末世の拳士 第十一話

   ◆◆◆

  中央へ

   ◆◆◆

 中央へ向けられたレオのつま先であったが、その歩みはとても遅かった。
 やはり迷いがあった。ロイとルーカスのことが気になってしょうがなかった。
 数日歩いた後、レオはそのつま先を別の方へ向け、ロイとルーカスの姿を探し始めた。今のレオにとって、中央に向かう決心とロイとルーカスの存在は等価であった。
 しかし見つからず、レオの足はすぐに止まった。空腹のせいだ。
 レオは腹を押さえながらゆっくりと足を進めたが、その空腹感が草の根では押さえきれなくなった頃、ロイとルーカスの事は遂にレオの頭の中から消えた。
 レオは適当な村に入り、適当な仕事に就いた。
 そして小遣い程度の金を稼ぎ、腹が満たされると、レオの意識に再びロイとルーカスと中央のことが蘇ってきた。
 そしてレオは再び足を動かし始めた。
 しかしそのつま先が目指す先はロイとルーカスでも、中央でも無かった。
 レオは故郷に戻って来た。どうなったのかこの目で確認したかったからだ。
 だが、町は氷族の兵士達に占領されていた。監視の目が厳しく、昼間には近づけなかった。
 だからレオは夜に侵入した。
 町に入ったレオはすぐにある異変に気づいた。
 匂いが違うのだ。表現したくない香りであった。
 その発生源はすぐに明らかになった。
 それは道端に野晒しにされている住人達であった。
 死体だらけであった。凄惨としか言いようが無く、レオが吐き気を覚えるのにさほど時間はかからなかった。
 耐えられなくなったレオは移動した。匂いが薄いほうへ、死体が少ないほうへと足を進めた。
 そして、ある場所でレオの足は止まった。
 そこはある曲がり角。町の中心部に続く道で、先には町で一番大きい酒場がある。
 その角の奥から声が聞こえてくるのだ。
 一人や二人では無い。大勢の楽しそうな話し声。
 レオはゆっくりと近付き、角から顔を覗かせた。
 そこにはレオが想像していたのとは違う驚きの光景があった。
 大勢の兵士達が談笑している。
 この光景は予想できた。レオを驚かせたのは兵士達の後ろに並んでいるものであった。
 とても小さな牢屋が数え切れないほど並んでいた。その小ささは家畜用、豚や鶏を入れるための檻に見えた。
 そんな小さな牢屋一つ一つに町の住人達が押し込められていた。
 とても苦しそうであった。足を折りたたみ、背を丸めることでようやく収まっている。
 なんという酷い扱いだ。実際酷いのであろう、牢屋の中の人間の何人かは既に息絶えているように見えた。

「……」

 恐怖しか無かった。
 レオの頭には「逃走」の二文字しか浮かばなかった。助けるなんて選択肢など意識の中のどこにも無かった。
 そして、レオは息を呑むことすらせず、その場から、町から逃げ出した。

   ◆◆◆

 その後、レオは寄り道せずに真っ直ぐ中央を目指した。
 そして三ヵ月後――

偉大なる者の地

「ここが中央……武の民と呼ばれる人達が住む地……」

 小高い丘の上から望む壮大な風景を前に、レオは思わずつぶやいた。
 それは美しいと言うより、凄まじいと表現したほうが正しい光景であった。
 視界に見えるのは連なる山々のみ。しかし、そのどれもが恐ろしく高く、天を突くような鋭利な形状をしている。
 こんな形の山は見た事が無い。一見、人工物のように見えるが、規模の大きさからその考えは間違いであるとすぐに分かる。
 なにがどうなればこんな形の山々が出来るのか。想像もつかない。
 しかし、何よりも凄まじいのは、そんな山々の頂上付近に「家」が見えることだ。
 あんな場所に人が住んでいるという事実。驚嘆である。

(一体、どんな人達が住んでいるんだろう)

 武の民とはどんな民族なのか。どんな生活をしているのか。そんな好奇心を胸に、レオは足を前へ進ませた。

   ◆◆◆

 とりあえず、レオは大きな町を探すことにした。
 ここに来た目的は勲章に関する情報を得ること。話を聞くならば人が多いところのほうがいい。
 好奇心を糧に足を前にだす。
 が、その燃料は一週間ほどで燃え尽きた。
 道が険しすぎるのだ。
 平坦な場所なんて無い。道のほとんどは急な坂になっている。
 最初は素晴らしいと思った風景も、既に新鮮味が無い。
 どこまで行っても山と谷の繰り返しだ。

(……ふう。少し、疲れたな)

 うんざりしたレオは道端にあった大きな石の上に腰を下ろした。
 道を行き来する人々をぼうっと眺める。
 すると、レオはあることに気付いた。

(みんな足がぼろぼろだ)

