シヴァリー 第三十話

   ◆◆◆

  武技交錯

   ◆◆◆

「お兄様!」

 その背を見たアンナは反射的に立ち上がった。

「……っ!」

 が、足を前に出すことは出来なかった。
 体に走った激痛に膝が屈する。
 思わず歯を食いしばる。だが、それでも足は動かなかった。
 今のアンナには、兄の背に不安そうな視線を送ることしか出来なかった。
 
 
   ◆◆◆

 アランとリック、二人の戦いはすぐに始まった。
 リックがアランに向かって地を蹴る。
 その直前、アランが持つ神秘は、彼の脳裏に台本を浮かび上がらせた。
 瞬間、アランは驚きの色を浮かべた。

『右足で踏み込んで来ると同時に胸部を狙った右中段突きが来る。間髪入れずに腰を捻って左中段。ここまでで相手の足元を崩せていなければ右足での脛(すね)蹴りが来る。脛蹴りの有無にかかわらず次手は様子見からの上段。これは右手での可能性が高いが、様子見による状況判断次第では、脛蹴りからの連蹴りとなる可能性もある』

 この情報量が一瞬で流れたのだ。驚くのも無理は無かった。
 当然これだけの情報量を文章では即座に把握することはできない。台本は断片的な映像と、攻撃される部位への悪寒という形でアランに伝えていた。
 そして直後、アランの胸に向かって一筋の閃光が走った。

(中段!)

 光る剣先で二つの閃光の軌跡を逸らす。
 速い。知っているから防御出来た。
 次は――そうだ、脛蹴りだ。
 素早く左足を後ろに引く。
 しかし、僅かに迷ったのが仇となった。

(!)

 アランの視界が傾く。
 しまった、遅かった。掠っただけだが、こちらの足元を崩された。
 まずい。体勢を立て直す前に上段が来る。拳か? 蹴りか?

(蹴り!)

 鞭のように放たれた右足を剣先で受け、刀身の上に流し、跳ね上げるように逸らす。
 その衝撃にアランは姿勢を崩し、後ろによろめいたが、リックは追撃を仕掛けてはこなかった。
 間合いが開き、仕切り直しとなる。
 この時、アランの表情はようやく驚きの形を完成させた。

(なんて速さだ。人間の動きとは思えない!)

 だが、何よりも恐ろしいのはこれが全力では無いということだ。
 今のリックは全力を出してはいない。いや、出せないのだろう。
 その動きはどこかぎこちない。おそらくアンナとディーノがつけた傷のせいだ。
 だから受け切ることが出来た。もしリックが万全の状態であったならば、アンナとディーノが傷をつけてくれていなかったら、今の一合で自分は殺されていた。

(……っ!)

 緊張から自然と奥歯に力がこもり、アランの表情が驚きからしかめ面に変わる。
 意外な事に、リックも同じような表情を浮かべていた。先の一合でつけられた手足の刀傷がリックの意識を揺さぶっていた。

(馬鹿みたいな切れ味は健在か)

 目はアランを中央に捉えていたが、その意識は傷の方に向いていた。

(足のほうは少し深く斬られたか。あの蹴りは失敗だった)

 いや、今はあの剣の切れ味よりも意識すべき事がある。

(……しかし、まさか受け流されるとは思わなかった)

 自分は先の連携でアランの息の根を止めるつもりだった。この速さをもってすれば全力を出さずともすぐに終わるだろう、そう思っていた。
 あなどっていた。自分が奥義を得て強くなったように、アランも研鑽を重ねて強くなっていたのだ。アランを引き離したと、自分はアランより遥かに強くなったという驕りが心の中のどこかにあった。

(……)

 その緩みを引き締めるように、構えを整える。
 直後、リックは再び地を蹴った。
 一足かつ一息で間合いを詰める。
 同時に、アランの神秘が発動する。

『様子見を挟みながら適当に手を出し、武器弾き、小手打ち、またはこちらの体勢を崩すことを狙って来る。初手は右上段。次手は左中段』

 先とは違い幾分か簡潔な内容であった。
 だが、その速さは変わらない。

(来る!)

 と、思ったと同時にアランの視界に閃光が走る。
 ぱっ、と光ったようにしか見えないほどの速さ。だが、何が来るかあらかじめ分かっていれば対応することは出来る。
 アランは閃光の軌道上に刀の切っ先を置いておくように構えたが、

(?!)

 その切っ先がリックの拳を迎え入れることは無かった。触れる直前にリックが拳を引いたのだ。
 右拳を脇の下に戻したリックは、アランの構えを、刀の切っ先が自身の拳を狙っていたことを確認し、思案した。

(やはり反応されている? もう少し様子を見てみるか)

 アランの構えを観察しながら、再び拳を構える。
 瞬間、アランはかつて無かったことを経験した。

『次手は左上段に変更』

 台本の内容が書き換わったのだ。
 直後、リックの左脇下から閃光が走った。

「!」

 驚きを浮かべながら、刀の向きを変える。
 だが、またしてもその切っ先がリックの拳に触れることは無かった。
 そして台本が更新され、続きが提示される。

『しばらくは上段の連打。こちらの反応を探るための牽制だが、こちらの視線を上に釘付けにさせる狙いもある』

 瞬間、リックが再び閃光を放った。
 右、左、右、右、左。
 一呼吸の間に放たれた五発の拳を刃で迎え撃つ。
 速い。だが対処は出来る。何が来るか分かっているのもあるが、相手は拳を突き出しているのに対し、こちらは切っ先を向けるだけ。動作量の差で速度の差を埋めることが出来る。
 しかし触ることが出来ない。アランが刀の切っ先を突き込むよりも、リックが拳を引くほうが圧倒的に速い。
 そして数瞬の間を置いて再びの左。からの右、左、左、右。
 同様に刃で迎え撃つ。
 しかしやはり触れない。まるでからかわれているかのように、ひらりするりと拳が逃げていく。
 アランの緊張が増す。いつまでもこんなやり取りが続くはずは無い。どこかで仕掛けてくるはずだ。
 そして、その時はすぐに来た。
 アランの背筋に悪寒が走る。
 と同時に、台本は悪寒の正体を提示した。

『身を低くしつつ右足で踏み込み、刀の下に潜り込むと同時に胸を狙った突き上げ右掌底』

(下!?)

 アランが視線を下に移すのと、リックが身を屈めたのはほぼ同時であった。
 上に向いた刃を下に返しつつ、振り下ろす唐竹割りで迎撃すべきか? それとも下段突き?
 アランの本能は理性が一瞬の間に提示したその二つの選択肢を刹那の時間で却下した。

(いや、駄目だ!)

 迎撃は間に合わない、アランは後ろに飛ぶように地を蹴った。
 瞬間、アランの身に再び悪寒が走り、台本が書き換わる。

『狙いを胸から小手または肘に変更』

 新しい内容が提示されたと同時に、アランは刀を持つ左手を真上に振り上げた。
 直後、アランの眼前を光る豪腕が昇り抜ける。
 同時に、台本が新しい内容を提示。

『左足で踏み込みつつ、空いた胸を狙って左中段突き』

 地に足が着く前に次撃が来る。が、迎撃は可能。間に合う。
 振り上げた刀を、リックの左拳が放たれる瞬間と軌道を予測して振り下ろす。
 だがその時、アランは刀が重くなるような感覚を覚えた。

『手刀での武器弾きに変更』

 こちらの迎撃動作に反応された? まずい! 刀を弾かれたら追撃を防御出来なくなる!

(止まれ!)

 振り下ろされる刀を止めるために腕の筋肉と間接を硬直させる。
 直後、目の前にいるリックが手刀を走らせた。
 台本が教えてくれた通りの軌道。
 減速し始めているが振り下ろされ続ける刀、光の尾を引くリックの手刀、二つの軌跡はそのまま十字を描くようにぶつかりあう――

 ――ことはなかった。寸でのところでアランの刀は止まった。
 そして、リックも同じように衝突の直前で手刀を止めていた。アランの刀の減速に反応したのだ。
 その様は双方同時に寸止めしたような奇妙な光景であった。
 アランとリック、両者の視線が交錯し、動きが硬直する。
 だがそれは一瞬のことだった。

『左上段』

 アランの神秘が発動したのと、リックが左拳をアランの顔面に向けて放ったのはほぼ同時であった。

「!」

 アランの視界一杯に閃光が迫る。
 反射的に背を反らす。
 が、

「あぐっ!?」

 アランの顔面に熱く鋭い痛みが走った。
 踏み込み動作の無いただの手打ち。それでもアランの鼻っ柱を砕き、その脳を揺さぶるには十分であった。
 アランの意識が薄らぎ、平衡感覚が失われる。
 揺らめく視界の中、正面にいるリックが再び拳を構える。

『次手は■■蹴りから、上段突きへの連携』

 台本は情報を提示したが、意識が薄くなっているアランはその一部を読み取ることが出来なかった。
 アランの中で焦りが増す。

(蹴りが来る!? 狙いは?! 上段? それとも中段?!)

 わからない。だからアランは後ろに跳ぶように地を蹴った。
 直後、リックの腰から閃光が伸びるように走る。
 それは正面に真っ直ぐな、ディーノを押し飛ばした前蹴りであった。
 速い。見てから防御できる代物では無い。
 光る槍のようなその前蹴りは、アランの腹部に深々と突き刺さった。

「げほっ!」

 中身が押し潰されたかのような衝撃がアランの腹の中に広がり、背中へと突き抜ける。
 呼吸が出来ない。その苦しさにアランが腰を折るよりも早く、今度は額に上段突きが突き刺さった。
 先と同じ助走の無い手打ちであったが、アランの額はぱっくりと割れた。
 意識が白く染まる。頭から血を流しながら、勢いよく後ろに仰け反る。
 額から流れ出す血が綺麗なアーチ状の軌跡を描くほどの勢い。アランの首と背骨が悲鳴を上げ、その勢いに引きずられるように脚が後ろによろめいた。
 そして、リックの瞳にがら空きになったアランの胸部が映りこむ。
 リックは素早く拳を構え直しながら踏み込み、無防備になったアランの胸、その奥にある心臓に向けて光る拳を――

「!」

 拳を放とうとした瞬間、迫る何かの気配にリックはその手を止めた。
 気配がする方向へ視線を流す。
 そして迫る物の正体を掴んだリックは、目を向けている方向へ体を旋回させつつ、肘のバネを生かして裏拳の要領で拳を振るった。
 直後、リックの拳は飛来してきたその物を叩き払った。
 閃光と火花が散る。リックを襲った物は回転しながら中空を舞った。
 それは槍斧であった。
 飛んで来た方向に視線を移す。
 いつの間に移動したのか、ディーノは少し離れたところにいた。傍にはクラウスの姿もある。
 ディーノは仰向けの姿勢から上半身だけを起こした体勢であった。その足元には引き摺ったような跡があり、クラウスが倒れたディーノを引っ張って運んだであろうことが見て取れた。
 リックは思わずディーノを睨み付けた。が、当のディーノはリックのことなど見ておらず、その視線は倒れそうになっているアランに向けられていた。
 ディーノは声を上げた。

「堪えろアラン! 倒れたら終わりだぞ!」

 その声に、アランの体は「ぴくり」と反応した。
 そして次の瞬間、ふらついていたアランの足は突如その役目を思い出したかのように、勢いよく地面に振り下ろされた。
 だん、という重い音と共に砂埃が舞い上がる。
 と同時に、アランの意識は覚醒した。

(気を失っていた?!)

 頭の中に残っている霧を振り払いながら、構えを整える。

(あの声が、ディーノの声が無かったら踏ん張れなかった!)

 刀の切っ先を突きつけながら、リックの像を視界の中央に捉える。
 が、アランの視界はまだ揺れていた。
 そこへ、今度は赤いカーテンが視界の上から降りてくる。

(目が……!)

 思わず目を細める。が、大きく割れた額は容赦無くアランの瞳に血を流し込んできた。
 視界が赤く濁り、ぼやける。深い霧に覆われたように見えない。
 そして、アランの体に悪寒が走った。

(攻撃が来る!)

 高まる緊張。刀を握る手に汗が滲んだと同時に台本が開いた。

『踏み込み右上段突き。ただしこれは当てる気の無い視線の陽動で、本命は左足による下段蹴り』

(! これだ!)

