィは?!」

 これにサイラスは難しい顔で答えた。

「……すまない。厳しい、としか言えない」

 これを聞いたラルフは「そんな……」と呟きながら後ずさり、廊下の壁に背を預けた後、その場に座り込んだ。
 サイラスはそんなラルフの傍に歩み寄り、目線の高さをあわせるようにしゃがみこんだ。
 そしてサイラスはゆっくりと口を開いた。

「こんな時にこんな話をしていいのか分からないが……」

 サイラスはわざと一呼吸分ほど間を置いてから、遂にそれを話した。

「少し前、君の父上が死んだという情報が私の耳に入った。確かな情報のようだ」

 これにラルフは「え?」という力無くそして情けない声を返した。
 その顔は少し間が抜けている。
 しかしラルフはすぐに表情を変え始めた。
 どうやら理解したようであった。自身の権力と安全を支えている後ろ盾が失われつつあることを。
 認めたくないその事実をサイラスは口に出した。

「状況は反乱軍が優勢のようだ。教会に対して反旗を翻す貴族も増え始めた。……もしかしたら、教会はその力を失うかもしれない」

 これにラルフは焦りと戸惑いの色を濃くした。
 そしてサイラスはそんなラルフに対し畳み掛けた。

「こんな事になってしまって本当に残念だが……ラルフ殿、我々にはまだ道が残されている」

 言いながらサイラスは懐から一枚の紙を取り出し、ラルフの前で広げた。
 紙には茶色い楕円の印が規則正しく並んでいた。
 いずれの楕円にも丸太の年輪のような模様が描かれていることから、ラルフはその茶色の染料が何なのかを見抜いた。
 血だ。この茶色は血が乾いて成った色だ。これは血判状なのだ。
 血判状とは血を印として誓いを立てるためのもの。
 これまでの話の流れから、この血判状に記されている誓いの内容は読まなくても分かった。
 そしてラルフがそれを尋ねるよりも早く、サイラスはそれを述べた。

「誘いが来たのだよ。反乱軍に加わらないか、と」

 うつむいていたラルフの顔が上がり、サイラスと視線が重なる。
 サイラスはその陰気な瞳に向かって言葉を続けた。

「私はこの血判状に名を連ねようと思っている。前にも言った通り、私は今の教会が善い組織であるとは思っていない。何とかしてこの現状を変えなければならないと考えている」

 そしてサイラスはわざと一呼吸分ほど間を置いてから、ようやく本題を述べた。

「……ラルフ殿、あなたの力を私に、いや、我々反乱軍に貸してはもらえないだろうか。この国を善くするためにその力を振るってはもらえないだろうか」
「……」

 ラルフは言葉を返さず、血判状とサイラスの顔を交互に見た。
 何かを待っているような、もう一押しを期待しているかのような表情。
 サイラスはその期待に沿えるであろう言葉をラルフにぶつけた。

「この残酷な世の中は変えなければならない。君の母の無念を晴らすためにも、そして今回のような、リリィのような犠牲を再び生まないためにも」

 この言葉に、ラルフは目を見開いた。
 その瞳には熱が宿りつつある。
 そして閉ざされていた口がゆっくりと開き始めた。
 その重い唇がつむいだラルフの返事は――


   ◆◆◆

 夜――

「リリィは助かるそうだ」

 先とは全く逆の内容をサイラスは口に出した。
 しかしその相手はラルフではなくフレディだ。
 そして場所はサイラスの私室。
 サイラスはあることを尋ねるためにフレディを呼びつけていた。

「……お前が殺し損ねるとは珍しいな。リリィに情でも移ったのか?」

 サイラスはフレディがリリィに情けをかけたのだと思っていた。
 その根拠に毒を使っておらず、しかも貫通させている。たとえ毒が無くとも、あの命中箇所であれば貫通させずに矢尻を体内に留めておくだけで死亡は免れなかったはずだ。

「……」

 サイラスの問いにフレディはすぐに答えなかった。
 しばらくして、

「……正直、自分でもよくわかりやせん」

 逃げのような答えがその口から漏れ出した。

「……」

 が、サイラスは問い詰めようとはしなかった。
 咎めるつもりなど最初から無かったからだ。
 対し、何も言われないことに僅かな恐怖を抱いたフレディは、気を紛らわそうと口を開いた。

「そういえば大将、ラルフの返事はどうだったんで?」

 これにサイラスは面倒そうに答えた。

「知ってるだろう。上手くいったよ」

 サイラスは懐から一枚の紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
 それはやはり血判状。
 端には新たな名前が、ラルフの名前が記されている。
 そしてこれがサイラスがフレディを問い詰めない理由の一つであった。望んだ結果が得られたからなのだ。
 フレディはこの時点でサイラスの機嫌が悪くないことに気がついた。
 が、それでも不安めいたものを払拭出来なかったフレディは再び口を開いた。