 道行く人々の誰一人として、綺麗な足をしている者はいなかった。
 この地の人々が履いている靴は、足指がむき出しになる簡素なものがほとんどだ。ゆえに余計目立つ。
 相当酷使されているのだろう。足指の質感は岩のようだ。
 往来に馬車の姿はまったく見えない。
 当然か。こんなに険しい道では使い物にならないだろう。
 だが、荷馬はたまに通る。
 車を引くことは無理だが、多少の荷物を背負っていくくらいならば問題無いのだろう。
 そして、その荷馬もレオが知っている馬とは少し違っていた。
 足が太く短いのだ。胴の細い牛のような体型をしている。
 その目は大人しそうに垂れており、独特の愛嬌があった。

(可愛いな)

 そんな感想を抱いた直後、レオはもう一つ、あることに気が付いた。
 この地に足を踏み入れたばかりの時と比べて、道を通る人の数が明らかに増えているのだ。
 それはつまり、大きな町に近付いているということ。
 目的地は近い。その確信は活力となった。

(……行くか)

 レオは「すっ」と腰を上げ、この地に来たばかりの時よりも強い足取りで、前進を再開した。

   ◆◆◆

 しばらくして、レオは遠目に目的の場所を見つけた。
 人家が数えられないほど立ち並んでいる。緑と岩肌よりも屋根の色の方が多い。
 人がごった返している往来はまるで黒い絨毯のようだ。

(ここならば――)

 有益な情報が聞けるかもしれない。そう思ったレオは棒のようになった足に活を入れた。

   ◆◆◆

 町に入った瞬間、レオは奇妙な感覚を覚えた。
 何か普通じゃない。
 往来の邪魔にならぬよう、道端に腰を下ろし、様子を窺う。
 そしてまず初めに気付いたこと、それは、人々の表情の異常性であった。
 暗いというよりも、重い、と言える顔ばかりだ。
 仕事に疲れた顔は何度も見た事がある。
 それとは何かが違う。なんというか、病的だ。
 少数だが対照的に明るい顔をしている者もいる。
 が、レオはその者に対して良い印象を抱かなかった。
 その者の格好があまりにも煌びやか過ぎるからだ。
 それは下品と言えるほどであった。
 光っていない場所が無いほどに、宝石を身に着けている。
 その怪しい輝きを放つ者は、手を上げながら口を開いた。

「さあさあ、皆様、どうぞうちの商品を見ていって! 初めての方にはお安くしますよ!」

 言動から商人であることは明らかであったが、レオは不思議に感じていた。
 あんな姿で呼び込みをしても客が来るとは到底思えなかったからだ。普通はもっと地味なやつか、品のある服を着る。
 しかしそれでも繁盛しているのだろう。でなければあんな格好が出来るはずがない。
 レオはそこで考えるのを止め、別の何かを探した。
 もう一つ疑問に感じたことがあったからだ。
 なぜだか、場に緊張感が漂っているような気がするのだ。
 そしてその原因はすぐに見つかった。
 それは一人の女だった。
 女は屋台に座って食事を摂っていた。
 ただそれだけであった。
 が、彼女の周りには奇妙な空間が出来ていた。
 往来は人で溢れている。なのに、誰も彼女の傍を通ろうとしない。
 明らかにその女は避けられていた。
 もう一つ奇妙なことがある。
 服装が独特なのだ。
 動きやすそうな格好である。
 しかし生活感が無い。所帯じみた雰囲気が無い。その動きやすさは生活のためでは無く、なにか別のことのためにあるように思えた。
 レオはその不思議な女性に対し興味を抱いた。
 どんな人なのか――どんな顔をしているのか気になるが、この場所からでは背中しか見えない。

「……」

 レオは黙って女が動くのを待った。
 が、女の食事はゆっくりしたものだった。

(……何をしているんだ、俺は)

 レオはすぐにその女に対する興味を失った。もともとそんなに強い好奇心を抱いたわけでは無い。ちょっと気になっただけだ。

(こんなことをしている場合じゃない。あの勲章についての情報を集めないと)

 宝石商でも尋ねて話を聞いてみるか、そう思ったレオが立ち上がった直後、

「ごちそうさま。勘定、ここに置いておくわね」

 女は透き通るような声でそう言いながら、席を立った。
 女が振り返り、正面の立ち姿がレオの瞳に映り込む。

ジャンナイメージ

 瞬間、レオの視線は女の胸元に釘付けになった。
 女の胸はふくよかであったが、レオがそこを注視したのは情欲や愛欲からでは無かった。
 その双丘の上に乗っかるように、あの勲章がぶらさがっていたのだ。

「あ……」

 思わず、レオの口から間抜けな声が漏れた。
 女が踵を返し、屋台から離れる。
 レオは惹きつけられるように、ふらふらとその背を追った。

   ◆◆◆

 レオはしばらく女性のうしろをついて行った。
 レオは悩んでいた。
 早く声をかけなければならない、それは分かっている。
 しかし、何と言えばいい?
 商売人から話を聞きだす手段はよく知っている。しかし、利害や損得の天秤が存在しない赤の他人に、特に異性に声をかける方法をレオは知らなかった。
 レオは女の背中を眺めながら話題を探した。

(しかし――)

 やはり、よくわからない。
 どうして町の人々はこの女性を避けていたのか。
 その背は細く、なまめかしく、どう見てもただの女にしか見えない。
 あの勲章を持っているということが関係しているのだろうか。
 レオがそんなことを考えた直後、女は立ち止まった。
 反射的に、レオも足を止める。
 その時、踏みとどまるために力を込めたレオの爪先は、「ざく」っという、土を削る音を立てた。
 その何気ない音が、やけにはっきりと耳に響いた。
 そして、レオは気付いた。
 周囲に人の気配が無いのだ。
 人家は並んでいるが、どれもあばら家で、人が住んでいる気配は無かった。

(いつの間に――)

 こんな寂れた場所に足を踏み入れていたのか。
 場には自分と女の姿しか無い。
 これは、もしかして、

(誘い込まれた?)