 瞬間、アランは光明を見出した。初手に当てる気が無いということは、次手の迎撃だけを考えればいい。
 訪れた好機に焦燥感が高まる。逸(はや)る気持ちに刀の切っ先は自然と下がっていった。

(まだだ、堪えろ! よく引き付けるんだ!)

 今警戒されては意味が無い。焦る気持ちを抑え、切っ先の高さを元に戻す。
 直後、リックの足が前に出た。
 来る。アランは本命に備えて姿勢を下げた。
 リックが右拳を突き出す。
 当てる気が無いとは思えない速さ。距離感もいい。あと半歩踏み込めば届くかもしれない、そんな距離。台本が無ければ目線を奪われていただろう。
 リックが拳を引く。それと同時に、後ろに引いていた左足の踵がつま先立ちをするように浮き上がった。

(今だ!)

 刀の切っ先を下に向ける。
 だが、次の瞬間――

(!?)

 ぞわり、と、アランの背筋に悪寒が走った。

『飛び膝蹴りに変更』

 気付いた時には左足だけでなく右足の踵も浮き上がっていた。
 伸びていた左足は鋭角に折りたたまれ、その先端にある膝はアランの顔面に向けられている。
 慌てて、下段に向けていた刀を膝の迎撃に向かわせる。
 駄目だ、間に合わない。
「回避」という単語がアランの意識に浮かび上がる。しかし、その時既にリックの膝は目の前であった。
 少しでも距離を――そう考えたアランは顔を真横に向けるように首を捻った。
 苦し紛れの行為。来る痛みから逃げようとしているようにも見える。
 そして、リックの硬い膝がアランのやわらかい頬にめり込んだ。
 衝撃に頬が波打つ。顎が軋みを上げ、頬骨が砕ける。
 強烈。そうとしか言えない痛み。
 アランの意識は再び白く染まり、闇に沈んだ。

   ◆◆◆

 闇に落ちたアランの意識であったが、その思考能力は失われていなかった。
 何も見えない。しかし恐怖は無い。
 感覚がとても鋭くなっている。どこに何があるか、誰が何をしようとしているのか手に取るようにわかる。時間が遅くなったかのように全てがゆっくりと動いている。
 あの炎の使い手にやられた時以来の懐かしい感覚。あの時と違うのは浮遊感に包まれていることだ。
 膝蹴りを受けた自分は後ろに倒れようとしている。そして、リックはそんな自分に追撃を仕掛けてきている。蹴りを叩き込むつもりだ。
 自身の状態を確認する。肋骨二本にヒビが入っている。膝を受けた頬骨は砕けている。額からの出血は止まっていない。
 何も問題は無い。剣を使うのに差し支えは無い。
 体に力を込める。ここで倒れるわけにはいかない。体勢を立て直し、反撃だ。

   ◆◆◆

 飛び膝蹴りを決めたリックは、そのまま空中で曲げていた左膝を伸ばしつつ、右足に魔力を込めた。
 その瞳の中央にあるのは吹き飛び、倒れつつあるアランの姿。
 狙いは胴。アランの背が地に達する前に、その無防備な腹に蹴りを入れる。
 右足に魔力が満ち始める。それを感じ取ったリックは足に力を込めた。
 だが次の瞬間、リックが足を動かすよりも先に、アランが動いた。
 アランは体を小さく丸めるように膝を折り畳みながら、後ろに転がるように回り始めた。
 それは後方への回転受身であると見えた。
 そうはさせない。地に降りられる前に攻撃を入れる。
 狙いを変更する。新たな目標は背中。回転する体が背後を晒した瞬間、その真ん中を通る背骨に蹴りを刺し込む。
 いつでも蹴りを出せるように、右足を構えたまま時を待つ。
 そして数瞬の後、アランはリックが期待した通りの動きを見せた。
 逆立ちをするように頭が下へ向き、広々とした背中をリックの眼前に晒す。

(ここだ!)

 直後、リックは横から回すように右足を走らせた。
 光る爪先が地に水平な楕円の軌跡を描く。
 しかし直後、

「!」

 その爪先に迫るもう一つの閃光をリックは見つけた。
 それはアランの後頭部の下から伸びていた。
 その光はぎらぎらと輝いていた。光魔法だけでは無い、太陽の反射も含んだ光だった。
 それがアランの頭の下から伸びて来ている。それが意味するものは――

(斬撃!?)

 そうとしか考えられなかった。アランは受身を取りながら曲芸のような回転斬りを放っているのだ。
 その軌道は右下から左上に走る切り上げ。背骨を狙うこちらの蹴り足を完全に捉えた軌道だ。
 即座に奥義を発動する。
 その用途は防御。奥義の加速をもってすれば先に攻撃を叩き込むのは容易。だが、たとえそれでアランの背骨を砕き、その身を吹き飛ばしたとしても、この斬撃は止まらず自分の足を切り飛ばすだろう。相討ちは望むところでは無い。
 蹴りの軌道を背骨狙いから刀を叩き払う方向に変える。
 急な変更に股関節と膝が悲鳴を上げる。水平に走っていた爪先は、左下へ流れ落ちるように軌道を変えた。
 直後、斜めに昇る刀と斜めに降りる爪先、その二つが描く閃光は交差した。
 甲高い音が場に響き、衝突点から光の粒子が散る。
 このぶつかり合いを制したのはリック。その光る爪先はアランの剣の側面を捉え、叩き払った。
 その衝撃にアランの姿勢が崩れる。真っ直ぐな後方回転受身に横方向の力が加わったせいか、アランの体は斜めに回転しながら宙を舞った。
 が、それでもアランは両足での着地を決めた。
 それは綺麗なものでは無く、膠着も大きい不恰好なものであったが、その隙を追撃されることは無かった。
 リックは様子をうかがっていた。かなり慎重になっていた。
 その背には冷や汗が流れていた。先の一合、それはとても危ういものであった。咄嗟に蹴りの軌道を変えられたから良かったものの、もしあのまま蹴りを放っていたら、自分の足は切り飛ばされていたであろう。
 恐ろしい。そして奇怪であった。

(どういうことだ? こちらが攻撃を出す先に奴の剣が待ち構えている。まるで先回りされているようだ)

 思えば膝蹴りに切り換えた時もそうだった。

(手の内を読まれているとしか思えない。癖を完全に見抜かれている?)

 これまでのやり取りを振り返る。リックの脳内に駆け抜けるように流れた回想群は、手を出す先、足を出す先に、常にアランの剣先が待ち構えていた奇妙な場景(じょうけい)の連続であった。

(……そうとしか思えない。こちらの考えは筒抜けになっていると考えるべきか)

 ならば――と、リックは構えを変えた。
 閉めていた脇を少し開きながら、両手を添えるように前に出す。
 その手は手刀のような形。その指は丸みを帯びるように曲がっているが、綺麗に並び揃っていた。
 魔力を帯び、指が発光を始める。だがその輝きは均一では無く、先端部に集中していた。
 リックは武器弾きのみを重視した戦い方に切り換えていた。以前アランと戦った時にも用いた戦法で、かつてリックの母クレアが見せた指先で石を砕いた技と同じものである。
 だが、リックの魔力の集中精度はクレアには遠く及ばない。奥義を持ってしても、アランの剣を、鋼を砕くには至らないだろう。
 しかし剣を弾き飛ばし、使い手の体勢を崩すには十分。
 そして、リックは両手を前に出したまま、じり、と、立ったまま動かないアランに向かって間合いを詰め始めた。

   ◆◆◆

 対し、アランの視界はまだ回復していなかった。
 だがアランには奇妙なものが見えていた。
 暗闇の中にいくつもの光の線が見える。
 その線はどれも人の形を模していた。
 いや、逆か。人の体の中にこの光の線が走っているのだろう。
 いま目の前にある光の人形がリックで、少し離れたところにいる数え切れないほどの光の人形は兵士達か。
 そして、自分の体の中にも同じものが走っているのを感じる。

巡る光

 ほんの少し体を動かしてみる。
 筋肉と関節の動きに応じて、光の輝きと流れが激しくなるのを感じる。
 これは魔力なのか? 魔力は光弾や炎となって外に飛び出すだけのものだと思っていた。このように筋肉や関節の動きを補助しているなんて初めて知った。
 そういえば一流の魔法使いは自身の体に流れる魔力をはっきりと感じ取ることが出来ると聞いたことがある。父やアンナもそうだと言っていた。
 いや、これも逆か。自身の体に流れる魔力を正確に感じ取れるからこそ、魔力の扱いが上手くなり一流となれるのだ。
 だが、他者の魔力をこのように「見る」なんてことが出来るという話は聞いたことが無い。これもまた自分が持つ神秘のひとつなのか。
 目の前にいるリックと自分の魔力の流れを比べてみる。
 ……やはりこの男は、偉大なる者の血を引くこの者は特別だ。
 光の線の量がかなり違う。その線は全身に、手の先から足の裏まで張り巡らされている。だからこの男は足でも魔法が使えるのだ。
 それに比べて自分はというと、右腕は手の先まで太い光の線が走っているが、左手のほうは細くか弱い線が手の平に数本走っているだけだ。足に関しては太い流れがあるのは足首までで、足裏にはほとんど魔力が通っていない。
 ……嫉妬心がアランの心に湧き上がる。
 だが、その暗い感情の源泉はすぐに枯れ消えた。
 自分にはこの神秘がある。魔法使いとして弱くとも、剣があれば戦える。
 構えを再び整える。
 そうしているうちに、視界が回復してきた。
 視界はやはり赤に染まったままだった。しかし光の線はまだうっすらと見える。感じ取れる。
 目の前にいるリックは構えを変えた後、少しずつ間合いを詰めてきている。
 そろそろ仕掛けてくるな、アランがそう思った直後、リックに変化が起こった。
 リックの頭蓋の中を巡っている光の線の流れが急に激しくなったのだ。
 刹那、アランが持つもう一つの神秘が発動した。