「しかし考えようによっては楽な仕事でしたね。女一人でこっちに寝返ってくれたんだから。あっしがラルフだったら大金を要求してやしたよ」

 少し茶化した台詞である。
 が、少し機嫌の良いサイラスはこの会話に乗った。

「確かにお前の言う通り、考え方によっては今回の仕事は楽で安く済んだとも言える。厄介な要求や質問が何も無かったのだからな」

 滑らかなサイラスの舌はさらなる言葉をつむぎだした。

「しかしそれはラルフの意思が薄弱である証明なのかもしれん。あいつは多分大したことは考えていない。その場の雰囲気や勢い、またはその時の感情に流されているだけだろう」

 喋るうちにサイラスの舌は重くなっていった。ラルフに対する印象が良くないせいだ。
 そして直後にサイラスの舌はさらに重くなった。厄介な心配事に気付いてしまったせいだ。

「……私はラルフを抱き込むために良い餌と生贄を使った。この手は誰にでも使える。敵から同じ手を仕掛けられることが今の私が最も恐れていることだ」

 しかし同時に、その不安を打ち消す要素をサイラスは見出していた。

「だがラルフには一番良い餌を、王座をちらつかせておいたからな。これより良いものを用意出来るやつはそうそういないだろう」

 そう言った後、サイラスはテーブルの上に置いてあったコップを手に取り、注がれていた琥珀色の液体を一口含んだ。
 そしてサイラスの口がコップから離れたのとほぼ同時に、フレディが再び口を開いた。

「じゃあ、リリィとラルフは今のまま置いておくとして、一緒に捕まえたアランの方はどうするんで?」
「……」

 この質問にサイラスはすぐには答えなかった。
 とりあえずどうするかは決めてある。しかしそれが最良かどうかは分からないからだ。
 サイラスはコップの液体をもう一度口に含んだ後、口を開いた。

「……殺しはしない。むしろ丁重に扱う。後の交渉のためにな」

 サイラスの意図をすぐに理解したフレディはそれを声に出した。

「交渉っていうとつまり、炎の一族との戦いは避けるってことですかい?」

 サイラスは頷きを返した。

「ああ、そうだ。炎の一族を全て敵に回すようなことだけは避けたい」

 カルロが戦線から離れ、そしてその原因となったラルフを手中に収めた。なのにそうする理由をフレディは分かっていたが、あえて口に出した。

「そうしたいのはやっぱり、ヨハンがあんなことを言い残したからですか?」

 サイラスは「そうだ」と答えた後、コップの中身を飲み干し、言葉を続けた。

「……ヨハンの言葉が真実であるかどうかはこの戦いで明らかになるだろう。それらしい気配が既に迫ってきているがな」

 迫っている、この表現が引っかかったフレディは再び尋ねた。

「ヨハンが言っていた敵らしき連中がこっちに向かって来ているんですかい?」

 これにサイラスは首を振った。

「……ヨハンが言っていた連中の一味なのかは分からん。しかし部隊がこっちに向かって来ているのは事実だ。恐らく、我々はそいつらと一戦交えることになるだろう」

 戦闘になる、なぜそう思うのかをフレディが尋ねるより早く、サイラスはその理由を述べた。

「先に接触した仲間が進軍を停止させるための話し合いを行ったが、交渉は決裂。その後間も無く戦闘になったが、全く歯が立たずに蹴散らされたそうだ。精鋭が相手では無理も無いがな」

 相手が誰なのかまで分かっているようなその口ぶりに、フレディは思わず尋ねた。

「え? 相手は精鋭魔道士なんですかい?」

 これにサイラスは頷きを返した。

「そうだ。炎の一族の女、リーザだ」

 答えながらサイラスの心には影が差していた。
 なぜなら、反乱を起こす際にリーザを放置するように指示したのは誰でもないサイラス自身であったからだ。強力な魔法使いであるリーザを『戦力』として残しておくために、被害を与えないように指示したのだ。
 しかしそれが裏目に出てしまった。
 サイラスは重くなった口で言葉を続けた。

「……先にも言ったようにリーザが『本当の敵』なのかは分からん。はっきりしていることはリーザが我々の邪魔をするつもりであるということだけだ。交渉で教会側の立場を示したからな」

 サイラスは重い口調でそう述べたが、フレディは軽い調子で言葉を返した。

「でもこっちにはラルフがいるわけだし、負けることはないでしょう?」

 明るい予想。そしてサイラス自身もそう思っている。
 が、サイラスは再び重い口調で言葉をつむいだ。

「勝敗の心配はしていない。ただ……」

 フレディが続きを促すより早く、サイラスは言葉を続けた。

「……私にはリーザが『潰し合いのための当て馬』にされているように思えてならないのだ。少なくとも、私が『本当の敵』の立場であればそうする。教会と反乱軍の衝突を上手く利用する。無関係の人間も出来るだけ巻き込んでな」