 その事実にレオが気付いたと同時に、女はレオの方に振り返り、口を開いた。

「どうしてついてくるの?」

 女の声は先と同じく抑揚が無く、透き通っていたが、その顔には警戒と敵意の色がありありと現れていた。
 レオは焦った。
 非常にまずい。最悪な第一印象を持たれてしまった。
 弁解をしなくてはならない、のだが、レオの意識は女のある場所に向けられていた。

(この人、左腕が――)

 肘の先から無いのだ。長い袖のおかげで隠れてはいるが、その中は空洞になっていることがはっきりと見て取れた。

「……」

 レオは黙ってしまった。
 が、それは一瞬のことであった。
 そんなものに注目している場合では無いという理性の訴えが、レオの意識を正しい方向へ向き直らせた。
 そして、レオは慌てて口を開いた。

「すみません。気を悪くされたならどうかお許しを。実は、一つお聞きしたいことが――」

 そこまで言ったところで、レオは口を止めてしまった。
 女がレオを見ていないことに気付いたからだ。

(何を見て――)

 気になったレオは、女の視線を追うように、後ろへ振り返った。

「!」

 瞬間、レオは驚きと警戒心に身を強張らせた。
 いつの間にやら、レオの後ろには男達が並んでいたのだ。
 数にして五人。いずれも屈強で、戻る道を塞ぐように広く陣取っていた。

「大の男が揃って私に何の用?」

 透き通るような声にレオが思わず振り返る。
 女は睨むような視線を男たちに向けていた。

「言わずとて分かるであろう」

 野太い声にレオが再び振り返る。
 男達は冷たい視線を女に向けながら、じりじりと近付いてきていた。

「みんなの前で恥をかかされたから、その復讐に来たというわけ? ふん、逆恨みもいいところね」

 レオが振り返ると、女は薄い笑みを浮かべていた。
 その時、レオは女と目が合った。
 そして直後、レオは道の脇に逃げるように、飛び退いた。
 女の目が「どきなさい」と言っていたからだ。
「だん」という、地を蹴る音が場に響く。
 その数は複数。レオが飛んだと同時に、男達も動き出していた。
 レオが譲った道を、男達が駆け抜けて行く。
 男達の拳は発光していた。突進の勢いを乗せた一撃を放つつもりなのだろう。
 これに対し、女は逃げる素振りを見せず、構えを変えただけであった。
 その形は、体を左斜めに向けながら右手と右足を前に出した半身の構え。
 先陣を切った男が光る拳を女に向けて放つ。
 が、その拳は伸びきる前に止まった。
 女の拳が男の腹にめり込んだのだ。
 男が膝を屈する。
 既に女の姿は男の眼前に無い。
 女は男の横を通り抜け、次の男へ向かっていた。
 その際、女は崩れる男の足を軽く払った。
 男の顔が無様に地面に激突する。
 直後、その上に別の男が覆いかぶさった。
 二人目の男は一秒も持たなかったのだ。
 間を置かずに三人目の男が地に崩れる。
 ここまで女は一度も足を止めていない。傍目には三人の横を駆け抜けただけのように見える。
 そして四人目、これは少し使える男だったらしく、女は足を止めた。
 が、それは数秒のことであった。女は男が放った連打を上半身の動きだけで全て回避した後、男の顎に向かって拳を一閃した。
 そして、僅かに出遅れていた最後の一人は、光の盾を、防御魔法を展開して立ち止まっていた。
 その顔に戦意は無かった。足はじりじりと後ろに下がり始めている。
 それを見た女は構えを解いた。
 女の目は「逃げたいならどうぞ」と言っていた。
 直後、男はその視線に従い、女に背を向けて走り出した。
 他の男達もそれに続く。
 そして、場には先陣を切った男ひとりだけが残った。
 これら一連の流れを横から見ていたレオはあることに気がついていた。

(遊んでいる)

 女の行動のいくつかに明らかな無駄が見て取れたのだ。手加減もされている。
 しかしなによりも驚きなのは、女は魔力を一切使っておらず、しかも右手だけでこれを成したということだ。
 女が最後の一人に手を出さなかったのは、大怪我をさせたくないと思ったからなのかもしれない。盾を展開して防御に徹する相手に対しては、女も魔力を使わざるを得ないのだろう。
 そして、よく見れば女の体はかなり鍛えこまれていることが分かる。
 線は細く、女性特有の美しさを備えている。が、服を脱げば、針金のように絞り鍛え抜かれた筋肉があらわになるであろう。でなければ、大の男を一撃で黙らせることなど出来るはずがない。