『狙いは刀。魔力を集中させた指先での武器弾きが主な狙いだが、隙あらばその指で貫手(ぬきて)を仕掛けてくる』

 瞬間、アランはこの神秘がどういう能力なのかを理解した。
 そして同時に、目の前にいるリックが文字通り「輝いた」。
 リックの爪先に、足首に、膝に、目に痛いほどの眩い閃光が駆け巡る。
 だん、という重い音がアランの耳に届く。視界の中央にあるリックの像が陽炎をまとったかのように揺らぎ、ぶれる。
 踏み込んできた、その事実を言葉として脳が認識した時には既に目の前。
 リックの腕が閃光となって前に伸びる。
 感じた通りその狙いは刀。
 刃の側面を目掛けてリックの輝く指先が走ってくる。
 真っ直ぐでは無い。しなるような、鞭のような軌道。
 最短距離を詰めない曲線の軌道であったがそれでも速い。瞬(またた)く間に触れるか触れないかの距離。
 瞬間、アランは刀を握る手首をくるりと捻った。
 刀の先端が下に円を描くように回転し、ひらり、と、リックの指先を避ける。
 アランはその円軌道の勢いを利用し、刃の先端が元の位置に帰ってきたと同時に、伸びたリックの腕を目掛けて刀を突き出した。
 しかし届かない。突きの速度よりも遥かに速く、するり、と、リックの拳が引き逃げていく。
 リックが今度は逆の腕を前に繰り出す。
 アランの切っ先が同じように迎え撃つ。
 迫る拳。引く刀。返す刀。逃げる拳。
 光る拳と刃が交差する。何度も。何度も。
 迫る、引く、その繰り返しは徐々に速くなっていった。
 光の線を糸と見立てて織物をしているかのように、二人の間に幾重にも閃光が重なる。
 時折火花が散る。リックの指先がアランの刀に触れているのだ。
 その都度アランの刀は弾かれている。しかし大きくは無い。体勢を崩すことはおろか、隙すら生まれていない。
 アランは上手く衝撃を受け流していた。リックの指先から迸(ほとばし)る魔力を、時に引くように受け、時に刃を回転させて流していた。
 逆も然(しか)り。アランの刃がリックの手に触れることもある。が、赤い線を引く前にするりと逃げられている。
 アランの耳が新しい音を拾う。
 それは風切り音であった。光る拳と刃が空を裂く音だ。
 いつの間にか雑音が、兵士達の怒声が小さくなっている。
 二人の戦いを見た誰かがその手を止め、足を止め、口を閉ざし、それを見た別の誰かが何事かと同じように手を止めていた。
 それは凄まじい勢いで伝播していった。
 周囲はあっという間に静寂に包まれ、場には絶え間なく続く風切り音と、時折鳴り響く金属的な衝突音しかしなくなった。
 兵士達は皆、見入っていた。アランとリック、二人から一定の距離を取り、円陣となってその戦いを見守っていた。
 その表情はどれも放心しているかのようであった。皆、二人の戦いに惹かれていた。
 静けさに包まれた場と兵士達の心。しかし、彼らの視線の先、円陣の中心にある二人の心は対照的に猛(たけ)っていた。
 絶え間無く繰り返される単調ながら苛烈な命の駆け引き。
 凄まじい速度でめくられ、書き換えられるアランの台本。
 息つく間も無い。体が熱い。筋肉が、関節が、全てが酷使されている。
 頭が痛い。あまりの情報量に脳が焼けてしまいそうだ。
 手に、背に汗が滲む。緊張が、焦りが心を掻き立てる。
 アランの心は燃えるようであった。
 しかしそれは表面だけであった。
 アランの心、その奥底は対照的に静かで、澄んだ水のようであった。
 その冷たいほど静かなアランの深層意識は状況を、リックのことを冷静に分析していた。
 何という速度、そして対応力。
 台本の提示はいつも直前だ。単純にリックの動きが速いからこうなっているのでは無い。この男は考えると同時に動いているのだ。思考から動作に移るまでの速度が反射に近い領域に達しているからだ。
 だが、この男は自身の速さに振り回されていない。直感と反射神経だけに頼って動いているわけではない。こちらの動きを見て対応し、台本の内容を書き換えてくる。
 積み重ねた修練の成せる技なのだ。ほぼ無意識に体が動かせるようになるまで何度も何度も同じ型を繰り返したのだろう。
 もちろんそれだけではこの対応力は生まれない。きっと良い師が、良い相手がいたのだ。
 自分は真の魔法を、奇跡のような神秘を身に着けたと思っていた。
 しかしそれが間違いであることをこの男は教えてくれた。自分が持つこの能力はあくまでも精度の高い予測に過ぎないのだ。
 恐るべき、としか表現出来ない。この男は身体能力だけで自分の神秘を覆しているのだ。
 その一つの結論が、アランの深層意識の中に大きな感情を作り出す。
 それはゆっくりと浮かび上がった。
 心の表面は緊張と焦りで燃えるように荒れていたが、その浮かんできた感情はそれらを押し流した。
 そしてアランの心はその一つの感情に支配された。
 それは驚嘆の念であった。
 その大きな感情は、心だけでなく、その身も震わせた。
 恐怖による震えでは無い。悪寒は感じない。むしろ心地よい。

「うおぉ!」

 気付けば声を上げていた。
 自分はとてつもない戦いに身を置いている。その事実が喜びにも似た感覚となってアランの気勢を上げていた。
 そして、対するリックはその胸に同じ驚嘆の念を抱いていたが、その感情の色はアランとは少し違っていた。
 攻めている側だからか、その心にはほんの少し余裕がある。
 だが、その僅かな心のゆとりは違う何かに侵食されつつあった。

「……」

 口を開いたアランに対し、リックは歯を食いしばっている。
 ひたすら手を出している。何度も。何度も。
 だが届かない。避けられ、時に阻まれ、そして反撃されている。
 あと少し、あと少しなのだ。距離にしてたったの一歩分。
 なのに届かない。まるで幻を掴まされているような感覚。なんという遠い一歩。
 リックは自身の中である感情がどんどん大きくなっているのを感じた。
 それは心の余裕を食いつくし、別の感情まで侵食し始めている。
 恐怖とは違う。強い者と戦った時に、カルロと対峙した時に感じたものとは違う。この感情は暗いものでは無い。むしろ明るく心地良い。
 戸惑いながらも、戦いながらも、リックは意識の片隅でその感情を表す言葉を捜した。
 それはすぐに見つかった。

(そうだ、これは感動だ)

 心を打ち震わされるようなこの感覚、感動しているとしか表現できない。
 だが、何に? 自分は何に感動している?
 いや、わかっている。認めたくないだけだ。自分はこの男の、アランの技に感動しているのだ。
 どうしたらこんなことが出来るようになるのか。自分の拳と奴の剣先が紐で結ばれているような、そんな錯覚を覚える。
 全ての攻撃を、いや、全ての動きを読まれている。そうとしか思えない。
 母と組み手をした時の感覚に似ている。周囲の魔力の流れを感じ取ることが出来る我が母。ゆえに相手の動きをある程度読むことが出来る。
 だがそれとは明らかに違う。母の反応と対応はいつも相手が動いた「後」だ。アランはこちらが動く「前」に既に反応している時がある。
 アランは違うものを見ている。アランはもっと深いところにある別の何かを読み取っている、そんな気がする。
 そして恐るべきはそれだけでは無い。その剣捌きの精密さよ。
 生半可な修練ではこうはならない。数え切れないほど同じ型を繰り返したはずだ。自分が拳を振った回数と同じ、いや、それ以上の回数を。

(……)

 沈黙を続けるリックの口尻から、ぎり、という歯軋りの音が鳴る。
 相手を認めたことで、自分と重ねたことで、リックの中にあった感動は「共感」と「敬意」に変わっていた。

 アランとリック、二人の心にある言葉が浮かび上がる。
 二人が驚きから生み出した感情はそれぞれ違うものであったが、その言葉は同じ文面であった。

 その言葉とは、

““なんという男だ!””

 であった。

   ◆◆◆

 アランとリックを中心に広がる静寂の波。
 それは、少し離れたところにいるクリス達も包み込もうとしていた。

「対炎魔法使い用の隊列を組め!」

 相手の顔が認識できるくらいに距離が縮まってから、クリスは部隊に指示を出した。
 クリスの正面にいる相手は炎使い、リーザであった。

「総員隊列変更!」

 臣下ハンスが手で合図を送りながらクリスの指示を連呼する。小隊の長達もハンスと同じように連呼し、クリスの指示は波が広がるように部隊全体に伝わった。
 指揮官の声に後列にいた魔法使い達が動く。魔法使いは前に出で、前衛を固める大盾兵の真後ろにぴったりと張り付いた。
 彼らはまだ知らない。とてつもなく奇妙で、経験したことの無い別の大きな波が近付いていることを。

「全員構えろ!」

 クリスが声を上げながらリーザに向けて手をかざす。魔法使い達も素早く同じ体勢を取った。
 そしてそれは敵も同じであった。双方は手の平を突きつけ合いながら、じりじりと距離を縮めていった。
 場の緊張が高まる。それが極限に達した瞬間、クリスとリーザは同時に動いた。
 クリスとリーザの手が発光する。放たれた二人の炎は両者を結ぶ線の中心でぶつかり合った。
 その瞬間、クリスは自身の不利を悟った。単純な魔力は明らかにリーザのほうが上であった。
 しかし、それだけで勝負が決するわけではない。周囲の魔法使い達は既に光弾を放っている。
 クリスとリーザ、両部隊の魔法使い達が放った光弾は、炎の衝突点に向かって飛んでいった。
 押し合い、混ざり、渦のようになっている炎の衝突点に、次々と光弾が叩き込まれる。
 激しい炸裂音と共に、火の粉と閃光が周囲に溢れた。
 閃光がクリスの目を眩ませる。炎がどうなっているのか全くわからない。押されているのか? 押し返しているのか?
 クリスの視界から眩さが消える。直後、クリスの目に映ったのは、眼前にまで迫った炎の壁であった。
 先の光弾のぶつかり合いはリーザ達に軍配が上がっていた。光弾の援護によって勢いを得たリーザの炎はクリスの炎を一気に押し返していた。
 クリスの魔法使い達が弱いというわけでは無い。これは完全な運による結果である。光弾がどのようにぶつかり合い、優劣が傾いたのかなど誰にもわからないのだから。
 身を焼く熱気に、クリスは思わず後ずさりをした。
 手が震える。魔力が底を尽きかけている。クリスの手から生まれる炎は、徐々に力無く、細くなっていった。
 もう限界だ、呑みこまれる――、脳裏によぎった苦痛の未来に、クリスは目を細めた。
 しかしその直後、目の前まで迫っていた炎は急速にしぼみ、掻き消えた。

(持続力は互角か! 助かった!)

 命を拾った安堵感に、クリスは深く息を吐いた。
 しかし戦いは終わっていない。次のぶつかり合いまでに魔力を充填しなくてはならない。
 飛び交う光弾から身を守るため、一旦後ろに下がろうと後退りする。
 その瞬間、

「……?」

 クリスは奇妙な感覚に身を包まれた。
 場が静かになっている。
 皆立ち止まっている。
 対峙するリーザ達も同じだ。
 ある者が顔の向きを変えた。何かを見つけたようだ。
 なんだなんだと、他の者達もそちらへ顔を向ける。
 そして、クリスもまた同じように、そちらへと視線を向けた。

   ◆◆◆

 クリスが静寂の原因である円陣を見つけたと同時に、その中心で声が上がった。

「おおおぉっ!」

 声の主はリック。
 リックは己を鼓舞しながら、手を出す速度を、攻撃の回転を速めた。
 その気勢に当てられたのか、場がざわめく。
 だが場はすぐに元の静けさを取り戻した。
 結果が変わらなかったからだ。リックの攻撃は苛烈さを増したがやはり届いていない。二人の関係は何も変わっていない。

「……」

 再び口を閉ざした兵士達は何かを期待していた。
 その何かの根源にあるのは理解したいという欲求。
 どうしてあの二人はあんなことが出来るのか理解したい。それが出来れば、自分もその高みに昇ることが出来るのではないか、そんな願望を含んだ欲求。
 しかしわからない。今のままではわからない。だから別のものを期待し始めている。
 この問題を解くための助けになる何かが欲しい。暗示でも何でもいいから、違う何かを見せて欲しい。
 そんな願いから兵士達は変化を求め始めていた。
 そして、アランとリックの心はその期待に応(こた)えるかのように変わりつつあった。
 リックがアランに向かって踏み込む。
 その爪先はいつもよりも少し前に出ているように見えた。
 二人の間に数本の光の線が走る。
 そして、リックが再び踏み込む。
 その一足は先とは違っていた。誰の目にも明らかなほどに踏み込みが深くなっていた。
 その証拠に、アランが一歩後退している。
 さらにリックが踏み込む。
 その一歩は明らかに大きすぎた。うかつな行動に対する罰として、リックの体に赤い線が一本刻まれる。
 後ろに壁があるわけでは無い。少しずつ前に出たところで、相手を必ず追い詰められるとは限らない。
 だが、リックはまた同じことをした。
 その体に傷がもう一本追加される。
 その痛みがリックの顔つきを変えた。
 恐ろしいほど真っ直ぐな瞳。何かにとり憑かれているような目つき。
 鬼気迫る、そう形容できる表情。
 今の自分にはこれしかない、その目はそう語っていた。
 そして、目は心を表す鏡という言葉の通り、リックの思考は一つの事に染まっていた。

(今のままでは届かない。だから踏み込むしかない。もっと深く、もっと速く!)

 速く、速く、前へ、前へ。
 その気迫と思いは怖気という形でアランに伝心した。
 アランの足が自然と後ろに下がる。
 それが恐怖によるものだと自覚した瞬間、アランは目に力を込めた。
 確信があった。気を弱めたら死ぬ、心の隙を見せた瞬間、それが最期になる、と。
 足を止め、手を出す。
 その剣筋は明らかに速くなっていた。

(速く、もっと速く。筋肉と関節の動きだけでは無い、思考もだ。全てを加速させろ!)