 このサイラスの言葉は、フレディの口を重くした。
 しかしフレディも心の奥底ではそう思っていた。

「……」

 そしてフレディの口が閉じてしまったのを見たサイラスは、会話を締めにかかった。

「……何にしても、降りかかる火の粉は払わねばなるまい。出来る準備はしておかねばな」

 勝敗の心配はしていない、サイラスはそう言った。
 しかしこの思いは裏切られることになる。
 サイラスはまだ甘い。ラルフの気質は彼が考えているよりも厄介なものなのだ。

   ◆◆◆

 二週間後――

 リーザの歩みは止まらず、サイラス達がいる町まであと一日という距離まで迫っていた。
 しかしこれまでにリーザに対してまともな攻撃は行われていなかった。
 なぜなら――

「どうでした?」

 私室に戻ってきたサイラスに対し、待っていたフレディが口を開いた。
 尋ねているのはラルフの答えについてだ。
 サイラスは首を振った。

「駄目だ。やはりリリィの傍を離れようとしない。……リリィが全快するまでラルフは動かないつもりのようだ」

 答えるサイラスの表情は険しく、それは口調にも現れていた。
 そしてサイラスは苛立たしさを露にしたまま言葉を続けた。

「……つまり、ラルフという男はリリィの都合ひとつで勇敢にも腑抜けにもなるということだ。まったく厄介なことだ!」

 吐き捨てるように言った後、サイラスはテーブルの上に残しておいた紅茶を一気に飲み干した。
 気を落ち着かせるためと、あやうく飛び出すところだった汚い言葉を飲み込むためだ。
 サイラスは息を吐きながらコップをテーブルに戻した後、再び口を開いた。

「……リリィのためにしか動かないというのであれば、リリィを巻き込むまでだ」

 この言葉にフレディは思わず声を上げた。

「この街を戦場にするってことですかい?」

 サイラスは即答した。

「今のままだとどうせそうなる。ラルフ抜きでリーザをなんとかすることは難しいが、障害物が多いこの街中ならかなり有利になる」

 しかしこれにもフレディは物申した。

「でも、リーザってやつは炎を使うんでしょ? ってことは街が火の海になっちまうんじゃ?」
「……」

 サイラスは肯定を意味する沈黙を返した。
 言葉を返さないのは、サイラス自身も本当はこんな手を取りたく無いと思っているからだ。
 街に被害が及べば間違いなく住民から不評を買うことになる。
 現時点で既に評判はあまり良くない。街は不安で包まれている。
 原因の一つは暴徒と化した一部の奴隷達のせいだ。
 この二週間はその鎮圧を行っていた。
 街が静かになる頃には、管理下に置いていた収容所の奴隷達も不信感と恐怖を露にするようになった。同じ無能力者が処刑されたのだから当然だろう。
 しかしこれは今のところどうでもいい。ただの無能力者だけではどうにもならないことを前回の結果から知っているからだ。
 前回は我が師が「強い無能力者の象徴」として全体を統率し、さらに一部魔法使いの協力を得た上で負けたのだ。秩序の無い奴隷達ではどうにもならないことは明らかだ。
 恐怖で怯えていようが、今は大人しくしていてくれればそれでいい。無能力者達からの評判は後でどうにでもなるだろう。

「……」

 そこまで考えたところで、サイラスは表情を変えた。
 怒りが消え、目つきが鋭く冷たいものに変化した。
 リリィの事を考えたからだ。
 無能力者達からの評判について考えた瞬間、ラルフとリリィが一緒になる未来が浮かび上がったからだ。
 最強の魔法使いと無能力者の結婚、間違いなく世は沸き立つだろう。
 しかしそれは決して必要な事では無い。無能力者にとって都合のいい法を整備するだけで十分だろう。
 だから目が冷たくなったのだ。やはりリリィは始末した方がいいのではないか、と思ったのだ。

(……やるにしても、今は駄目だ)

 しかしサイラスは決断を一時保留にした。
 リリィはラルフと彼の私兵によって安全が確保されている。それでもやれないことはないかもしれないが、間違いなく我々に疑いの目が向けられることになる。

「……」

 サイラスは別のことに考えを移しながら椅子に腰を下ろした。

「……」

 フレディも黙ったままサイラスの言葉を待った。
 サイラスは目の前に迫ったリーザとの戦いについて思考を重ねていった。

 勝敗の心配はしていない、サイラスはそう言った。
 その期待が間違いであることをサイラスは感じている。
 だがサイラスはまだ甘い。
 サイラスは知らない。リーザが怪物と呼べるほどに成長しつつあることを。そしてそのきっかけとなる出会いが次の戦いで起きてしまうことを。

 そしてリリィとラルフ、そしてアランに対しての認識もまだ甘い。
 後に、サイラスもまたアランと同じように自身の選択について思い悩むことになる。サイラスが思っていた以上に三人の関係は厄介なものになってしまうのだ。

 しかしサイラスを真に悩ませるのは別のものだ。

 サイラスの真の敵は己自身。サイラスは己の鏡に悩まされることになるのだ。

   第三十七話 炎の槍 に続く
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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稲田 新太郎

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