(多分、この人は見た目よりもかなり重いだろうな)

 年頃の女性に対しては失礼と取られるであろうことをレオが考えていると、場に残っていた男が立ち上がった。
 男はふらつきながらも、女に向かって再び構えた。
 どうやらまだやる気らしい。
 仕方ない、というような顔で女も構える。
 その構えは先と同じ半身。
 それを見た男は声を上げた。

「なぜだ、なぜ構えぬ!」

 レオは一瞬、この言葉の意味がわからなかった。女は半身の構えを取っているではないかと。
 そしてすぐに察した。恐らく、女には半身とは異なる、得意とする構えが別にあるのだろう。

「……」

 女は何も答えなかった。
 その態度は男には許せないものだったらしい。
 男はわなわなと顔と肩を震わせた後、

「……なめるなァっ!」

 叫び声を上げながら、女に向かって突撃した。
 それを見たレオの直感は声を上げた。

(まずい!)

 女が危険だ。
 あれは止まらない。並の打撃では、痛みでは止められない。
 激情が肉体を凌駕してしまっている。あれを止めるには意識を刈り取るしかない。
 レオはそう思った。
 が、女は違う答えを見せた。
 女は「構えた」。
 脇を少し開きながら右腕を前に出しつつ、真上に膝蹴りを放つように、右膝を鋭利に折り曲げながら右足を浮かせた。
 体を支えるのは左足の爪先のみ。
 それはとても不安定な姿勢に見えた。が、女はこの構えに移行する際も今も、一切の揺らぎを見せなかった。
 女と男の距離が詰まる。もう目の前だ。
 そして男は拳を放った。
 胸を狙ったまっすぐな正拳突き。
 対し、女は迫る拳に向かって右足を出した。
 足裏で受け止めるつもりなのか? レオはそう思った。
 しかしそれは間違いだった。
 女は裏では無く、爪先を差し出したのだ。

(?!)

 レオの心に疑問と驚きが浮かぶ。
 あんな受け方では爪先が、足甲が砕かれてしまう。
 直感的に感じたその危惧は、レオの意識に言葉として浮かびあがることは無かった。
 次の瞬間、より大きな驚きを目にしたからだ。
 男の拳が爪先に触れる。
 すると、男の拳は油か何かで滑ったかのように、ぬるりと、女の足甲の上をなでるように軌道を変えた。
 女は伸びきったその腕の肘裏に爪先を引っ掛け、円を描くように、「くるん」と回した。
 直後、

「!」

 男の体は浮き上がり、女の爪先が描いた軌跡の通りに「くるん」と、空中で回転した。

(……?!)

 レオの顔にさらなる驚きの色が浮かんだ。
 レオには何が起きたのかわからなかった。

(爪先で男を投げた?!)

 そう見えた。そのようにしか見えなかった。
 だが、レオはすぐにある事を思い出した。
 拳を受ける際、女の爪先が発光していたのだ。
 男の拳の軌道を逸らしたものの正体は恐らく魔法力。
 それはつまり、女は足で魔法が使えるということ。
 そんなことが出来る人間もいるのか。驚きだ。
 だがそれよりも驚かされたのは、男を投げ飛ばしたあの技。
 女は光る足甲で男の拳を受け流した後、爪先を男の肘裏に差し込んだ。
 その瞬間、確かに、女の爪先は一際眩しく発光した。
 多分、魔力を一気に放出したのだ。
 それにより女は男の肘関節を捻じ曲げ、拘束し、そのまま勢いを利用して投げ飛ばしたのだ。

「なんという……!」

 レオにはそれしか言うことが出来なかった。
 足で魔法が使え、大の男を、同じ魔法使いを「足で」投げる技を身に着けている者が目の前にいる。驚くべきことが多すぎる。
 そして、場に静寂が訪れた。
 男は頭を女の方に向ける形で仰向けに寝たまま動かない。
 気絶しているわけでは無い。重傷でも無いはずだ。先の投げは叩きつけるようなものではなく、地面の上に転がしただけだ。
 今すぐにでも立ち上がれるはず。なのにそうしないのは、何かを考えているからだろう。
 しばらくして、女が構えを解いた。
 それとほぼ同時に、男は「むくり」と上半身を起こした。
 男の動きはそこで止まった。地に尻をつけたまま、両の足で立ち上がろうとはしなかった。
 そして、男は女に対して背を向けて座ったままの、失礼な姿勢で口を開いた。

「ジャンナ……いや、師範代様」

 ジャンナというのがこの女性の名前なのだろう。「師範代」は役職名だろうが、初めて聞いた言葉だったので、この時のレオにはそれがどういうものなのかよくわからなかった。

「……」

 ジャンナと呼ばれた女は、その失礼な態度に対して何も言わず、黙って男の言葉の続きを待った。
 男は失礼な姿勢を変えずに再び口を開いた。

「迷惑をかけてすまなかった。……このこと、他の人には黙っていてくれないか?」

 複数人で襲い掛かっておいて何という勝手な言い草だ、と、レオは思った。
 が、当のジャンナは「わかったわ」と、即答した。
 その軽い返事が意外だったのか男は暫し沈黙したが、