 同じ事をリックも考えていた。
 二人の動きが加速する。
 だが単純な速さ勝負ではやはりリックの方に分があった。
 アランの足が再び後ろに下がる。どうしても押される。

「うおおおぉ!」

 リックが再び声を上げながら、手を繰り出す。
 最高潮に達した気勢と共に放たれたその一撃はかつてない勢いを持ち――
 リックの指先は遂に、アランの刀を捕らえた。
 直後、これまでに無かった大きな金属音が場を震わせ、火花が派手に散った。

「っ!」

 刀を大きく真上に跳ね上げられたアランの顔が焦りに染まる。
 とうとう捕まった。動きは読めていたが、逃げ切れなかった。追いつかれた。
 アランの体に悪寒が走る。
 瞬間、リックはアランに向かって踏み込んだ。
 どこが狙われているかなんて台本が無くてもわかる。がら空きになった胴体だ。
 防御は間に合わない。アランは真後ろに飛ぶように地を蹴った。
 リックの脇の下から閃光が走る。
 その狙いは腹。型は貫手。
 アランは腹筋に精一杯の力を込めながら、くの字になるように腰を引いた。
 直後、ずぶり、という音が聞こえたような気がした。
 熱い。そしてとても嫌な感触。
 しかし浅い。刺さったのは指の第一関節ほどまで。腰を引いたのが幸いした。
 だが、安堵する間も無く、リックはとても残酷なことをした。
 刀を弾いた要領で、魔力を指先から発散したのだ。
 ばん、という音がアランの腹の中でこだました。

「~っ!」

 叫び声を上げることすらできない。
 刺し傷が押し広げられ、内臓が波打つ。
 腹に手を入れられてかき回されたらこんな感じなのだろう。
 痛みだけで気が遠くなりそうだ。
 しかし悪寒はまだ続いている。リックは追撃を仕掛けて来ている。
 次の狙いは前に突き出た顔面。型は真上に振り抜ける突き上げ掌底。手の平がもう視界に入っている。
 直撃すれば首が無くなる。アランは前に傾いた上体を起こすことに全力を注いだ。
 リックの手の平が視界一杯に迫る。
 避けられない。それを確信したアランは首を捻り、柔らかい頬を前に晒した。衝撃を少しでも緩和してくれることを祈って。
 そして直後、アランの頭に衝撃が走った。
 顔が跳ね上げられ、脳が揺れる。
 体が少し浮いたような感覚。
 その浮遊感と共に頭から何かが抜けていくような感覚。
 瞬間、アランは歯を食いしばった。

(気を失うな! 次が来る!)

 この時、奥歯が舌を少し噛み切ったことが気付けとなった。
 上に跳ね上げられた刀と上体を正面に戻す。
 だが、この時既にリックの姿は前方から消えていた。
 リックは真左にいた。アランの顔面を突き上げてから素早く回りこんだのだ。
 視線をそちらに移す間もなく、アランの視界が「がくん」と傾く。
 軸足である右膝裏に蹴りを食らったのだ。
 一瞬遅れて激痛が走る。
 膝が崩れる。踏ん張れない。次の攻撃に対して回避行動が取れない。
 アランの首筋から上に悪寒が走る。
 そして台本がめくられた。

『低い位置に下りてきた後頭部への延髄蹴り』

 悪寒が増す。
 動けない。回避不能。
 アランの脳裏に「死」という単語が浮かび上がる。
 そして次の瞬間、アランの後頭部に向かって閃光のような蹴りが走った。

   ◆◆◆

 それを見たクラウスは思わず口を開いた。
 あまりに衝撃的な光景であった。アランの後頭部が蹴り飛ばされたのだ。
 だが言葉は出なかった。その口から漏れたのは「あ……」という、何かを言いかけてやめたような、忘れたような単音のみ。
「アラン様」と呼ぼうとしたのか、「危ない」と言おうとしたのか、それすら分からない。
 ただ一つ確かなのは、アランは無事だということ。後頭部から散ったのは鮮血ではなく火花。場に響いたのは頭蓋を砕く音ではなく金属音。
 アランは防御したのだ。だがどうやって?
 一瞬の出来事であったが、クラウスには見えていた。
 アランは柄の底で受け止めたのだ。
 蹴りが炸裂する直前、アランは後ろに振り返りながら、刀を握る左手を後方に引き、迫るリックの足甲に向かって柄の底を晒したのだ。
 そしてアランは蹴られた勢いを利用して前転し、体勢を立て直した。
 いま二人の間合いは再び開き、仕切り直しとなっている。
 クラウスの口はまだ開いたままだった。塞ぐのを忘れるほどに、先の攻防に心を奪われていた。
 なんという防御。驚きしかない。今の蹴りは完全に死角からの攻撃だったはずだ。
 ただのまぐれだと考えるのが普通だ。だが何故かそうは思えない。
 クラウスの中である記憶が呼び起こされる。
 それは、目を塞いだアラン様から木の枝で打ち込んでくれと頼まれた、あの奇妙なお願いの記憶であった。
 あの時、アラン様は「敵の攻撃がどこから来るのかを感じ取れた」と言った。
 あれは本当だったのか?
 今それを確かめる術は無い。しかし、この戦いがその答えの片鱗を見せてくれる。そんな気がする。
 期待感のようなものがクラウスの中に湧き上がる。
 そしてその口はようやく閉ざされた。
 表情からは驚きの色が消えている。
 だが、直後にもっと驚くものを目にすることになろうとは、この時のクラウスは予想だにもしていなかったのであった。

   ◆◆◆

 一方、アランの意識は腹部からの激痛と焦りで混沌としていた。

(この傷はマズい。血が止まらない)

 傷口に手を当てたい。が、リックはその隙を見逃してはくれないだろう。いま刀から手を放すのは自殺行為に等しい。
 だがそれよりも問題なのは次だ。先の攻撃は何とか凌げた。だがこのままでは駄目だ。次はきっと殺される。
 何とかしなくては。何かが足りない。
 湧き上がる危機感に、アランの心は再び叫んだ。

“使えるものは全て使え! 試せ! 応用しろ!”と。

 その心境の変化が台本に変化を生んだ。
 新たな選択肢が表示される。
 それを見たアランの意識は一瞬固まった。
 すぐに実行に移そうとは思えなかった。提示されたそれは可能性のようなもので、確実性に欠けていたからだ。
 だが、この危機を乗り越えられる唯一の手段であるように思えた。
 台本はリックに対抗するには同じくらい速くなるしかないと、そしてそれは不可能ではないと、そう言っていた。
 どうやって? 単純だ。真似すればいいのだ。あの超人的な加速を。
 手品のタネはもう知っている。見えている。
 あと必要なのは実行する勇気だけだ。

「……」

 固唾を飲み込むアランに向かって、リックがゆっくりと間合いを詰めてくる。
 マズい。仕掛けてくる。
 覚悟を決めるしかない。やるしかない。
 しかし、どの型で試す?
 やはりこれまでどおり、相手の出方を見てから迎撃の型を決めるべきか。

(いや、それよりも――)

 心中にふと沸いた、ここは後手に回るよりも攻めるべき、という意識がある記憶を呼び起こした。
 それはクラウスから一度だけ聞かされた剣の師の話。
 その話の中に出てきた人外のものとしか思えないある技が、この場の問いの答えとしてぴったりと当てはまった。

(そうだ。試すならこれしかない。これが、これこそが相応(ふさわ)しい)

 アランは腹の痛みも忘れて、刀を握る手に力を込めた。

   ◆◆◆

「!」

 直後、クラウスの顔に再び驚きの色が浮かんだ。
 先に仕掛けたのはなんとアラン。
 しかもその踏み込みの速さたるや尋常では無い。
 陽炎のようにその身を霞ませながら一足で間合いを詰める。
 流れるアランの影はリックの目の前で一瞬停止し、その手にある刃を見せ付けるように輝かせた。
 この時、クラウスの心に沸いたのは既視感。
 アランの姿に師の姿が重なる。

 まさか――

 その「まさか」であった。
 アランはクラウスの脳裏に焼け付いているあの師の技を、重なっている師の影の動きをなぞった。
 瞬間、三閃。
 三度の踏み込みが一つの音に聞こえる。
 これはまさしく――再び目にする日が来ようとは。
 リックの体から鮮血が尾を引いて流れ舞う。

(お見事! ……?)

 直後、既視感を塗りつぶすように生まれたのは違和感。
 何かが違う。不完全。これは、もしや、

(失敗した?!)

 そう考えるのが自然であった。一突き目はリックの左二の腕に深々と突き刺さったが、二突き目は左肩を掠めただけ。突きを放つ毎にアランの姿勢の乱れは大きくなり、三突き目に至っては明らかに外してしまっている。
 そして、そのアランは最後の突きを放った姿勢のまま固まっている。
 一体どうしたというのか。クラウスは不安が混じった視線をアランに送った。

   ◆◆◆

 アランは動けなかった。対峙しているリックもである。
 リックが動かないのは驚きとそこから生まれた警戒心という感情的理由からであったが、アランの方は違っていた。
 アランが動かない理由は痛みであった。腹部の傷からのものとは違う、新しい激痛に全身が支配されていた。
 その胸中にあるのは自責の念。
 失敗した、その言葉に心は埋め尽くされていた。
 膝が、肩が、肘が、それらの間を繋いでいる筋肉が悲鳴を上げている。
 関節はミシミシと鳴いており、筋肉はプチプチという音を最後に痛みしか発していない。
 じわり、と、痛みを覆うように何かが広がっていく感覚。
 使用した関節と筋肉は見る見るうちに青黒く変色していった。
 ひどい内出血を起こしている。
 見よう見真似で一発成功するような甘い技では無かったのだ。針の穴を通すような繊細さがこの技には必要だったのだ。
 ギシギシという軋みの音が聞こえてきそうな動きで、突き出していた左腕を折りたたむ。
 それを見たリックは表情から警戒の色を消した。
 察したのだ。アランの身に何が起きているのかを。

(……失敗したのだな、アラン)

 この奥義はとても危険な技だ。下手をすれば自身の体が千切れ飛んでしまう。
 だから自分は指から始めた。手は魔力の放出に使われている器官。ゆえに制御精度が高いからだ。それに、もし失敗して指を吹き飛ばしてしまったとしても、一本くらいならば痛みと後悔が少ない。
 そんな技を十分な修練無しに、あんな大きな動作で用いればそうなってしまうのは当然の事。むしろその程度で済んだのは運が良かったと言える。

(……)

 口を閉ざし、アランの様子をじっと窺(うかが)う。
 そして、その青黒くなった皮膚が小刻みに震えているのを確認したリックは、すかさず足に魔力を込めた。
 アランの体に悪寒が走る。

(来る!)

 迎撃しなくてはならない、のだが、

(体が……!)

 思うように動かないのだ。
 そして次の瞬間、リックがアランに向かって地を蹴った。
 アランの瞳の中にあるリックの像が「ずい」と大きくなる。

(動け!)

 痛みを訴える体を一喝しながら、ぎしり、と、腕を動かす。
 が、その動きはリックの踏み込みに対してはあまりにも遅く、直後に放った迎撃は空を切った。
 背を低くすることでその迎撃を避けたリックは、その低姿勢のまま一歩踏み込み、アランの刀の下に潜り込んだ。
 アランの体におぞましいと呼べるほどの悪寒が走る。
 リックの狙いは腹部。この傷をえぐるつもりだ。
 そして直後、アランの台本が更新された。
 その内容は今のアランにとって、リックがやろうとしている事と同じくらい残酷なものであった。
 だがやるしかなかった。これしか無いというのが事実であった。
 歯を食いしばる。刀を握る手に力を込める。

「!」

 瞬間、リックの顔に驚きが浮かんだ。
 頭上で固まっていたアランの刀が、突如真下に、それも凄まじい速度で振り下ろされたのだ。
 輝く白刃が丸い頭蓋を二つに割らんと迫る。
 刃はその丸みに触れるか触れないかのところまで達したが、

「っ!?」

 直後、頭上に弧を描くように振るわれたリックの手刀によって、真横に叩き払われた。
 その衝撃にアランの体がよろめく。
 対し、リックは飛び転がるように真横へと逃げた。
 そしてリックは素早く構えを整え、再びアランの様子を窺った。
 意外にも、リックの顔に恐怖の色は全く無い。
 アランが何をしたのかわかっていたからだ。アランは奥義で負傷した体を、奥義で無理矢理動かしたのだ。
 当然、そんな戦い方は長く続かない。
 だからリックの次の手は決まっていた。
 比較的安全な位置から牽制を繰り返し、アランの体を酷使させればいいのだ。
 そして、アランの様子が先と変わっていない事を、痛みで膠着している事を確認したリックは、すかさず地を蹴った。
 が、次の瞬間、リックの顔にまたしても驚きの色が浮かんだ。
 リックの瞳の中にあるアランの像が「ずい」と大きくなった。
 アランはリックの動きに合わせて同時に踏み込んだのだ。
 瞬く間に互いの距離が詰まる。
 そして、先に手を出したのはアラン。
 踏み込みと奥義による加速を乗せた突きを放つ。
 回りこむような横移動でそれを回避するリック。
 それを読んでいたアラン、突きの動作から腰を回転させ、薙ぎ払いへと繋げる。
 リック、飛び引くように後退することで回避。
 これも読んでいたアラン、薙ぎ払いとほぼ同時に踏み込み、再びの突き。
 リック、後退しつつ、身を後ろに反らしてこれを回避。
 アラン、もう一度突く。
 リック、後退のみで回避。
 アラン、さらに突く。
 これも回避される。が、次の瞬間にはアランは踏み込んでおり、次の攻撃動作へと移っていた。
 アランは手を止める気配を見せなかった。
 アランはリックの狙いを知っていた。台本が教えてくれたのだ。
 ゆえにアランは速攻を狙っていた。倒される前に倒す、それが最上。むしろ、こうなってしまってはアランに打てる手はそれくらいしか無かった。
 突き、突き、突き。ひたすらに突きを繰り出す。アランは自身が持ちうる技の中で最速、かつ最短の攻撃を連発した。
 だが当たらない。掠りもしない。

(……何故?! どうして当たらない?!)