「……すまない」

 という、お礼なのか謝罪なのかはっきりしない返事をしながら、立ち上がった。
 そして、男はジャンナに背を向けたまま、とぼとぼと、歩き始めた。
 男が進む先には林しか見えない。その方角が帰り道で無いことは明らかであったが、男は振り返らず、そのまま林の中へ入っていった。
 そして、男の背が見えなくなった頃、ジャンナはレオに向かって口を開いた。

「それで、あなたはなんなの? あいつらの仲間には見えないけれど」

   ◆◆◆

 レオとジャンナは話の場を茶店に移した。

「いらっしゃい! ご注文は?」

 店員が気持ちの良い笑顔を見せながら接客に来る。

「私は豆餅と抹茶で」

 即答したジャンナに対し、レオは注文表を睨み、黙った。
 彼は何を注文すればわからず悩んでいる、または金が無くて困っている、それを察したジャンナは口を開いた。

「彼にも同じものを」

 これにレオが戸惑うような表情を見せると、ジャンナは、

「ここは私がおごるわ」

 と、爽やかな笑みを見せながら言った。
 その気持ちの良い表情に対し、レオは申し訳なさそうな顔を返すことしか出来なかった。
 注文はすぐに運ばれてきた。
 ジャンナは豆餅を一口含んだ後、口を開いた。

「それで、レオと言ったかしら? あなたはこの勲章のことが知りたいのね?」

 レオが頷きを返すと、ジャンナは再び口を開いた。

「これが何なのか知らないということは、あなたよそ者ね? どこから来たの?」

 レオはルーカスが治めていた街の名を口にしたが、ジャンナは知らぬようだったので、氷族と雷族の国境沿いにある街だと説明した。
 すると、ジャンナは顔から表情を消しながら、レオに尋ねた。

「……あなたは氷族の人なの? それとも雷族?」

 これはレオにとって困る質問だった。
 だから、レオは、

「……わかりません」

 と、正直に答えた。
 ジャンナは不思議そうな表情で、再び尋ねた。

「自分が何者なのか分からないの? どういうこと?」

 レオはここに来た経緯を説明した。
 自分が生まれた場所は氷族と雷族が混じって生活しているところであったこと、死んだ母が形見としてその勲章を渡してくれたこと、そして、住んでいた街が氷族に占領されてしまったことを。

「……」

 レオの話を聞いたジャンナは暫し沈黙した後、

「……勲章のことを話す前に、ひとつ忠告しておくわ」

 と、真剣な顔で口を開いた。

「ここでは自分は氷族の人間だと言いなさい」

 これにレオが「なぜ?」という顔をすると、ジャンナは答えた。

「この地には大きく分けて三つの民族が暮らしているわ。一つは元々住んでいた武の民、あとの二つが外から移住してきた氷族と雷族よ。氷族と雷族の関係については説明するまでも無いわよね?」

 レオが頷きを返すと、ジャンナは言葉を続けた。

「この地では雷族より氷族の方が幅を利かせているのよ。雷族だというだけで辛い目にあうわ。……だから、生きるための術と割り切って自分は氷族だと言い張りなさい」

 炎族という者達もいるのだが、彼らは少数であるためジャンナは話に出さなかった。

「……」

 ジャンナの忠告にレオは何も答えなかった。
 素直に従う心づもりであった。が、レオの口を閉ざさせたのは、ロイに知られたら嫌な顔をされるだろうなという、この場にいない友への無意味な配慮からであった。
 そして、レオの無言を肯定と受け取ったジャンナは、胸にぶら下がっている勲章を指でつまみながら口を開いた。

「それで、この勲章のことだけど――」

 待ち望んでいた話にレオの目が見開く。
 レオがジャンナの胸元を凝視するその様は、傍目には不埒な光景に映ったであろうが、ジャンナは気にせずに話を続けた。

「これは……ええと、そうね……簡単に言えば、武術の達人に与えられるものよ」

 自分は武術の達人であると発言することが恥ずかしかったのか、ジャンナの歯切れは悪く、その顔は僅かに紅潮していた。
 これにレオが「?」というような顔を返すと、ジャンナは慌てて訂正した。

「ごめんなさい、言い方を変えるわ。これは『認められた者』に与えられるものなのよ」

 認められた者? 何が? 何に? ますます意味が分からなくなったレオは「???」というような顔をした。
 それを見たジャンナは困ったような顔で説明した。

「あ……そうね、これじゃ分かるわけ無いわよね。ええと、つまり、同じ勲章を持つ者から実力を認められれば手に入るものなのよ」

 えらく曖昧だなと思ったレオは尋ねた。

「実力を認められるっていうのは、用意された試験か何かを突破しろ、ということですか?」

 ジャンナは首を振った。

「そういうのは無いわ。定期的に試合があるけど、それで良い結果を残したからといってこの勲章が手に入るとは限らないわ」

 じゃあどうすればいいのか。レオがそれを尋ねる前にジャンナは答えた。

「私たちの間では『気づいた者』、または『目覚めた者』だけがこの勲章を手にすることが出来ると言っているわ」

 気付く? 目覚める? 何に? 
 それをレオが尋ねるより早くジャンナは再び口を開いた。

「さっきあなたは突破するって言ったけど、その表現がしっくり来るわ。達人と呼ばれる者とそうでない者には壁があるから。『気づいた者』、または『目覚めた者』だけがその壁を破れるのよ」

 レオは不思議に思った。どうしてこんなに遠まわしな言い方ばかりするのか。
 その疑問の答えをジャンナは口にした。

「何に気付けば良いのか、と聞きたそうな顔をしているわね。いいわ、答えてあげる。……それは教えられないのよ」

 レオが「どうして」と尋ねるよりも早く、ジャンナは言葉を続けた。

「……みんな怖いからよ。自分と同じ土俵に上がって来られるのを恐れているのよ」

 これはなんとなく理解できた。ジャンナはその「なんとなく」の部分を言葉で説明した。

「達人同士だから仲良く出来るとは限らないわ。立場の違い、利害の不一致から衝突することもある。今の氷族と雷族の関係を考えれば、簡単に想像できるでしょう?」

 レオは頷きを返し、言葉の続きを促した。

「ここでは雷族よりも氷族が幅を利かせてるって言ったけど、それは達人の数、勲章持ちの数にはっきりと表れているわ。現在、雷族でこの勲章を持っている者はいない」

 いや、一人いた。
 しかし、ジャンナはそれを話す必要は無いと判断した。
 その者がこの地を出て行ってからかなりの時間が経っているし、彼が何をしてどうなったのかは、耳にして気持ちの良い内容では無かったからだ。

「……」

 レオが沈黙を返すと、

「もう聞きたいことは無さそうね。それじゃあ、私はこれで帰らせてもらうわね」

 そう言って、ジャンナは会計を机の上に置きながら席を立とうとした。
 レオは慌てて口を開いた。

「すいません。もう一つだけ聞いてよろしいでしょうか?」

 ジャンナが「何?」という表情を返す。

「あの……聞いていいことなのか分からないのですが、先程のあれは一体……?」

 この時、レオが尋ねた「あれ」とは男を投げた技のことを指していたのだが、ジャンナは違う意味で受け取った。
 ジャンナは即答しなかった。腰を少し浮かせた姿勢のまま考える様子を見せた。
 そして少しして、ジャンナはゆっくりと腰を下ろしながら口を開いた。

「……彼はうちの道場の門下生の一人よ」

 彼とは最後まで残っていた男のことを指しているのだろう。
 ジャンナは落ち着いた口調で事の顛末を語り始めた。

「彼がどうしてあんな事をしたのかというと、ある大会で優勝した彼を私がその場で叩きのめしたからよ」

 レオが「なぜそんなことを?」と尋ねると、ジャンナは答えた。

「彼は少し調子に乗りすぎていたの。その気質は残酷性という形で試合に表れていたわ」

 ジャンナは湯呑みの底に茶が残っていないことを確認しながら、言葉を続けた。

「道場でもそんな調子だから後輩弟子からの評判も悪くてね。このままだといずれ町で何か問題を起こしそうだと思ったから」

 これに、レオはおずおずと尋ねた。

「あの、それならどうして……」

 レオはそこで言葉を切った。そこから先の台詞は安易に口にしてはいけないと思ったからだ。
 しかし、ジャンナはその台詞をあっさりと口にした。

「どうして彼を痛めつけずにそのまま帰したのか、と聞きたいのかしら?」

 レオが頷きを返すと、ジャンナはゆっくりと答えた。

「……ここで潰してしまうには惜しいと思ったからよ。彼、才能はあるの。基本は全部出来ているし、応用力もある。彼に足りないのは心だけなのよ」

 才能があるのにこの人にはまったく歯が立たなかったのか。勲章を持つ者とそうでない者の間には一体どれほどの差があるというのか。
 そして、ジャンナは少し遠い目をしながら口を開いた。

「たぶん、彼はまた私に挑んでくるわ」

 レオが何故と尋ねるまでもなく、ジャンナはそう思った理由を口にした。

「彼、負けず嫌いだから」

 ジャンナは空になった湯飲みをもてあそぶように手の中で回しながら言葉を続けた。

「……今回の件で彼は私との差をはっきりと自覚したはず。次に挑んでくる時はそれなりの研鑽を積んでくるでしょう。その時、もし彼が目覚めているとしたら、私に勝ち目があるかどうかは分からない。不利なのは間違いないわね。私、片腕だし」
「……」

 独り言のようなジャンナの言葉に、レオは何も言えなかった。
 しばらくして、ジャンナは「でも」と言葉を繋げた。

「私に再び挑んでくる前に、彼はこの世の中に負けてしまうかもしれない」

 レオが尋ねるまでも無くジャンナはそう思ったわけを語り始めた。

「今日の事はきっと噂になるわ。私は黙っているつもりだけど、子分の誰かが口を滑らせるかもしれない。それになにより、あなた以外にもあれを見ていた人はけっこういたから」