 激痛の中、アランの心は叫んだ。
 不思議だ。自分は速くなったはずなのにリックを捕まえられる気がしない。リックの動きが以前より、自分がこの技を使う前より冴えているように見える。
 明らかに反応速度が上がっている。いや、感が良くなっていると言うべきか。
 ん? 待て? 「感」が良い?
 ……何かが引っかかる。
 これは、リックのこの反応の良さは、「感が良い」などという曖昧な言葉で片付けてよいものなのだろうか?
 思い返してみれば、リックは完全に視界外からであった攻撃を回避したことがある。ディーノが投げた槍斧に反応した時がそうだ。

(もしかして――)

 アランの心中にふと沸いた疑問と、対する仮説。
 それは今のアランにとって認めたくない事であった。
 だが、考えずにはいられなかった。
 もしかして――皆、大なり小なり、自分と同じような能力を、魔力を感知する能力を持っているのではないか?
 もしそうだとしたら、リックの反応が良くなったのにも合点がいく。
 この技は魔力を体内で爆発させているようなものだ。感知もしやすいだろう。

(……)

 自身の足元がゆらいだような感覚。自分が持つ神秘が、その優位性が霞みと消えていくような感覚。
 そこへ追い討ちをかけるように、理性がある記憶を呼び起こす。
 それはディーノの記憶であった。
 考えてみればディーノの感の良さも異常だ。
 魔法使いの集団に飛び込み、乱れ飛ぶ光弾を掻い潜りながら槍斧を振り回す、そんなことが普通の人間に出来るのだろうか?
 考えるまでも無い。ありえない。普通じゃない。
 アランの足元が音を立てて崩れていくような感覚。
 まさか、もしや、自分は特別なものなど何も持っていないのではないか?
 否定したい。正しいと証明する方法は無い。しかし、この考えが正解であるとしか思えない。
 突如生まれた虚無感に、アランの心は再び悲鳴を上げた。

 残念ながらアランの考えは正しかった。
 この世界の人類は全て魔力を感知する能力を有しており、一部の動物もこの能力を有している。アランやクレアのような自覚できるほどの強い力を持つ者は少ないが。
 魔力は世界を満たしている。ゆえに全ての人間は深層意識で繋がっている。
 奇跡のような偶然が重なって起きた不思議な出来事、虫の報せと呼ばれる嫌な予感、それらはほぼ全て魔力感知によるものである。

 そして、リックが持つ、偉大なる一族が有する「足で魔法を使う能力」も特別なものでは無い。遺伝による優位性が多少あるものの、専用の鍛錬を積めばほぼ誰にでも習得できる技術なのだ。
 残念ながらそれが明らかになるのは遥か未来の事だ。足を酷使するあるスポーツの誕生がそれを証明する。そして、そのスポーツが世に登場するのは、平和が訪れ、人々の意識が戦事から文化の発展へと向けられた後のことである。

 偉大なる一族が、かつて武の民と呼ばれていた者達がその能力を発現させることが出来たのは環境によるものである。
 崖だらけの切り立った険しい山々の中で、足を手のように使うことを、猿のような生活を強いられたがゆえに発現した能力なのだ。一つの進化であると言えるだろう。
 だが、偉大なる一族は退化してしまった。それもやはり環境の変化のせいである。
 山が切り崩され、道が整備されたことで足を使う必要性が失われたのだ。
 だが、武術の発展がその退化を阻止していた。様々な蹴り技が、習得困難な技術の存在が退化を食い止めていた。
 しかし、そんな足技は時代の流れとともに多くが失われていった。人間を破壊するだけならば魔力を込めた拳だけで十分だからだ。動作の大きい、または達人向けの複雑な足技は不要として淘汰されていってしまったのだ。
 そこへヨハンの祖先と盾の一族達が提唱した魔力至上主義の台頭が拍車をかけた。武術が廃れたことで、達人がいなくなってしまったことで、高度な技を必要とする相手がいなくなってしまったのだ。素人の相手をするだけならば単純な技だけで事足りる。

 武術は衰退した。武の神はそれを嘆いた。

 しかし、今、武の神は再び微笑んでいる。

 長い雌伏の時を経て、二人の武人が激突している。持てる限りの技を駆使してせめぎあっている。これほど嬉しいことは無い。
 この戦いを武の神はどのように決着させるつもりなのだろうか。
 このまま双方削りあった果てにどちらかが倒れて終焉、それも悪くない。
 だが、武の神は別の結末を考えていた。
 その眼差しはリックの方に向けられていた。
 リックは先と変わらずアランの猛攻を避け続けている。
 しかし、直後――

「っ!」

 なんと、リックは「つまずいた」。踵に小石が引っかかったのだ。
 リックの視界がぐらりと傾く。
 もちろん、普段のリックならこんなことにはならない。小石ごときで体勢を崩すことなどありえない。
 リックは気付いていなかった。その身に「時間切れ」が迫っていることを。
 そして、それはついにリックの視界に異常をもたらした。

(目が……!)

 視界の隅が影に侵食され、全体が薄暗くなる。
 同時に意識が遠のく。
 奇妙な浮遊感に体が包まれる。立っている感覚はあるのに、落下しているように感じる。
 リックの足元がふらつく。
 その隙を見逃すアランでは無かった。
 薄暗い視界の中、閃光が迫る。
 リックはすかさず身を反らした。
 が、

(うっ!?)

 鋭い痛みがリックの体に走った。
 だが、幸いにも傷は浅く、その痛みがリックの意識を叩き起こした。
 灰色だった視界に色が少し戻る。
 意識は完全に覚醒したわけでは無かったが、リックの理性はこの異常の原因を突き止め、言葉にした。

(血を失いすぎた?!)

 思えば、この戦いでどれだけの傷を負っただろう。どれだけの血を流しただろう。
 アンナとディーノにつけられた傷のツケがとうとう回ってきたのだ。
 リックの視界が再び色を失う。
 そして急速に薄まる意識。

(あ――マズ――)

 遠のく、などという生半可な感覚では無い。落ちる、と表現した方が正しいほどの速度。
 思わず歯を食いしばる。意識を保とうとあがく。
 だが、それは並みの気付けや根性でどうにかなるものでは無かった。
 視界の隅を侵食する影は一気に大きくなり、 リックの意識を黒く塗りつぶした。

(――……)

 リックの動きが完全に静止する。
 倒れてはいない。目も開いている。アランを見つめている。
 しかし、その意識は何も見ていなかった。
 体勢は完全な棒立ち。構えは甘く、姿勢の維持に必要な最低限の筋力すら抜けてきているのが見て取れた。
 アランはリックのこの変化に一瞬戸惑ったが、すぐに気を取り直して踏み込んだ。
 対するリックはやはり動かない。
 だがその意識には微かな変化が起きていた。
 深い穴の底のような、深遠にあるリックの深層意識は闇の中にあるものを描いた。
 それは絵のような、記憶のような、言葉のような――それらを混ぜて都合の良い部分だけを上手く抜きだしたかのような、とにかく形容し難いものであったが――
“こうなるから、こうすればいい”ということを伝えようとしているのだけは、はっきりしていた。
 そして次の瞬間、リックとアランの間に一本の閃光が走った。
 アランが放った剣閃では無い。
 それはリックの手が描いた軌跡であった。
 その手の形は親指と他の四本指を開いた開手のような型で、挟み込むようにアランの喉に押し当てられていた。

「……ぁっ!」

 アランの顔が苦しみに歪む。その口は大きく開いたが、リックの耳に届くか届かないか程度のかすれ声が漏れたのみであった。
 リックが放ったこの技の名は「喉輪突き」。相手の呼吸を止め、一時的に行動不能にする技である。
 アランは打たれた喉を押さえながら、ふらふらと後ろによろめいた。
 対し、リックは喉輪突きを放った姿勢のまま固まっていた。
 だが、この間にリックの意識は緩やかに回復していた。
 リックの顔に表情が生まれる。
 その面は「何が起きた?」と言いたげであった。

(俺は……どうしたんだ? 何をした?)

 喉輪突きを放った、それは分かっている。
 分からないのは、はっきりしないのは過程。
 どうして喉輪突きを放ったのか、それが分からない。
 残っているのは体を動かした感覚のみ。
 結果だけを見れば、意識を回復させる時間を稼げたということになる。理には適っている。
 だが、何故自分は喉輪突きを選んだのか――何を考えてこうしようと思ったのか、それが分からない。
 無理に考える必要は無い。しかし気になる。知りたい。知るべきだ、何故かそう思う。
 リックの理性は記憶の引き出しを片っ端から開け、その隅々まで調べ始めたが――

(――糞っ! またか!)

 答えを見出す前に、リックの意識は再び薄らぎ始めた。
 その体から力が抜け、突き出していた腕がゆっくりと下がる。
 そして、リックは再び棒立ちの状態になった。
 直後、アランが突きを放つ。
 リックの意識は闇の中。その瞳に光は無い。
 しかし、にもかかわらずリックはアランが放った突きをするりと避け、同時に顔面に反撃を叩き込んだ。
 打たれたアランの表情が歪む。
 それは痛みによるものでは無く、驚きによるものであった。
 そして、アランの心はリックと同じ事を叫んでいた。

(まただ!)

 何が「また」なのか?
 それは台本が開かなかったことであった。
 分かったのは、感じ取れたのは「攻撃が来る」という悪寒だけ。
 しかも、その悪寒を感じたのはリックが手を出した「後」だ。
 これでは例え台本が開いたとしても手遅れだ。
 どうして台本が機能しないのか。
 自分の身に何か異常が起きているのだろうかと一瞬考えたが、そうではないように思えた。
 何故なら、目の前にいるリックの変化の方がはるかに異常だったからだ。
 リックの身に何が起きているのか。アランはリックを観察した。
 そして、アランはあることに気付いた。
 リックの頭蓋の中に光の線がほとんど走っていないのだ。
 このことから導き出される答えは、

(まさか、意識を失っている?!)

 これ一つしか無かった。

   ◆◆◆

 そして、遠方から見ていたクラウスもリックの身に何が起きているのか気付いていた。
 だが、その変化に対する見方、考え方はアランとは違っていた。

(動作の「起こり」が完全に無くなっている?!)