 複数の人間に覗き見られていた? まったく気がつかなかった。なんでそんなことが分かるのか。
 レオはそう思ったが口にはしなかった。わざわざ尋ねるようなことでも無いし、聞いても答えてくれないような気がしたからだ。

「……彼は道場から仕事を請けることで生計を立てているのだけど、そうなるとそれが出来なくなるわ。とすれば、彼は道場をやめて仕事を探すしかなくなる。でも、彼が手に職を持っているなんて話は聞いたことが無いわ」

 あの男には体しか資本が無いと、ジャンナは言っているのだろう。
 それの何が問題なのかこの時のレオには分からなかった。
 そしてレオは少し不安になった。手に職が無いのは自分も同じだったからだ。
 レオは知らなかった。そのような者達は俗に道場くずれと呼ばれており、彼らが辿ることが出来る道はごく一部の幸運な人間を除いて主に二つしかなく、そのどちらも悲惨なものであることを。
 そして、そのうちの一つを経験することになることも、この時のレオは知る由も無かった。
 対し、ジャンナはそんなレオの不安をよそに、次のように言葉を締めくくった。

「……彼は私を恨むかもしれないわね。まあ、でも、慣れてるからいいけどね」

 それも完全な逆恨みだろうとレオは思ったが、同情や慰めの言葉をかける必要は無いと判断した。ジャンナが笑みを浮かべていたからだ。
 そして、ジャンナは笑みをそのままに、

「これで話は終わり。それじゃあ今度こそ帰らせてもらうわね」

 と言いながら席を立った。
 これにレオは丁寧な礼を返したが、ジャンナは「じゃあね」と、簡素な返事だけしてその場から立ち去っていった。

「……」

 場に残されたレオは湯のみに残っていたわずかな茶を飲み干しながら、今後のことについて思考を巡らせた。
 既にレオは勲章を取り戻すことをあきらめていた。
 ベラ夫人が卸問屋から聞いたという、この地で勲章を見た話、それ自体は本当なのだろう。
 しかし、それが母の形見と同じものである可能性は恐ろしく低い。既に換金され、別のものに姿を変えてしまっていると考えるべきだろう。
 だが、あの勲章の発祥がこの地であることははっきりした。
 それはつまり、この町が自分の生まれ故郷かもしれないということ。
 確認する価値はある。そう思ったレオは席を立った。

 この時、レオは気づいていなかった。

青年ドミニクイメージ

 ほぼ同時に後ろの席にいた男が立ち上がったことに。
 そして、その男の懐にレオが捜していたものが秘められていたことに。

   ◆◆◆

 その男はレオに続いて店を出た後、盗み聞いた内容を仲間の男に伝えた。

青年バートイメージ

「その話、本当なのかよ?」

 仲間は茶化したつもりであったが、話した男はこれに睨みを返した。

「俺様を疑うのか?」

 冗談が通じなかった、そう思った仲間は慌てて、

「いや、ごめん、そういうつもりじゃないさ」

 と、弁明の言葉を吐いたが、男はさらに睨みをきかせながら口を開いた。

「ならどういうつもりだったんだよ?」
「……」

 仲間は黙り込んでしまった。
 そしてしばらくして、男は馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、大きく口を開いた。

「なにびびってるんだ? 冗談だよ、冗談!」

 悪趣味な駆け引きであった。
 男はかすれた笑い声を発しながら、仲間の背をばんばんと叩いた。
 これに仲間の男は引きつった笑みを返すことしか出来なかった。

 我々はこの二人を知っている。
 二人とも成長し変化している。しかし、その顔には幼き頃の面影が残っている。

「しかしツイてるぜ。まさかこいつがそんな値打ちものだったとはなあ」

 そう言って、男は笑みを浮かべたまま懐からあるものを取り出した。

ゴボウセイの勲章

 それはジャンナが持っていたものと同じ勲章であった。

 我々はこの勲章を知っている。
 長い時間による劣化が見て取れる。が、その独特の光沢と輝きを我々は知っている。

「どうりで、こいつをぶらさげていると町のやつらの腰が低くなるわけだ」

 笑みを浮かべたままなめるように勲章を見つめるこの男の名は、

「ほんと、俺たちツイてるな、ドミニク」

 そう、ドミニクだ。エディを殺し、レオの勲章を女中から強奪したあのドミニクだ。

 仲間の男の名は当然、

「なあ、あれを見てみろよバート」

 そう、バートだ。
 ドミニクが指差すほうにバートが視線を移す。
 するとそこには一人の商人らしき者が立っていた。
 ドミニクは笑みを下卑たものに変えながら指を下ろし、口を開いた。

「すげえよなあ。全身金ぴかだぜ。一体どれだけ稼いでるんだか、想像もできねえ」

 これにバートは同じような笑みを浮かべながら頷きを返し、口を開いた。

「黄金の国と呼ばれてるっていう話は、嘘じゃあなさそうだな」

 バートが言うとおり、この中央の地は「黄金の国」とも呼ばれている。
 それは言葉通りの意味であった。この地からは多くの黄金が産出されているのだ。

 しかし――

「黄金」の呼び名とは対照的に、民の表情には影が差している。以前レオが「病的」と表した暗い顔をしている。明るいのは商人だけだ。

 これもレオの言葉の通りである。彼らはみな体を病んでいるのだ。
 彼らが何の病に冒されているのかは後に明らかになる。

「なあ」

 しばらくして、ドミニクはバートに再び声をかけた。

「あんな風になりてえと思わねえか?」

 その顔は真剣そのものであった。
 対するバートは困ったような顔で答えた。

「……そりゃあ、なりてえけど、どうしたらなれるかなんて、さっぱりわからねえよ」

 歯切れの悪いバートに対し、ドミニクははっきりと声に出した。

「馬鹿だなあバート、俺たちも同じことをやればいいのさ。商売すればいいんだよ」

 これにバートはますます困った顔をしながら口を開いた。

「商売を始めるたって……どうするんだよ。準備には金と時間がかかるだろうし、人手もいるだろう」

 乗り気では無い様子のバートに対し、ドミニクは馬鹿にしたような顔で答えた。

「準備なんていらねえよ」

 この言葉にバートが「わからない」というような顔を返すと、

「奪えばいいんだよ。その方が手っ取り早いだろ?」

 ドミニクは残酷な笑みを浮かべながらそう言い放った。

 ドミニク、彼の頭の中に真っ当な道を歩むという選択肢は存在していなかった。彼の心根は幼少時から全く変わっていないのであった。

   ◆◆◆

 同日、夜――
 中央から遠く離れたある場所で準備をする者がいた。

「ロイ、こんな時間に一体何してるんだ?」

 薄暗い部屋の真ん中で袋を広げ、その中に保存食や着替えやらを詰め込んでいるロイに向かってアレックスは尋ねた。
 何をしているのかは見ただけで分かっていた。遠出の準備をしているのは明らかだ。それでもアレックスは尋ねずにはいられなかった。
 そして、ロイはアレックスの方に視線すら返さず、手を動かしながら答えた。

「見て分かるだろう。ちょっと出かけるんだ」

 からかっているかのようなロイの返事に、アレックスは再び尋ねた。

「大荷物だな。どこへ行くつもりなんだ?」

 ロイはすぐには答えなかった。荷造りを終えてからようやく、ロイはアレックスの方へ顔を向け、口を開いた。

「中央だ」
「中央? なんでそんなところへ行くんだ?」

 ロイは用意した荷物を「よいしょ」と背負いながら答えた。

「武術を習うためだ」

 そして、ロイは一呼吸分間を置いた後、言葉を続けた。

「考えたんだ、色々。でもこれしか思いつかなかった。強いやつに勝つには何か違うものを、技を身につけるしかないと思ったんだ」

 そう言いながらロイはアレックスの横を通り抜け、ドアの方へ歩き始めた。
 その背をアレックスが「おい」と呼び止めると、

「本当は誰にも言わずにこっそり消えるつもりだったんだ。アレックス、このこと、イライザさんには内緒にしておいてくれ」

 振り返らずにロイはそう答えた。
 そしてロイは最後に、「落ち着いたら手紙でも書くよ」と言い残し、部屋から出て行った。

「……」

 残されたアレックスはしばらく部屋の中で立ち尽くした。
 アレックスは取り留めの無いことを連想していた。
「もしスコットに会うことがあったらよろしく頼む」と言いそびれた後悔から始まり、次に思ったのは未来のことについてであった。
 ロイはいつか帰ってくる。それはたぶん間違いない。
 なぜなら、ロイが武術を学ぶ目的は詰まるところ復讐のためだからだ。強いやつに勝ちたい、強くなりたいという欲求もあるだろうが。
 そしてふと、止めなくて良かったのだろうか、という考えがアレックスの心に浮かび上がった。
 が、その考えはすぐに掻き消えた。ロイがやろうとしていることはそんなに悪いことではないように思えたからだ。
 今後、雷族と氷族はどうなるのか、それを考えるとどうしてもそう思えてしまう。
 ロイは戦いに一生を捧げることになるかもしれない。
 それが不幸の道だと決まっているならば止めるべきだっただろう。しかしそうとは限らない。
 結局、自分はロイに対して何と言えば良かったのか。

「……」

 しばらくして、考えても無駄だと思ったアレックスは思考を払うように首を振った。

(……馬鹿か俺は。何が正解かなんてわかるわけないじゃないか。未来のことは神様にしかわからないのだから)

 そして、アレックスの心には「どうしてこうなった」という疑惑が残った。
 あの荷車の襲撃からおかしくなったような気がする。いや、もしかしたらそれよりもっと前から少しずつおかしくなっていたのかもしれない。

「……」

 しばらくして、アレックスはまた首を振った。過去のことを考えてもしょうがないと思ったからだ。

 アレックスにはもう祈ることしか出来ないのかもしれない。神のサイコロは既に投げられた後なのだから。

   第十二話に続く
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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稲田 新太郎

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音楽好きな物書き。ゲームも好き

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