 人間は行動する際、特に攻撃を行う際、動作の直前に「起こり」と呼ばれる予備動作が生ずる。
 一瞬動きが止まる、前傾姿勢を取るなどの分かりやすいものから、呼吸が小さくなる、肩が僅かに沈むなど、気付きにくいものまで様々である。「癖」と混同される場合もある。
 攻撃を繰り出すことを悟られては相手の虚を突くことは出来ない。ゆえに武の道を歩むものは皆、この「起こり」と呼ばれるものを消す、または隠す努力をする。
 完全な静止を目指す者、より大きな動きを混ぜてごまかす者、「起こり」に似た嘘の動作を見せて相手を罠にかけようとする者、その道は様々である。
 だから、達人同士の戦いは見合った瞬間から高度な読み合いが始まるのである。

 リックはその「起こり」を完全に消している。ただでさえ速い攻撃がより速くなったように見える。
 あんな動きは見たことが無い。
 攻撃の気配を、起点を全く見せずに、するりと相手に接近し目に見えないほどの攻撃を繰り出す。
 静かだが激しい、そんな矛盾を実現させたかのような動きだ。
 一見ただの無防備と取れるあの脱力にその秘密があるのだろうか。
 今のクラウスにはそれくらいのことしか分からなかった。

   ◆◆◆

 動かぬリックに対しアランは再び攻撃を仕掛けた。
 しかし、いや、やはりと言うべきか、当たらない。
 ゆらゆらとした動きで回避するリック。その動きに筋肉の硬直は全く見られない。
 風に吹かれて倒れたかのような動きで、素人目には回避動作にすら見えない。
 その異様な動きに当てられたのか、周囲にいる兵士達の表情が変わった。
 皆、呆気に取られたような顔をしている。
 その顔のいずれにも期待感の色は無い。
 その表情には僅かにあきらめの色が混じっていた。
 皆気付いていた。リックがさらに遠いところへ、さらなる武の高みへ辿り付きつつあることに。
 当然、アランもその事に気付いていた。
 だからアランは焦っていた。
 リックが手の届かぬ所に行ってしまう前に、自分に勝ち目があるうちに決着をつけようとしていた。
 攻めるアラン。受けるリック。
 先ほどまでとは打って変わって立場が逆になった双方であったが、その攻防には一つ違うところがあった。
 リックが放つ反撃は全て入っているのだ。
 攻めれば攻めるほどにアランの体には傷が増えていった。
 そして、リックは返り血を浴びながら、生傷を増やしていくアランを感情の無い瞳で見つめていた。
 リックの意識はゆっくりと目覚めつつあった。
 まるで夢を見ているような感覚であった。半覚醒とでも言うべきか、半分寝ていて半分起きている、そんな感覚であった。
 自分の体が自分のものでは無いように感じる。しかし動かしている感覚はある。
 体は勝手に動いているような感じだ。「ような」と表現した理由は、過程が後から伝わってくるからだ。
 何故自分はこう動こうと思ったのか、その思考の過程が動いた後に判明するのだ。
 だから、考える前に体が勝手に動いているという表現は当てはまらない。
 恐らく、自分はとても深いところで考えて動いているのだ。理性が及ばぬ深い領域で考え、行動しているのだ。
 根拠は無い。ただなんとなくそんな気がするというだけだ。
 だが、どうしてもこの考えが正解であるように思えてならない。

(……)

 答えを求めるリック。
 直後、理性がある記憶を紐解いた。
 それは古い武人のお話であった。
 その武人が使っていたというある技が、この問いの答えとして最もふさわしいように思えた。

(まさか、自分は「夢想の境地」を身に着けたのか)

 起を見せずに事を成す、そう呼ばれている技。会得すれば、先の先、後の先、そのような読み合いが無に帰してしまうと伝えられている神秘の技。
 自分は神秘を身に着けた、それを自覚した瞬間、リックの意識は震えた。
 武の神よ、あなたは一体どれほど遠いところにいるのか。
 奥義を会得したことであなたの居る領域にかなり近づけたと思った。手が届きそうになっていると感じた。
 しかしそれは間違いだった。あなたはまだ遥か遠いところにいる。
 感謝しかない。それに気付かせてくれたことに。感動的とすら言える。この男と巡り合わせてくれたこの運命に、さらなる武の高みへと導いてくれたことに、ただただ頭を下げることしか出来ない。
 命のやり取りに強い喜びを抱くリック。どこか狂気じみたその感情にリックは身を委ねた。

 リックの感動に水を差すようであるが、『夢想の境地』とは魔力を感知して相手の行動を読む技である。大げさな名がつけられているが、要はアランの神秘と基本は同じものだ。
 違うのは行動に移す過程。アランの場合は『台本』という形で表層意識にある理性に判断を委ねるが、リックの場合は深層意識が直接行動の決定を下す。
 理性が全く関与しないゆえに「起こり」が消える。脱力もその要因の一つになっているが。
 同質の技であるのに、アランの『台本』が『夢想の境地』に対して無力化した理由は単純である。深層意識の活動には魔力がほとんど使われておらず、読み取るのが困難なのだ。アランの感知能力ではかろうじて『悪寒』が走る程度である。
 こう書くとアランの『台本』は『夢想の境地』の劣化互換であるかのように感じるだろうが、そうでは無い。
 理性が強く機能した方が有利になる場合もある。以前にも述べたと思うが、アランの神秘は戦いに真価を発揮する能力では無いのだ。

 そして、薄々とではあるが、アランはそのことに気付き始めていた。
 自分の動きは完全に読まれている。が、こっちは相手の動きを読めなくなった。
 これでは勝ち目が無い。
 だが、そう分かっていてもアランは手を止めなかった。
 その原動力はディーノと同じ、「意地」であった。

 武の神はとても残酷なことをした。
 アランが神秘を身に着けるのにどれほどの死線を潜っただろう、何度死の淵に立たされただろう。
 リックはそれをたったの一度で成したのだ。

 アランはリックが持つ才能に、嫉妬を通り越した憤りを抱いていた。
 その煮えたぎった感情が、アランの脳裏にある記憶を呼び起こす。
 それは幼い頃の記憶であった。
 四歳になったばかりのアンナが放つ大きな炎を、物陰から盗み見ていた記憶。

(そうだ、思い出した。自分がこの感情を初めて抱いた対象はアンナだったんだ)

 あれを見たその日、自分は幼いなりに察したのだ。将来この家を支えるのは、上に立つのはアンナの方であることを。
 だから自分は貧民街へ逃げた。家から、厳しい父から離れたかったのだ。
 そして、父の厳しさはアンナに向けられるようになった。
 その事に自分は下衆な喜びを抱いた。だが、その感情はすぐに罪悪感に変わった。
 だから自分はアンナに優しくなれた。そうしなければいけない、そんな気がしたのだ。
 アンナはそんな自分を慕ってくれた。
 しかし、俺はその好意を素直には受け止められなかった。
 アンナに苦しさを押し付けたという後ろめたさがあったし、やっぱり悔しかったのだ。いつか追い越してやる、驚かせてやる、そんなことを心の奥底で考えていた。
 だから、剣の練習をしようなどという、ディーノの馬鹿げた提案に素直に頷けたのだ。自分の中にあったつまらない「意地」が、藁をも掴む思いで首を縦に振らせたのだ。
 この年齢になってようやくそんな単純なことに気がつけた。
 しかし、そのつまらない「意地」のおかげで自分はここまで来られた。神秘を身に着けることが出来た。
 だが今、目の前にいる男によって、その「意地」が重ねて生み出した成果は否定されようとしている。
 認めたくない。許せない。この「意地」をこの男に叩きつけてやりたい。

 だから、アランの心は叫びを上げた。

“せめて、せめてあと一太刀!”

 と。

   ◆◆◆

 一方、アランを救うために開いたディーノの眼は今ゆっくりと閉じつつあった。
 消え行く意識の中、ディーノはアランと今の自分を比べていた。

(……すげえなあ、アラン)

 あんな化け物を相手に物怖じせず向かっていっている。戦っている。
 自分はかつて戦いにおいてはアランより上だった。アランを守ってやる立場だった。
 いつ追い抜かれたのか。いつ立場が逆転したのか。
 アランはどうやって強くなったのか。
 その答えの一部を自分は知っている。速くなる方法が、さらなる武の高みへ昇るための階段が見えている。

(……)

 視界が急速に暗くなっていく。もうほとんど何も見えない。

 意識が消える直前、ディーノの心に浮かんだ言葉は、

(待っていろアラン。俺も行くぞ。すぐに追いついてやるぞ)

 アランに対しての挑戦状とも取れる決意であった。

 そして、ディーノの意識はその燃えるような感情を抱いたまま闇へ沈んだ。

   ◆◆◆

 アランとリックの戦いには終焉の兆しが見え始めていた。
 アランがもう限界なのは誰の目にも明らかであった。
 しかし、その時、

「!」

 リックの体が、がくん、と、崩れるようによろめいた。
 リックの頭上をアランの突きが掠めていく。
 惜しい、というよりも、リックの動きが変であった。
 そして、今の出来事に最も驚いた様子を見せたのはリックであった。

(いま、一瞬だが、意識が完全に落ちた?!)

「夢想の境地」が発動しなかった。攻撃を回避できたのはただのまぐれだ。先の動作は回避では無く、意識を失って倒れかけただけなのだ。
 時間切れが近い。後どれくらい動けるのか。
 もしかしたら、先に倒れるのはアランではなく、自分の方なのではないか?
 リックの心から愉悦が消え、焦りが浮かぶ。
 そして気付く。
 体はとても重い倦怠感と激痛に包まれている。背には滝のように冷や汗が流れている。
 視界は明滅しており、それに合わせるように意識は浮き沈みを繰り返している。
 体はずっと訴えていたのだ。もう限界であると。
 時間が無い。決着をつけに行くしかない。
 この夢のようなやり取りをずっと続けていたかった。しかしそれは叶わぬことなのだ。
 直後、リックは後ろに飛び退き、アランから距離を取った。
 そして、リックは地面に踏みしめるかのような大げさな動作で構えを整えた後、声を上げた。

「決着をつけよう! アラン!」

   ◆◆◆

 決着、その言葉を聞いたアランは安堵した。
 この戦いがやっと終わることに対してでは無い。台本が開いてくれたことに対してである。
 リックが放とうと考えている決着の一撃、それは突進技であった。助走の勢いを乗せた最大の一撃を繰り出すつもりなのだ。
 だから安堵したのだ。突進技で良かった本当に。
 実は、もう足が動かなくなっているのだ。
 向こうから近付いて来てくれるということは、こちらの間合いに入ってくれるということ。
 本当に良かった。まだ希望はある。もし、リックが放つ決着の一撃が飛び道具だったら、今の自分には成す術が無かった。
 つまり、今からやる事は単純だ。相手が放つ最大の動をこちらが持つ最大の動で迎え撃つ、それだけのことだ。
 正面にいるリックがゆっくりと腰を落とす。
 アランの体に悪寒が走る。

(来る――)

 リックはどっしりと構えているが、その身から少しずつ力が抜けてきているのが見て取れる。「起こり」を消すつもりなのだろう。

(これまで見た中でも最大級の速度の攻撃が、瞬きなど許されない一撃が来る。問題は、それがいつ来るのか、ということ)

 リックは右拳を脇の下に置いた形で静止している。
 アランの体に走る悪寒が増す。

(いつだ、いつ――)

 直後――
 アランの体に「ぞくり」と、一際強い悪寒が走った。
 と同時に、アランは動いていた。
 それは反射的な行動であった。意識や思考などというものを介入させられる余裕は存在しない刹那の激突であった。
 かろうじてアランの意識が認識出来たのは――

交差する閃光

 目の前で二本の閃光が交差した、という結果だけであった。

   ◆◆◆

「アラン様!」

 それを見たクラウスは思わず叫んだ。
 決着はついた。
 敗れたのはアラン。
 リックの踏み込み正拳突きを受けたアランは派手に吹き飛び、そのまま地面に背中から落ちたのだ。
 アランは地に仰向けに寝たまま、ぴくりとも動かない。正拳突きを受けた胸は真っ赤に染まっている。
 リックはそんなアランの様子を暫し窺った後、構えを解除し、右腕を左手で押さえた。
 リックの右腕は血塗れであった。

(あの時と同じ結末、か)

 初めてアランと戦った時と同じ結果であった。傷をつけられた場所も同じだ。
 リックは倒れているアランの方に視線を戻した。
 アランはやはり動かない。
 勝った、そう思ったリックは振り返り、その場から立ち去ろうとした。
 直後、突然周囲がざわつき始めた。
 それはこの長い戦いの結末に対してのものだと、リックは思った。
 しかしそれはすぐに間違いであることに気付いた。
 このざわめきは決着に対してのものでは無い。

(まさか――)

 リックは思わずアランの方に振り返った。
 そのまさかであった。
 アランは立ち上がり、身構えていた。

(立った!? あの傷で?!)

 死んだと思った。あの傷ならそう考えるのが普通だ。
 しかし現実としてアランは立っている。真っ赤に染まった胸と腹を見せつけるように晒しながら。

(……)

 どうするか――リックは悩んだ。
 が、それは一瞬のことだった。

(ならば、もう一度だ)

 血に染まった右腕の代わりに、左拳を脇の下に構える。
 体を脱力させる。
 そして、意識が夢と現の境界に差し掛かった瞬間、リックはアランに向かって踏み込んだ。
 リックとアラン、二人の間に閃光が走る。
 しかし、その数は一本だけであった。
 そして、その閃光はアランの胸に届くか届かないかのところで止まった。

「……」

 リックが寸止めしたのだ。
 対するアランは刀を構えたまま全く動いていない。
 その瞳はリックを見ていなかった。

「アラン、お前は――」

 リックが拳を引きながらそこまで口にしたところで、アランの手から刀が滑り落ちた。
「カラァン」と、乾いた金属音を立てながら、地面の上を刀が跳ねる。
 その手から獲物が無くなったにもかかわらず、アランは構えを崩さなかった。
 その目に光は無い。
 リックは生気の無いその瞳と視線を合わせながら、ぽつりと呟いた。

「……既に意識をうしなっていたのか」

 もしかしたら、正拳突きが決まった瞬間からそうだったのかもしれない。
 リックは数歩後ずさりし、

「……俺の勝ちだ」

 落ち着いた口調で勝利宣言をしながら、赤く染まった右腕を天に向かって突き上げた。

   ◆◆◆

 直後、クリスの耳に歓声が届いた。
 リックの勝利を祝う敵兵達の声だ。
 それは波となって、戦場を支配していた静寂を吹き飛ばしていった。
 その波に、クリスは危機感を抱いた。

(これはマズい!)

 なんという熱気。あまりの声量に空気がびりびりと震えている。敵の士気がとてつもない勢いで増している。
 もし自分が敵の総大将だったら、この高揚を絶対に利用する。
 クリスは咄嗟に、

「全軍防――」

 号令を発したが、その声は敵の総大将リーザが放った、

「全軍突撃!」

 という真逆の号令と、敵兵達の怒声にかき消された。
 リーザの兵達は号令を受けるよりも僅かに早く、既に走り出していた。
 その勢い、それは長く戦ってきたクリスでも見たことが無いほどのものであった。
 クリスはもう一度口を開いたが、

「――」

 その口から発せられた号令は、圧倒的な敵の声量に吹き飛ばされ、誰の耳にも入らなかった。
 しかしそれでも、クリスの兵達は大将が何を言わんとしているのかを察し、防御の陣形を取った。
 が、その防御は洪水のような敵の突撃を止めるにはあまりにも脆弱すぎた。
 押し止められた時間は一瞬だけであった。壁はあっという間になぎ倒された。
 そして、クリス達は後方へ押し返され始めた。
 のこぎりが徐々に刃こぼれしていくかのように、クリス達は削られていった。小さな部隊から飲み込まれ、すり潰されていった。
 ひび割れが広がるように、クリス達は連携と秩序を失っていった。
 そして、のこぎりが折れるまで時間はさほどかからなかった。
 前を向いている者よりも敵に背を向けている者の方が多くなり、部隊は壊走を始めた。
 この時、大将であるクリスはまだ前を向いていた。
 しかしそれは敵と戦うためでは無かった。
 前から流れてくる、逃げてくる味方の波を掻き分けながら、クリスはある者を探していた。

「ハンス! どこだ、ハンス!」

 幸いにも探し人はすぐに見つかった。

「ハンス!」

 クリスの表情に安堵の色が浮かぶ。
 が、次の瞬間、ハンスの姿は敵の波に飲み込まれた。

「ハンス!? ハーーンス!」

 クリスは精一杯の声を上げたが、ハンスがその姿を再び見せることは無かった。

   ◆◆◆

 その夜――

 戦いに敗れたクリスは、生き残った兵士達と共に森の中を歩いていた。
 その中には担架で運ばれるディーノとアンナの姿もあった。
 しかし、アランとクラウスの姿は無かった。

「……」

 クリスはうつむきがちに、力無く歩いていた。
 あまりにも、あんまりな負け方だったせいか、クリスは放心ぎみであった。
 クリスはぼんやりと先の戦いについて考えていた。

(……どうして負けた?)

 最初から城に篭っていたほうが良かったのだろうか?
 いや、それは駄目だ。敵の大将だったあの女炎使いは城壁に穴を開ける力を持っている。 事実、あのあと我々は城に逃げ込んだが、壁はあっという間に穴だらけにされた。それに、城内ではアンナの騎馬隊の機動力を生かせない。
 城壁が防御の機能を果たせないのでは城に篭る意味がほとんど無い。包囲殲滅されるか、狭い城内で乱戦になるだけだ。そして実際にそうなり、我々は敗れた。

(……そもそも、現在の城と呼ばれるものに防御効果はほとんど無いのではないか?)

 ずっと疑問だった。現在の城と呼ばれるものの建築様式は防御拠点としての価値を有しているのかと。

(そういえば――)

 かつて、王室会議でそんな議題が挙がったことがある。
 その議題を挙げた者は、壁を作るより穴を掘ったほうがいいと述べた。横方向からの直線的な攻撃を防ぐならば、壁よりも地面を利用したほうが良いと。
 これに別の者が反論した。高い壁があれば高所から攻撃できる。その利を捨てるのかと。
 穴を掘ることを提案した者はその反論にこう答えた。高所を利用したいのであれば、壁ではなく丘を作るべきであると。
 これに反論は特に出なかったが、議題は発展せず、流れてしまった。
 しかし、今のクリスにはその者が提案した穴を掘るという手段こそ、正解であるように思えてならなかった。

 クリスの考えは正しかった。
 はっきり言えば、現在の防御陣地の設計についての考え方は完全に間違っているのだ。
 光弾はほぼ直線の軌道を取る。そんな攻撃に対して、わざわざ身を晒して壁を張るのでは無く、穴を掘って身を隠し、大地を壁として使った方が効果的なのだ。騎馬突撃もこれだけで防御できる。
 穴を迷路のように張り巡らせればなお良い。敵にこちらの動きを一切見せずに奇襲、狙撃することが容易になる。
 この考え方は後に実践され、「塹壕陣地」と呼ばれるようになる。

 しかし直後、クリスは重なる思考を振り払うように頭を軽く振り、こめかみを押さえた。

(いや、そうじゃない、そうじゃあない。そんなことを考えたいんじゃあない)

 もっと強烈に印象に残っているものがある。
 わざと考えないようにしていたことだ。

(あの敵の士気の高まり、あれは一体なんだったんだ?)

 リックがアランに勝った、たったそれだけのことで敵兵達の士気は凶戦士のように高ぶった。
 リックとアランの戦いは一体どんなものだったのか。遠いせいでこちらからはよく見えなかった。想像しか出来ないが、とても劇的なもの、兵士達の心を強く掴むほど神秘的なものだったのだろう。
 もし、あれを真似できたら――兵士達を凶戦士の集団に変える、そんなことが自由に出来るようになれば、どれほど素晴らしいだろう。
 そこまで考えたところで、クリスは再び小さく首を振った。

(……いや、そんなこと出来るはずがない。それは神の領分だ)

 その時、心中にふと浮かんだ「神」という言葉が、ある古い記憶を呼び起こした。
 それは子供の時に読んだ、ある軍記の一説であった。

「時に、戦場に武の神が降臨することがあった。その加護を受けた兵士は皆、死を恐れず、死に祈りを捧げる神の戦士となり、敵を蹂躙していった。私はそのような出来事を『武神の号令』と呼ぶことにした」

(武神の号令、か――)

 確かに、神の力が乗り移ったと言っても過言では無い出来事だった。

(そうか、自分は武の神に敗れたのか)

 じゃあしょうがないか、そんなあきらめが一瞬浮かんだ後、

(……ふざけるな!)

 クリスの心は叫んでいた。

(ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁ!)

 クリスはうつむいていた顔を上げ、星空を睨んだ。

(なにが『武神の号令』だ! なにが神の力だ! これが神の御意思だとでも言うのかぁ!)

 クリスは見えない何かに対して毒を吐いていた。

(神よ、俺は多くの仲間を失った! 城を、多くの臣下を、ハンスを失った! これがあなたの御意思なのか! 何度私から奪うつもりなのだ! 何度私に困難を与えるつもりなのだ!)

 ドロドロとした感情は少しずつ別のものに変わっていき、

(ふざけるな! ……ふざけるなぁ!)

 最後には炎のような感情だけがクリスの中に残った。

 クリスの心はとてつもない忍耐力と反発力を有していた。
 クリスの心をそのように鍛え上げたのは、今は亡きクリスの父とハンスである。
 クリスはまだあきらめていない。その心はまだ折れていない。この困難を逆に糧とし、その足を前に出すのだ。

 そして、あきらめていない男はまだもう一人いた。

   ◆◆◆

 一方、武神が降臨したと例えられたその戦場跡に、複数の影がうごめいていた。
 影達は兵士の残骸を漁っていた。
 彼らは戦場を主な仕事場とする盗人であった。
 朝になれば勝利者達が戦利品を探しに来る。実りのある仕事が出来る時間はこの夜しか無いのだ。
 そんな影達の中に一人、奇妙な者が混じっていた。
 兵士の残骸を漁っているが、べたべたと触らない。あまり調べない。
 その者は兵士の顔を確認しているだけであった。
 何かを見つけたのか、その者の足がぴたりと止まる。
 直後、その者はそこへ駆け寄り、拾い上げた。
 それは剣であった。
 月光がその剣の形を闇の中に浮かび上がらせる。
 独特のしなりを持つ刀身、それはアランの剣のように見えた。
 その者は魔力を通し、剣を発光させた。
 持ち主の顔が照らされる。
 その者はやはり、クラウスであった。

(間違い無い)

 アランの剣であることを確認したクラウスは、輝く刀身を下に向けた。
 赤く染まった地面が、無残な光景が照らし出される。
 クラウスは下を照らしたまま、ゆっくりとその場を回った。
 死体の顔を一つ一つ、丁寧に確認する。
 そして、場を三週ほどしたところで、クラウスは足を止めた。

(アラン様の死体が無い)

 クラウスは顔を上げ、視線をある場所へ向けた。
 それは占領されたクリスの城であった。

(……)

 生きているという確信が持てたわけでは無い。しかし、クラウスの中には「もしかしたら」という考えがあった。

   ◆◆◆

 二週間後――

 太陽が真上に差し掛かった頃、クリスの部屋で目を覚ましたリックは、ベッドから飛び降りた。
 傍にいた付添い人がその行為をやんわりとたしなめながら、ベッドの上に戻るよう懇願する。
 が、リックは「歩くくらいならもう問題無い」と、勝手な弁を返した後、さっさと部屋から出て行った。

   ◆◆◆

 痛む体を引き摺りながらリックが向かった場所、それは医務室であった。
 広い室内には負傷した兵士達が足の踏み場も無いほどに寝かされていたが、リックの目的は彼らを労う(ねぎらう)ことでは無かった。
 リックは彼らを踏まぬように注意しながら、奥にある扉へと向かった。
 扉の傍には見張りが立っている。

「開けてくれ」

 リックが頼むように言うと、見張りは懐から鍵を取り出し、扉を開錠した。

「どうぞ」

 リックは入室を促す見張りに軽く礼を言った後、中へと入った。

 中には先客であるリーザがいた。
 リーザは包帯だらけのリックに対し、「痛そうね」とでも言いたげな顔を作りながら口を開いた。

「あらリック、寝てなくて大丈夫なの?」
「ああ」

 リックは即答したが、明らかな生返事である上に、顔はリーザの方を向いていなかった。
 リックの視線は部屋の中央にあるベッドへ向けられていた。
 そこにはアランが寝かされていた。
 その体にはリックと同じか、それ以上の包帯が巻かれている。

「助かりそうか?」

 リックの質問に、ベッドの傍に立っている医者は難しい顔で答えた。

「手は尽くしましたが……なんとも言えませんな」

 これに、リックは医者と同じくらい難しい顔で「そうか」と答えた。
 二人の表情に引き摺られるかのように、場が静寂に支配される。

 しばらくして、リーザが口を開いた。

「……リック、どうして彼を捕虜にしたの?」

 本当は「なぜ殺さなかったのか」と聞きたかった。そうしなかったのは、棘のある言葉でリックから真意を聞き出すのは難しいだろうと思ったからだ。
 事実、リックは即答しなかった。
 答えにくい事なのか、それとも深く考えていなかったのか。
 正解は両方であった。
 最後の一撃が寸止めになったのは直感による結果だ。結局とどめを刺さずに捕虜にした理由も「なんとなく」である。言葉で説明するのは難しい。
 しかし理由を作ることは出来る。リックの理性は一つの答えを用意していた。
 それは、今さっき思いついた口実という感じの内容であったが、でっちあげというほどのものでは無かった。むしろ、心の奥底でずっと願っていたのではないかと思える、そんな内容であった。
 リックはその内容をゆっくりと口にした。

「……俺は、アランを我が家に連れて帰ろうと考えている」

 この答えに対し、リーザは怒りと疑問が混じったような顔で再び尋ねた。

「どういうこと? 捕虜は収容所に入れるのが規則なのよ」

 暫し間を置いてから、リックが口を開く。

「……それは教会の連中が決めたことだろう?」

 これに、リーザは驚きの表情を浮かべた。

「一体何を考えているの? 教会に楯突くつもり?」

 リックは首を振った。

「そんなつもりは無い。俺はただ……」

 言葉を濁すリックに、

「ただ? なんなの?」

 と、リーザが急かすと、リックは言葉を選ぶように、ゆっくりと続きを話し始めた。

「……俺はただ、炎の一族に帰ってきて欲しいだけなんだ」

 何を言いたいのかよくわからない、というような顔をするリーザに対し、リックはうつむきながら言葉を続けた。

「かつて、国が二つにわかれる前、教会というものが誕生する以前、我が一族と炎の一族は手を取り合い、良き関係を築いていたという」

 言いたいことが頭の中で上手くまとまったのか、リックの口調は徐々に滑らかになっていった。

「俺はそんな時代に戻ってほしいと思っているだけなんだ。アランを我が家に招き入れればそこへ通じる道が出来る、そんな気がするんだ」

 言い終えたと同時にリックは顔を上げ、リーザの反応をうかがった。

「……」

 リーザは何も言わなかった。
 リーザには何も言えなかった。
 リーザの中には炎のような感情が渦巻いていた。
 炎の一族と再び手を取りたい? けっこうなことだ。
 だが、なぜそれがアランでなくてはならないのか。
 私も炎の一族の一人だ。なのに、なぜ私ではだめなのか。
 我が家もれっきとした炎の一族の一門である。なのに、なぜ我が家は「裏切り者の残りカス」などと蔑まされなければならないのか。
 なぜ、アランに差し伸べられているその手が、我々に向けられないのか。
 私とアラン、何が違うというのか。
 憎らしい。そして許せない。
 邪魔をしたい。アランに向けられているその優しき手を叩き払ってやりたい。

「……」

 だからリーザは考えた。アランの未来を断ち切る手段を。
 教会の規則を理由に反論する?
 悪くない手だが、リックは強引にでも連れて帰るつもりだろう。
 もっと良い手がある。
 アランは瀕死だ。動けない。
 そして、リックは四六時中ここにいるわけではない。
 なら話は簡単だ。

「……」

 やることが決まったリーザは口を堅くし、時機を待つことにした。
 場に静けさが満ちる。
 リックはリーザが何か言うのを待っている。
 リーザはリックが部屋から出て行くのを待っている。
 これはアランにとって生と死の分岐点であった。
 そして、その天秤は死の方に傾いていった。
 痺れを切らしたリックが口を開く。

「……俺が言いたいことはそれだけだ。何も無いなら、俺は部屋に――」

 だが次の瞬間、「カチャリ」という、開錠の音が室内に響き渡った。
 リックとリーザが扉の方へ目を向ける。
 すると扉が開き、一人の男が慌しく室内へと入ってきた。
 その男はリックが知る人であった。

「お前は……確か、母の付き人の一人だったな? 一体どうした?」

 疲れ果てているのか、男はリックの問いにすぐには答えられなかった。
 しばらくして、話せる程度に息を整えた男は、声を上げた。

「リック様、大変な事が起きているのです!」
「なにがあった?」
「大きな声で言えるようなことでは……」

 察したリックは耳を男の口元に近づけた。
 男の口が動き始める。
 すると、瞬く間にリックの顔色が変わった。
 そして、男の口が耳から離れたと同時に、リックは声を上げた。

「それは本当か?!」

 男が頷きを返すと、リックはリーザに向かって口を開いた。

「すまないリーザ。俺は今すぐに故郷へ帰らねばならなくなった」

 切羽詰ったリックの様子に好奇心をくすぐられたリーザは、駄目元の気持ちで聞いてみた。

「何があったの?」
「……」

 リックはやはり答えなかった。
 リックはどう答えるべきか迷っていた。
 自分がこれからやることは決まっている。
 それは教会を敵に回す行為だ。
 そうなると、自分とリーザの関係はどうなる?
 リーザは教会側の人間だ。
 なら話は早い。リーザに言えることは、

「……すまないが、教えられない」

 何一つ無い。
 この答えにリーザは、「ふうん」と、興味無さげな素振りを見せただけであった。
 元から期待していなかったのもあるが、今のリーザには他に聞きたいことがあった。

「アランはどうするの? 今から一緒に連れて帰るつもり?」

 言われて気付いたらしく、リックは暫し考える様子を見せた後、医者に向かって口を開いた。

「教えてくれ。今のアランを馬に乗せて運ぶことは可能か?」

 医者は即座に首を振った。

「無理です。そんなことをすれば傷が開いてしまいます」

 リックはあきらめずに食い下がった。

「何日待てばいい?」
「……一週間は安静が必要かと」

 この答えに、リックは苦い顔をした。
 一週間、そんな時間を待つ余裕は無い。

「……」

 リックは考えた末、

「……リーザ」

 あきらめたような表情で、リーザに向かって口を開いた。

「アランはここに置いていくことにする。……すまないが、よろしく頼む」
「……」

 リーザは返事をしなかったが、その目は「いいわ」と答えていた。
 そんなリーザに対し、リックは念を押した。

「頼む、リーザ」

 これに、リーザは「やれやれ」というような顔で口を開いた。

「……わかったわ。手当てはちゃんと続ける。死なせないように努力する」

 真剣さが感じられないその返事に、リックは眉をひそめたが、

「……信じたぞ、リーザ」

 怒りを言葉に滲ませることはせず、早足で部屋から出て行った。

「……」

 その背を黙って見送ったリーザは、アランの方に視線を向けた。
 リーザの中にねっとりとした感情が湧き上がる。
 それは快感であった。暗く甘く、濃い感情であった。
 あの炎の一族の長、カルロの息子の運命を握っている、それはリーザにとって至上の喜びであった。

「……」

 さて、どうしようか。
 今この場で彼の人生を終わらせてしまおうか?
 悪くない考えだ。
 だが、もっと良いことを思いついた。

「……」

 リーザはゆっくりと、そして静かに、アランの傍へと歩み寄った。
 なでるように、アランの胸の上に手を置く。
 弱弱しいその鼓動を確かめながら、リーザは口を開いた。

「アラン……あなたは収容所行きよ」

 そう言って、リーザは優しく微笑んだ。

 それは悪魔の笑みであった。
 リーザは知っているのだ。収容所での生活が死よりも苦しいことを。

   ◆◆◆

 リーザから絶望の宣告を受けたアラン。

 そのアランは、夢のようなものを見ていた。

(ここは――)

 アランの眼前には懐かしい景色が広がっていた。

懐かしい風景

 それは、リックと初めて戦った時に見た光景であった。

「また、ここに来たのか。俺は」

 独り言をつぶやきながら、アランはこの場所がどういうところなのか気付き始めていた。

(ということは、あの人もいるのだろうか)

 そう思ったアランは、周囲を見回した。
 すると、不思議なものが目に入った。

「!?」

 次の瞬間、アランは目を背けていた。
 ちらりと見えただけなので、何かはよくわからない。
 だが、とても恐ろしいものを見たということだけは分かっていた。何故か知らないが、それだけははっきりと理解していた。

(何だったんだ? 今のは)

 もう一度見たい。怖いもの見たさというやつだろうか。
 しかし、見てはいけない、そんな気もしている。

「……」

 アランの中で二つの感情がぶつかりあう。
 その勝負は最初互角であったが、片方の感情はみるみるうちに大きくなり、もう片方の感情を押し流した。
 そして、欲求に負けたアランは、ゆっくりと視線を先の場所に戻した。
 そこには――

「!」

手

 手が生えていた。
 そうとしか表現できない。
 そこに地面は無い。手の根元は真っ暗だ。
 手は何かを探しているかのように、うねうねと揺らいでいる。
 恐ろしい。
 これは見てはいけないものだ。本当にそう思う。
 だが目が離せない。不思議だ。目が引き付けられる。
 少し近付いてみようか?

(馬鹿な、何を考えているんだ、俺は!)

 あんなものに近付くなどありえない。
 しかし目が離せない。
 足はいつの間にかその場所へ向かって歩き出している。

 止まらない。

 だめだ、ダメだ、

(駄目だ! あれを見るな!)

 心の中で叫びながら、アランは目を逸らした。
 が、

「!?」

 視線を変えた先には、さらに恐ろしいものが待っていた。

死神

 それは人の形をしている。
 だが人間じゃない。はっきりとわかる。
 まるで死の象徴のような存在だ。
 それが一人の人間をどこかに連れて行こうとしている。

「……っ!」

 いつの間にか、アランは歯を食いしばっていた。
 アランは目を背けようと必死だった。
 だが出来ない。見てはいけないと真剣に思うのに、目が離せない。

(だめだ、ダメだ、駄目だ!)

 見ていることを気付かれたら、あれと視線が合ってしまったら、自分はきっと――される。
 なのに、目が離せない。
 これが、魅入られる、ということなのか。
 そんな事を考えた瞬間、

「見ては駄目よ、アラン」

 突如背後から飛んで来た声に、アランは振り返った。

アランが見た世界

 そこにはリリィの母、ソフィアが立っていた。

「あ……ソフィア様?」

 アランは名を口にしていたが、心ここにあらずというような様子であった。
 ソフィアはそんなアランの顔を両手の平で包み込みながら、口を開いた。

「ひさしぶりね、アラン」

 再開の挨拶であったが、アランはソフィアと目を合わせようとはしなかった。
 その目は小刻みに揺らいでいた。
 アランはあれをもう一度見たいという欲求と闘っていた。

「ソフィア様、あれは一体……?」

 瞳を震わせながら尋ねるアランに対し、ソフィアは手に力を込めながら、声を上げた。

「考えてはダメ。忘れなさい」

 完全な命令口調であった。が、やはりアランの瞳は止まらなかった。
 ソフィアはそんなアランの目をしばらく見つめた後、再び口を開いた。

「そんなことよりアラン、いい報せがあるの」

 先とは正反対な優しい口調で、ソフィアは言葉を続けた。

「もうすぐリリィに会えるわよ、アラン」

 久しぶりに耳にした愛しい人の名に、アランは目を見開きながら声を上げた。

「え?! それは本当ですか!?」

 アランの瞳の揺れは止まっていた。その目は、しっかりとソフィアの目を見つめ返していた。
 これにソフィアは安心したような表情を見せ、答えた。

「ええ本当よ。……だから、今はゆっくりと休みなさい」

 言いながら、ソフィアはアランの後ろにするりと回りこみ、両の手でアランの目を覆った。
 アランは抵抗せず、暗くなった視界を眺めた。
 不思議なことに、その暗闇は心地良かった。
 アランの意識はその暗闇に溶け込み、まどろんでいった。

 そしてアランは眠った。来る再会に思いを馳せながら。

   第三十一話 頂上決戦 に続く
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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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稲田 新太郎

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